FC2ブログ

狭山丘陵寺社めぐり 95 全徳寺  (所沢市北野南)

狭山丘陵寺社めぐり 95 全徳寺

 前報の「藤森稲荷神社」から狭山丘陵を北に下りた所に建つのが「全徳寺」。 丘陵内の部落の中に、南向きの大きな山門(写真)が建っている。山門は切妻造りの四脚門で、山号の梅林山と書かれた扁額が掛かる立派な門。 参道に植えられた蝋梅が美しいことから、梅林山の山号となったようである。
全徳寺山門

 参道の奥に大きな本殿(写真)が建ち、埼玉県の寺院に多い「増上寺の灯籠」も立っている。 本殿の内部(写真)も非常に豪華であり、全徳寺が大寺であることがよく分る。

全徳寺本堂

全徳寺本堂内部

 山門前の案内版には「全徳寺の正式名称は梅林山 北野院 全徳寺である。本尊は釈迦牟尼如来で、文殊菩薩と普賢菩薩を配した釈迦三尊である。 曹洞宗の寺院で大本山は福井県永平寺(御開山高祖道元禅師)横浜市総持寺(御開山太祖瑩山禅師)。 伝統:お釈迦様よりの正統な仏法は達磨大師によって中国に伝えられ、曹洞の禅風として開花し、鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師によって広く全土に実践教化され今日に至る」と記されている。
 インターネットでは「山門・本堂は平成元年に完成したものであるが、寺伝によれば、永禄年間(1560頃)に、開山の願山明鑑和尚が、地区内にあった無住の数寺を統合したものと言われている」となっている。

 境内には灯籠や五輪塔の向うに「観音堂」(写真)が見え、これが「武蔵野三十三観音霊場」の第12番札所であり、堂内には「普悲観音」(写真)が安置されている。 普悲観音とは、観音菩薩が三十三の姿に変化した一つで、平等普遍の大慈悲心を強調した名称である。 この普悲観音像は新しく造像されたもので、元々の本像は本堂内に安置されているというから、本堂の仏壇の奥にあった小さな仏像が普悲観音かも知れない。すると12番札所は観音堂ではなく、全徳寺ということになる。
全徳寺境内

全徳寺観音堂内

 墓所近くに「太子堂」(写真)が建ち、聖徳太子を祀ったものと思われる。 狭山丘陵北麓に建つ「太子堂(56報)」に参拝したのが思い出される。

全徳寺太子堂

 丘陵の尾根上に建てられた本堂から小手指方面を眺める(写真)と、新田義貞の鎌倉攻め(1333)で有名な小手指古戦場が望まれる。新田義貞軍が鎌倉幕府軍に、最初に勝利した古戦場である。 「小手指」という名称には、如何にも古戦場らしい雰囲気が漂っているように感じる。

全徳寺墓所2

 山門を出たところに、大きなお地蔵さま(写真)が立っている。どのようなお地蔵さまか分らないが、部落の人々にとても大切にされているようである。

全徳寺地蔵像
スポンサーサイト



狭山丘陵寺社めぐり 94 藤森稲荷神社  (所沢市北野南)

続きを読む

狭山丘陵寺社めぐり 93 堀口天満天神社  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 93 堀口天満天神社

 前報「清照寺」横の茶畑の中の道路を、狭山丘陵に向って上ると、茶畑の向うの雑木林の中に「堀口天満天神社」(写真)が見える。狭山丘陵の中の美しい風景の一つである。

堀口天満遠景

 丘陵にかかる石段の下には、神明系の一の鳥居が立ち、石段の上には明神系の二の鳥居(写真)が立っている。神明系鳥居の神社に、明神系鳥居の神社が合祀されていることが推定される。
堀口天満鳥居

 広い境内の奥に、雑木林に囲まれた、重厚な拝殿(写真)が建っている。 数年前に参拝した時は、人の気配のない薄暗い境内が心細かったが、今回はバイクで乗りつけてきた参拝客がいたので一安心。この歳になっても寂しい場所を怖がる癖は治らないのである。 社殿を横から見ると、拝殿に続く幣殿と本殿は一体化した建物(写真)であることが分る。

