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狭山丘陵寺社めぐり 110 八雲神社  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 110 八雲神社

 前報の「来迎寺」を出て、県道55号線を所沢市内に進むと「さくら通り」という西武池袋線小手指駅に向かう道路がある。さくら通りを椿峰丘陵に向けて上る坂道の途中に、枯れた杉の巨木が目立つ「八雲神社」(写真)が建っている。

八雲神社全景

 さくら通りに面した神社の入口に、笠木の両端が反り上がった明神系の一の鳥居(写真)が立っている。
八雲神社一鳥居

 狭い境内の石段の上には、白い二の鳥居(写真)が立っていて、鳥居の後方に小さな社殿(写真)が建っている。
八雲神社二鳥居

八雲神社社殿

 案内板には「美園上八雲神社由緒  当社は鎌倉時代に山口城第十二代城主山口平内左衛門尉高治の嫡子高忠が、山口城の規模を拡大し、六ッ家川の流れを外堀として堀之内に庭園を設けたのを、里人は此の辺りを美園上と稱するようになった。 城主が素戔嗚尊を奉祀し八雲神社(通稱天王様)と尊稱して、城の鬼門守護の社とした。此の後、天正年間山口城は小田原北条の攻める所となり落城した。その後八雲神社を守護する者なく、荒廃の一途をたどった。 その後武蔵郷拾数箇村の総代名主、小峰善右衛門が当社を再興した」と記されている。
 この寺社めぐりの祭神として13度目の素盞鳴命の登場である。狭山丘陵で素盞鳴命の人気が高いのは、ブロ友様の「素盞鳴命を祭神とした武蔵一の宮である氷川神社信仰の狭山丘陵への普及説」が有力と考えられる。 出雲の神である素盞鳴命が武蔵国に祀られた歴史は、史書「国造本紀」に「日本武尊の兄、景行天皇の勅命で、出雲国造の一族である兄多毛比命が武蔵国造として氷川神社に遣わされた」と書かれていることによる。「氷川」は出雲を流れる「簸川(現在名は斐伊川)」に由来するという。 出雲から来た兄多毛比命が武蔵国で善政を敷いたので、氷川神社信仰が関東、特に武蔵に広まっていったとされる。島根県出身の私には、とても誇らしい話である。

 狭い境内の一画に「庭津火神」という小社(写真)があり、社内に丸い石(写真)が祀られている。

八雲神社境内社1

八雲神社境内社2

 案内板には「山口中学校の裏庭の大木の根元に、山の火難除けの神として庭津火神が祀られていたが、学校の用地拡張のためここに移設した」と記されている。 庭津火とは地面に籠る霊魂という意味。兵庫県の西宮神社の境内にある庭津火神社は本殿がなく、塚の形をした土壇がご神体であるというから、ここの社内の丸い石もご神体とみなしてよいと思う。

 八雲神社の500 m南の柳瀬川畔に「桜淵延命地蔵」なる祠(写真)があり、祠内に赤い布をまとった地蔵像(写真)が安置されている。

八雲神社桜淵

八雲神社地蔵

 この辺りの民話に「夜泣きする赤ん坊が、子守りしていた娘から突然いなくなり、翌朝桜淵に水死体となって見つかった。それを苦にして、子守りの娘も桜淵に身投げして死ぬ。それを期に家が傾いた主人が、この延命地蔵を建立し、地蔵堂を生涯守った」という暗い伝説が残っている。 延命の大切さを説いたお地蔵様なのであろう。
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寺社めぐり 26 縁切寺満徳寺  (群馬県太田市)

寺社めぐり 26 縁切寺満徳寺  (群馬県太田市)

 前報、歓喜院を見学する前に、群馬県太田市徳川町に建つ「満徳寺」を訪れた。入口の風変わりな山門が「駆込門」とも呼ばれる「山門」(写真)である。江戸時代、夫の不法に泣く女が、この門をくぐると、夫との離婚が達成できたのである。鎌倉の東慶寺とともに、日本に二つしかない縁切寺である。
満徳寺駆込門

