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狭山丘陵寺社めぐり 103 密蔵院  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 103 密蔵院

 前報の「翁樹神社」の近くで、狭山丘陵にかかる所、即ち「西武園ゴルフ場」の北麓に「密蔵院」が建っている。 入口(写真)の左に「増上寺の灯籠」が見え、入口の右(写真)にも「増上寺の灯籠」と穏やかな表情の地蔵像が立っている。 付近の田園風景と共に、とても雰囲気のよい寺院である。
密蔵院入口

密蔵院入口2 

 本堂(写真)は、枝垂桜の大木に一部が隠れてしまうのが惜しい。しかしお花見には絶好なお寺であろう。
密蔵院本堂

 密蔵院は真言宗豊山派の寺院で、総本山は奈良の長谷寺。ご本尊は薬師如来である。創建などの由緒は不明であるが、江戸時代以前の古寺であるように思われる。

 境内で先ず注目したのが「菩提樹村と翁樹神社の由来」を刻んだ石碑。この石碑のおかげで、弘法大師空海お手植えの菩提樹について学び、菩提樹村があったことを前報「翁樹神社」(102報)で紹介できた。 真言宗の開祖である空海は、ご本尊と同じくらいに、密蔵院では大切な方なのである。
 本堂の左に建つのが「聖天堂」(写真)。「歓喜天」の額が掛かっていて、通りがかりの女性に堂の名前を尋ねると、その女性が寺から少し離れた家に行き、その家で教えられたのが「聖天堂」。堂の由来や祀られた仏様までは掘り下げて聴く勇気がなかった。密蔵院には三尊阿弥陀如来を本尊とする「阿弥陀堂」があるという情報もあったが確認できなかった。

密蔵院聖天堂

 「聖天堂」の奥に小さな「大日堂」(写真)が建っている。堂内には、真言宗の寺院によくある空海と大日如来と思われる二像が並んで祀られている。

密蔵院大日堂

 本堂の裏の丘陵に広がる墓地の入口に、「六地蔵」(写真)が並んでいるが、赤い帽子と服装がとても微笑ましい。
密蔵院六地蔵

 墓地には古寺の証左である古い石仏(写真)が多い他に、五輪塔と思われる二基の墓(写真)もあり、最近墓所めぐりの趣味を持った私を楽しませてくれた。但し、お墓を紹介するのは、プライバシーの点で問題がありそうにも思えてきた。

密蔵院石仏

密蔵院五輪塔

 「密蔵院」を去りながら、密蔵院とは何か秘密めいた興味深い寺名であることに気付いた。 密とは、空海が遣唐使として唐に渡り、その地で学び日本に持ち込んだ「密教」に関わるものなのか。密教の経典を「蔵している」と結びつけるのは考え過ぎだろうか。
 次いで、狭山丘陵に真言宗の寺院が多すぎるように思われる。ものの本によると、日本の寺院数では、浄土真宗の寺院が21.000ともっとも多く、次いで曹洞宗の寺院が15.000あり、第3位が真言宗の寺院13.000と書かれている。 私が狭山丘陵の50寺院くらいを訪れた記憶では、真言宗の寺院が圧倒的に多く、次いで曹洞宗の寺院であって、浄土真宗の寺院は少なかった。 狭山丘陵に真言宗の寺院が多く、浄土真宗の寺院が少ない理由を解明したくなった。真言宗の宗祖・弘法大師空海が、この地を訪れて布教したと伝わることに関連するのだろうか? 一方、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、越後流罪の後、関東の常陸の国で何年も布教しているのに、何故寺院が少ないのだろうか? 自ら歩いて出遭った疑問は、自ら解決しなくてはいけないと決めた。
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狭山丘陵寺社めぐり 102 翁樹神社  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 102 翁樹神社

