スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

狭山丘陵寺社めぐり 107 稲荷神社  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 107 稲荷神社  (所沢市山口)

 前報、中氷川神社から県道55号線を所沢市内に向かうと、小さな「稲荷神社」(写真)が建っている。灯籠の後ろに立つ三つの赤い鳥居は、黒い笠木の両端が反り上がる明神系の鳥居で、小さいけれどとても見栄えがする。

稲荷神社全景

 一の鳥居には「大山口正一位稲荷大明神」の額が掛かっている。 「正一位」とは、人臣の位階の最高位にあたる。後鳥羽天皇が、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社に行幸された際「伏見稲荷大社勧請の神体には『正一位』の神階を書き加えて授くべき」旨が勅許されたという。このため「正一位」は全国の稲荷神社の異称のようになっている。 「明神」とは神様に対する尊称であるが、とくに霊威の強い有力神(例えば稲荷神)に対する畏敬の念を表わす意味合いが強い。その畏敬を最大級に表したのが「大明神」である。 従って「正一位」と「大明神」の名称を許されている稲荷神社は、とても偉大な神社なのである。

 三つの鳥居をくぐると、稲荷神社の小さな社殿(写真)がある。 社殿の内部(写真)に小さな祠があり、祠の中と右にご神体と思われる鏡が安置されている。ご神体には御幣(大口真神の御幣はよく見かける)、鏡、玉、剣、矛などがある。このような美しい鏡のご神体は久しぶりに見ることができた。
稲荷神社社殿

稲荷神社内部

 稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神、別称倉稲魂命と呼ばれる稲荷神である。稲荷は「稲生る」が転訛したという説があるように食物神で、伊勢神宮の外宮に鎮座する女神豊受大神と同一神格とみられる。 これまで稲荷神社は全国に32.000社もあり、神社数では第1位と紹介してきた。ところが最近報告された神社本庁の傘下にある79.335社の中では、稲荷信仰の神社は2.970社で、八幡信仰、伊勢信仰、天神信仰の神社に次いで第4位と分り、甚だ面目を失ってしまった。 稲荷神社は、神社本庁に登録されていない、境内社や屋敷神のような小社が多いのであろうと私なりに納得した。

 この稲荷神社の後方の丘の斜面に、山口城の遺構があるのを思い出した。数年前にブロ友様にご案内頂いたのであるが、民家の裏側にあたるので、明確な遺構を見つけることができなかった。 山口城は、平安時代末期」に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、以来代々山口氏の居城となった。 南北朝時代の応安元年(1368)新田義宗の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側についたが、鎌倉公方足利憲顕に攻められ、山口城は落城。 永徳三年(1383)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、再び兵を挙げ足利氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。その後山口氏は上杉氏家臣である大石氏に従い、山口城の改修を行っている。上杉氏没落後は、小田原の後北条氏に仕えたが、1590年、秀吉の小田原(後北条氏)征伐で敗戦。山口城は廃城となった。
 この200年余の山口城の栄枯盛衰を見ると、狭山丘陵の寺社に兵火が及んだことが予想され、社殿・堂宇をはじめ貴重な資料が焼失したことが推定される。従って関連する資料がなくなったので、延喜式内社の跡目争いも判断できなくなったのであろう。

 稲荷神社を出ると「山口城跡」という交差点に着く。この辺りが山口城の天守閣跡らしい。 「ファッション広場サンキ」という建物と西武線の間に、山口城の土塁(写真)が残っている。 フェンスに囲まれているので近づけないが、フェンス内に灯籠や建物が見える。 土塁の姿はまさに「兵どもが夢の跡」の風情である。

稲荷神社山口城跡
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

リンおじい

Author:リンおじい
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。