 中門(写真)をくぐると、満徳寺の「本堂」(写真)に出る。 本堂は20年前に門と共に再建されたもので、新しい。
満徳寺中門

満徳寺本藤

 満徳寺は山号を徳川山という時宗の寺院である。江戸幕府を開いた徳川氏の祖とされる世良田義季により創建されたと伝えられる。そのことから徳川氏の帰依を得、2代将軍・徳川秀忠の娘・千姫が豊臣秀頼と別れた後、縁切りのためこの寺に入り、その後本多忠刻に再嫁したという。 江戸時代には江戸幕府の支援を得ていたが、幕府瓦解により明治五年に廃寺4となった。しかし地域住民が本尊や資料を守ってきたので、平成四年縁切寺満徳寺資料館が開館し、平成六年に本堂・門などが復元された。

 縁切寺資料館(写真)には、江戸時代の縁切りの事情を詳しく伝えている。縁切門の直前で、追ってくる夫を振り切ろうとする女の絵(写真)が迫力十分。二階では縁の切れた女たちが、優雅に暮らしているという絵。 当時の女性たちの苦難はよく分るが、現在縁切寺があれば、男性の駆け込みが多いであろうと思われる。

満徳寺資料館

満徳寺絵

 道路に「徳川氏発祥の地」の幟(写真)が見える。徳川家康は、元は松平家康であった。家康の親戚や部下に松平姓が多く、彼らよりは一頭地抜けた存在を示すために家系を調べ、昔この地で徳川氏を名乗っていたことが分ると、以後家康の直系のみに徳川を名乗らせたと伝えられている。従って大田市徳川町は、徳川氏発祥の地と名乗っているのである。
 
満徳寺徳川

 満徳寺と道路を挟んで建つのが「永徳寺」(写真)。 案内板には「医王寺和光院永徳寺 天台宗 本尊薬師如来  寺伝によると、天台宗の開祖・伝教大師最澄の弟子有海上人によって大明元年(806)に創立され、関東最初の天台三道場の一つだったという。 建久三年(1192)に徳川氏の祖、徳川(新田)義季が徳川郷に居館を構えると、薬師如来を深く信仰し、当寺を祈願所とした」と記されている。
満徳寺永徳寺

 徳川の郷のように記されているが、「徳川家康の改姓の基となった郷」と考えた方がよさそうである。

寺社めぐり 25 歓喜院聖天堂  (埼玉県熊谷市)

寺社めぐり 25 歓喜院聖天堂  (埼玉県熊谷市)

 公民館サークル活動のマイクロバスで、熊谷市の「妻沼・聖天山(登録名称:歓喜院聖天堂)を訪れた。
 バスを降りると、歓喜院聖天堂の「総門」となる、二階造りの「貴惣門」(国指定重要文化財、写真)が建っている。江戸時代末期の嘉永四年(1851)に竣工した豪快な門である。

歓喜院貴惣門

 総門から参道を進むと、右に「斎藤別当実盛公」の銅像(写真)がある。実盛公が当地の荘司として、祖先伝来のご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りしたが聖天堂の始まり。 実盛公は平家物語、保元物語などに武勇に勝れ、義理人情に厚い人柄が称えられている。次いで実盛公の次男斎藤六実長が出家して阿請房良応となり、建久八年(1197)に本坊の歓喜院を開創した。

歓喜院齋籐像

 参道を進むと「四脚門(中門)」が現れ、右に「国宝聖天山本殿」の掲示がある。平成24年7月に「本殿」が国宝に指定されている。これから見学する本殿のみが国宝なのである。 この四脚門は聖天山の中では最古の建物で、里人は「甚五郎門」と称している。

歓喜院中門

 次に現れた大きな門が明治27年に再建された「仁王門」(写真)であり、門内に恐ろしい形相の「仁王さま」(写真)が、境内に悪者が入らないように睨みをきかせている。

歓喜院仁王門

歓喜院に汪像

 境内の最奥に見えてきたのが、国宝「本殿」正面、即ち拝殿(写真)である。廟型式権現造りの拝殿はとても重厚であるが、美しさには欠ける。 この本殿は妻沼の大火で焼失したが、享保から宝暦年間(1750頃)にかけて再建されたものである。