 前報「海蔵寺」から柳瀬川沿いに上流に上って行くと「翁樹神社」(写真、赤〇)がある。

地図翁樹神社141

 部落の中の目立たない場所に建つ「翁樹神社」は全景(写真)が見渡せる小社である。

翁樹神社全景

 小さな社殿(写真)が建ち、社殿の内部(写真)には小さな祠が安置されている。キツネの置物があるので「稲荷神社」ではないかと思われる。

翁樹神社社殿

翁樹神社内部

 翁樹神社の創建、祭神などは不明であるが、昔は境内に「稲荷神社」と「山王社」があったと伝えられている。社殿内のキツネの置物は、矢張り稲荷神社の存在を主張しているようだ。
 境内の一角に「名木 菩提樹」の碑(写真)が立っており、傍の大木は菩提樹なのであろう。釈迦がインドのブッダガヤーの菩提樹の木の下で「悟りを啓いた」とされ、菩提樹は仏教では大切な木。 
翁樹神社菩提樹

 神社の近くに「菩提樹集会所」があるので、この地区は菩提樹と呼ぶらしい。通りがかりの老婦人に「菩提樹はこの地区の名前ですか?」と尋ねると「知らない」というつれない返事。
 ところが次に訪ねた「密蔵院」の境内に石碑があり「菩提樹村の由来 伝説によりますと、弘法大師空海が東国を修行して歩かれた折りに、当地において三尊阿弥陀如来を刻まれ、そのしるしに現在翁樹神社と呼ばれている所に菩提樹の木を植えられたことによって、当地を菩提樹村と呼び、当寺を菩提山密蔵院佛国寺と名付けたと伝えられております。 約千二百年前の平安時代初期に弘法大師によって植えられた菩提樹の末葉は、現在も翁樹神社の地にそびえ立ち、悠久の時の流れを見つめております」と記されている。
 翁樹神社にあるべき案内板を、密蔵院で発見したのは有難かった。これで菩提樹のナゾが解けた。弘法大師の東国修行は金乗院(86報)でも耳にしており、金乗院から1 km離れたこの地でも耳にすることができた。弘法大師修行と菩提樹が、なにやら真実味を帯びてきた。 前報の大塔宮の皇子登場と云い、狭山丘陵寺社めぐりには思いがけない歴史上の大物が登場するのが面白い。
 因みに、スリランカに「スリー・マハー菩提樹」という有名な寺院がある。境内の菩提樹の大木は、インドのブッダガヤーの菩提樹を分け木したもので、2000年の歴史を持つという。仏教または釈迦と菩提樹の係わりが深い一例である。

狭山丘陵寺社めぐり 101 海蔵寺  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 101 海蔵寺

 前報の「峰薬師」から西武山口線に向って急坂を下りて行く。県道55号線「所沢武蔵村山立川線」の交差点名が「山口城跡」で、この辺りから椿峰丘陵にかけて、中世の「山口城」が建っていた。山口城跡の紹介はいずれ行うことにして、今回は省く。 西武山口線を渡り、柳瀬川を渡ったところに建つのが「海蔵寺」(写真、赤〇)。

地図海蔵寺140

 入口の石柱(写真)の右下に、感じの良い石仏が安置されているのが微笑ましい。

海蔵寺入口

 参道を歩くと、埼玉県の寺院に多い「増上寺の灯籠」(写真)が立っている。この立派な灯籠の所有者であった西武鉄道は、運賃こそ出さなかったが、灯籠を無料で埼玉県の各寺院に引き取らせたというのは本当の話なのか?

