スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

寺社めぐり 10 会津若松市

寺社めぐり 10 会津若松市

 新潟での行事を終えて宿泊。翌日8時過ぎの列車で新潟を発ち、10時半過ぎに会津若松駅に到着。サイクリング車で、会津若松市の寺社めぐりをスタート。既に何度か会津若松市を訪れて、鶴ヶ城や飯盛山を観光しているので、今回は寺社めぐりに徹することにする。

1 大龍寺

東に向かって走り、山沿いの「大龍寺」を訪ねる。ここにはNHK大河ドラマ「八重の   
桜」のヒロイン、新島八重の生家、山本家の墓所がある。 先ず本堂(写真)で参拝。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は宝雲山。 天正年間(1573~93)小笠原長時によって創建された桂山寺に始まるとされ、寛永二十年(1643)に保科正之によって中興され、現在に至っている。

大龍寺

 本堂の左に墓所があり、その奥に「山本家の墓所」(写真)があり、説明版に「墓所の題字は新島八重の直筆であり、この墓標の裏には『昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七歳』と記されています。 大龍寺の過去帳によると文化年間(1804~17)から、山本家は(八重の高祖父の時代)菩提寺としていました。昭和六年八重は点在していた山本家の墓を一ヶ所に整備してこの墓所を建立しました。 墓所完成の翌年、昭和七年(1932)享年八十七歳、波乱の人生に静かに幕を閉じ、安らかに永眠されました」と書かれている。

山本家墓

 写真の左の石柱に「山本家の墓所」と、八重の真筆で書かれている。 幕末。維新を生きた八重は長生きし、なんと私の生まれる6年前にこの世を去ったとは信じがたい。 テレビの視聴率は芳しくなく、更にこれから会津藩の敗戦を観るのは辛いけれど、八重と新島穣の出会いを楽しみにしよう。

2 天寧寺

大龍寺の少し南に「天寧寺」があり、ここには「近藤勇の墓所」がある。 急勾配の石
段を上った山の中腹に本堂(写真)が建っている。 山号を萬松山という曹洞宗の寺院。

天寧寺

 文安四年(1447)に蘆名盛信の開山といわれ、蘆名氏の菩提寺であった。 蘆名氏は天正十四年(1586)、伊達正宗との戦いに敗れ、その時に天寧寺も焼亡した。 後継者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人々の尽力で現在につづいている。 天寧寺は青梅市にも、尾道市にもある曹洞宗の由緒ある寺院である。

 裏山をかなり上った山林の中に「近藤勇の墓」(写真)があった。近藤勇は新撰組を率いて戊辰戦争を戦って敗れ、千葉県流山で官軍に捕らわれ、板橋刑場で斬首され葬られた。新撰組副長、土方歳三が遺髪等遺体の一部を収容し、会津藩主松平容保の許可を得て、戊辰戦争前にこの地に葬ったとされる。
近藤勇墓

 近藤勇の墓は全国にあり、米沢市の高国寺には勇の首を埋葬した墓があり、三鷹市の龍源寺や岡崎市の法蔵寺にも遺体を埋葬した墓がある。 なお近藤勇の墓の右には、函館で死を予想した土方歳三が生前に作った墓が並んでいる。

3 会津藩主松平家墓所

 天寧寺の近くの山中に「会津松平家歴代藩主の墓所」がある。 初代藩主、保科正之の墓所は、猪苗代町の土津神社にあるので、この墓所には2代藩主から9代藩主、松平容保までの墓がある。 崩れかかった石段を上ること20分、ようやく広い墓所に着く。広場には5代、6代、7代の巨大な碑石(写真)が並び、周辺の山の中腹に各代の藩主の碑石が散在している。

藩主墓所

 広場の奥の石段を上ったところに、現在大河ドラマに登場している、9代藩主松平容保の墓(写真)がある。広場の碑石に比べると小さな碑石である。松平容保は戊辰戦争で生き残った後、日光東照宮の宮司を務め、明治二十六年に59歳で亡くなっている。埋葬時には会津藩は存在しなかったのだから、それ相応な墓となっているものと納得。

松平容保墓2

 石段を下る途中「御庭」と称する広場には、藩主の家族などの碑石が並び(写真)、厳粛な雰囲気であった。 広大な墓所には人影がなく、不気味な気分を味わったが、帰りにやっと一人の若い男性に出会い、ほっと安堵するするというほど人の気配のない寂しい墓所であった。