歓喜院御本殿

 驚いたのは大きな拝殿の後方に続く「奥殿」(写真)で、三方の壁面を全て彫刻で装飾し、華麗な色彩が施されている。まさに日光の東照宮の輝きであり、この彫刻は左甚五郎が彫ったと知り、納得。
歓喜院奥殿

 奥殿の彫刻を観賞しながら一周。美しい彫刻の中から三点(写真)を紹介する。

歓喜院彫刻1

歓喜院彫刻2

歓喜院彫刻3

 最初の彫刻が「鷲と猿」で、木登り上手な猿はその上手さにうぬぼれて、手を滑らせて木から落ちて水におぼれる直前、危機一髪のところを鷲に助けられている彫刻。猿はわたしたち人間。鷲は聖天様を象徴している。 次の彫刻は、真ん中が囲碁を楽しんでいるので、聖人たちか人々の日常生活と推定される。 その次の彫刻も同様であるが、雲がたなびいているので、聖人・仏の世界であるように思われる。
 この彫刻は左甚五郎作と言われている。日光・東照宮の有名な眠り猫も左甚五郎作とされているが、歓喜院・奥殿は東照宮より百年後に造られている。従って奥院の彫刻は、初代左甚五郎ではなく、彫刻家・左甚五郎家の四世か五世が彫ったのではないかと推測されている。
  
 奥殿の後ろに境内社が7社もあり左に天満宮、真ん中に五社(諏訪、灌須、井殿、稲荷、神明大明神)神社(写真)、右に三宝大荒神社が並んでいる。境内を守護する神社か、神仏習合時代の名残の神社であるのかも知れない。
 
歓喜院境内社

 この歓喜院は、聖天山と号する高野山真言宗の準別格本山で、本尊は歓喜天御正体錫杖頭(重要文化財)。 妻沼聖天さまと呼ばれる錫杖の中央に祀られたご本尊は、弘法大師が唐より請求されたという、日本最古の聖天像として知られ、特に縁結びの霊験あらたかとされる。
 従って境内には弘法大師を祀る「大師堂」(写真)が建ち、この大祠堂が関東八十八箇所第88番結願所である。関東八十八箇所とは、関東一円に広がる真言宗の寺院を巡礼するもので、第1番発願所は高崎市の慈眼寺で、いわゆる「高崎観音」のある寺院で、最後の結願所が歓喜院大祠堂となる。
歓喜院大師堂

 境内には「平和の塔」という仏塔(写真)が建ち、歓喜院はこれから「埼玉の小日光」という観光地を目指しているようだ。

歓喜院平和塔

狭山丘陵寺社めぐり 109 来迎寺  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 109 来迎寺

 前報、勝光寺を出て、県道55号線を所沢市市内方面に進むと「来迎寺」の入口(写真)に着く。 入口の石柱には「三尊阿弥陀如来 大光山来迎寺」と刻まれ、長い参道の奥に山門が見える。

来迎寺入口

 参道の奥の山門(写真)は門が閉じられている。 山門前の案内板には「来迎寺と板碑  
来迎寺は大光山無量寿院といい、鎌倉時代の初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり『車返しの弥陀』の伝説がある。 昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を、源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなり、やむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停まったので、草堂を建てて三尊を安置したと伝えられている。  板碑 この碑は高さ155センチあり、建長八年(1256)に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹冶泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」の文字が刻まれている。

来迎寺山門

 板碑とは主に供養塔として使われる石碑の一種。武蔵型板碑は秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれる。埼玉県江南町の板碑が嘉禄三年(1227)で最初の板碑とされるから、来迎寺の板碑はそれから29年遅れなので、相当に古い板碑であることが推定される。 梵字とはインドで使用されたサンスクリット語の文字で、インドの仏典は玄奘三蔵などにより中国に伝わり、そこでサンスクリット語が中国の漢字に書き直されて、日本に伝来したとされる。 観無量寿経は大乗仏教の経典の一つで、日本の浄土宗(開祖法然)の根本聖典の一つである。来迎寺が無量寿院と称する背景に、板碑の経典の存在があることが分った。 最後に浄土宗の「来迎」とは、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎えるために、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍に従えてやってくることを言う。来迎寺とは、とても尊いお寺の名前である。

