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狭山丘陵寺社めぐり 109 来迎寺  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 109 来迎寺

 前報、勝光寺を出て、県道55号線を所沢市市内方面に進むと「来迎寺」の入口(写真)に着く。 入口の石柱には「三尊阿弥陀如来 大光山来迎寺」と刻まれ、長い参道の奥に山門が見える。

来迎寺入口

 参道の奥の山門(写真)は門が閉じられている。 山門前の案内板には「来迎寺と板碑  
来迎寺は大光山無量寿院といい、鎌倉時代の初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり『車返しの弥陀』の伝説がある。 昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を、源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなり、やむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停まったので、草堂を建てて三尊を安置したと伝えられている。  板碑 この碑は高さ155センチあり、建長八年(1256)に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹冶泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文字が刻まれている。

来迎寺山門

 板碑とは主に供養塔として使われる石碑の一種。武蔵型板碑は秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。埼玉県江南町の板碑が嘉禄三年(1227)で最初の板碑とされるから、来迎寺の板碑はそれから29年遅れなので、相当に古い板碑であることが推定される。 梵字とはインドで使用されたサンスクリット語の文字で、インドの仏典は玄奘三蔵などにより中国に伝わり、そこでサンスクリット語が中国の漢字に書き直されて、日本に伝来したとされる。 観無量寿経は大乗仏教の経典の一つで、日本の浄土宗(開祖法然)の根本聖典の一つである。来迎寺が無量寿院と称する背景に、板碑の経典の存在があることが分った。 最後に浄土宗の「来迎」とは、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎えるために、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍に従えてやってくることを言う。来迎寺とは、とても尊いお寺の名前である。

 閉じられた山門の横から境内に入ると「本堂」(写真)に出る。5年前に来た時、本堂は修復工事中であったので、この本堂には初めてお目にかかった。尊い寺名に比べると、やや地味な本堂である。
来迎寺本堂

 来迎寺は文治元年(1185)の創立と伝えられるが、開祖は不詳。 曹洞宗の寺院で、本寺は青梅市二俣尾の海禅寺。 同じ禅宗でも、臨済宗の寺院は大きいのに、狭山丘陵の曹洞宗の寺院は目立たない。その中では来迎寺はまずまずの大きな寺院である。
 境内に「歴代塔」(写真)があり、歴代の住職のお墓と思われる。

来迎寺歴代塔

 境内から墓所に向かう通路に、石仏が並んでいるが、その中でも目立つ二つの石仏(写真)を紹介する。左の美顔の石仏は棒のような物を持ち、これが如意宝珠であるならば虚空蔵菩薩像であるかも知れない。右の石仏は地蔵菩薩のように思われるが、数珠を持っているので違うかも知れない。石仏に関する学習不足を痛感している。

来迎寺石仏

 来迎寺を出て、県道55号線を所沢市内に向って進むと、路傍に「子育地蔵」があった。石碑には「武劦山口之郷堀之内村 子育地蔵尊 寛文十一年(1671)」(写真)と刻まれている。昔は子どもを育て上げるのは容易でなく、村人がこの地蔵像にお祈りしていた心情がよく分る。 祠の中の赤い衣をまとった地蔵像(写真)は、江戸初期からの風雨に曝されてきたのであろう。お顔が磨滅してよく分らなかったが、大切にされていることは理解した。

来迎寺地蔵碑

来迎寺子育て
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