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狭山丘陵寺社めぐり 58 出雲祝神社  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 58 出雲祝神社  (入間市宮寺)

 前報「山際観音堂」から狭山丘陵の山麓沿いの道路を、東に向かって500 mも歩くと、古社「出雲祝神社」に着く。 境内東側の入口の右に「出雲祝神社」の石碑と共に、屋根付の説明板(写真)がある。
出雲祝入口

 その説明板には「御祭神 天穂日命  由緒 延喜式内社で人皇第十二代景行天皇の御代創建 大宝二年再建す その後幾度かの乱世にあいながらも 御神徳のゆるぐことなく一般から寄木様と親しまれてきた 弘冶三年小田原城主北条家より社領を賜り 尚徳川家康将軍はじめ代々将軍より朱印十石をいただく 明治になり有栖川宮一品幟仁親王より御染筆を賜はる 宮寺郷の総鎮守で むすびの神(生々発展の神)としてたたえられ この宮内に大黒様(八千矛命)天神様(菅原道真公)が合祀されている 尚古社を物語る石剣 棟札 鏡 和琴 其の他文献等多数の宝物あり」と書かれている。

 入口の左にも説明板があり「出雲祝神社社叢ふるさとの森  出雲祝神社は、出雲大社(寄木の造営)との関係が深く、天穂日命の子孫が出雲の国よりこの地にやってきた時に、樹種を携えてきて蒔種したのがこの森で、『寄木の森』といわれています。市内ではめずらしいオガタマノキや野生のヤブツバキなどがあり、林相としては主に、ヒノキ・スギ・ヒサカキ等から構成されています」と書かれている。
 説明板の内容についての考察は、後述する。

入口の燈籠から始まる参道(写真)の途中に、風格のある一の鳥居(写真)が立ち、長い参道の先には石段が見える。この参道の長さからして出雲祝神社が、この宮寺郷の総鎮守であることが納得される。

出雲祝参道

出雲祝鳥居

一の鳥居からの参道の右に、二本の大木に屋根を付けた施設(写真)がある。これは祭礼に使用する旗竿であるが、今はこの大木を立てる人がいなくなり、使用されることはないとのこと。

出雲祝木置場

石段を上り、二の鳥居をくぐると、大きな社殿(写真)の前に出る。社殿の前面が格子と白壁という極めて質実剛健な造りで、延喜式内社としての古い歴史が偲ばれる。

出雲祝社殿

延喜式内社とは、平安時代中期の延長五年(927)にまとめられた「延喜式」神明帳に載っている神社(全国2861社)のことで、日本の古社として認められた神社。これまでの寺社めぐりで延喜式内社は、瑞穂町の「阿豆佐味天神社」一社のみで、出雲祝神社が二社目となる。
祭神の天穂日命(あめのほひのみこと)は、高天原の天照大神の子であるが、地上の出雲国(島根県)と縁の深い神で、二つの異なった姿が伝えられている。 一つは「古事記」の国譲り神話で、高天原の天照大神が出雲国を譲るように、使者として天穂日命を派遣するが、天穂日命が出雲国の大国主命に心服してしまい、出雲国に住みついてしまうという説。 もう一つは、天穂日命は出雲国の有力豪族の出雲氏の祖神であるという説。出雲氏に関係する「出雲国造神賀詞」に、天照大神に命じられて、国譲り後に乱れた出雲国を、天穂日命が平定する話が記されている。 いずれにしても出雲国とは、とても関係の深い神様。 その神様の子孫がこの地にやってきて住みついたということになる。
天穂日命を祀る神社は全国に分布しているが、埼玉県毛呂山町に「出雲伊波比(いわい)神社」があり、この出雲祝神社の身内ということになろう。これは平安中期以前に、出雲国の住人たちが、関東地方に移住してきたことが推定される。埼玉県高麗には、朝鮮半島から渡来した高麗人が住んでいたとされるように、大昔の日本国内を出雲人、高麗人が移動していく姿には古代のロマンを感じる。
祭神が更に二人おられ、天夷鳥命と兄多毛比命。いずれも出雲国に所縁の神様である。

ここで4年前に、この出雲祝神社をご案内いただいたブロ友様の資料を掲載しておく。最初の説明板と共通する点は多いが、とても参考になる。「由緒 人皇第12代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当られた時、当地においでになり、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波佐神社と崇敬せされた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。 醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式第九巻・神名帳に入間五座の筆頭として記された式内社です。社名の『祝』の文字は、小田原城主・北条氏康公からの朱印状を、弘治3年(1557)に賜り、それ以前は現存する大宝2年(702)の棟札をはじめすべて『伊佐比』が使用されています。宮寺郷十八ケ村(現在の所沢市から東京都瑞穂町)の総鎮守として、また江戸時代には、徳川家康公を始め、代々の将軍より十石の社領を賜り当時から隆盛な社でありました。 なお、出雲大社とは所縁が深く、社紋も同じ亀甲剣花菱であり、いずれも結びの神、生産の神として信仰の厚いものがあります。当社の森を『寄木の森』と称しますが、出雲国の杵築湾に漂う古木を以て造られたのが寄木の造営(出雲大社)であり、天穂日命の子孫が東国に下ったときに樹種を携えてきて蒔種したのが当社の森『寄木の森』であります。明治初年には、出雲大社大宮司・千家尊福氏も参拝され、大きな額を奉納されています。  全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」

この資料を読むと、「祝」よりも「伊佐比」の方が歴史は古そうで、ここの「出雲祝神社」と毛呂山の「出雲伊佐比神社」との間で、式内社をめぐる論争が展開されている事情もよく分る。
しかし、入間市博物館資料には「毛呂山の出雲伊波比神社は明治維新の頃、勤王家の神主、権田直助等が熱心に主張して、飛来明神を改めて出雲伊波比神社としたもので、それまでは社伝にも式内社であった伝えも証拠もない。ただ当社は中世毛呂山の氏神として有勢であったらしく、本殿は草祿元年(室町末期)の建築を寛永十年に補修したもので、建築そのものは重要文化財に指定されているが、式内社であるとは言えない。これに反して宮寺の伊波比神社はすくなくとも口碑に伝えられている、と東京都史談会菱沼勇氏は述べられている。また所沢市史にも毛呂山の伊波比神社は近代に至っていわれるようになったもので、古くは臥龍山といわれたと記されているし、文化年間に出版された武蔵野話には、寄木宮とて素盞鳴命を祀る、案ずるに出雲伊波比神社ならんか、これによりてこの地を宮寺と云うらん。と記されている」と、出雲伊波比神社の毛呂山説を否定し、地元である宮寺説を支持している。
論争は別にしても、毛呂山の「出雲伊佐比神社」は大社であると聞いたので、いつか参拝したいものである。

社殿内を覗くと、美しく整備された神棚(写真)があり、狭山丘陵北麓の社殿内部は、いずれも一見の価値がある。神棚上の額に「出雲祝神社」と書かれたのは、来社された千家氏の筆だったのだろうか。
出雲祝内部

本報はかなりの長文となったので、境内の紹介などは次報にまわす。



 
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いよいよ本拠地ですね

 狭山丘陵の神社で最大級の難問を与えられますね。それを真っ正面から考えるためにも、毛呂山の出雲伊波比神社にお参りして下さるようにお願い致します。周辺のその後の発掘状況から、改めて、いろいろお話しが出てくると思います。 野火止用水
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