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狭山丘陵寺社めぐり 56 太子堂  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 56 太子堂  (入間市宮寺)

 狭山丘陵北麓の高根通りを東に向かって進むと、瑞穂町駒形富士山地区から入間市宮寺地区に入った。即ち、東京都から埼玉県に入って来たことになる。 県境の埼玉県側に建つのが「太子堂」(写真)。 左の建物が本堂で、右の建物が不動堂。

太子堂全景

 本堂の内部は暗く、内陣(写真)の様子はあまりよく分らない。 瑞穂町資料によると「ご本尊は聖徳太子で、二歳の時の像、丈一尺九寸。延文三年雲慶の作。無住の堂で、この堂を護りし寺は長福寺」と書かれている。 長福寺は太子堂の北西 1 kmにあり、後日訪れる予定。

太子堂内部

 本堂の左に説明板があり「宮寺旧坊村八雲神社祭礼古文書および太子堂大般若経(写真) 宮寺旧坊村の鎮守八雲神社(旧天王社、山王社が八雲神社となり、さらに現在は出雲祝神社境内に合祀)と太子堂の祭礼に係わる文書など、旧坊村の当時の信仰のようすなどを今に伝える史料である。 宮寺旧坊村八雲神社祭礼古文書は、嘉永七年(1854)から大正二年(1913)の約六十年間にわたる四百十六点におよぶ坊村の天王社、山王社祭礼文書で、祭礼の経費をはじめ当時の祭礼のようすが記録されている。 太子堂に納められている六百巻の大般若経は、いわよる鉄眼版で、幕末の弘化から安政期にかけて奉納されたもので、十二箱に収蔵されている。 毎年四月の大般若祭(坊太子堂大祭)では、大般若経を開いて転読供養が今も行われる」と書かれている。
太子堂文書

 説明された文書が、この太子堂内に収蔵されていたのである。大般若経とは、有名な玄奘三蔵がインドから中国に持ち帰り、翻訳した大乗仏教の経典である。あまりにも分厚い経典であるため、経典をパラパラとめくって、その一部を読誦しして、一巻を読誦したとする転読が行われている。
さらにこの地が、昔は坊村と呼ばれていたことが分る。 なお八雲神社が合祀された出雲祝神社には、これから訪れる予定である。

 「太子堂」のご本尊にあたる聖徳太子(574~622)の事績としては、まず第一に、日本に渡来して間もない仏教を、国家仏教へと展開させてその権威を確立し、わが国において最初の仏教文化を花開かせたことである。さらに、造寺・造仏を奨励し、日本最初の本格的な寺院である法興寺をはじめとして、四天王寺、法隆寺などの大寺を次々と造営した。これは当時としては国家的な大事業であり、これが建築関係の職人と関係し、大工や建築関係の職人の守護神として崇敬されている。 瑞穂町資料でも「この坊村でも、太子講を組織して今でも職人が集まり、太子像を飾ってお祝いし、各々の技術と共に家運の隆昌を祈願している」と書かれている。
 太子堂の建つ「宮寺郷」の中に「坊村」があるのが興味深い。お宮や寺院やお坊様の名称から、この地が昔はこの辺りの信仰の中心地であったように思われてならない。

 本堂の右の「不動堂」の内部は暗くて見えないが、不動明王が祀られているものと思われる。
 本堂の裏に七つの石塔(写真)が並んでいる。 左から三つ目は庚申供養塔で「見ざる言わざる聞かざる」の三猿が彫られ、元禄二年の銘が見える。庚申供養塔は、道教の庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、庚申塔を建てた際には供養を伴ったことから庚申供養塔と呼ばれる。江戸時代中期の華やかであった元禄時代に造られている。 その左は女性の墓標のようであるが、如意輪観音のような首を傾げた姿が妖艶に見える。 石塔の内容が分れば、興味がさらに増してくるだろう。
太子堂庚申塔

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太子堂

 狭山丘陵周辺に聖徳太子をまつる集団は多く、太子像を造っているようです。しかし、太子堂は少なく、東大和市蔵敷とこの太子堂の間には無かったと思います。貴重な姿を紹介下さり有り難うございます。
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