 閉じられた山門の横から境内に入ると「本堂」(写真)に出る。5年前に来た時、本堂は修復工事中であったので、この本堂には初めてお目にかかった。尊い寺名に比べると、やや地味な本堂である。
来迎寺本堂

 来迎寺は文治元年(1185)の創立と伝えられるが、開祖は不詳。 曹洞宗の寺院で、本寺は青梅市二俣尾の海禅寺。 同じ禅宗でも、臨済宗の寺院は大きいのに、狭山丘陵の曹洞宗の寺院は目立たない。その中では来迎寺はまずまずの大きな寺院である。
 境内に「歴代塔」(写真)があり、歴代の住職のお墓と思われる。

来迎寺歴代塔

 境内から墓所に向かう通路に、石仏が並んでいるが、その中でも目立つ二つの石仏(写真)を紹介する。左の美顔の石仏は棒のような物を持ち、これが如意宝珠であるならば虚空蔵菩薩像であるかも知れない。右の石仏は地蔵菩薩のように思われるが、数珠を持っているので違うかも知れない。石仏に関する学習不足を痛感している。

来迎寺石仏

 来迎寺を出て、県道55号線を所沢市内に向って進むと、路傍に「子育地蔵」があった。石碑には「武劦山口之郷堀之内村 子育地蔵尊 寛文十一年(1671)」(写真)と刻まれている。昔は子どもを育て上げるのは容易でなく、村人がこの地蔵像にお祈りしていた心情がよく分る。 祠の中の赤い衣をまとった地蔵像(写真)は、江戸初期からの風雨に曝されてきたのであろう。お顔が磨滅してよく分らなかったが、大切にされていることは理解した。

来迎寺地蔵碑

来迎寺子育て

狭山丘陵寺社めぐり 108 勝光寺  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 108 勝光寺  (所沢市山口)

 県道55号線「山口城跡」交差点を所沢市内に向かうと、狭山観音霊場めぐり第5番札所の「勝光寺」(写真の赤〇 緑〇はこれまでに参拝してきた狭山観音札所)に着く。

勝光寺地図150
 
 入口の大きな石柱(写真)には「当山開基北条時宗公 端幡山勝光禅寺」と記されている。 長い参道の奥に優美な山門と石段が望まれる。

勝光寺入口

 入口の左の大きな石像は「百番四国供養塔」(写真)で、上方に阿弥陀三尊(阿弥陀如来を中心にして、左に観音菩薩、右に勢至菩薩を配す)、中央に弘法大師が彫られ、下段に供養塔と記されている。 「百番供養塔」と云うのは、四国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所、合計百か所の観音霊場を巡礼した時の供養塔のこと。四国三十三所は、長谷寺、三井寺のような近畿地方に点在する観音霊場めぐりであって、関東地方からの巡礼としては、四国八十八所に次ぐ困難な巡礼であった。それに関東地方に点在する坂東三十三所と秩父三十四所の巡礼を加えるのだから、大変貴重な記念碑ということになる。 弘法大師が彫られているのは、観音霊場に真言宗(開祖、弘法大師)の寺院が多いのではないかと思われる。

勝光寺供養塔

 狭山丘陵にかかる長い参道を進むと、狭山丘陵の寺院に多い大きな「増上寺灯籠」の後ろの石段の上に、豪快な山門(写真)が見える。狭山丘陵の寺院の中では、最も見ごたえのある風景である。
勝光寺山門

