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狭山丘陵寺社めぐり 36 禅昌寺2  小川寺 (小平市小川町)

狭山丘陵寺社めぐり 36 禅昌寺2

 「前報、禅昌寺」に対し、ブロ友様から「禅昌寺本堂を左に進むと裏側に壮大な墓地があり、小川村(現・小平市)を開発した小川家の墓地があります。立派な宝篋印塔がまつられています。 また、寺の過去帳に砂川村(現・立川市)を開発した砂川家の記録が残されています。 東大和市域の村々とも関わりあいがあったであろう両家です。中世から江戸の初期の夢いっぱいの地でもあります。記事を拝見して急に訪ねたくなりました」とのご指摘と、いつもながらの暖かいエールを頂いた。
 そこで早速、禅昌寺を再訪することにした。本堂の左裏の丘陵に広がる墓地を見て、数年前にブロ友様にご案内頂いた墓地であることを思い出した。前報の取材で禅昌寺を訪れたにもかかわらず、小川家の墓地を失念していたのが恥ずかしい。寺社に関する問題意識の甘さを痛感させられた。
 墓地の中腹に「小川家の墓」と刻まれた黒色の墓があり、その左に3基の宝篋印塔(写真)が並んでいる。この墓所こそブロ友様のご指摘頂いた「小川家の墓」であると確信できた。

小川家墓禅昌寺1

小川家墓禅昌寺2

小川家墓禅昌寺3

 宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに石造が多い。中国の呉越王・銭弘俶が延命を願って立てたのが原型とされ、日本では鎌倉時代から造立が盛んになった。名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(経文のようなもの)を納めたことによるとされる。五輪塔が僧俗を問わず多くの階層で用いられたのに対して、宝篋印塔は主に貴顕の間で用いられる傾向があった。

 黒色の「小川家の墓」の周辺に、沢山の墓石や塔が並んでいるが、小川新田を開発した「小川九郎兵衛」の墓が見つからない。 帰宅して、ブロ友様に問い合わせると「九郎兵衛の墓は、小平市の小川寺にある」と教わった。 小川九郎兵衛の墓は、出身地の岸村の禅昌寺にはなく、自らが開発した小川新田の中にあることが分った。
 早速、自転車で小川寺に向かう。4年前に小川寺は訪れていた(寺社めぐり107社目)けれど、小川九郎兵衛の墓の存在には気付いていなかった。 本堂左に広がる墓地の入口に、大きな宝篋印塔の「小川九郎兵衛の墓」(写真)があった。

小川寺墓

 墓の中に説明版があり「小川九郎兵衛安次は、元和8年(1622)に多摩郡岸村(現武蔵村山市)に生まれる。祖先は後北条氏の家臣で、天正18年(1590)後北条氏滅亡後、村山郷に土着したいわゆる郷士の家柄である。 九郎兵衛は、承応3年(1654)玉川上水、翌明暦元年(1655)野火止用水が開通して、水を確保できる自信がつくと、その内側一本榎(仲町熊野宮)の線まで、約7百町歩の自費開拓と、青梅街道最大の難所、箱根ヶ崎と田無の両馬継馬5里の中間に、新たに馬継馬の開設を願い出て、同年老中松平信綱の許可を得る。 九郎兵衛は、小川村の開拓と馬継馬の基礎を確立した寛文9年(1669)に、婿養子市郎兵衛に家督を譲って岸の旧宅に帰り、その年に病を得て12月17日に48歳でその生涯を閉じている。明暦2年(1656)、34歳で小川村の開拓と馬継馬の開設に乗り込んで14年後のことである。この短い期間に当時としては極めて進歩的、超時代的大事業を完成したのである。 九郎兵衛の墓所は、小川名主家の菩提寺である医王山小川寺と、終焉の地、岸の禅昌寺の二ヶ所にある」と書かれている。
 この説明版には「小川用水」と「小川新田」が書かれていない。説明版の「小川村の開拓」は、玉川上水から分水した「小川用水」を用いて「小川新田」を開拓したことをいう。それまで一面のススキの原であった不毛の土地を、小川用水により田畑に変え、その後大沼田新田、野中新田、鈴木新田、廻り田新田と開拓を広げて行ったのである。 なお九郎兵衛の墓所が岸の禅昌寺にあると書かれているのは、禅昌寺に小川家代々の墓があることをいうのか、九郎兵衛自身の墓があることなのか、不明。

 小川寺(しょうせんじ)という名刹に来たついでに「小川寺」を紹介する。 青梅街道沿いに建つ山門(写真)は二階建てになった二天門で、とても風格がある。

小川寺山門

 山門をくぐると六地蔵が並ぶ通路の向うに建つのが修行門(写真)。

小川寺修行門

 修行門をくぐると左に鐘楼(写真)があり、梵鐘は第二次世界大戦中に供出され、溶かされる寸前に待ったがかかり、小川寺に戻ってきたといういわくつきの鐘。

小川寺鐘楼

 本堂(写真)は落ち着いたたたずまいを見せている。小川九郎兵衛は、小川新田開発に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが医王山・小川寺。臨済宗円覚寺派の寺院である。 病気を治す功徳のある薬師如来を安置したのは、九郎兵衛が小川新田の人々の健康を願った表れであろう。

小川寺本堂

 本堂の裏庭(写真)は広々としていて、とても美しい。

小川寺庭

 裏庭の中を、九郎兵衛が苦労して引いた小川分水(写真)が横切っているのが、とても印象に残る。小川分水という歴史を取り入れた作庭に、敬意を表したい。 玉川上水から引いた清流の溝が小平市にあるのに、玉川上水が市内を流れる我が東大和市には溝がないのかと疑問を持っていたが、小平市には小川九郎兵衛という卓見と実行力を持った偉人がいたことを知り、納得。それでも東大和市民としては寂しい思いがする。

小川寺分水

 武蔵村山市には「指田日記」の指田家があり、多くの神明社の存在を含めて、歴史的な重みを感じていたが、更に小川家や砂川家の存在を知るに及んで、武蔵村山市が昔の狭山丘陵地域の中心地であったことを再認識させられた。鉄道がなく、東京の田舎町の印象が強かった武蔵村山市であるが、江戸時代には武蔵野の盟主であったのではないかと、大いに見直したものである。
 次は、砂川分水と砂川新田開発に関わった砂川家(村野家)の墓所を訪ねてみたい。



 
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