海蔵寺灯籠

 参道の奥に海蔵寺の大きな本堂(写真)が建っている。 本堂内部(写真)の仏壇はとても美しい。
海蔵寺本殿

海蔵寺内部

 インターネットに記載された海蔵寺二十六世の「海蔵寺縁起」によると「川嶋山釈迦院海蔵寺は、文明元年(1469)山口城祉の南、柳瀬川の南岸に創建された真言宗豊山派の寺院である。開山は尊榮上人といい、開基は山口城主山口平内左衛門尉高治公の孫、岩岡民部少輔道岩入道一乗である。 山口城主・山口平内左衛門尉は、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王の皇子として鎌倉に生れ、高冶親王と称す。父護良親王が鎌倉東光寺に幽閉され、無残な最期を遂げると、高冶親王は武州山口へと落ちのびた。 山口城に入った高冶親王は、名を山口平内左衛門尉と改めて挙兵。足利軍と交戦するも、居城は陥落。城外に逃れた後、岩崎の瑞岩寺にて切腹した。 高冶親王の長男廣高は、多摩郡豊田郷に逃れて潜伏。乱が平定された後、山口に帰還し定住した。 廣高の子道岩入道一乗は、文明元年、亡き大塔宮護良親王と、祖父高冶親王、および戦死した南朝方の菩提を弔うため海蔵寺を創建し、寺号を鎌倉の海蔵寺より賜った」と記されている。
 すごく興味深い「海蔵寺縁起」である。大塔宮護良親王の皇子が、山口城に入り山口姓を名乗って戦っていることや、護良親王の尊孫が海蔵寺を創建したというのは本当だろうか? また宗派の違う鎌倉海蔵寺(臨済宗建長寺派)が、海蔵寺という寺名を何故この寺(真言宗豊山派)に与えたのだろうか? フリー百科事典「ウィキペディア」の「山口城(武蔵国)」には「南朝の力を得た高清の子・山口高冶は、兵を挙げ足利軍と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた」と記され、山口高冶は南朝の力を得た山口高清の子であって、大塔宮護良親王については何も記されていない。 浅学の私には、どちらが真実なのかよく分らない。
 なお、本海蔵寺の本尊は釈迦牟尼如来で、脇士として右に阿難尊者、左に摩訶迦葉尊者が配されている。本尊のお釈迦様に、釈迦の十大弟子の二人を配したもの。阿難尊者はアーナンダと呼ぶ、釈迦の愛弟子であった。

 境内には、小川の流れる石庭(写真)があり、参拝者の目を楽しませてくれる。

海蔵寺庭園

 更に、歴代住職の墓所(写真)があり、26代も続いた古寺であることを物語っている。

海蔵寺住職墓

 墓地の入口にある六地蔵は、通常は行儀よく並んでいるのに、海蔵寺ではバラバラに配置(写真)されているのが面白い。

海蔵寺六地蔵

 墓地には古寺らしく、古い石仏が多いのが嬉しい。いつものように如意輪観音の石仏(写真)を紹介しておく。
海蔵寺石仏

 海蔵寺の隣に、稲荷神社(写真)が建っている。これは海蔵寺を守護する神社ではないかと、私の独断で推定した。
海蔵寺稲荷拝殿

 海蔵寺はどこにでもある大寺・古寺と思っていたが、山口城との係わりや南朝・大塔宮との係わりを知り、真実であればとても畏れ多い寺院であることが分った。 何気なく訪れた寺社に、聖徳太子や行基の作品があったりするのが、この寺社めぐりの楽しみである

狭山丘陵寺社めぐり 100 峰薬師  (所沢市山口)

狭山丘陵寺社めぐり 100 峰薬師

 ブログを教わり、昨年1月24日に「狭山丘陵寺社めぐり 1 雲性寺」を発信して以来1年半、ついにこのシリーズで100報の大台に到達した。最初にテーマを設定した時「狭山丘陵に寺社は50くらいだろう」と楽観していたのが間違いだった。これから所沢市、東村山市、そして地元の東大和市の寺社を訪ねるとすると、更に50社以上を訪れなければならない。寺社めぐりの締めくくりとなるであろう、地元の「狭山神社」のブログ発信が何時になるのか。その達成を楽しみに、寺社めぐりを続けていきたいものである。
 前報の「諏訪神社」から、椿峰丘陵の頂上に向かって上って行く。この急峻な丘陵の上に、大マンション群があるのには何時も驚かされる。このマンションの住人は車での移動を前提にしているかのようで、私のように自転車を押して歩くには息切れすること甚だしい。 その椿峰丘陵の頂上(写真、赤〇)に、真言宗「峰薬師」(写真)の小堂が建っている。