堀口天満拝殿

堀口天満本殿

 堀口天満天神社は、前報の清照寺に墓のあった地頭久松氏が、天正年間(1573~93)に耕地を寄付して創建し、堀口村の鎮守としたという。天満天神社は、北野天満宮を総本社とする天満宮のことで、祭神は菅原道真の他に、天穂日命と花園姫。 菅原道真は学問の神で、天神様とも呼ばれ、天神信仰の神社は全国に3953もあり、八幡信仰、伊勢信仰に次ぎ全国で第三番目に多い神社の祭神である。 天穂日命は、入間市の「出雲祝神社」(58報)の祭神で、古事記の国譲り神話によると、高天原の最高司令神・天照大神が、大国主命の支配する出雲国を自分に譲るようにと地上に派遣したのが、自分の子どもである天穂日命。ところが地上に降った天穂日命は大国主神に心服してしまい、地上に住みついて出雲国の有力豪族・出雲氏の祖神となってしまう。 花園姫は、天穂日命の妻となった神様ではないかと推定した。
 堀口天満天神社は、旧堀口村の天神山に鎮座していたが、狭山湖の造成により湖底に沈むことになったため、昭和九年に前報の清照寺と共に、この地に遷座したもの。
 境内社が二社あり、いずれも清照寺境内に建っていたが、明治元年の廃仏稀釈令の時に、天満天神社に合祀されたもの。 境内社の一つが「八坂神社」(写真)。祭神は素戔嗚尊で、これも出雲の神様。
堀口天満八坂

 もう一つの境内社は「火消稲荷神社」(写真)。案内板には「この神社はこの地に移転後、不心得者の仕業で放火により一部を焼失しました。今回分解したところ不思議なことに御神体の所で延焼を免れ、大事に至らずに済みました。これを機会にこの霊験あらたかな稲荷神社を、火消稲荷神社と称し後世に遺して行くことにしました」と記されている。
 この程度のエピソードで神社名が決まるのか、と一旦は首をかしげてみたが、発見した氏子の人々には大変なご神託と受け取られたと理解することにした。

堀口天満稲荷

 天満天神社即ち天満宮の鳥居は通常、上に反った明神系。境内社の八坂神社も稲荷神社も、鳥居は普通明神系。明神系の二の鳥居については納得した。すると神明系の反りのない一の鳥居に相応しい神社(例えば神明社)が、境内に存在しないのが不思議。 鳥居について少し勉強したつもりなのだが、疑問を残したまま神社を去る

狭山丘陵寺社めぐり 92 清照寺  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 92 清照寺

 狭山湖の堤防の近くに建つのが「清照寺」。 坂道を上ると「真言宗豊山派」と「星見山清照寺」の石柱の立つ「入口」(写真)に着く。

清照寺入口
 
境内の奥に「本堂」(写真)が建っている。

清照寺本堂

 清照寺は星見山と号する、狭山丘陵に多い真言宗豊山派の寺院。本尊は大日如来像。奥多摩新四国霊場八十八か所42番札所である。 本堂の背後に、狭山丘陵にかかる広大な墓地を持っている。

 墓所の中に「旗本久松氏の墓」(写真)がある。案内板には「左の墓が久松定佳。右が定佳の二男定弘の墓である。久松氏が武蔵国入間郡山口に二百石の知行を与えられたのは天正十九年(1591)定佳の父忠次の時です。定佳は徳川家康に仕え五百石を知行します。 寺伝によると、清照寺は武蔵七党の一つ星見小太郎が室町期に建てた持仏堂(星見堂)に始まり、後に久松忠次が東谷にあった安楽寺を勧請して菩提寺としました。 古くは旧山口村堀口の地にありましたが、山口貯水池の建設に伴い昭和五年に現行地に移転しています」と記されている。

清照寺旗本墓

 山号の「星見山」が武蔵七党の星見氏に由来することが分り納得。 旗本・久松氏は江戸に住み、幕府の要職についていたようなので、狭山の知行地は年貢の上がる地であり菩提寺のある地ということになる。

 境内の祠には、二つの石像(写真)が安置されている。真言宗の寺院特有の石像は、左が真言宗の開祖・弘法大師、右が真言宗の本尊・大日如来と思っているが確証はない。

清照寺石像2

 墓所の入口に「水子地蔵尊像」が立ち、周辺に小さな水子の地蔵像が並んでいる。幼児または出生前に亡くなった胎児を祀ったものである。 右の「戦没諸精霊塔」は神社で見かけるのが普通であるが、墓所に立っているのは珍しい。

