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狭山丘陵寺社めぐり 7 豊鹿島神社 (東大和市芋窪)

狭山丘陵寺社めぐり 7 豊鹿島神社 

 いよいよ東大和市に寺社のハイライト「豊鹿島神社」を取り上げる。 青梅街道沿いに「郷社豊鹿島神社」と書かれた大きな石碑が立っている。郷社とは「厳島神社(村社)」の項で記載したように「村の行政機能を持つ社」であって、村社より格が高い。昔からこの地方では最高の格式を有する神社だったことが分る。
 長い参道を進み、一の鳥居(写真)に着く。笠木が直線的なので、新明系の鳥居である。鳥居を潜って進むと、石段の左手前に「鹿島の大欅(けやき)」と呼ばれた、枯れた大木の株(写真)がある。樹齢千余年といわれ、昭和の初めまでは枝が茂っていたご神木である。

            豊鹿島鳥居

            豊鹿島大欅

 石段を上ると、拝殿(写真)と有名な本殿(写真)が建っている。本殿前に置いてある「豊鹿島神社パンフレット」を頂戴する。狭山丘陵の寺社で、パンフレットが用意されているのは、恐らく鹿島神社だけではなかろうか。そのパンフレット主体に、以下記述してみる。

            豊鹿島拝殿

            豊鹿島本殿

 豊鹿島神社のご祭神は「武御加豆智命(タケミカヅチノミコト)」で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(鹿島神社の総本社)のご祭神と同じ。日本神話では、イザナギ命が火の神カグツチの首を斬り落としたときに流れ出した血から生まれた剣の神で、日本最強の武神とされる。 1466年の棟札に「鹿嶋大明神」と書かれていたので、昔は「鹿島神社」と呼ばれていたが、明治以降に「豊鹿島神社」と呼ばれるようになった。何故「豊」を冠したのかは、よく分からないようだ。
 「武蔵名勝絵図」記載の社伝によれば、神社の創建は707年(文武天皇の時代)とされる。 現在の本殿は「新編武蔵野風土記稿」等に記載のあるとおり、文正元年(1466年)十月三日の棟礼が、平成五年の大改修で発見された。この改修で五枚の棟礼が見つかり、改修前の拝殿は安政五年(1858年)の完成であることが確認された。 本殿が1466年の建立であれば、都内に現存する最古にして唯一の室町時代建立になる神社本殿遺構であり、現在の東京都指定文化財どころか、国宝に指定されてもおかしくない。都内唯一の寺社国宝である東村山市の「正福寺地蔵堂」の建立が、室町時代の1407年。豊鹿島神社の建立は、正福寺より59年遅いとはいえ、同じ室町時代の建築なので、国宝級といえる。
 ところが青梅街道脇の神社入口の掲示板には「本殿の棟礼は天文十九年(1550年)を記しているところから、現本殿は1550年に再建されたものであろう」とも記されている。1550年建立となれば戦国時代となり、それでは国宝には及ばないということになろうか。この1466年と1550年の建立時期の差についてはいろいろな事情があるらしいので、素人の私の入り込む領域ではない。
 後日、ブロ友様から「豊鹿島神社に残された棟札は、文正元年(1466年)天文19年(1550年)天正4年(1576年)慶長6年(1601年)正保3年(1646年)の5枚が現存します。なお本殿改築の際その下に、更に古い時代の跡が発見されていますから、現在地への創建年代はそれ以前と想定されます」と教わった。
 これまで訪ねた八幡神社の社殿再興が1575年であり、厳島神社の創建が1588年であったので、1550年から1588年の間に、蔵敷・芋窪地区では寺社建築に関する大きな動きがあったのが興味深い。
 余談となるが、30年以上前に「鹿島神宮」に参拝したことがある。そして近くの「香取神宮」にも参拝した。面白いのは両神宮ともに武神を祭っており、更に剣豪の誉れ高い塚原卜伝を輩出している。 この武蔵大和の地にも鹿島神社があるということは、中世武士団武蔵七党の一つ、村山党とも関連するのでは、とは考えたくなるのである。

 境内には神輿を納めた建屋がある。神社の例祭(9月15日前後)に、神輿が繰り出されるようだ
 境内の案内板に「神社の獅子頭三点は江戸時代後期の作。市内の高木神社(一人一頭)と豊鹿島神社(二人一組)があったが、明治時代に途絶えた」と書いてある。
 境内社は10社を数え、その内住吉神社、八雲神社は摂社。その他の紅葉稲荷神社、白山神社、愛宕神社、稲荷神社、産泰社、日吉神社、御嶽神社、滝澤明神社は境内社と、パンフレットに記載されている。 摂社とは「本社の主祭神の荒魂・縁故のある神、あるいは古くからの地主神を祀る社のことで、本社に準じる資格をもつ」とされる。豊鹿島神社と同じ芋窪地区にある住吉神社とその境内社である八雲神社が、豊鹿島神社の摂社と分る。豊鹿島神社と住吉神社の、地元での結びつきが推定される。なお境内には二つの摂社の祠はなかった。 
 大きな神社の有力な神を勧請して境内に祀っている小社は「末社」と呼ばれる。摂社と末社は「境内社」とも呼ばれ当神社内の境内社では「紅葉稲荷神社」(写真)が最も大きくて美しい。更に「稲荷神社」と共に小さな鳥居を有していたので、境内社では稲荷神社二社が格上のように感じた。 紅葉稲荷神社は下関市にある社であるが、ここに勧請された理由は不明。 境内社の内、私の知らなかった「産泰社」は前橋市の安産・子育ての神社で、「滝澤明神社」は仙台市の火防の神を祀る神社と分る。

            豊鹿島稲荷

 最後に本殿の裏から坂を上り、100mほど歩くと、多摩湖一周サイクリング道路の休憩所に着く。この丘の上に豊鹿島神社の「奥宮」があり「豊鹿島宮、奥宮跡」のコンクリート柱(写真)が立っている。「奥宮」とは、山麓と山頂の二社に同一の祭神を祀る場合、山頂の神社を奥宮という。 狭山丘陵の寺社で、奥宮や奥ノ院を持つ寺社が、豊鹿島神社以外に存在するか、探すのが楽しみになった。

            豊鹿島奥宮

 奥宮から去りながら豊鹿島神社の森(写真)を眺めると、昔から豊鹿島神社がこの地区の信仰の中心地であった神々しさを感じ取った。今一歩で国宝となりかけた東大和市の歴史的建造物に、心から敬意を表したい。

            豊鹿島森

 最後にパンフレットに「芋窪」の地名が、「井能窪村」から「芋久保村」となり、江戸時代初めに「芋窪村」となったと説明されている。最初から「芋」があったのではなく、「井能窪」から推定するに、井戸や窪地のある水に縁のある土地だったのではないだろうか。 「芋」という字は現在ではあまり好まれないが、江戸時代以前には、水不足で稲作に適しないこの地方では、芋は重要な食物であったに違いない。 豊鹿島神社からいろいろなことを学んだり考えた一日だった。
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文政4年が最初

 豊鹿島神社に残されている棟札は
 文正元年(1466)
 天文19年(1550)
 天正4年(1576)
 慶長6年(1601)
 正保3年(1646)
 の5枚が現存します。なを、本殿改築の際その下に、更に古い時代の跡が発見されて居ますから、現在地への創建年代はそれ以前と想定されます。
 奥宮跡が北方にありますので、ご紹介下さるようにお願い致します。
 野火止用水
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