峰薬師地図139

峰薬師本堂

 堂内には本尊の薬師如来座像(写真)が安置されている。

峰薬師内部

 5年前に案内して頂いたブロ友様の資料には「峰薬師は、三光院(東大和市)にあった古鐘を所蔵していたことがあり、東大和市域の村人達とも関係の深かった薬師です。狭山之栞は『椿峰にあり。本尊薬師如来は石仏の座像にて長一尺許り、ならびに十王十二神を安置す。この薬師は東方薬師瑠璃光如来にして、昔堂建替の時、甕等古物種々掘出したる事ありと云ひ伝ふ』と記し、さらに三光院の記録で「安永九年(1780)九月、古鐘は峯薬師へ売渡し」とあります。その鐘は永禄三年(1560)三月につくったものを、正徳二年(1712)に鋳替したもので、現存すれば戦国時代の貴重な証言をするものであろうと残念です」と記されている。
 小堂内の古い石仏が、そんなに有難い薬師如来像とはとても信じられない程である。  三光院は多摩湖の湖底にあった真言宗豊山派の寺院。大正十二年に村山貯水池造成に伴い、東大和市清水に移転した寺院であり、これから訪れる予定の寺院である。多摩湖からこの椿峰までは距離にして1.5 kmくらい。鐘の売買があってもおかしくない距離である。 十王十二神の内、十王は六道の入り口で亡くなった人間の行為をチェックし、次の生まれ変わり先を決める裁判官。十二神は、薬師十二神将とも呼ばれる薬師如来の配下で、薬師如来の12の大願を成就するために活躍する神様。今はお目にかかれないのが残念である。

 この墓地にも古い石仏が沢山見られる。石仏に造詣の深い人には興味深い墓地であろう。石仏の中から私の選んだ五像(写真)と三像(写真)を紹介する。石仏を識別できると、この寺社めぐりは更に有意義になるのであるが、私には三像の右が如意輪観音菩薩像と分るのが精一杯。貴重な宝物を目前にして「猫の小判」では如何なものかと、石仏に出会う度に反省させられるのである。
峰薬師石仏1

峰薬師石仏2

狭山丘陵寺社めぐり 99 諏訪神社  (所沢市小手指南)

狭山丘陵寺社めぐり 99 諏訪神社

 椿峰丘陵の北麓を所沢市街に向けて歩くと、西武狭山線「下山口駅」に向かう「さくら通」に突き当たる。このさくら通りを椿峰に向って上っていくと、住宅地の中に「諏訪神社」が建っている。この位置は椿峰丘陵の東端に当り、所沢市街を望める場所。 狭い境内の入口に「諏訪神社」の石柱と並んで、明神系の「鳥居」(写真)が立っている。

諏訪神社鳥居

 境内の奥に「拝殿」(写真)が建ち、拝殿の内部の奥に小さな祠(写真)が安置されている。祠は諏訪湖の畔に建つ「諏訪大社」に係わるものと思われる。

諏訪神社拝殿

諏訪神社内部

 拝殿と本殿(写真)は一体化した、神社らしくない建物である。

諏訪神社本殿

 諏訪神社の祭神は大国主命の子どもである建御名方神。天照大神の要求する「国譲り」に、大国主命は従ったけど、建御名方神は拒否したため、鹿島神宮の祭神である武神・武御雷之男神に追われて出雲から諏訪湖まで逃げる。建御名方神は殺されそうになったが「この地に留まって外に出ない」ことを条件にして命拾いし、諏訪大社の神となったとされる。 古代から出雲国と越国(富山、新潟)は日本海沿いに交流が盛んであり、出雲から糸魚川を経て諏訪湖に至る交通ルートは、既に古代から存在したと思われている。
 建御名方神は狩猟・農耕神であり五穀豊穣の神である。また軍神としても有名で、武田信玄は合戦にあたり諏訪大社に願文を奉納し、必勝を祈願したとされる。 椿峰丘陵を越えると、中世の村山党の根拠地だった山口城があり、この諏訪神社と村山党の係わりがあったことも考えられる。

