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狭山丘陵寺社めぐり 2 八幡神社 (東大和市蔵敷)

狭山丘陵寺社めぐり 2 八幡神社

 第1番の雲性寺の近くに「郷土博物館」が建ち、近郊では唯一のプラネタリウムのドームが異彩を放っている。その郷土博物館の裏山に、「狭山丘陵寺社めぐり」の第2番目に取り上げた「八幡神社」が建っている。
 多摩湖畔サイクリング道路に向かう坂道の途中に、八幡神社に向かう石段(写真)があり、これが神社の入口。この坂道は地元で「鎌倉街道」の伝承がある参道。参道をそのまま直進して貯水池に入り、更に下ると内堀の集落があり、鎌倉権五郎に関する「御霊神社」が祀られていた。御霊神社の送検は1000年代の伝承を持つ。 石段を上り終えた左右に「御嶽神社」(祭神、天児屋根命)と「大六天社」の小さな祠が佇んでいる。八幡神社に合祀された神社かと思ったが、地元の人々が信仰したミニチア神社を持ち込んだとのこと。

     神社入口

 石段上の一の鳥居からは右に平坦な広場となり、左に建つカラフルな建物は「大和八幡幼稚園」(写真)。 グラウンドでは緑のユニフォームの園児たちが体操中。神社の神秘的な雰囲気にはやや不似合のように思われる。「寺子屋」という言葉から、幼稚園はお寺の付属施設とのイメージが強かったので、神社の境内にある幼稚園は珍しい。八幡神社の宮司さんが元教師であったことから、幼稚園を経営されたそうだ。

     幼稚園

 二の鳥居(写真)をくぐると、神社の前に出る。 鳥居の右側にも「武内神社」(祭神、武内宿祢)と「神明社」の小さな祠が並んでいる。 木立の緑に囲まれた拝殿(写真)は神々しい雰囲気を醸し出している。拝殿に連なる本殿(写真)も清々しい姿で美しい。

     二の鳥居

     拝殿

     本殿

 この神社の主祭神は「誉田別命」と、拝殿横の掲示板に記載されている。誉田別命(ホンダワケ命)は八幡神で、一般には応神天皇の名で知られている。応神天皇は、歴史的に実在した最初の天皇ではないかと考えられており、「応神」は死後の贈り名であり、生前の名がホンダワケ命だった。ホンダワケ命は、母の神功皇后の摂政のもとで皇太子となり、皇后の死後に第15代の天皇に即位。41年間の治世には、百済や中国から積極的に文化や人材を受け入れたとして評価されている。死後「応神」の贈り名となった天皇は、のちに八幡信仰の祭神とされ、文武両道の神としてその神威が全国に広まった。
 祭神は「誉田別命」の他に「大山祇命」「大山咋命」「素盞鳴命」「建御名方命」「市杵島姫命」「天照坐皇大御神」の六神が祀られている。「誉田別命」は天皇であるが、他の六神は伊邪那美命と伊邪那岐命から産まれた神々であって、いわゆる八幡神ではない。掲示板に「主祭神は誉田別命」と記載されているのだと理解。
 中世以降、八幡信仰は発祥地の宇佐八幡宮(大分県)、いわば中継拠点の石清水八幡宮(京都府)、そして源頼朝が創祀した拡大発展拠点の鶴岡八幡宮の三社を核として全国に広がった。特に武家の棟梁・源氏の守護神となったことが大きく、全国の八幡神社数は3万とも4万ともいわれ、4万とも5万ともいわれる稲荷神社についで、全国で第二位となっている。私は宇佐八幡宮と鶴岡八幡宮には参拝したが、未だ石清水八幡宮には参拝していない。ぜひ近いうちに石清水詣でをしたいと思っている。その代わりに趣味の寺社めぐりの、記念すべき第1000社目が香椎宮(福岡県)であった。香椎宮の祭神は仲哀天皇・神功皇后を主神、配祀が応神天皇(誉田別命)であったので、いわば八幡神社のお仲間であったことを追記しておく。

 八幡神社境内の案内板には「当社は創立年歴不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。宮がこわれようとする頃、いつの戦いか、武士がにげて来て、この森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のあるのがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に『吾は八幡の神なり』当社によく宿ってくれた、宮が破損しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。天正三年(1575年)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年(1689年)九月旧領主石川太郎右衛門、並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された」と記載されている。 このような織田信長活躍中の戦国時代の社殿改築秘話が伝承されているのが興味深い。当時この地は小田原北条氏の勢力下にあったが、越後の上杉謙信の侵攻による戦いが繰り広げられていたのかも知れない。

 拝殿の右上に「日露戦争『凱旋』」の掲示板(写真)があり、8人の氏名が並んでいる。凱旋とは、戦争で戦死した兵士の魂の凱旋を意味しているのではなかろうか。8人の内、石川姓が4人もあるのは、この神社の近くに社殿を再興した石川氏の縁者が多かったことが予想される。 更に戦士した戦いは旅順、203高地だったのでは? 蛇足であるが趣味の寺社めぐりで、先日参拝したのが1944社目となる乃木神社(写真)。旅順の戦いで日本軍の指揮をとり、多くの兵士を死に向かわせたのが乃木将軍。乃木神社内の宝物殿に乃木将軍の写真があった。白い髭を蓄えたお顔は威厳に満ち、この将軍の命令であれば、兵士たちは喜んで突撃していったことだろうと納得したものである。優れたリーダーには、それに相応しい表情があるものだと感心した次第。

     凱旋

     乃木神社

 本殿の後ろに造られて間もない「浅間神社」(祭神、木花咲耶姫命、写真)の祠があった。これは近くの人々が持ち込んだにしては立派な小社。浅間神社の総本宮は富士宮市にあり、木花咲耶姫命は富士山の神様。昔はこの八幡神社から美しい富士山が展望できたため、持ち込まれた小社であると推定した。 

     浅間神社

ご神木であったのか、大きな杉の木の根(写真)が大切に保存されていた。神木とは、神社の境内にある巨木や老樹など、特徴のある樹木に神霊が降臨するという考え方にもとづく。

     神木

 神社は二つの谷(谷ツ)に挟まれた尾根に建っている。ウィークディにも拘らず、参拝する人が意外に多い。お寺にくらべ神社の方が、散策コースとして適していることに初めて気が付いた。 故郷の実家近くに八幡神社の建つ小高い小山があり、子供の頃は椎の実を拾った懐かしい思い出があった。それが30年前に帰郷すると、小山が削られて平地となり、公民館と駐車場に変わっていたのには驚いた。神様の住まわれる山を削るとは不謹慎だとの怒りを思い出しながら、第2番の八幡神社に別れを告げた。
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参道は鎌倉街道

 八幡神社と雲性寺は八幡谷ッの両峯にそれぞれ位置します。その間を通るのが地元で鎌倉街道の伝承がある参道です。参道をそのまま直進して貯水池に入り、下ると内堀の集落があり、鎌倉権五郎に関する御霊明神が祀られていました。創建に1000年代の伝承を持ちます。
 
 八幡神社の創建を知りたいですね。 野火止用水

八幡神社と乃木神社

長女のお宮参りでは八幡神社に、乃木神社も3年前に長男の結婚式でお世話になりました。趣味の寺社めぐりで参拝した神社が1944社とは凄い!
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