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狭山丘陵寺社めぐり 101 海蔵寺  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 101 海蔵寺

 前報の「峰薬師」から西武山口線に向って急坂を下りて行く。県道55号線「所沢武蔵村山立川線」の交差点名が「山口城跡」で、この辺りから椿峰丘陵にかけて、中世の「山口城」が建っていた。山口城跡の紹介はいずれ行うことにして、今回は省く。 西武山口線を渡り、柳瀬川を渡ったところに建つのが「海蔵寺」(写真、赤〇)。

地図海蔵寺140

 入口の石柱(写真)の右下に、感じの良い石仏が安置されているのが微笑ましい。

海蔵寺入口

 参道を歩くと、埼玉県の寺院に多い「増上寺の灯籠」(写真)が立っている。この立派な灯籠の所有者であった西武鉄道は、運賃こそ出さなかったが、灯籠を無料で埼玉県の各寺院に引き取らせたというのは本当の話なのか?

海蔵寺灯籠

 参道の奥に海蔵寺の大きな本堂(写真)が建っている。 本堂内部(写真)の仏壇はとても美しい。
海蔵寺本殿

海蔵寺内部

 インターネットに記載された海蔵寺二十六世の「海蔵寺縁起」によると「川嶋山釈迦院海蔵寺は、文明元年(1469)山口城祉の南、柳瀬川の南岸に創建された真言宗豊山派の寺院である。開山は尊榮上人といい、開基は山口城主山口平内左衛門尉高治公の孫、岩岡民部少輔道岩入道一乗である。 山口城主・山口平内左衛門尉は、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王の皇子として鎌倉に生れ、高冶親王と称す。父護良親王が鎌倉東光寺に幽閉され、無残な最期を遂げると、高冶親王は武州山口へと落ちのびた。 山口城に入った高冶親王は、名を山口平内左衛門尉と改めて挙兵。足利軍と交戦するも、居城は陥落。城外に逃れた後、岩崎の瑞岩寺にて切腹した。 高冶親王の長男廣高は、多摩郡豊田郷に逃れて潜伏。乱が平定された後、山口に帰還し定住した。 廣高の子道岩入道一乗は、文明元年、亡き大塔宮護良親王と、祖父高冶親王、および戦死した南朝方の菩提を弔うため海蔵寺を創建し、寺号を鎌倉の海蔵寺より賜った」と記されている。
 すごく興味深い「海蔵寺縁起」である。大塔宮護良親王の皇子が、山口城に入り山口姓を名乗って戦っていることや、護良親王の尊孫が海蔵寺を創建したというのは本当だろうか? また宗派の違う鎌倉海蔵寺(臨済宗建長寺派)が、海蔵寺という寺名を何故この寺(真言宗豊山派)に与えたのだろうか? フリー百科事典「ウィキペディア」の「山口城(武蔵国)」には「南朝の力を得た高清の子・山口高冶は、兵を挙げ足利軍と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた」と記され、山口高冶は南朝の力を得た山口高清の子であって、大塔宮護良親王については何も記されていない。 浅学の私には、どちらが真実なのかよく分らない。
 なお、本海蔵寺の本尊は釈迦牟尼如来で、脇士として右に阿難尊者、左に摩訶迦葉尊者が配されている。本尊のお釈迦様に、釈迦の十大弟子の二人を配したもの。阿難尊者はアーナンダと呼ぶ、釈迦の愛弟子であった。

 境内には、小川の流れる石庭(写真)があり、参拝者の目を楽しませてくれる。

海蔵寺庭園

 更に、歴代住職の墓所(写真)があり、26代も続いた古寺であることを物語っている。

海蔵寺住職墓

 墓地の入口にある六地蔵は、通常は行儀よく並んでいるのに、海蔵寺ではバラバラに配置(写真)されているのが面白い。

海蔵寺六地蔵

 墓地には古寺らしく、古い石仏が多いのが嬉しい。いつものように如意輪観音の石仏(写真)を紹介しておく。
海蔵寺石仏

 海蔵寺の隣に、稲荷神社(写真)が建っている。これは海蔵寺を守護する神社ではないかと、私の独断で推定した。
海蔵寺稲荷拝殿

 海蔵寺はどこにでもある大寺・古寺と思っていたが、山口城との係わりや南朝・大塔宮との係わりを知り、真実であればとても畏れ多い寺院であることが分った。 何気なく訪れた寺社に、聖徳太子や行基の作品があったりするのが、この寺社めぐりの楽しみである
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