 石段の前に、左に昭和五十一年造立の六地蔵が並び、右に文政九年(1826)造立の大きな地蔵菩薩像(写真)が立っている。

勝光寺六地蔵

 山門は元禄七年(1694)年建立の楼門造りで、市内で最も美しい建築物であるという。山門の二階には十六羅漢が奉安されている。

 山門をくぐると、左右に「増上寺灯籠」を配した勝光寺の本堂(写真)の前に出る。 この本堂は「京都竜安寺の塔頭の方丈を延宝五年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承がある。江戸時代初期に京都から寺院を移設する大事業をした背景と財力の源泉を知りたいものである。 移築された当時の本藤は寄棟造の茅葺であったが、現在の本藤は昭和三十四年に再建された際に、入母屋造の桟瓦葺となっている。

勝光寺本堂

 本堂前の石碑に「勝光寺由緒 総稱 瑞幡山勝光寺 宗派 臨済宗(禅宗)妙心寺派(京都) 本尊 白衣観世音菩薩  当山は弘安四年(1281)鎌倉建長寺第一世石門和尚が開山せられ、北条時宗公を開基として創建せられました」と記されている。 北条時宗は鎌倉幕府第8代執権で、中国の元軍が日本に来襲した「文永の役」「弘安の役」に対応したことで有名。勝光寺の開基ではあるが、勝光寺と特別なつながりがあったとは思えない。時宗公は勝光寺の創建を許可した人と受け取りたい。 創建当時は臨済宗建長寺派であったが、途中で臨済宗円覚寺派となり、元和八年(1622)より臨済宗妙心寺派となっている。 石庭で知られる竜安寺も臨済宗妙心寺派であるため、その塔頭の方丈を移築したことは理解できる。 宗派がいろいろ替わる原因の一つが、当時臨済宗の僧侶は妻帯を許されていないので、身内に後継者がいないため、後継者となる僧侶の所属していた宗派に替わることがあったと考えられる。
 本尊の白衣観世音菩薩は、「妙善寺(81報)」に次いで2度目のご出現。白衣観世音菩薩は阿弥陀如来の妃で、観音菩薩の母とも言われ、その後観音菩薩の三十三の変化身の一つとなった。高崎市にある丘の上の大きな観音像が、白衣観世音菩薩である。

 境内の鐘楼(写真)は、享保十六年(1731)の建立されたもの。

勝光寺鐘楼

 更に境内にはとても美しい「慈眼視衆生 美園観世音菩薩」(写真)がある。これは当寺の建つ「所沢市美薗」の観世音菩薩の意味で、勝光慈の本尊である白衣観世音菩薩に似せて作られている。
勝光寺美園

 本堂には天文十七年(1548)作の不動明王が安置されている。これは高幡不動の本尊、不動明王と同時に作られたが、後で塗料を塗り直したのが文化財としての価値を下げたと言われが、相当立派な仏像であるらしい。

 本堂の後方には広大な墓地があり、私の好みの如意輪観音の石仏(写真)がある。右手を頬にあて、物思いにふけるようなポーズは、人々を救う方法を考えている姿であるという。

勝光寺石仏



 

狭山丘陵寺社めぐり 107 稲荷神社  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 107 稲荷神社  (所沢市山口)

 前報、中氷川神社から県道55号線を所沢市内に向かうと、小さな「稲荷神社」(写真)が建っている。灯籠の後ろに立つ三つの赤い鳥居は、黒い笠木の両端が反り上がる明神系の鳥居で、小さいけれどとても見栄えがする。

稲荷神社全景

 一の鳥居には「大山口正一位稲荷大明神」の額が掛かっている。 「正一位」とは、人臣の位階の最高位にあたる。後鳥羽天皇が、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社に行幸された際「伏見稲荷大社勧請の神体には『正一位』の神階を書き加えて授くべき」旨が勅許されたという。このため「正一位」は全国の稲荷神社の異称のようになっている。 「明神」とは神様に対する尊称であるが、とくに霊威の強い有力神(例えば稲荷神)に対する畏敬の念を表わす意味合いが強い。その畏敬を最大級に表したのが「大明神」である。 従って「正一位」と「大明神」の名称を許されている稲荷神社は、とても偉大な神社なのである。

