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狭山丘陵寺社めぐり 50 筥の池弁財天

狭山丘陵寺社めぐり 50 筥の池弁財天

 前報「狭山神社」から西に100 mくらい歩くと、有名な「狭山池(旧名:筥の池)」に着く。 広い狭山池の東、残堀川への水門近くの池の中に「筥の池弁財天」が建っている。美しい池に相応しい赤い明神系の鳥居(写真)が、池の前に立っている。

弁財天鳥居

 鳥居の右側に、大きな常夜燈が立っている。これは江戸時代の日光街道に立っていた常夜燈で、この場所に移されたもの。箱根ヶ崎村の歴史的遺物であり、台座の彫刻(写真)は見ごたえがある。

弁財天常夜燈2

 鳥居をくぐり、池の中に向かう参道を進むと、池の中に建てられた「筥の池弁財天」の社殿(写真)がある。屋根を修復中のため、社殿の全貌が確認できないのが惜しい。

弁財天社殿

 祭神である弁財天は、本来はサラバスティ(聖なる河)と呼ばれるインド古代神話の水神で、ヒンドゥー教では梵天の妃。即ち、七福神では唯一の女神であり、インドからやってきた神様である。 ところが「宗像三神」のなかでもとりわけ美人とされて人気のある市杵島姫命が、弁財天と同神とされ「弁天様」として、水の神、農業神として信仰されるようになった。 全国の弁天社の総本社は広島県の「厳島神社」であり、関東では江の島の「江島神社」が有名である。

 瑞穂町資料に「筥の池弁財天  狭山池の中州にあり、由緒不詳。 狭山池の水を玉川助水として江戸幕府が活用した際、本来出口のなかった池に掘割を通じて水を取ったので池水極度に減少。そのため地下よりの湧泉の場所を掘り広めて池を造ったが、その時掘り上げた土を盛って中州をつくり、弁財天を祭ったのが始まりであるという」と書かれている。 補足説明すると、昔から狭山池の水は、不老川(旧名:としとらずがわ)によって埼玉県に流れ出していた。江戸時代のはじめ玉川上水が造られたとき、狭山池の水を玉川上水に流すため、玉川上水につながる残堀川に向けて新たな出口を造った。それ以降、狭山池の水が使えなくなった不老川流域の住民に不満がなかったのか、知りたいものである。

 多摩地域には珍しい大池である狭山池(写真)を周回する。大昔、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられた窪地となった所が、今の狭山池である。周辺は粘土質のため水はけが悪く、昔から耕作できずに芝地になっていた。

弁財天狭山池

 池の西北に小さな石橋(写真)があり「調練橋」と刻字され、説明板に「この調練橋は、慶応元年(1865)から二年にかけて、この辺りの芝原で農兵に鉄砲等の調練を行ったために名づけられたのである。 箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村は天領(幕府の領地)で西洋式戦術の研究家として有名な、江川太郎左衛門が代官として支配していた関係で、この地が訓練場として選ばれたのであろう。 この訓練は、武士階級の崩壊や徴兵制につながる我が国の近代化への第一歩を示すものとして、意義深いものといえよう」と書かれている。
鉄砲を撃つのだから、相当に広い芝原であったことが想像される。

弁財天調教橋

 橋の架かる小川を上流に遡ると「丸池」(写真)があり、ここが狭山池の水源地にあたるようである。この池に流れ込む小川の水と池の湧水が、玉川上水の助水として活躍したことが偲ばれる。 今でも大雨が降るとこの一帯が冠水するという、多摩地方にしては特異な地形が「狭山池」なのである。

弁財天丸池
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