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寺社めぐり 11 出雲市

寺社めぐり 11 出雲市

 東京駅を8時過ぎの「のぞみ」で発ち、岡山駅で特急に乗り換えて出雲市駅に着いたのが15時過ぎ。明日の高校同期会参加のため島根県を訪れる機会を得たので、島根県の寺社めぐりの第一弾として、出雲市の寺社めぐりを紹介する。

1 出雲大社

4年前に来た出雲大社は本殿が修復中であったので、今日は60年ぶりの遷宮なった出雲大社に参拝するのが目的。バスで出雲大社の「大鳥居」(写真)前に到着した。
 
出雲大鳥居

 この大鳥居は高さが23 mもある鉄筋コンクリート製の「一の鳥居」である。鳥居のてっぺんに置かれた笠木の両端が上に反っている「明神系鳥居」で、笠木が直線的な伊勢神宮の「神明系鳥居」とは違う。この違いに「国譲り」の神話に出てくる出雲大社(出雲族)と伊勢神宮(皇室)との対立が隠されているように思われる。
 大鳥居から1 kmの参道「神門通り」を歩いて着いたのが、木製の「勢溜の正面鳥居」であり、広大な神域の入口にあたる「二の鳥居」(写真)である。

出雲二鳥居

 ここから数100 mも続く松並木の参道を歩く。神社には珍しい下りの参道。 松並木の中に立つのが鉄製の「三の鳥居」(写真)

出雲三鳥居

 松並木のつきる社殿の前に最後の鳥居が見える。鳥居の材料がこれまでコンクリート、木、鉄だったのが「四の鳥居」(写真)はなんと銅製であった。材料が段々と高価になってくると共に、鳥居の大きさが小さくなっているのは納得。しかもこの鳥居に手を触れると「金運がアップする」とされる。このご利益は神々しい神域に反するように、思われるのだが・・・・・

出雲四鳥居

 いよいよ大注連縄で有名な「拝殿」(写真)に参拝。ここの拝礼の作法は「二拝四拍手一拝」 「四拍手」は珍しいと思ったが、宇佐神宮、弥彦神社も四拍手で、伊勢神宮に至っては八拍手であるとのこと。拍手は「感謝や喜びを表す」意味があるので、由緒ある神社では拍手数が多くなるようで、通常の神社の「二拍手」は、拍手の簡素化となったように思われる。

出雲拝殿

 4年前に参拝したのが、今回同様10月(神無月)の出雲では神在月。 有名な「出雲そば」を食べながら、女将に「本殿が修復中で見ることができず残念だった」と告げると「とんでもない。いつもの年ならば塀に囲まれているため、神様の集まる本殿には近づけないが、本殿修復中のため、今全国の神様は拝殿に集まっておられる。神様の集まる拝殿の前で参拝できたのだから、貴方は幸せと思わなくては」と女将に諭され納得したのが懐かしい。

 拝殿の後ろに建つ修復なった「本殿」に参拝するが、本殿は何層もの土塀の内側に建っているので、全貌が見渡せない。僅かに遠望できる本殿の上部(写真)は、屋根の上に天に向かう鋭い千木と、屋根上に横たわる堅魚木の姿は、まさに伊勢神宮の屋根と同じ構造。鳥居とは違って、屋根には両大社の共通点があるのに気づく。

出雲本殿1

 本殿を囲う土塀を一周したが、見えるのは本殿の上部(写真)のみ。もっと参拝者に本殿を見せてもよいのではと思ったが、神様の世界は畏れ多い場所なのであろうと納得。

出雲本殿2
 
 出雲大社は今月、60年ぶりの「平成の大遷宮」を迎え、観光客で賑わっている。「遷宮」とは「神社の本殿の造営または修理の際に、神体を以前とは異なる本殿に移すこと」をいう。伊勢神宮の遷宮は20年置きと決まっているので「式年遷宮」と呼ばれているが、出雲大社の場合は60~70年の遷宮なので「式年」は付けない。 木造の本殿なので、ある時期を経ると修理のために「遷宮」があるのは致し方ないけれど、伊勢神宮の20年という短期間の遷宮はなんだか勿体ないように思われる。「神様が新しい建物を喜ばれる」という説もあるらしいが、神社側に「国費(税金)を使う(のだから平気)」という感覚もあるように思われてならない。

