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狭山丘陵寺社めぐり 26 長円寺  (武蔵村山市本町)

狭山丘陵寺社めぐり 26 長円寺

 前報の「八坂神社」の西隣に、武蔵村山市で真福寺と双璧の大寺「長円寺」が建っている。 青梅街道の「長円寺バス停」の傍に「曹洞宗 長圓禅寺」と書かれた石柱と「長円禅寺斎場」と書かれた大きな石柱が立っている(写真)。更に二つの地蔵像と二つの石柱に挟まれた長い参道が、狭山丘陵に向って伸びている。参道の桜並木が満開。とてもよい季節に長円寺を訪れたことを喜ぶ。

長円寺入口

 100 m続く参道を歩くと、再び二つの白い石柱が立ち、その向う側が長円寺の境内ということになる。石柱の後ろに安永八年(1779)に建てられた山門(写真)が見える。 

長円寺山門

石柱の左に説明版が立ち「龍沢山長圓寺と号し、曹洞宗の禅寺で、室町時代永禄十一年(1568)に崋山秀委和尚によって開山されました。江戸時代の天保年間(1830~1843)と嘉永五年(1852)の火災により山門を除いて焼失しました。現在の本堂は文久年間から明治四年(1861~1871)にかけて建立されました。本尊は釈迦如来です。 境内には、三ッ木の地頭大河内氏の墓(市指定旧跡)があります。 また、毎年長圓寺を皮切りに横田・中村・馬場地区を巡る横中馬獅子舞(市指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣・無病息災を祈って盛大に行われています」と書かれている。 

 山門をくぐって歩くと再び門があるのは「中門」(写真)と呼ばれている。寺院の正面に配置される門は「三門」または「三解脱門」と呼ばれるが、長円寺の場合は「中門」と呼ぶ。

長円寺中門

 中門をくぐると、明治四年に建立された大きな本堂(写真)が現れる。


長円寺本堂

幕末、明治維新の大混乱期に本堂を建造したのが驚き。戊辰戦争や維新の荒波は、この村山の地に及ばなかったのであろうか? 本堂建立を支えたのが、檀家の有力者、比留間氏ではないかと推定。武蔵村山市資料に「長円寺には、西側に『御霊家』なるものがあり、裏の一角に比留間氏の墓がある」と書かれ、有力檀家22家が記載されているが、比留間家が中藤、中村、横田、峰地区に四家もあり、もっとも多い姓であるのが推定の理由。更に「赤堀山王(日吉神社)前の波多野氏は、山門や山林を寄進するなど大きな檀家だった」と書かれている。本堂建立については、比留間氏の他に波多野氏の支援もあったのだろう。 長円寺に問い合わせると「昔の本堂の内部は柱がむき出しの状況で、昭和の初めや近年に本堂内部の修理をしてよくなった」とのこと。明治維新の混乱期では、本堂建設のお金が不足していたため、内装などには行き届かなかったことがうかがわれる。
 長円寺は青梅市三田にある海禅寺(写真、既報の寺社めぐり1青梅市沢井・二俣尾地区参照、1893社目)の末寺。 長円寺を開山した崋山秀委和尚は、海禅寺六世の跡継ぎであり、長円寺四世、五世は各々海禅寺の十世、十二世となるなど、長円寺と海禅寺は昔から関係が深い。 寺社めぐり22報で紹介した吉祥院は、長円寺の末寺であるので、海禅寺の末々寺に位置づけられる。

海禅寺

 長円寺の本尊は釈迦如来。仏教を開いた有名なお釈迦様である。私はお釈迦様が初めて説法をされたインドのサールナート(写真)を訪れたことがある。ガンジス川の流れるベナレスの郊外にある旧跡で、巨大なストゥーパが印象深い。釈迦の生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤー、入滅された(亡くなられた)クシナガラを合わせて、仏教またはお釈迦様の4大聖地といわれている。 曹洞宗の本尊は釈迦牟尼仏とされているので、長円寺の本尊はまさにその通り。しかし長円寺の末寺、吉祥院の本尊が聖観音であったので、長円寺に問い合わせると「曹洞宗寺院の本尊は釈迦牟尼仏にこだわらない。聖観音もあれば馬頭観音の場合もある」とのこと。

長円寺インド

 境内には鐘楼があり、大きな五輪塔(写真)もあって、大寺であることが分る。

長円寺五輪

 しかし、13年前に建造されたという大きな聖観音菩薩像(写真)は、静寂な禅寺の雰囲気にはそぐわないように思える。
長円寺観音

 本堂の左裏手に「市指定旧跡 地頭大河内氏墓」(写真)があり、説明版に「大河内家は、初代忠正が徳川家康に仕えて以来の旗本で、天正十八年(1590)に二代正勝が三ッ木村のなかに二百五十石の知行地を受けてから幕末まで、代々この地を支配していました。 大河内家の菩提所であった長円寺には、初代忠正から八代忠春までの位牌が祀られています。 左側の墓石が三代忠次、右側が五代忠政のものです。忠次は大番組頭や御納戸頭を、忠政は江戸の道路や上水を掌る道奉行をつとめました」と書かれていて、江戸時代の地頭を知るにはよい機会であった。 「泣く子も黙る地頭」と恐れられた地頭ではあるが、大河内地頭は江戸時代の260年この地に居座って、その間善政を敷いて民に慕われたので、その墓が市の旧跡となりえたと信じたい。 なお、この墓の左にあるのが比留間家の墓で、地頭と並ぶくらいの勢力があったと思われる。

長円寺墓

 山門の左には、池を配した美しい小社(写真)があり「大瓣財尊天」と分る。この七福神の一人である弁財天は、宝暦八年(1758)に建立された。やがて弁財天の祠は廃れ、弁財天の像も庫裏にしまわれたが、20年くらい前に弁財天像が見つかった。それを知った地元の乙幡氏が、弁財天を祀るために「大瓣財尊天」の社を建立した。 弁財天は七福神の一人で、七福神中、唯一の女神。インド古代神話の水神で、日本の神様ではない。琵琶を奏でる絶世の美女の姿で描かれ、弁財天社の周辺は通常、池で囲まれている。 この弁財天は、長円寺の寺域や墓地の鎮護神なのであろう。

長円寺弁天

 長円寺は、昔は西武バスの行先に使われていたので、とても印象深い。立川駅から「長円寺行き」バスに乗車して、我が家に帰ったものである。今は「イオンモール行き」に路線が変わり、西武バスが長円寺前を通ることはない。 その長円寺には過去何度も訪れたが、今回ほど詳細に見学・観察したことはない。ブログに載せるということが、とてもよい勉強の機会になったことを感謝している。

 
 
 


 
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長円寺行き

西武バスの長円寺行きがあったころは、確かに知名度アップにはつながっていましたね。
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