清照寺地蔵尊

 入口の左手に石像(写真)が並んでいる。左から「光明真言供養塔」「大日如来像」「地蔵菩薩像」「一千万遍供養塔」「庚申塔」であることを、インターネットで教わる。 「光明真言供養塔」とは、23字の梵字からなる光明真言には「大日如来よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」との意味が含まれ、これを読誦すると、一切の罪障が除かれるとされるため、100万遍、200万遍と唱えた記念に造立された供養塔である。 従って「一千万遍供養塔」は光明真言を一千万遍読誦した記念の供養塔と思われる。光明真言を一日1万遍読誦しても、3年はかかるのであるから、供養塔造立に値することが分る。

清照寺石像

 狭山湖の湖底から移設された「清照寺」からは、旗本の知行地や真言宗の石造物を学ぶことができた。

狭山丘陵寺社めぐり 91 千門大明神  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 91 千門大明神

 所沢市上山口地区の「高橋交差点」近くに建つのが「千門大明神」。交差点の北西に向って丘陵を上ると「八幡」の額のある鳥居(写真)がある。

千門明神鳥井

 鳥居をくぐると小さな社殿(写真)が建ち、これが千門大明神。 社殿の内部には小さな祠(写真)があるだけの小社である。 「八幡」の額があるから「八幡神社」であると思われるが、祭神などは不明。更に「千門八幡神社」と呼ばないのも不思議。 境内の石碑に「山口領阿部鎮守」の文字があるが、この意味もよく分らない。

千門明神社殿

千門明神内部

 千門は「ちかた」と読み、インターネットに興味ある説明文を見つけた。そこには「承平・天慶年間の平将門の乱の時、将門の落武者が大勢この地に立往生し、いずれも生々しい血刀をぶらさげていたという。里人はこれらの戦死者を手厚く葬り、その血刀と鎧を埋め、その地に祠を建て『血刀大明神』として祀った。血刀は千刀とも書き、千門ともいう。 今は八幡神社として祀られている」と記されている。 下総国川口の戦いで平将門は大敗しているので、将門の部下が落武者となり、荒川を渡ってこの地に逃れてきたことは予想される。里人が落武者を手厚く遇し、祠まで建てたのは美談である。 しかし当時貧しい暮らしをしていたと思われる里人が、貴重品であった刀と鎧を埋めたのには疑問が残る。むしろ落武者狩りをして刀や鎧を奪い、その祟りを恐れた里人が、祠を建てて祀ったと思われるのだが・・・・・・ 瑞穂町の加藤神社にも、落武者に手厚くした説と厳しい対応をした説の両方が存在するのである。
 しかし、歴史を学ぶ人間としては、もっと心に暖かさが必要だと思われ、反省!

狭山丘陵寺社めぐり 90 六斎堂  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 90 六斎堂

 「狭山観音霊場めぐり第3番札所」の「六斎堂」(写真の赤〇 緑〇はこれまでに参拝した札所)を紹介する。
六斎堂地図136

 西武球場前の道路を小手指方面に向かうと、道路沿いに左手に建つのが「六斎堂」(写真)である。「狭山観音霊場第3番 本尊 正観音」の旗と、赤い衣をまとった六観音に迎えられる。 霊場第1番札所の「金乗院」にもっとも近い札所なので、「六斎堂」が第2番札所であってもよいのだが、位置からすると第5番札所にあたる「佛蔵院」が第2番札所。この理由は「佛蔵院」を訪れた時に明らかにしたい。

六斎堂全景

 墓に囲まれた小さな「本堂」(写真)が建ち、内部に「正観音」(写真)が安置されている。但し、内部が暗くて観音像がよく見えない。

六斎堂本堂

六斎堂内部

 案内板には「当堂の創立年紀は明確でないが(文化二年1805)「狭山三十三観世音巡礼記」によると、当時は六観音が祀られていたようである。 六斎とは毎月八、十四、十五、二十三、二十九、三十は『斎戒謹慎』し、善心で過ごすべき日とする民衆教化の宗教行事でした。六斎の守り本尊として六観音が祀られていたと推測できる。 その後は無住が続き、昭和十七年金乗院の所属となり、昭和五十年代に壇信徒によりお堂が再建された」と記されている。 毎月六日を善心で過ごすことができれば、自ずから毎日を善心で送るようになるとの教えであろうか。 観世音は宝暦五年(1755)造立という説もある。 金乗院の所属となったことから、六斎堂は真言宗豊山派の寺院である。

 六地蔵の裏側に、4体の石像(写真)があった。左の2像が如意輪観音像で、右は地蔵菩薩像ではないかと思われるが、未だ石像の見分け方が未熟なのである。墓所での古い石像との出会いは楽しい。
六斎堂石像