 出雲大社の祭神は大国主大神。 「国譲り神話」によれば、天照大神に出雲の国を譲るにあたり、大国主大神が「国を譲る代わりに、この地に大きな神社を建てて欲しい」として建てられたのが出雲大社となっている。 従って本殿の高さが、上古には96 m、中古には48 m(現在は24 m)もあり、古代には「雲太、和二、京三」と称された。即ち、雲太=出雲太郎=出雲大社は、和二=大和二郎=東大寺大仏殿(当時の高さ45 m)、京三=京三郎=平安京大極殿よりも高かったとされる。 古代出雲には数多くのロマンがある。

2 出雲阿国

出雲大社を出て日本海に向って歩くと、丘の上に「出雲阿国の墓」(写真)を見つける。   平たい大石が墓石となり、なにやら侘しいたたずまい。

出雲阿国墓

説明板には「日本を代表する芸能・歌舞伎の始祖として知られている出雲阿国は、大社町の鍛冶職中村三右衛門の子で、出雲大社の巫子であったと伝えられています。 天正の頃、出雲大社本殿の修復勧請のため京都へ上り、世にいう歌舞伎踊りを創始しました。 豊臣秀吉や徳川家康の御前でも、この歌舞伎踊りを披露するほどに名をあげ、世に『天下一阿国』として知られました」と書かれている。

 阿国の墓から少し離れた所に建つのが「阿国寺、連歌庵」(写真) 説明板には「歌舞伎の始祖として一世を風靡した出雲阿国は、晩年大社に帰り尼となり、連歌を楽しんで余生を過ごしたと言われ、そのため、この草庵は阿国寺『連歌庵』と呼ばれるようになりました」と書かれている。

出雲阿国庵
 
 更に、少し離れた所に建つのが「安養寺」(写真) 説明板には「出雲阿国が晩年を過ごした連歌庵が廃寺となった後、この寺に阿国の持仏である三十三体の観音像や遺品を移してまつられています。 今は三十三体のうち二体の観音像と、阿国の愛用した鏡と数珠が残されています。また、毎年夏には、阿国を愛する人々によって盛大な法要がとり行われます」と書かれている。

出雲阿国寺

 出雲阿国を歌舞伎の始祖とするわりには、墓の周辺に現在の歌舞伎の名優たちの足跡が認められない。私の大胆な推測では、阿国の歌舞伎は「踊り」であって、それが段々と卑猥な方向に流れたため、風紀を乱す理由で幕府の弾圧を受けて廃れてしまった。 現在の劇場スタイルの舞台を持つ歌舞伎が興隆したのは、阿国から100年後の元禄時代。その当時の名優「西の藤十郎、東の団十郎」などが、現在歌舞伎の名優たちの先祖に位置し、阿国歌舞伎は別次元と見なされているのではなかろうか? 物悲しい阿国の墓を見ると、そのように思われてならないのであった。

3 稲佐の浜

17時過ぎ、夕陽の沈む頃にようやく日本海に面する「稲佐の浜」に着いた。砂浜の波
打ち際に、形のよい弁天島があり、岩の上に神社(写真)がある。江戸時代は七福神の唯一の女神・弁財天が祀られていたので「弁天島」と名づけられていた。 ところが今の祭神は豊玉毘古命に替わっている。弁財天がインドの神様であることが、この古代出雲の地に相応しくないとされたのだろうか?

出雲弁天島

 運よく「稲佐の浜」が夕焼け(写真)で、とても美しい。東京に住むと、海に沈む夕陽は見ることができないけれど、島根県に育った私には、いつも見ていた懐かしい夕焼けの風景である。

出雲稲佐浜

 「稲佐の浜」は、古事記によると「天照大神より国譲りの使命を受けた建御雷神が、大国主大神と対面した場所」とされる。また旧暦の10月10日には、出雲大社に集る全国の神々が、この浜から出雲へ上陸すると伝えられ、今なお神迎えの神事が行われる出雲のパワースポットの一つである。
 
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出雲の寺社と博物館巡りは、一昨年、2泊3日、バスを仕立てて回りました。『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(2010年、新潮社)も読みました。

「平成の大遷宮」

60年ぶりの遷宮というと、宮大工の技術の伝承も大変ですね。Junpei
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