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狭山丘陵寺社めぐり 13 熊野神社 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 13 熊野神社

 武蔵村山市の「八坂神社」の参拝を終え、青梅街道を西に向かう。青梅街道が大きく南に曲がる個所に建つのが「熊野神社」 参道の入口には、白い神明系の鳥居(写真)が立っている。鳥居の傍に説明版があり「江戸時代は真福寺持ちでしたが、明治時代になって愛宕神社と合祀し、谷ツの鎮守となりました。社殿内には『指田日記』の筆者指田摂津正藤詮の筆による熊野権現の額が掛けられています。 祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)天照大神」と書かれている。 「指田日記」については、後日取り上げることにする。
熊野神社鳥居

 丘陵に架かる石段の上に、こじんまりした社殿(写真)が建っている。八坂神社のような木立もなく、陽光をいっぱい浴びた明るい感じの神社。

熊野神社社殿

 熊野神社については第3報の、東大和市蔵敷の熊野神社で説明済である。蔵敷の熊野神社の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊であったが、当熊野神社の祭神は伊弉冉尊の代わりに天照大神となっている。熊野神社であるのに、いずれも熊野三神を祀っていないのが不思議。
 丘陵の尾根の狭い境内には、社殿の左に二つの境内社(写真)がある。社殿のすぐ左には稲荷神社。その左には愛宕神社の祠が建っている。合祀したと書いてある、京都市の愛宕神社を総本社とする愛宕の神様は、防火の神として有名。

熊野神社境内社

 社殿の右には「日露記念碑」が立ち、その後ろに境内社と熊野神社神輿舎が建つ(写真)。武蔵村山市資料には、境内に御嶽神社を建てたと記載されているので、その可能性はある。 神輿を繰り出す熊野神社のお祭りは有名なようで、インターネット・ヤフーで「武蔵村山市谷津熊野神社例大祭『川崎囃子保存会』―You Tuboで検索すると、ビデオで撮った祭の様子を楽しむことができる。

 
熊野神社日露碑

 境内には石碑があり「奉納―畑参段歩 昭和十三年十一月 内野誠治七歳記念」と刻まれている。「内野家の坊やが7歳に成長したので、畑を3反歩奉納した」という意味か。私の誕生が昭和十三年十月。私の生まれた翌月に、この石碑が造立されたとは興味深い。内野誠治氏が生きておられたら、現在81歳を迎えられたことになる。

 これで熊野神社の参拝を終えた。この地は中藤の「谷津地区」で、熊野神社は谷津の鎮守である。この地は東大和市を流れる奈良橋川の源流にあたる。狭山丘陵の中に奈良橋川が食い込んで、丘陵を浸食したので、まさに谷(谷ツ)の形をなしている。我が家のある廻田谷ツよりは、谷の幅がとても広く、稲作にはとても適した土地だと思われる。 昔、小学生の息子と一緒に奈良橋川源流を目指し、この地に来たのを思い出して、奈良橋川に沿って谷の奥に向った。 熊野神社から1km程度川上に「番太池」(写真)という池があった。この池に流れ込む小川が、奈良橋川の水源と推定。説明版には「番太池は上と下の二つの池からなり、江戸時代は御嶽の溜井といわれていました。赤坂池とともに、入りの田んぼと中藤田んぼの灌漑用の貯水池として使われ、以前は堰堤の下に木管が埋設され栓が施され排水や止水の調節をしていました」と書かれている。廻田谷ツの貯水池「二つ池」よりもはるかに大きな番太池があるということは、谷津地区は稲作の適地であったことが、容易に推定される。 更に中藤地区の他に「入り地区」の存在が分り、近くの「入り天満宮」の意味も知ることができた。
熊野神社番太池

 番太池のそばに「赤坂トンネル」(写真)があった。これは多摩湖(ダム)建設の時に、多摩川から砂利運搬用に敷設された「羽村村山・山口軽便鉄道」の軌道跡。今はサイクリング道路となっており、赤坂トンネル内を東に向かって歩いた。

熊野神社トンネル

 トンネルの向こうで舗装がなくなり、山道を下って行くと「赤坂池」(写真)に出た。これは浅くて広い池。説明版には、番太池とほぼ同じことが書かれていた。

熊野神社赤坂池

 神社の説明版もさることながら、貯水池にまで十分な説明のある、武蔵村山市の史跡説明の配慮には感心した。東大和市の史跡説明よりは上手。昔、日産自動車工場があったのが、市の財政を豊かにしていたのであろうと推定。各地の寺社めぐりをすると、寺社の説明の行き届いている市は少ないことを痛感しているだけに、武蔵村山市に配慮には感謝したいものである。
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