 最後に「狭山三十三観世音巡礼記」なる書物を読んでみたい。昔の巡礼者が、何処に泊り何日かけて観音めぐりをしたのか、知りたいものである。私のように自転車でとびまわうのではなく、何日もかけて巡礼を楽しんだのではないかと思われる。

狭山丘陵寺社めぐり 89 龍神社  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 89 龍神社

 前報の「狭山不動尊」の丘陵沿いに小手指方面に歩き、道路を左折して丘陵沿いに進むと「龍神社」への石段(写真)が見えてくる。

龍神社全景

 石段を上ると、赤い格子で囲まれたやや異様な「龍神社社殿」(写真)が建っている。この格子造りは、新潟の山奥の神社の雪囲いのように見える。 社殿の内部に祠(写真)があるが、どんな神様がまつられているのかは不明。

龍神社社殿

龍神社内部

 「龍神社」をインターネットで検索すると、船橋市に存在した。しかしその神社の祭神は大綿津見神で、海の神であるから、この狭山の地には相応しくない。 一方辞典には「竜神 竜の姿をして水中に住み、水をつかさどるとされる神。農業と結びつき雨乞いの祈願の対象となり、漁師にも信仰された」と記されているので、「龍神社」には水の神説を採用したい。

 薄暗い境内は静まり返り、小さな祠(写真)があるだけで、記事を書く時に頼りになる案内板もない。 神社の周辺は西武グループが開発したと思われる住宅地であり、この神社がいつか埋没するのではないかとの危惧を抱かせる。赤い格子造りの社殿がいつまでも残ってほしいものである。
龍神社祠

狭山丘陵寺社めぐり 88 狭山不動尊  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 88 狭山不動尊

 前報の「金乗院」に隣接する「狭山不動尊」を紹介する。 入口に建つのが「勅額門」(写真)。 案内板には「元東京芝の徳川家台徳院(二代将軍秀忠公)の御廟に建立されていたものである。重要文化財」と記されている。 台徳院は、芝の増上寺の中に建てられた霊廟で、太平洋戦争時の空襲でほぼ全焼したが、焼け残った「勅額門」が、西武鉄道によりこの地に移設されたものである。
狭山不動勅願門

 勅額門をくぐり石段を上った場所に建つのが「御成門」(写真)。 これも台徳院の焼け残った門である。 二つの門は徳川秀忠や建立した徳川家光の威光を示すに十分な美しい門である。

狭山不動御成門

 御成門の天井絵「飛天」(写真)が美しい。 中国・敦煌の莫高窟の飛天の壁画は有名であるが、それよりも映画「敦煌」で、ヒロイン三田佳子が城壁から身を投げる姿がまさに「飛天」であったのが懐かしい思い出。

狭山不動飛天

 貫禄のある黒い門が見えてきた。これが「狭山不動尊総門」(写真)であり、案内板には「元長州(現在の山口県)藩主毛利家の江戸屋敷に建てられた門である」と記されている。
幕末において、徳川幕府が長州征伐を行った時、長州の江戸屋敷は解体されたとされているが、その屋敷門がどのような経緯でこの地に移設されたのか興味深い。

狭山不動総門

 総門をくぐると、狭山不動尊「本堂」(写真)が建っている。 本堂内部(写真)の中央に安置されているのが、本尊の不動明王と思われる。

狭山不動本堂

狭山不動本堂内部

 狭山不動尊の正式名は「狭山山不動寺」。天台宗の別格本山であり、昭和50年創建で、開基は堤義明氏である。西武グループが各地のプリンスホテルを開発する際に、芝増上寺をはじめとする各地の文化財をこの地に集め、オーナーであった堤義明氏と親しかった寛永寺の助力により、天台宗別格本山として建立した。 建立の目的が仏教の信仰とは言い切れないように思われるが、戦後の混乱期に破壊・消滅されかねなかった文化財を救済したと考えるならば評価できる。
 更に天台宗の寺院は、この寺社めぐりでは初めて。本山は寛永寺(天台宗関東総本山)となるのであろうが、総本山は比叡山延暦寺である。天台宗の開祖は最澄で、空海(弘法大師、真言宗の開祖)とはよき競争関係にあったことが知られている。

 境内の奥に建つのが「第一多宝塔」(写真)。 案内板には「この多宝塔は弘治元年(1555)大阪府高槻市の畠山神社に建立されたと伝えられている。 多宝塔とは円塔形の塔身に方形の屋根をのせ、塔身のまわりにひさしを設けたものをいう。一般の塔が元来釈迦の墓を意味したのに対し、多宝塔は大日如来をまつり、わが国では平安時代高野山に建てられたのが始まりである」と記されている。
狭山不動多宝塔1新