御庭

 4年前に山口県萩市の東光寺にある長州藩毛利家の墓所を訪れたのを思い出した。会津藩との宿命のライバルであった毛利家の墓所(写真)には、歴代の藩主の墓が並び、その前には500基の石灯籠が整然と並んでいた。東光寺の境内という環境からして墓所の面積は狭く、関ヶ原の戦いに敗れ70%の減封を受けた毛利藩の苦衷を物語っているかのようである。
 一方、徳川幕府の親藩であった会津藩松平家の墓所は規模が大きいが、碑石以外の石灯籠等はなく、実直な会津士魂そのままの墓を感じた。

毛利家墓所071

4 善龍寺

 会津若松市街の東南に位置する「善龍寺」は、会津藩の家老「西郷頼母と家族の墓」がある。 先ず石段の上に建つ山門(写真)がとても目立つ。説明版には「この山門は寛政九年(1797)の建立とされ、竜宮門あるいは竜宮造りと呼ばれる珍しい様式であり、当地方ではほとんど例を見ない山門である」と書かれている。 九州でよく見かける唐国造りの門を思わせる。

善龍寺山門

 石段の上に建つ本堂(写真)の説明版には「祥雲山善龍寺は寛永二十年(1643)曹洞一派の泉海という僧が、藩祖保科正之に従い花畑に建立、その後現在地に移った。本堂は戊辰戦争で焼失した」 保科正之は、三代将軍徳川家光の異母弟で、会津藩初代藩主となり、三代将軍家光、四代将軍家綱を補佐した名君として名高い。

善龍寺

 本堂の裏山に墓地があり、中腹に「西郷頼母の墓」(写真)があり、説明版には「西郷頼母近悳夫妻の墓は生前から保科家歴代の墓所この善龍寺に用意されていたが、祖先の墓石の何れよりも小さくその人柄が偲ばれる。正面に保科八握髯翁墓、室飯沼千恵子位 右側面には近悳の命日明治三十六年四月二十八日が刻まれる」と書かれている。 中央の小振りな白っぽい墓が、西郷夫妻の墓。

西郷夫妻墓

 西郷頼母は最期まで官軍への恭順を説くが入れられず、鶴ヶ城落城前に長男を伴い逃亡し、明治36年まで生きのびる。その間に松平容保が宮司をしていた日光東照宮の禰宜を務めている。明治以降は姓名を西郷近悳に、更に保科八握髯翁と変えたので、墓名が西郷頼母となっていない。官軍のリーダー西郷隆盛と姓が同じというのが、頼母の人生に大きな影響を与えたのではなかろうか。 室飯沼千恵子と書かれているのは、千恵子の旧名が飯沼だったのであろう。西郷と名乗れない事情があったのかもしれない。
 墓所の上部に「二十一人の墓」(写真)があり、説明版には「慶応四年(1868)八月二十三日、西軍が若松城下に侵入するに及んで、国家老西郷頼母は登城したが、家族は入城せず死を選んだ。 生きて戦いの足手まといとなり、また敵の辱めを受けんとするよりはと、頼母の母律子、妻千恵子など家族九人と一族十二人が、西郷邸で互いに刺し違え自刃し果てたのである」と書かれている。 藩主や家来を捨て、更に家族を捨てて逃亡した西郷頼母の心境を、大河ドラマ「八重の桜」でしっかり確認したいものである。
二十一人墓

5 蘆名家花見ヶ森廟

最後の墓は、松平家以前に会津を支配していた「蘆名家の墓」(写真)である。説明板には「会津最初の領主である蘆名家は、初代佐原義連(後に蘆名氏を称した)から天正十七年(1589)に二十代義広が、磐梯山ろく磨上原において伊達正宗に敗れて会津を去るまで、四百年の長きにわたった。 この墳墓は十六代盛氏を中心として、左が十七代盛興、右が十八代盛隆の墓である」と書かれている。

蘆名家墓

 これで会津若松の寺社めぐりというか、墓めぐりを終える。時刻も16時を過ぎたので、鶴ヶ城観光は止めて帰途についた。 会津若松の歴史を見守ってきた磐梯山(写真)を、車窓から撮影できた。新潟市在住中に何十回も見てきた磐梯山も、これが見納めとなるのかもしれない。

磐梯山
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

会津若松市

うらやましい中身の濃い会津若松訪問ですね。またの、磐梯山の報告も期待しています。
プロフィール

リンおじい

Author:リンおじい
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。