 三つの鳥居をくぐると、稲荷神社の小さな社殿(写真)がある。 社殿の内部(写真)に小さな祠があり、祠の中と右にご神体と思われる鏡が安置されている。ご神体には御幣(大口真神の御幣はよく見かける)、鏡、玉、剣、矛などがある。このような美しい鏡のご神体は久しぶりに見ることができた。
稲荷神社社殿

稲荷神社内部

 稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神、別称倉稲魂命と呼ばれる稲荷神である。稲荷は「稲生る」が転訛したという説があるように食物神で、伊勢神宮の外宮に鎮座する女神豊受大神と同一神格とみられる。 これまで稲荷神社は全国に32.000社もあり、神社数では第1位と紹介してきた。ところが最近報告された神社本庁の傘下にある79.335社の中では、稲荷信仰の神社は2.970社で、八幡信仰、伊勢信仰、天神信仰の神社に次いで第4位と分り、甚だ面目を失ってしまった。 稲荷神社は、神社本庁に登録されていない、境内社や屋敷神のような小社が多いのであろうと私なりに納得した。

 この稲荷神社の後方の丘の斜面に、山口城の遺構があるのを思い出した。数年前にブロ友様にご案内頂いたのであるが、民家の裏側にあたるので、明確な遺構を見つけることができなかった。 山口城は、平安時代末期」に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、以来代々山口氏の居城となった。 南北朝時代の応安元年(1368)新田義宗の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側についたが、鎌倉公方足利憲顕に攻められ、山口城は落城。 永徳三年(1383)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、再び兵を挙げ足利氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。その後山口氏は上杉氏家臣である大石氏に従い、山口城の改修を行っている。上杉氏没落後は、小田原の後北条氏に仕えたが、1590年、秀吉の小田原(後北条氏)征伐で敗戦。山口城は廃城となった。
 この200年余の山口城の栄枯盛衰を見ると、狭山丘陵の寺社に兵火が及んだことが予想され、社殿・堂宇をはじめ貴重な資料が焼失したことが推定される。従って関連する資料がなくなったので、延喜式内社の跡目争いも判断できなくなったのであろう。

 稲荷神社を出ると「山口城跡」という交差点に着く。この辺りが山口城の天守閣跡らしい。 「ファッション広場サンキ」という建物と西武線の間に、山口城の土塁(写真)が残っている。 フェンスに囲まれているので近づけないが、フェンス内に灯籠や建物が見える。 土塁の姿はまさに「兵どもが夢の跡」の風情である。

稲荷神社山口城跡

狭山丘陵寺社めぐり 106 二つの中氷川神社 (所沢市三ヶ島、山口)

狭山丘陵寺社めぐり 106 二つの中氷川神社  (所沢市三ヶ島、山口)

 所沢市には三ヶ島と山口地区に、各々中氷川神社が存在する。地図(写真)の青〇が三ヶ島中氷川神社(66報)、赤〇が山口中氷川神社(105報)で、2 kmの距離を挟んで、二つの中氷川神社が存在する。そして二つの中氷川神社がいずれも「大宮市の氷川神社と奥多摩町の氷川神社の中間に建つので中氷川神社と称する」「延長五年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載された延喜式内社である」と主張している。

中氷川神社地図

 延喜式内「入間五座」の一つである「中氷川神社」が、どちらの中氷川神社であったのかが、未だ解明されていないのが問題なのである。
 二つの中氷川神社をいろいろな見地から比較してみる。 先ず、社殿は三ヶ島(これから中氷川神社を省く)の方が、江戸時代の建立のため古風な造りで、拝殿の朱塗りの壁(写真)が古社らしい雰囲気を醸し出している。但し、本殿(写真)は簡素な造りである。

中氷川拝殿

中氷川本殿

 一方、山口(これから中氷川神社を省く)の拝殿(写真)は昭和七年建立と新しいが、貫禄の備わった大社の趣がある。拝殿の後ろの幣殿と本殿(写真)は(出雲)大社造りで、屋根の上の天に向かう千木と三本の鰹木は、参拝者を喜ばせる造形美である。