 境内には小社が二つ(写真)並んでいる。 左が稲荷神社で、境内社では代表的な神社。 右は祠の中に「大口真神」の御符が貼られている。 大口真神とはオオカミのことで、武蔵御嶽神社の境内社「大口真神社」ではないかと思われる。なお秩父三峯神社にも大口真神が祀られているが、この御符は近くの武蔵御嶽神社のものと思われる。

諏訪神社境内社

狭山丘陵寺社めぐり 98 無量寺  (所沢市小手指南)

狭山丘陵寺社めぐり 98 無量寺

 前報の北野天神社の南、椿峰丘陵の北麓の住宅地の中に「無量寺」(写真)が建っている。寺名を示す標識も山門もないので、見逃してしまいそうなお寺。

無量寺本堂

 新編武蔵風土記稿には「創建年代不詳ながら、臨済宗妙心寺派 堀之内勝光寺の末 本尊阿彌を安ず」と記されている。 本尊は阿弥陀如来のことと思われる。 勝光寺は椿峰丘陵の反対側に建つ古刹で、これから訪ねる予定である。 「無量」という言葉は「どれだけ深いか、ちょっとやそっとでは言い尽くせないこと」を意味し「感慨無量」の熟語で知られる。仏の慈悲の深さを表現したようなとても有難そうな寺名である。

 本堂の後方に広がる墓所の入口に「六地蔵」(写真)が並んでいる。石像の磨滅状況から、この墓所が古い歴史を持っていることが伺われる。

無量寺六地蔵

 墓所の中に大きな石像(写真)があるが「法〇塔」と刻まれた〇の文字が読み取れない。臨済宗の開祖・栄西に係わる石像かと考えてみたが、結局解明の手がかりはなかった。

無量寺大像

 墓所の中に、墓石に混じった古い石仏(写真)が多いのに気づいた。 その中でも私の好みの如意輪観音と思われる石仏(写真)を紹介して終わる。

無量寺墓所

無量寺如意輪

 無量寺から所沢市の方に向っていると、道路脇に祠(写真)が建っている。「澤田家先祖の墓碑」の案内板がある。新興住宅地の真ん中に、澤田家の子孫が先祖の墓を大切に守っていることに、何か安堵させられるものがあった。

無量寺澤田家


狭山丘陵寺社めぐり 97 北野天神社(2)  (所沢市小手指元町)

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狭山丘陵寺社めぐり 96 北野天神社  (所沢市小手指元町)

狭山丘陵寺社めぐり 96 北野天神社

 狭山丘陵寺社めぐりのハイライトの一つ「北野天神社」(写真の赤〇、緑〇は参拝してきた狭山霊場めぐりの札所)を紹介する。

北野天神社地図138

国道179号所沢青梅線と西武球場前を通る北野天神通の交差する「北野天神前」交差点近くに「北野天神社」の入口(写真)がある。 入口の案内板には「北野天神社略記 御祭神 櫛玉にぎ速日命(延喜式内物部天神社) 八千矛命(延喜式内国渭地祇神社) 菅原道真公(天満天神社) 總稱北野天神社」と記されている。 参道の両側には沢山の灯籠が配されている。

北野天神入口

参道を上って行くと、両端が反り上がった明神系の一の鳥居(写真)が立っている。

北野天神一鳥居

更に上ると「北野天満宮」の額の掛かる、明神系の二の鳥居(写真)が立っている。菅原道真を祀る神社は通常「天神様」と呼ばれ、天満宮、天神社、天満天神社、北野神社などがあり、この北野天神社も北野天満宮と呼ばれていたようである。 二の鳥居の後方で参道は右に曲がるが、すぐに左に曲がるため、鳥居も社殿も南向きに建っている。 参道を斜めに造らないで、屈折させているのは、社殿に向かう参道を南向きに造りたいとの意図を感じるのである。

