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狭山丘陵寺社めぐり 18 萩ノ尾薬師堂 (武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 18 萩ノ尾薬師堂

 今回紹介する「萩ノ尾薬師堂」(写真)は、青梅街道の萩の尾薬師堂バス停の前に建っている。境内は狭くなにか窮屈そうで、寺院のようでない建物。

萩尾薬師堂

 説明版には「建立年代は不詳ですが、天正十八年(1590)に滝山城が落城の折、北条氏の家臣石川土佐守の娘の持仏である薬師如来を祀ったといわれています」と書かれている。滝山城落城は、八王子城落城の間違いではなかろうか? 滝山城主だった北条氏照は、滝山城では守りが難しいと判断し、天文十五年に八王子城を造り、移り住んでいる。そして天正十八年に豊臣秀吉軍の上杉・前田勢に攻められて、八王子城は落城している。落城の際、氏照夫人や家族の婦女子が、悲惨な自殺を遂げた。なお氏照自身は北条氏本家の小田原城に居て、秀吉に和議を申し入れて自刃した。 滝山城落城の話は聞かないなあ。
 薬師如来は14報真福寺で説明したように、病気を治す功徳があるとされる仏様。武蔵村山市資料には「薬師堂の本尊であるが、これは北条氏照の息女すめの方の守り本尊であるという。萩ノ尾と赤堀の人々の祖先は、武田氏や北条氏方の武将で、戦いに敗れてこの地に定住したという言い伝えをもっていることから、この人たちとの関わりがきわめて強い堂宇であることがいえよう」と書かれている。 薬師如来像を所持していたのが、家臣の娘か氏照の息女かは分らないけれど、説明版にある家臣の娘説を信じたい。 織田信長に敗れた武田家の家臣や豊臣秀吉に敗れた北条家の家臣たちが、この地に移り住んだというのは興味深い。この地での学問の神、菅原道真信仰や神明社が沢山存在する原因のひとつに、武士の存在があったとすると納得しやすい。
 この薬師堂の宗派についての説明がないけれど、薬師如来を祀っているだけで十分と思われる。因みに薬師如来で有名な奈良県の薬師寺の宗派は法相宗で、薬師寺は興福寺と並ぶ法相宗の大本山である。 そしてこの地の名称が萩ノ尾村と分った。狭山丘陵から少し離れた、空堀川南側の平地で、萩の花が咲く土地だったのだろうか。

 境内に「萩ノ尾薬師堂の宝簥印塔」の説明版があり「この宝簥印塔(写真)は、延文元年(1356)の紀年銘がはっきり読み取れる中世の石塔である。宝簥印塔は五輪塔と並んで広く普及した塔形で、基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から成っているのであるが、この塔は現在、笠および基礎部分が残るだけである。さらに銘文には歿故了意禅尼という被葬者名と中世南北朝時代の北朝年号である延文の年号を用いた死去年月日が刻まれている」と書かれており、とても貴重な歴史資料である。  宝簥印塔とは、墓塔、供養塔などに使われる仏塔で、五輪塔と同じく密教の塔。

萩尾薬師宝塔034

 背の高いお地蔵様を安置したお堂(写真)があるが、説明版がないので紹介できない。青梅市に行くバスの中からいつも眺めていた「萩ノ尾薬師堂」であったが、立ち寄って調査するととても学ぶことが多い。 この寺社めぐりシリーズは、宗教、歴史、土地柄を学ぶとてもよい機会であると思っている。
萩尾薬師地蔵

 境内の小さな石像は馬頭観音(写真)のように見えるが、未だ決めつけるまでの自信がない。説明版や資料がないと記事が書けない未熟な自分が腹立たしい。

萩尾薬師馬頭

 原山神明社から萩ノ尾薬師堂に来る途中に「指田医院」の看板を見つけた。医院の横にとても貫禄を備えた屋敷門(写真)があった。

萩尾薬師指田

ここが有名な「指田日記」を書かれた指田家ではないかと気付いた。武蔵村山市資料には「指田日記は、武蔵国多摩郡中藤村の陰陽師(民間で私的に祈祷や占術を行う者)で神職でもあった指田摂津藤詮が天保5年(1834)から明治4年(1871)までの38年間書きつづった日記です。日記は16冊に分れており、現在の武蔵村山市内及び周辺地域の世情や産業、風俗、慣習などを知ることができる貴重な資料です。中でも黒船来航や安政の大地震の情報が極めて正確です」と書かれている。 指田家との出会いも一期一会「よし指田日記を読んでみよう」と心に決めた。 今回武蔵村山市の市政、歴史、産業などを高く評価したけれど、指田氏のような人物もおられたのは更なる驚き。発見の多い武蔵村山市の寺社めぐりであった。
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境内の小さな石像(写真左側)は、庚申塔です。
天明3年(1783)の青面金剛塔になります。
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