中氷川拝殿山口

中氷川本殿山口

 社殿に関しては、古社の概念からすると、三ヶ島を延喜式内社として支持したいと思った。 ところが山口の境内に建つ、昭和七年以前の旧本殿(写真)を見た時に、その野性的な姿に圧倒され、延喜式内社として社殿からの優劣はつけられないと判断した。

中氷川旧本殿山口

 延喜年間から現在に至る、およそ1100年間に、社殿は何度も建替えられたと考えられ、現在の社殿から延喜式内社を予測するのは難しいと思う。

 次に、参道と鳥居を比較してみたい。 三ヶ島の参道は、西に向かって100 mくらいまっすぐに延びて、如何にも古社の参道に相応しい。 ところが二つある鳥居(写真)が、いずれも笠木が水平な神明系の鳥居であるのに驚いた。 中氷川神社の総本社である大宮市の氷川神社の三つの鳥居は、いずれも笠木の両端が上に反る明神系の鳥居である。中氷川神社の主祭神である素戔嗚尊を祀る京都市の八坂神社の鳥居も明神系であるので、三ヶ島に明神系鳥居が存在しないのは理解できない。
中氷川鳥居

 一方、山口の参道は、一の鳥居から北に向い、三の鳥居から左折し西に向かっている。神社の参道はまっすぐに延びるのが通常であり、山口の参道は古社に相応しいとは思えない。 しかし総本社である大宮市の氷川神社の参道は、日本一長い(2 km)直線の参道の最後、左に折れた場所に社殿が建っているので、山口の参道を否定するのは問題かも知れない。 山口の一の鳥居(写真)は、笠木の両端が反り上がった明神系であり、氷川神社の鳥居と同じで納得。ところが二の鳥居と三の鳥居は、笠木の水平な神明系鳥居でありがっかり。 延喜年代以前に明神系鳥居を持つ神社創建後に、神明系鳥居の神社を合祀したので、神明系の鳥居を追加したものと想像される。
中氷川一鳥居山口

 両神社の参道では、三ヶ島が私の好みに合うけれど、鳥居では三ヶ島の神明系鳥居には納得できず、両社の延喜式内社問題は優劣なしと判断した。

 最後に、神社境内の雰囲気を比較したい。 三ヶ島は茶畑の中の森林に囲まれた「暗い」雰囲気というか、神々しい古社の雰囲気を持っている。境内のケヤキのご神木(写真)は枯れてしまっているが、延喜時代から1000年余の樹齢を持っていたかのようである。

中氷川名木

 一方、山口は狭山丘陵の斜面に建ち、広い境内(写真)は陽光を浴びて「明るい」。古社という雰囲気を捨て、「車祓い所」などを設け、現代の大社を目指しているように思われる。

中氷川三鳥居山口

 神社全体の雰囲気からは、延喜式内社として三ヶ島を支持したいように思う。

 この両社の延喜式内社問題は、郷土歴史家の間でも未解決となっている。 ブロ友氏が「最近では、『三ヶ島から山口に発展的に遷った』説が出ています。これからの研究課題です」と述べられているのは、興味深い。 確かに、三ヶ島には「古くて小さい」雰囲気があり、山口には「新しくて大きい」雰囲気がある。 いずれも立派な延喜式内社であることを結論として、延喜式内社問題を終える。 

狭山丘陵寺社めぐり 105 中氷川神社  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 105 中氷川神社  (所沢市山口)

 前報「正智庵」を出て、県道55号線を東に進むと、椿峰丘陵を背後にして中氷川神社の「一の鳥居」(写真)が立っている。笠木の両端が反り上がった明神系の鳥居には、見事な注連縄がつけられている。
中氷川一鳥居

 参道の先の石段を上ると、笠木が直線的な神明系の「二の鳥居」(写真)が、南向きに立っている。これは一の鳥居で表される明神系鳥居の神社(八坂神社、稲荷神社など)に、神明系鳥居の神社(神明社など)が合祀されていることが推定される。

