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狭山丘陵寺社めぐり 15 真福寺 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 15 真福寺

 今回は武蔵村山市の寺社のハイライト「真福寺」を紹介する。谷津と呼ばれる谷間の南側の丘陵の上に建つのが真福寺。 入口のしだれ桜が五分咲き(写真)で美しい。

真福寺入口

 参道を進むと、江戸時代の建立とされている荘厳な山門(写真)がある。説明版には「山門楼上にかけられている梵鐘は、寛永十五年(1638)に檀家の協力により鋳造された。梵鐘に、この寺が正応三年(1290)に瀧性法師によって再興されたことなどの由緒が刻まれており、年代のうえからも貴重なものとして、第二次世界大戦の時に供出を免除された。宝暦年間当寺が火災にあった際、亀裂が入り撞けなくなった」と書かれている。 第二次世界大戦の末期にあっても、日本政府は由緒ある鐘の供出を強要しなかったことを知り、安堵感を覚えたのだった。

真福寺山門

 山門をくぐると広い境内に、とても大きな本堂(写真)が建っている。説明版には「龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(710)行基によって創建され、その後承久二年(1220)に雷によって焼失したと伝えられる故利です。正応三年(1290)に龍性(瀧性ともいう)法師によって中興開山されました。現在の本堂は安永七年(1778)の建立で、本尊は薬師如来」と書かれている。 真福寺は真言宗豊山派のこの地方での本寺。狭山丘陵周辺の真言宗豊山派の22寺が真福寺の末寺であり、既に紹介した東大和市の雲性寺、蓮華寺、慶性院が末寺に含まれる。

真福寺本堂

 奈良時代の超有名僧、行基の創建は如何なものか。既報の安楽寺も行基の創建を伝え、5報はやし堂の如意輪観音像、9報慶性院の薬師如来像も行基の作と伝えられている。行基の活動は西国が主体であるので、関東地方における行基の寺院の創建や仏像の作成には疑問が多い。昔の寺院が信者や檀家を増やすために、行基というブランドネームが必要だったと推定した。
 ご本尊は雲性寺が阿弥陀如来、蓮華寺と慶性院が不動明王であったのに対し、真福寺は薬師如来。真言宗豊山派は本尊にこだわりがない様子。 薬師如来は薬師(医薬の先生)の名前通り、病気を治す功徳があるとされる仏様。阿弥陀如来の住まいが西方極楽浄土(苦しみのない安楽の世界)であるのに対し、薬師如来の住まいは東方浄瑠璃世界(地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りの世界)であり、日光と月光という二菩薩をともなっている。 チベットに旅行した時、現地ガイドが「田舎に住むチベット人は、病気になっても医者に行かない。ただ薬師如来にお祈りするだけ」と言っていたのが思い出された。これは迷信や医療費用不足の問題と片づけるよりは、「薬師如来にお祈りすれば病気が治るし、万一死んだとしても浄瑠璃世界に行ける」との信仰心によるものと思える。
 本堂前に天井図の写真(写真)があり「本堂の格天井に描かれている花鳥画は、天保十年(1839)檀家及び末寺の協力により完成した。一般には、百花百鳥といわれ、百枚に花、九十九枚に鳥、一枚に竜が描かれている。作者は、石川文松で現青梅市に生まれ、多摩や入間地方を中心に活躍した画人であり、当寺には花鳥画のほかに同人作の『板戸の十六羅漢画』が残されている」と書かれている。 近くにいた僧侶に「天井画を見たい」と問うたが「公開していない」と断られたのが残念。

真福寺天井絵

 境内には鐘楼(写真)や五輪塔が配置され、風格のある大寺。 徳川家康より御朱印地(将軍の朱印状によって領有を認められた寺社の領地)として20石が与えられたという。

真福寺鐘楼

 本堂の左手丘陵に、江戸時代建立と伝えられる「観音堂」(写真)が建っている。詳細が不明なのは、享保(1742頃)と宝暦(1757頃)の二度の火災で文書類が焼失したため。「境内では観音堂が一番古い建物」と、先程の僧侶に教えてもらった。 「狭山観音二十番札所」の石碑がある。雲性寺が十八番、はやし堂が十九番札所だった。 観音堂にはご本尊として阿弥陀如来が祀られている。阿弥陀如来の左右には、江戸時代の中頃から奉納され始めた百体観音が安置されている。1月第4日曜日に護摩供養があり、その時に観音堂内部が公開される。 観音堂前の桜が満開。陽当たりのよい丘陵の上なので、桜の開花も早かったようだ。

真福寺観音堂

 この丘陵の上は城跡だという説がある。武蔵野を見下ろす展望の地であるから、城や砦があってもおかしくない。奈良橋川や空堀川の源流地帯なので、城の命である水源にも恵まれていたことだろう。

 真福寺に別れを告げ、丘陵の上を東に下って行くと、掘割のようになっている青梅街道を横切る。道路の両側が崖のようになっているので、丘陵を削って青梅街道を造ったように思われる。 青梅街道の東側の石段を上ると、丘陵の斜面一帯が墓地。広場には「十王堂」(写真)というお堂が建っている。 
真福寺十王堂

十王堂の近くに背の高い石仏(写真)があり、その前に「堂山墓地の如意輪観音像」の説明版が立ち「この如意輪観音像は慶安五年(1652)の年号から江戸時代も前期の石仏として、市内でも古い部類に属するもの。如意輪観音像は、木像では一面六臂(六腕)のものが多いが、石仏では一面二臂に簡略化され、しかも小型のものが多い。しかし、この像は石仏では非常に珍しい大型の一面六臂であり、総高は百五十四センチメートルを計る」と書かれている。はやし堂のご本尊が行基作と伝えられる如意輪観音だった。 この墓地を訪れて、よい石仏を見つけ勉強になった。それも武蔵村山市の親切な説明版があったためで、市の史跡への配慮に感謝したい。

真福寺如意輪

 この堂山墓地が真福寺の墓地であることを知り、観音堂裏にも墓地がある真福寺のスケールの大きさに感服した。真福寺周辺の中藤地区には、神社は7社を数えるが、寺院は真福寺のみ。従って真福寺は多くの檀家を持ち、22の末寺を有する大寺で、かつ裕福なお寺であることが推定される。 
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