 狭山不動尊の左隣に建つのが「弁天堂」(写真)。 案内板には「このお堂は滋賀県彦根市の清凉寺に、井伊直孝の息女が父直孝の追善菩提のため、経蔵として建立したものである。このお堂のご本尊の弁財天は、寛永寺山内の現龍院にお祀りされていたのを、当山の開創にあたりお迎えしました」と記されている。 井伊直孝は彦根藩・井伊家第2代の藩主で、大阪冬の陣、夏の陣で活躍している。
狭山不動弁天堂

 弁天堂の左隣に建つのが「羅漢堂山門」(写真)。 案内板には「虎の門、元田中平八郎邸より移築したものである」と書かれている。

狭山不動羅漢堂門

 山門が閉じているので、塀の外から「羅漢堂」(写真)を見学。 案内板には「明治の元勲として有名な故井上馨公が、奈良二月堂の経堂を模倣して屋敷内に建立したものである」と記されている。 羅漢堂の前に林立するのが「唐金灯籠」 案内板には「東京芝徳川家台徳院霊廟に建てられたもので、全国の大名が献納したものである」と記されている。 この灯籠は見ごたえがあり、狭山不動尊内の文化財では最高クラス。

狭山不動羅漢堂

 羅漢堂の左隣に建つのが「大黒堂」(写真)。 案内板には「このお堂は歌聖・柿本人磨のゆかりの地、奈良極楽寺境内に建立去れた人磨の歌塚堂である。お堂の中のご本尊・大黒天は、寛永寺山内の見明院に奉安されていたのを、当山の開創にあたりお迎えしました」と記されている。 私は歌聖・柿本人磨神社の傍で少年時代を過ごしたので、故郷・島根を思い出させる歌塚堂である。
狭山不動大黒堂

 大黒堂の近くに建つのが「第二多宝塔」(写真)。 案内板には「この多宝塔は室町時代中期、永享七年(1435)兵庫県東條町の椅鹿寺に、播磨国守護・赤松満男教康が建立したものである」と記されている。
狭山不動多宝塔2

 境内の最奥に建つのが「康信寺」(写真)。本堂内部の真ん中に仏像(写真)があるが、孔子像ではないように思える。 インターネットによると「ここは元ユネスコ村の孔子廟であった。西武グループの創設者堤康次郎氏が、孔子、孟子、子思子像を安置していた。ところが仏教の寺の境内に、儒教の孔子廟があるのはおかしいので、堤康次郎の法名に因んで康信寺と名付けられた」と記されている。 康信寺の宗派や本尊は分らない。
 実は5年前、台湾の日月潭湖畔の「文武廟」を観光した時「ここにある孔子像はレプリカ。本物の孔子像は日本のユネスコ村の孔子廟にある」との説明を思い出した。本堂内部の仏像は孔子像ではなさそうなので、その有名な孔子像は寺内に大切に安置されているのであろう。

狭山不動庚信寺

狭山不動庚信寺内

 最後に、参道の両側に立ち並ぶ「石灯籠」(写真)を紹介する。いずれの石燈籠にも「増上寺」の名前が刻まれており、芝の増上寺から移設したもの。 この増上寺石灯籠は埼玉県の寺院によく見かけられ、西武鉄道から献納されたことになっている。

狭山不動燈籠

狭山丘陵寺社めぐり 87 金乗院(2)  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 87 金乗院(2)

 前報で、金乗院の仁王門から本堂までを紹介したので、本報では金乗院境内の諸施設を紹介する。 先ず本堂の左に建つのがカラフルな「七福神堂」(写真)。「武蔵野七福神」の一つである「布袋尊」(写真)が安置されている。布袋尊は中国の道教の神で、健康、長寿を授ける仙人である。
山口七福神堂

山口布袋尊

 七福神堂と並んで建つのが「地蔵堂」(写真)。堂内には地蔵菩薩像(写真)が安置されている。案内板には「ぽっくりさん 当山十八世亮盛師が元禄年間本山に遊学した時、高野山の引導地蔵を招来したものです。 此のお地蔵様を信仰される人は永い病気をする事なく、お地蔵様に由って極楽浄土へ見送られます」と記されている。 病気で苦しんでいる人は、この引導地蔵を信仰するとぽっくりと亡くなり、更に引導地蔵の導きで仏道に入ることができるので、人間のままでは行けない極楽浄土に行くことができるということになる。 時代劇で「あ奴に引導を渡せ」というセリフは「あ奴を殺せ」ではなく「あ奴を殺して極楽に行かせよ」という慈悲深い意味を含蓄しているのである。
山口地蔵堂