中氷川二鳥居

 広い境内に入ると参道は左折し、東向きの神明系の「三の鳥居」(写真)が立っている。立派な注連縄をつけた三の鳥居から、境内の奥の石段の上に、中氷川神社の社殿が見える。

中氷川三鳥居

 石段を上って、昭和七年に建立された「拝殿」(写真)の前に出る。 拝殿の後ろには、屋根に天に向かう鋭い千木と三柱の鰹木をもつ「本殿」(写真)が見える。屋根の形と高い本殿に向かって傾く幣殿は、まさに出雲大社の本殿に似ており、大社造りであると云う。 三本の鰹木は、祭神が男の神様であることを物語っている。

中氷川拝殿

中氷川本殿

 中氷川神社の祭神は、素戔嗚尊、稲田姫命、大己貴命と七社大神である。素戔嗚尊と稲田姫命は夫婦神で、その子供である大己貴命は大国主命の別名であり、いずれも出雲国の神様である。しかも大己貴命は出雲大社の祭神である。 大宮市にある氷川神社と奥多摩町にある氷川神社の中間の位置に存在するので「中氷川神社」と呼ばれる。 中氷川神社は旧入間郡と多摩郡92村の総鎮守で旧県社である。 祭神の七社大神は旧勝楽寺村の七社神社の祭神であったが、山口貯水池建設により水没するので、昭和4年、中氷川神社に合祀された。
 中氷川神社は崇神天皇御代(250頃)の創建と伝えられる。平安時代末期に山口家継が社殿造営し、その後兵火により焼失したが、天正年間(1573~93)に山口高忠が山口城とともに再興した。 延長五年(927)に編集された延喜式内社「入間五座」の一つでもある古社である。

 これから中氷川神社のいくつかある境内社を紹介する。 左手にあるのが「和魂(にぎたま)宮」(写真)で、中氷川神社では最大規模の境内社。戦没者を慰霊する「護国神社」の相当する社である。 社内の供物に「大口真神」の護符が貼られていたことから、武蔵御嶽神社信仰との関連も考えられる。
中氷川和魂宮

 和魂宮の右に「石上社」と「稲荷社」の祠(写真)がある。 「石上社」は、伊勢神宮と共に日本最古設立の神宮である、奈良県天理市の「石上(いそのかみ)神宮」のことと思われる。 石上神宮の祭神は、ご神体である布都御魂剣に宿る布都御魂大神で、古代の軍事を掌った物部氏が崇神七年(250頃)に創建したと伝えられ、奇しくも中氷川神社創建伝承と同じ時代である。 物部氏(物部天神社)については、「96報 北野天神社」に記載しており、この狭山丘陵に物部氏の末裔の存在が推測される。 
 石上社の右隣の「稲荷社」は、中氷川神社の境内の守護の役が考えられる。

中氷川石上神社

 社殿の右には、4社(八坂神社、秋津神社、市杵島姫神社、諏訪神社)同居の祠(写真)がある。明治四十年に近くの氷川社三社、市杵島社、八坂社、日枝社、浅間社を合祀した記録があるので、秋津社、諏訪社もその後合祀された神社と思われる。 美人の誉れ高い市杵島姫は、この神社めぐりでは厳島神社、弁財天社の祭神として紹介していたが、ズバリ市杵島姫神社として取り上げるのは初めて。神様にしても美人であることは、人気の源であるように思われる。

中氷川境内社

 社殿への石段の中程を右に進むと、見上げるように高く黒ずんだ「金比羅神社」(写真)があった。 近寄ると、小さな「金比羅神社」の祠(写真)があり、祠を覆っている黒ずんだ建物は、昭和七年の本殿再建前の「中氷川神社旧本殿」と分る。 現在の本殿が洗練された大社造りであるのに比べ、旧本殿は荒々しいほどの野性味を遺した、とても魅力的な建物であった。

中氷川旧本殿

中氷川金比羅神社

 これで中氷川神社の参拝を終えた。 ところで、所沢市内に「中氷川神社」が二つもあり、いずれも「延喜式内神社は我が社である」と主張している。この延喜式内神社問題については、次報で取り上げてることにする。
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