北野天神二鳥居

広い境内の真ん中に、北野天神社の「拝殿」(写真)が建っている。華美に流れない質実剛健を思わせる造りである。

北野天神拝殿

拝殿の後方の「本殿」(写真)の屋根は、伊勢信仰の神明社を思わせるきらびやかさがあり、鋭く尖った千木や5本並ぶ鰹木は見ごたえがある。

北野天神本殿

社伝によると「景行天皇の御代(71~130)、日本武尊が東征の折、この地にニギハヤ・ヤチホコの二神を祀り、物部天神・国渭地祇神として尊称した古来武蔵野の延喜式内社入間郡五座の一つに数えられている由緒ある神社です。その後長徳元年(995)菅原修成(道真の五世の孫)が武蔵守となり、この地に京都の北野天満宮を勧請し祀ったことから、北野天神と称されるようになりました。武家の信仰が厚く、源義家・頼朝、足利尊氏、前田利家等により、しばしば社殿が造営されたそうです」と言われる。
5年前に北野天神社をご案内して頂いたブロ友様の資料には「この神社の由緒は古く、延喜式入間郡五座の『物部天神社』にあたります。景行天皇四十年に、櫛玉にぎ速日命、八千矛神の二神を奏斎して創建されたとします。古事記に載る創建伝承です。 その後、欽明天皇十二年に、神託により小手指明神を合祀し、長徳元年には、京都北野神社より菅原道真の神霊を勧請したとされます。 正平七年(1352)、足利尊氏対新田義興・義宗兄弟の小手指原合戦の際には、後醍醐天皇の第三皇子・征夷大将軍・宗良親王を奉じて、新田兄弟が小手指原に陣していますので、宗良親王の御陣所(写真)となったことが考えられます」と記されている。

北野天神相良

櫛玉にぎ速日命は天つ神の御子で、神武天皇東征の時に天皇を助けた神様。大和政権の軍事・祭祀を掌握した物部氏の祖であるとされる。 八千矛神は大国主命の別名で、武神の時に使われる名前。 この二神を祭神とする「物部天神社」が、大和から遠く離れたこの地にあることについて、ブロ友様は「入間郡を支配した物部氏とのゆかりも考えられます。物部氏の支族が奈良時代の初めに、この地方に派遣されて来住したとするものです」と述べられている。 「物部」の名を冠する神社は、他に島根県太田市(石見銀山の近く)に「物部神社」があるだけで、「物部天神社」の存在は全国的に珍しい。
更に延喜式内社であった物部天神社と国渭地祇神社が、北野天神社に合祀された経緯を知りたいものである。 拝殿の前に「大納言梅」(写真)があり、案内板には「前田利家献栽 菅原道真の子孫だと云う前田利家は小田原攻めの折、当神社に立ち寄ったが、当社は幾度かの戦乱の兵火により灰燼と化していたので、社殿を再興。一本の梅を此処に献栽して武運長久を祈願した」と記されている。
北野天神梅

この文章から、戦国時代に北野天神社自体が戦火で灰燼となっていたのだから、それより更に古い時代に、物部天神社や国渭地祇神社が灰燼と化していても不思議ではないように思われる。 そのように考えると、入間郡の延喜式内社である出雲伊波比神社や中氷川神社が現在も存在するのが奇蹟とも思われる。但し、出雲・中氷川両社共になくなるどころか、各々が二社に増えて本家争いをしているのが不思議な因縁である。

社殿から西に向かう参道(写真)があり、北野天神通に面する入口には鳥居も造られている。神社の西に住む人々の参拝を容易にするために造られた参道と思われる。

北野天神西参道

長文となったので、境内は次報で紹介する。
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