山口地蔵像
 
 境内から入口の仁王門まで下りて、左回りに境内を歩く。 先ず、入口の前に弁天池があり、池の中に建つ小社が「弁天堂」(写真)。「弁天堂」の中に小さな弁財天(写真)が安置されている。 弁財天も七福神の一人であり、サラバスティ(聖なる河)と呼ばれるインド古代神話の水神(女神)で、芸能、学問の神様。

山口弁財天

山口弁財天像

 境内へ上る車道の左に建つのが「閻魔堂」(写真)。堂内には、強面の閻魔大王座像(写真)がある。 境内には引導地蔵のような極楽に導く仏様の他に、地獄の盟主・閻魔大王も祀られているのが興味深い。「千手観音(本尊)や引導地蔵を信仰しない人は、閻魔大王に攫われるよ」という意味であろうか。
山口閻魔堂

山口閻魔像

 丘陵の中腹に鐘楼(写真)が建っている。案内板には「六時の鐘 当山鐘楼堂は安永二年(1773)建立され、朝夕六時に妙音を響かせていましたが、大戦末期に鐘が供出されました。現在の鐘は昭和四十九年に鋳造され(二本ある打木の)反対側の打木は、朝夕六時に自動的に鳴るように施行されています」と書かれている。 家族と参拝した折に何度も鳴らした鐘であるが、自動打鐘装置があるのに初めて気が付いた。

山口鐘楼

 鐘楼の近くに「高照院」(写真)が建っている。「新四国奥多摩霊場七十七番札所」である。 院内の二体の石像(写真)は、高照院が真言宗である金乗院の境内院であることから、左が弘法大師で右が大日如来であると思われる。

山口高照院

山口高照院像

 本堂裏の丘陵を埋め尽くすように立っているのが「水子地蔵」(写真)。幼児までに死亡した子供たちの供養をする地蔵であったが、妊娠人工中絶の胎児も供養することになって以来、爆発的に数が増えたというから驚き。林立する水子地蔵を眺めていると哀れみと共に、何か寒気をもよおすような雰囲気である。 右下に「水子供養霊安室」があり、右上には「玉佛堂」というビルマから招来した寺院が建っている。

山口水子供養

 本堂の右奥に建つのが「大日堂」(写真)。堂内に真言宗で最高の仏とされる大日如来(写真)が祀られている。 金乗院境内では、本堂に次ぐ重要な位置を占めている建物と思われる。

山口大日堂

山口大日堂内部

 大日堂の横に「八体守護仏」(写真)が並んでいる。守護仏は古来より開運、厄除けなどの守り本尊として親しまれてきた。十二支の方位にはそこを守る八体の守護仏がいるとされ、この方位と十二支(干支)が結びついて守護仏が定められている。 写真の左から、千手観音菩薩(ねずみ)虚空蔵菩薩(うし、とら)文殊菩薩(うさぎ)普賢菩薩(たつ、へび)勢至菩薩(うま)大日如来(さる、ひつじ)不動明王(とり)阿弥陀如来(いぬ、いのしし)となる。 これを知ったからには、私の干支である虚空蔵菩薩を大切にしなくてはいけない。

山口八体守護仏

 最後に紹介するのが、奥の院とも呼ばれる「千躰観音堂」(写真)。本堂裏の丘の上、即ち丘陵の尾根上に近年建てられた朱塗りの五重塔である。 塔内の各階には千躰の仏像を安置してあるとのこと。 更に地下式のトンネルは仏国窟と名付けられ、四国八十八ヶ所霊場と西国三十三ヶ所札所があるとのこと。 五重塔上からの多摩湖・狭山湖の展望を含め、金乗院・山口観音が観音霊場パークとなりそうな勢いを感じた。

山口千体観音

 これで金乗院参拝を終える。行基・弘法大師・新田義貞や高麗鐘などの伝説の残る古刹であるが、境内に近年造られた施設が多すぎるため荘厳・静寂を欠くように思われる。しかし寺参りを行楽の一つと考える人々には喜ばれるであろう。5年、10年後の金乗院の変貌を見守っていきたい。
プロフィール

リンおじい

Author:リンおじい
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR