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狭山丘陵寺社めぐり 86 金乗院  (所沢市上山口)

狭山丘陵寺社めぐり 86 金乗院  

 「狭山観音霊場めぐり」の第1番札所である「金乗院」(写真の赤〇 緑〇はこれまでに訪ねた札所)別名「山口観音」を訪れた。

金乗院地図134

 「狭山観音霊場めぐり」を我が家に近い第18番札所「雲性寺」からスタートしたため、第33番札所「妙善院」で半端な結願(三十三霊場の最後の寺院に参拝)となってしまった。これから発願寺(第1番札所)となる「金乗院」から第17番札所「霊性庵」に向って、霊場めぐりを再スタートすることになる。
 西武線「西武球場前駅」に近い金乗院に向かうと、「吾庵山」の額が架かる主塗りの「仁王門」(写真)が建っている。その左に「千年の古刹 真言宗 豊山派 山口観音 金乗院」の看板がある。 門前の大きな石燈籠は、昔、増上寺にあったのを、西武鉄道がこの地に運んだ物。

金乗院仁王門

 仁王門をくぐると、左に手水舎(写真)、右に義貞霊馬堂(写真)が建っている。手水舎の水は霊水で「弘法大師が護摩修行の御水を汲み上げた」尊い水であると説明されている。[弘仁年間、弘法大師が湯殿山に旅された時、当山の草堂で修行され、草堂の傍らより霊水が湧き出した] [ ]内は、所沢市ふるさと研究室資料「金乗院」を参考にして、私が説明のため付け加えた文章で、以下の[ ]内も同様である。 義貞霊馬堂には小型の白馬像があり、これは新田義貞が鎌倉攻めの時の愛馬に係わるものであろう。

金乗院手水舎

金乗院霊馬堂 

 本堂前には「新田義貞公鎌倉攻めの際の『誓の桜』(写真)」もあり、新田義貞の鎌倉攻略の背景に、金乗院が大きな係わりを持っていたようである。[元弘三年、新田義貞が挙兵し北条軍と府中分倍河原で戦い、敗北して久米川に退却し、当山東ケ峰へ陣営を構え、本尊に朝敵退治の願を掛け、関戸の戦いに臨み勝利したので誓の桜という]

金乗院義貞桜

 「本堂」は前から見る(写真)よりも、横から見る(写真)方が、規模の大きさがよく分る。

金乗院本堂

金乗院本堂2

 インターネットのウィキペディアには「金乗院(こんじょういん)は、埼玉県所沢市にある寺院である。真言宗豊山派に属し、山号は吾庵山、寺号は放光寺。本尊は千手観音で山口観音とも称される。 この寺は、古くから観音信仰の霊場として知られ、観音像や観音堂は寺伝によれば奈良時代の僧・行基によって弘仁年間(810―24)に開かれたと伝えられ、この寺はその別当寺であった。 鎌倉時代末期、新田義貞が鎌倉を攻めた際には、この寺に祈願したという」と記されている。 狭山丘陵寺社めぐりで、何度目かの高僧・行基の登場である。行基は東国には来なかったという説が有力であるが、高尾山薬王院を始めとして、この東国には行基開山などの行基の足跡を伝える寺院が多い。その数、埼玉県内に25寺院、東京都内に29寺院、神奈川県内に46寺院、千葉県内に28寺院も存在する。東国における行基信仰の根強さは驚くべきものがある。
 本堂の真後ろに「裏観音様」(写真)が祀られていて、案内板には「裏観音の由来 当山の本尊様・千手観音は、今から千二百年程前に行基大士の彫物と伝えられ、秘仏として何時も宮殿の中に祀られており、そのお姿は三十三年毎のお開帳の時以外は拝む事が出来ません。[聖武天皇の勅願により、行基大士が東国に向った時、杖を此の地に停め、本尊を手彫りした] そこで今から八、九百年程前(藤原時代)に本尊様と同じ形の千手観音を刻み、後側にお祀りしたのが此の裏観音です」と記されている。 行基の開山と行基の彫刻が揃っている寺院は初めてで、金乗院は東国では屈指の行基寺院と言えよう。

金乗院裏観音

 千手観音菩薩は、頭上に十一面の顔と多くの手(実際には四十二本の手)を持つ仏像(写真、京都にある千手観音菩薩像)。仏教では「千」は無限を表し、千の手で一時に多くの人々を救うという。 この狭山三十三観音霊場めぐりの本尊で、千手観音は六寺もあり、聖観音に次ぐ数の多さを誇っている。三十三の姿に変化する観音菩薩像の中でも、千手観音の複雑な形状が人々に好まれているように思われる。

千手観音135

 本堂の軒先に吊るされているのが「朝鮮式銅鐘」(写真)。案内板には「この鐘は伝説によると霊亀二年(716)に高麗王の王辰爾が武蔵国に移住してきたときに自国から持参したもの。あるいは、大鐘(現在の大字上山口の一部)の地より掘り返したものといわれています。しかし作風からみると江戸時代の中期の鋳造と考えられます」と記されている。 これは行基の寺院らしく「高麗鐘」としておく方が、歴史ロマンを湧き立たせるように思う。

金乗院高麗鐘

 本堂の左脇に座すのが「おびんづるさま」(写真)。武蔵野の寺院でよく見かけるのであるが、この寺社めぐりでは初の登場である。 おびんづるさまは釈迦の弟子の一人、ヒンドラ・バラダージャのことで、賓頭廬(びんづる)尊者と呼ばれた。彼の説法が他の異論反論を許さず、ライオンのようであったため獅子吼第一といわれる。 日本ではこの像を撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が広がった。

金乗院おびんずる

 金乗院は狭山丘陵の中でも最大級の寺院であるため、今日は本堂までの紹介とし、境内にある諸堂などについては、次報で紹介する。
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狭山丘陵寺社めぐり 85 玉湖神社跡  (東大和市多摩湖)

狭山丘陵寺社めぐり 85 玉湖神社跡  

 狭山丘陵北麓の寺社めぐりを終え、狭山丘陵東側(所沢市、東村山市、東大和市)の寺社めぐりをスタートした。 最初に訪れたのが、既に廃社となっている「玉湖神社跡」(写真、地図中央の赤〇 緑〇はこれまでに訪れた狭山観音霊場の札所)。

玉湖神社地図133

 有名な山口観音の近くで、村山・山口貯水池の一つ、村山上貯水池の傍に建っている。 道路沿いに立つ神明系の一の鳥居(写真)は、今だ健在である。

玉湖神社鳥居1

 少し坂になっている参道を上ると、木蔭に見える二の鳥居(写真)も健在である。

玉湖神社鳥居2

 石段の上に小さな本殿(写真)が見えるけれど、本殿前に建っていた拝殿は無くなっている。東北大震災の時の震度5弱の揺れで、拝殿に亀裂が生じて危険なために拝殿を取り壊したという。5年前に撮影した在りし日の拝殿(写真)の姿を掲載する。

玉湖神社拝殿跡

玉湖神社拝殿132

 小さいながら本殿(写真)の屋根には、天を突く千木があり、屋根の上に並ぶ5本の鰹木は、小社ながらも堂々とした風格を持っている。 鰹木の数が奇数の場合は男の神様、偶数の場合は女の神様が祀られているという。

玉湖神社本殿

 玉湖神社は昭和九年に竣工し、水源・水辺の水神様を祀ったとされる。昭和九年に山口貯水池が完成し、村山上、下両貯水池と併せて現在の三貯水池が整ったため、水源・水辺を守る神社が建てられたように思われる。 祭神は大山津見命(山の神)と弥都波能売命(水の神)。大山津見命は大山祇神のことで、有名な山の神。弥都波能売命は、古事記では伊弉冉命から生まれた弥都波能売(ミヅハノメ)の神で、水の神である。
 玉湖神社が自治体である東京都(水道局)の所有であることが問題となり、昭和四十二年に御霊遷しが行われ、いわば廃社となったものである。神社の盛衰を物語る一例を見ることができる神社である。
 境内に「殉職者の碑」(写真)が残り、裏面に二名の殉職者の名前が刻まれている。貯水池建設時の殉職者かと思われる。

玉湖神社殉職碑

 玉湖神社の西、100 mのところに人工の山「狭山富士山」(写真)がある。貯水池に沈んだ村人たちが、山頂から富士山を遥拝したのであろう。

玉湖神社富士山

 ブロ友様のご案内で、昨年11月に山頂から富士山(写真)と山口貯水池(写真)を展望した。

富士山から富士

富士山から狭山湖

 村山上貯水池の対岸にも人工の山「仙元神社」(14報)があり、山頂の神社境内から富士山が遥拝できる。 人工の山を造って富士山を遥拝するという、昔の人々の富士山信仰には感動させられる。

狭山丘陵寺社めぐり 84 三ヶ島稲荷神社  (所沢市三ヶ島)

狭山丘陵寺社めぐり 84 三ヶ島稲荷神社

 国道179号線「所沢青梅線」の「大日堂バス停」の近くに「三ヶ島稲荷神社」がある。入口には稲荷神社らしい赤い鳥居(写真)が立っている。

稲荷神社鳥居

 鳥居をくぐると、参道は左に曲がる。参道の奥に「拝殿」(写真)が建っている。拝殿は南向きであるが、鳥居は西向きとなり、鳥居の向きはあまりよい方角とはいえないように思う。これは社地に制限のある、近年に建った神社であることが予想される。

稲荷神社拝殿

 拝殿の横から本殿(写真)が見え、拝殿と本殿はほぼ一体化した構造の神社である。

稲荷神社本殿

 案内板には「三ヶ島稲荷神社 祭神 倉稲之御魂神  由緒 安永四年(1775)京都伏見稲荷大社から御神霊拝受  沿革 当神社は三ヶ島新井家の遠い祖先が、宝玉院の南隣に家の屋敷神として祀ったものと伝えられている。 その後宝栄六年(1710)に宝玉院に納められる。この頃より当地域の鎮守として信仰されるようになった。 明治八年、神仏分離令により宝玉院隣地から現早稲田大学校地内に移転遷宮した。 昭和二十六年、守谷家より元山林が奉納され、現在地に移転遷宮した。 昭和六十一年、湯殿神社の跡地を譲り受け境内の拡張整備をした」と記されている。 前報の宝玉院の山号である「稲荷山」は、隣に建っていた稲荷神社に依ることが判明。 宝栄年間は、宝永年間の誤りと思われるが、立派な掲示板であるだけに、誤りではなく「宝栄」とわざと主張しているように思われる。 倉稲之御魂神はいわゆる稲荷神のことで、狭山丘陵の神社の祭神として多い素戔嗚尊の子供である。

 境内に、しめ縄をした大事にされている祠(写真)があるが、名前が分らないのが惜しい。

稲荷神社祠

 本殿の裏に「地蔵尊」(写真)が祀られている。赤い頭巾と着物は、このお地蔵様も大切に扱われていることが分る。
稲荷神社地蔵

 鳥居の近くに「大日堂 湯殿神社 跡地」の石碑(写真)がある。

稲荷神社跡地

 最寄りのバス停が「大日堂」と名付けられていることから、つい最近まで大日如来を祀る「大日堂」があった場所であることが分る。大日如来は、狭山丘陵に多い真言宗信仰のご本尊であり、この辺りに大日堂が建っていた背景がよく分る。 
 この地に湯殿神社が建っていたことが分り、納得したことがある。「70報、三ヶ島八幡神社」の境内社に「湯殿神社」があったので、何故この地に湯殿神社があるのか疑問を残していたのだった。 ここで湯殿神社跡地を見つけて、三ヶ島八幡神社の境内社の謎が解けた。 湯殿神社は修験に係わる神社であり、祭神の大山祇神からは山の神信仰も考えられる。
 この三ヶ島稲荷神社をもって、狭山丘陵南麓、西麓、北麓の寺社めぐりを終え、これからは狭山丘陵内部の山口観音から再スタートして、所沢市、東村山市、東大和市と狭山丘陵東側の寺社めぐりにチャレンジすることになる。

狭山丘陵寺社めぐり 83 宝玉院  (所沢市三ヶ島)

狭山丘陵寺社めぐり 83 宝玉院  (所沢市三ヶ島)

 国道179号「所沢青梅線」から少し北に入ったところに「宝玉院」がある。 住宅地の中に立つ門柱(写真)には「真言宗豊山派」「稲荷山寶玉院」と記されている。「稲荷山」の号は、昔は近くの稲荷神社の別当寺であったのかも知れない。

宝玉院入口

 境内の向かいに本堂(写真)が建っている。

宝玉院本堂

 宝玉院は奈良県長谷寺を本寺とする真言宗豊山派の寺院。所沢市ふるさと研究室資料には「寛永年間(1624~43)長賢法印が開基・創立したと伝わる」と記されている。 本尊は十一面観音で、頭上に十一の顔を持ち、人々の苦を滅し仏果を与える広大な功徳を表す観音菩薩。 正面の三面派慈悲相、左方の三面は忿怒相、右方の三面は白牙上出相、後方の一面は大笑相、頭上の一面は仏相(写真、奈良県の十一面観音像の一部)という。 前報「82慈眼庵」で述べたように、狭山三十三観音の本尊では、聖(正)観音15、千手観音6に次いで多いのが、5本尊あった十一面観音菩薩。 手や顔が沢山付いている観音菩薩は見栄えがするため好まれるのであろう。

十一面観音像131

 境内に祠(写真)があり、三体の仏像が安置されている。赤い前掛けのある石像は、真言宗の開祖・空海、即ち弘法太子ではないかと思われる。案内板があると助かるけれど、寺院も所沢市もそこまで手がまわらないようである。

宝玉院祠

 宝玉院が真言宗であるように、この狭山丘陵周辺には真言宗の寺院が多い。更に長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院が多い。真言宗の信者数は約1.000万人といわれ、浄土真宗の信者数約1.300万人より少ないけれど、狭山丘陵周辺では浄土真宗の寺院はほとんど見かけないのに、真言宗の寺院数が目立っている。一方狭山丘陵周辺の神社の祭神では、素戔嗚尊(スサノオノミコト)がとても多く、「真言宗」と「素戔嗚尊」信仰の背景を探っていきたいと思っている。
 近くを流れる小川を「砂川」と呼ぶので、東大和市を流れる空堀川のように、渇水期には涸れ上がる川のため砂川と名付けられたように思われる。これまで狭山丘陵北麓は水の潤沢な森林地帯であると思っていたが、この辺りから東大和市に似た地質となり、昔は茅の原だったのではないかと思われる。 

狭山丘陵寺社めぐり 82 慈眼庵  (所沢市三ヶ島)

狭山丘陵寺社めぐり 82 慈眼庵  (所沢市三ヶ島)

 前報の「妙善院」から西南に500 m離れた観音札所「慈眼庵」(写真、赤〇 緑〇はこれまでにめぐった観音札所)に着く。

慈眼庵地図130

人家より離れた丘の斜面に入口があり、説明板に「狭山観音霊場第三十二番 慈眼庵 本尊聖観音」と記されている。門のない入口から、境内の全景(写真)が見渡せる小庵である。

慈眼庵全景

 入口から斜面を上ると、丘の上に「庵」と呼ぶにふさわしい小堂(写真)が建っている。 堂内には二つの仏像(写真)が見え、左の小像が本尊の「聖観音」と思われる。

慈眼庵本堂

慈眼庵聖観音

 慈眼庵は曹洞宗の無住寺であり、同じ宗派の妙善院が管理しているようである。
 本尊の聖観音は、三十三の姿に変化して人々を苦難から救うとされる観音菩薩の、基本となる姿で正観音とも呼ばれる。この狭山三十三観音めぐりは、当然ながら三十三寺の本尊である観音菩薩をめぐるのであるが、その本尊・観音菩薩の内訳は
  聖(正)観音    15
  千手観音    6
  十一面観音   5
  如意輪観音   3
  白衣観音     3
  馬頭観音     1
となり、矢張り聖(正)観音が最も多い。私の好みの如意輪観音は少数派のようである。あの恐ろしい形相の馬頭観音を本尊とする寺院(68報、聴松軒)があるのは興味深い。 更に狭山丘陵周辺の三十三観音を選んだのは、観音菩薩の姿が三十三に変化することに因んでいることに気付いた。気付くのが遅きに失したが、私の学習能力からしては大変な成果である。
 お墓に囲まれた本堂周辺に、古い石像(写真)があったので紹介する。なにか哀愁の漂う石像で、どのような経緯でここに置かれたのか興味深い。 左の石像は、頭が傾いているので、私の好みの如意輪観音かと思われる。

慈眼庵石像2

 狭山三十三観音霊場めぐりのおこりは、天明八年(1788)に金乗院(山口観音)の亮盛和尚と妙善院の卍杲和尚によって開かれたと伝わっている。従って、第1番の発願寺が金乗院で、第33番の結願寺が妙善院となっている。 江戸時代に伊勢詣で富士詣でのできなかった人々には、この狭山観音詣でが楽しみであったに違いない。発願寺から物見遊山しながら何日かかけてこの庵に着くと、次は結願寺を迎えることになる。巡礼する人のほっとした気分と、楽しみの終わりの寂しい気分の両方が感じとれるのである。
 
 

狭山丘陵寺社めぐり 81 妙善院  (所沢市三ヶ島)

狭山丘陵寺社めぐり 81 妙善院  (所沢市三ヶ島)

 前報「願誓寺」から東に 1 km 離れた「狭山観音霊場めぐり33番札所」である「妙善院」(写真の赤○ 緑○はこれまでにめぐった札所)に着いた。なんと「狭山三十三観音霊場めぐり」の第33番となり、第1番の「金乗院(山口観音)から始まった霊場めぐりの最後、即ち結願寺がこの「妙善院」であった。 当寺は「武蔵野三十三観音霊場第14番札所」でもある。
妙善院地図129

 入口の石段の上に「惣門」(写真)が建っている。両側に立つ石柱には「曹洞宗光輪山 三ヶ島寺妙善院」と彫られている。 三ヶ島地区を代表する寺院であるらしい。

妙善院惣門

 惣門をくぐると、大きな「山門」(写真)が建っており、両側に仁王像と2階には十六羅漢像があるという。山門の規模からこの寺院が大寺であることが分る。

妙善院山門

 幼稚園のある広い境内の奥に「本堂」(写真)が建っている。本堂の内陣(写真)は金色に輝くかなり豪華なもの。ご本尊は確認できなかった。

妙善院本堂

妙善院内部

 武蔵野三十三観音霊場公式サイトには「妙善寺は、旧前沢村(東久留米市)浄牧院の末寺で、本尊は白衣観世音、行基の作といわれる。 当寺は天正年間(1570年代)源義家の後孫、徳川の旗本、沢次郎左衛門の開基とされ、開山は阿山呑碩大和尚で、現在が18世である。歴代沢家の菩提寺として護持され、由緒ある寺院」と記されている。 この寺社めぐりで、高僧・行基の作に何度も出会ったが、聖徳太子の作にも出会ったのだから、日本古代史に登場する超有名人の作に、今更驚いたり疑問をもってはいられない。 浄牧院は、東久留米七福神めぐりの大黒天の安置された寺院。妙善院同様な大きな山門があったのを思い出した。

 妙善院の境内で最も有名なのが「五輪塔」(写真)。墓所の中のある墓の前に立っている。

妙善院五輪塔

 所沢市ホームページには「五輪塔は、平安時代末頃からつくられた供養塔または墓塔であり、仏教の五大思想の教え表したものといわれています。宇宙を構成する五つの元素である、空・風・火・水・地を表し、各部は上から空輪(宝珠形)・風輪(半球形)・火輪(三角形)・水輪(球形)・地輪(方形)と呼ばれています。 妙善院五輪塔の各輪の四方には梵字が陰刻されており、一番下の地輪には梵字の右に『嘉暦四年三月二日』、左に『了存順寂六十二才』と刻まれています。これは『嘉暦4年(1329)に了存という僧侶が62歳で亡くなった』ことを示しています」と記されている。 鎌倉時代末期の五輪塔は珍しいもので、埼玉県指定文化財となっている。
 五輪塔は「71報、五輪様」以来の出会いとなるが、妙善院の五輪塔の方が大きくて磨滅が少なかった。

 境内には、大きな慈母観音像の横に「鐘楼」(写真)が建っている。

妙善院鐘楼

 更に「地蔵堂」には、お地蔵様(写真)が大切に祀られている。

妙善寺地蔵尊

 小丘の上に「金比羅大権現」(写真)が建ち、境内や墓所の守護をしている。

妙善院金比羅

 当院は通称「原の寺」ともいわれ、杉の大木が林立し、狼の穴も本堂横にあり、さぞや昔は山中の寂しい寺であったと伝わるが、現在は西武線小手指駅から早稲田大学行きのバスの途中に位置し、住宅地に囲まれた町の中の寺院と化している。 予想以上の大寺であったのに満足して、狭山観音霊場めぐりの最後の寺院・妙善院を去った。

寺社めぐり 24 米沢市

寺社めぐり 24 米沢市

 新潟市から新発田市を経由して米沢市に入り、上杉家の城下町の寺社めぐりを行った。 10年間の新潟市勤務中に、米沢市は何度も訪れたことがある。特に息子のお嫁さんが米沢市在住であったので、結婚式前後に何度も新潟市から往復した。一人娘だったお嫁さんの両親が既に他界しており、そのお墓参りも米沢行きの大きな理由であった。

1 上杉神社

 米沢市の中心、松が岬公園(米沢城祉)の中に「上杉神社」は建っている。 大きな鳥居(写真)の向こうには楼門が見られる。

米沢上杉神社鳥居

 楼門をくぐると、上杉神社の拝殿(写真)に出る。予想したよりも質素な社殿は、越後から会津を経て米沢に移封された当時の、上杉家の台所の苦しさが偲ばれる。上杉家二代目景勝が徳川家康に刃向ったため、会津120万石を米沢30万石に減封されたのである。

米沢上杉神社

 上杉神社の祭神は、越後春日山城主であった上杉謙信公。越後で亡くなった上杉謙信の遺骸と祠堂は、上杉景勝により会津を経て、慶長六年(1601)に米沢城内に遷された。 明治入ると謙信の遺骸は上杉家廟所に移され、祠堂は「上杉神社」となった。 大正八年の大火で社殿は焼失し、現在の社殿が再建されている。

 境内には三つの摂社がある。 松が岬公園内に建つのが「松岬神社」(写真)。上杉謙信の祠堂に合祀されていた米沢藩中興の祖・上杉鷹山が、明治35年に摂社「松岬神社」を創建し遷された。次いで大正12年に米沢藩二代上杉景勝を合祀。更に昭和13年に景勝の家老である直江兼続、鷹山の師・細井平洲、鷹山の下で活躍した竹俣当綱・荏戸善政を、松岬神社に合祀した。 上杉鷹山は日向高鍋藩主・秋月家の次男に生まれ、10歳で米沢藩主の養子となり、米沢藩第九代藩主となった。20万両の借金で破産寸前の米沢藩を、産業奨励などで財政を立て直した名君である。
米沢松岬神社

 上杉神社の左後方に建つ小社が、摂社「春日神社」(写真)。「上杉氏祖神」の立札を見て、新潟県上越市の上杉謙信の居城を「春日山城」と呼ぶ意味を初めて納得。上杉家には奈良の春日大社信仰があったのだ。春日大神は、武神・武みか槌神(鹿島神宮の祭神)と武神・経津主神(香取神宮の祭神)であり、生涯の戦で負けを知らなかった上杉謙信が信仰する神様に相応しいことを理解した。
米沢上杉神社春日

  2 上杉家廟所

 上杉神社の北、1 km離れた場所に、高い木立に囲まれた「上杉家廟所」がある。 質実剛健で格式高そうな門(写真)から入場。門に彫られた二つの丸い紋は「竹に雀」の上杉家紋である。

米沢廟所門

 廟所の中央が、初代藩主「上杉謙信公廟」(写真)である。

米沢上杉廟所

 謙信公廟の左に二代景勝公廟、右に三代定勝公廟が並び、偶数代公廟は左に、奇数代公廟は右に整然と並んでいる姿は壮観である。写真は十代鷹山公廟から右に向けて撮ったもの。これまで訪れた大名家廟所としては最高レベルで、台所事情が苦しかった米沢藩であっても、藩主を尊ぶ気概が感じられる。

米沢上杉廟所2

 上杉家廟所の前に建つのが、上杉家の菩提寺である「法音寺」(写真)。本堂前の幕に上杉家の家紋「竹に雀」が見える。真言宗豊山派の寺院で、山号は八海山。本尊は大日如来。

米沢法音寺

 法音寺の歴史は、天平九年(737)越後、八海山の麓の地に、聖武天皇の勅命により創建される。天正年間、上杉謙信の祈願寺となり春日山に移される。その後上杉家の米沢移封に伴い米沢城内(上杉神社内)に建立され、明治三年、神仏分離令により、上杉家廟所のある現在の地に移転した。
 実は息子のお嫁さんの両親の墓が、この法音寺にある。従って、この法音寺で行われたご両親の葬儀に参列している。久しぶりにご両親の墓に花を供えて、ご冥福をお祈りできた。

3 林泉寺

上杉家廟所の北、1 kmに、上杉家の菩提寺で夫人たちの墓所がある「林泉寺」(写真)が建っている。
米沢林泉寺

 林泉寺は、上杉家の本拠地であった越後の春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立されていたのを、米沢市に移転したもの。現在も上越市には、元の林泉寺が残っている。山号は春日山で曹洞宗の寺院。
 境内には、柵に囲まれた上杉藩主の正室や子女の墓(写真)が安置されている。藩主たちは1 km離れた上杉家廟所に安置されているので、夫婦が離れ離れに葬られるとは、藩主たる地位の厳しさを思い知らされる。

米沢林泉寺墓

 本堂の近くに、上杉景勝の名家老であった直江兼続夫妻の墓(写真)がある。これは夫婦睦まじく墓石が並んでいるのに安堵させられる。NHKの大河ドラマで紹介されたように、関ヶ原の戦いの前に徳川家康に送りつけた「直江状」が有名。徳川家康の所行を痛快に非難したおかげで、結果的に上杉家は会津120万石から米沢30万石に大減俸されてしまった。
 
米沢林泉寺兼続

4 笹野観音堂

米沢市の北の山麓、笹野地区に建つのが「笹野観音堂」(写真)。真言宗豊山派の寺院で、本尊は千手観音である。
米沢笹野本堂
 
 坂上田村麻呂が建立した観音堂を、後の弘仁元年(810)、現在の地に移ったと伝えられる。直江兼続の支援があったとも伝わる。 現在の堂は天保十四年(1843)に再建されたもの。奇妙な曲線の大きな茅葺の屋根や精巧な彫刻(写真)が特徴的である。

米沢笹野本堂2

 米沢駅前でレンタサイクルし、米沢市内を自転車で走り回った。後期高齢者の観光方法としては如何なものかと思われるが、おかげで米沢の市街を熟知できたのが収穫。城下町の寺社めぐりはいつも期待通り楽しいものである。

寺社めぐり 23 新潟県新発田市

寺社めぐり 23 新潟県新発田市

 新潟駅から列車でJR白新線を北に向かうと、30分で新発田駅に着く。新発田藩の城下町であったから、寺社も多いと推定し、新発田市の寺社めぐりと観光を行った。

1 新発田城

 新発田駅の北、2 kmのところに「新発田城」がある。 江戸時代に造られた「表門」(写真)から入場する。
新発田城門

 江戸時代から現存するのは、表門と「旧二の丸櫓」の二つだけで、これが新潟県に現存する城郭建造物としては唯一であることを知った。
 新発田城を築城した初代新発田藩主溝口秀勝は、尾張国の出身で、豊臣秀吉から6万石を与えられ、加賀国大聖寺から新発田に入封した。 関ヶ原の戦いでは徳川方に付いた外様大名である。 新発田に入封した秀勝は、上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡に、新発田城を築城した。
 城内を観光して表門から出ると、石垣の上に再建された辰巳櫓(写真)が見える。

新発田辰巳櫓

江戸時代、この辰巳櫓が失火した時の責任者が中山弥次衛門であり、中山安兵衛の父親である。中山弥次衛門は失火の責任を負って浪人となった。息子の安兵衛は18歳の時、家名再興のため江戸に出て、高田馬場の敵討ちによって名を挙げた。後に、赤穂藩の堀部家の養子となり、堀部安兵衛として忠臣蔵で活躍し赤穂義士となる。
寺町に向って歩いていると「義士堀部安兵衛誕生の處」と記された柱(写真)が立っていた。新発田藩から出奔した堀部安兵衛に対する新発田の人々には、義士・安兵衛に対する微妙な感情が存在するように思った。

新発田安兵衛

2 宝光寺

 寺町では沢山の寺院をめぐることができた。新発田駅の観光案内所で入手した「シバテラ(新発田・寺町の略)散策まっぷ」がとても役に立った。「まっぷ」に14も記載された寺院の中から「宝光寺」を紹介する。 小さな門から入場すると、弘化二年(1845)に再建された重厚な山門(写真)が目を引く。二層目に手すりをめぐらせた二重門で、瓦葺の入母屋造。

新発田宝光寺三門

 その後ろの横長の本堂(写真)は、山門ほどの豪華さはない。

新発田宝光寺本堂

 宝光寺は山号を広沢山という曹洞宗の寺院。起源は初代藩主・溝口秀勝が加賀国に創建した大麟寺で、慶長三年(1598)の溝口秀勝の新発田藩移封に随行して、ここ越後国に移転。秀勝が死亡すると当寺に埋葬され、浄見寺と改名。その後、将軍徳川綱吉が死亡すると、綱吉の院号である常憲院と音が通じるのをはばかって、宝光寺と改名した。外様大名が生き残るためには、江戸幕府に対して細やかな配慮が必要だったことが窺われる。
 従って宝光寺は藩主・溝口家の菩提寺であり、本堂の後ろに溝口家代々の墓所(写真)がある。会津若松市の松平家御廟や萩市の毛利家墓所に比べると、規模や墓石の配置が劣るとはいえ、藩主の墓所としての風格はある。

新発田藩主墓1

新発田藩主墓2

3 諏訪神社

 新発田の総鎮守が「諏訪神社」。 大変大きな社殿(写真)は、2001年に焼失し、2004年に再建されたもの。社殿は、拝殿、幣殿、本殿が一棟(写真)になっている。

新発田諏訪神社

新発田諏訪神社2

 創建は大化四年(648)と伝えられる。蝦夷への備えとして越後に淳足柵や磐舟柵が置かれた際、柵戸として信濃国から移住した人々が、現在の諏訪大社より分霊を勧請したのが起源とされる。 祭神は建御名方命で、大国主命の息子。父の国譲りに反対して、出雲国から信濃国まで逃げ延びた神様。 相殿神が「溝口大祖神」。初代新発田藩主・溝口秀勝公が祀られている。

4 清水園・足軽長屋

新発田市観光の最後に、新発田藩四代藩主重雄が建設した庭園「清水園」(写真)を訪れた。新潟県には珍しい本格的な庭園であり、私も何度か訪れたが、冬の雪景色の庭園が美しかった記憶がある。
新発田清水園

 清水園の隣、新発田川の向かいに建つのが「足軽長屋」(写真)。新発田藩の足軽が居住した茅葺平屋建の八軒長屋である。

新発田足軽長屋

 新潟在住中、ドライブ、スキー、ゴルフで、新発田の街を100回は通過しているが、今日ほど丹念に街歩きしたのは初めて。この歳になって、新発田の街を散策できたのは、夢のようであった。

寺社めぐり 22 新潟市

寺社めぐり 22 新潟市

 毎年5月末に開催される、元勤務していた会社のOB会出席のため新潟市を訪れ、新潟市の寺社めぐりを行った。

1 新潟県護国神社

15年ぶりの護国神社への参拝。神社の北、1 kmの場所に3年間住んでいたので、散歩コ    
ースとして何度も訪れた懐かしい神社。 大きな一の鳥居(写真)から境内に入る。

護国神社一鳥居

 長い参道の両側には、戦没者慰霊碑などの石碑が沢山並んでいる。 境内の広場に出たところに、二つの燈籠と二の鳥居(写真)が立ち、広場の向こうには護国神社の拝殿が見える。この広場で「薪能」を観賞したことが思い出される。

護国神社二鳥居

 拝殿(写真)は大きくて重厚であり、新潟県内では越後一の宮である「弥彦神社」に次ぐスケールの大きさ。 明治元年に創建され、新潟県出身の戦死者を英霊として祀り、現在の祭神の数は75.000余柱となっている。

護国神社拝殿

 参道の途中にあるのが「戊辰殉難者墓苑」。 幕末の鳥羽・伏見の戦いから始まり、やがて全国各地に広がった戊辰戦争は、新潟市も激しい戦場と化した。西軍(薩摩、長州ら新政府軍)と東軍(米沢、会津、庄内)の両軍に多数の戦死者が出て尊い命が失われた。 明治元年に新政府軍(西軍)側戦死者415柱を祀って社殿を造立し、新潟招魂社として祭られた。 これが後に護国神社と改称したもので、護国神社の創建は戊辰戦争に深く係わっていることが分った。
 「墓苑」の中心にあるのが「戊辰薩摩藩戦死者の墓」(写真)。150人くらいの戦死者の名前と年齢が記載されている(写真)が、20歳台の薩摩の若者たちの尊い命が失われたことがよく分る。 この墓に薩長政府軍の「討幕、討会津」の気迫がこもっているように感じた。 昨年は東軍の会津若松市の寺社めぐりをし、会津の人々の悲劇を学んだ。今回は、同じ東軍であった米沢市の寺社めぐりをする前の、西軍の戦死者の墓を訪ねたのには運命的な出会いを感じる。

護国神社薩摩墓

護国神社戦死者

 参道から外れた砂丘の松林の中に「蓑塚」(写真)が建っている。案内板には「俳聖芭蕉が元禄二年(1689)七月二日 奥の細道の旅で新潟を訪れたおり、古い蓑(雨具)を脱ぎすて新しいものに更えたことを言う。後人これを偲んで芭蕉の蓑塚の碑を建てると言われている」と記されている。
護国寺蓑塚

 蓑塚の傍には「芭蕉堂」(写真)という、芭蕉が新潟で泊ったであろうと模した建物があり、これは個人の造ったもの。
護国神社芭蕉庵

 奥の細道での芭蕉は、越後路(新潟県)について「鼠の関(山形県最西端)をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関(新潟県の最西端)に至る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」と書いているのみ。越後路については甚だ簡素な扱いである。同行の曽良が「午後5時頃新潟着。ここに宿泊しようとするが、後込宿という下級の宿しか空いていないという」と書いている。 芭蕉一行には越後路や新潟はよい思い出とならなかったようである。 それでも芭蕉は出雲崎で詠んだ「荒海や佐渡によこたふ天の川」という名句を新潟に残してくれている。但し「荒海」は冬の日本海の代名詞ではあるが、7月の日本海を荒海とは言わないと、私はいつも疑問に思っている。

 なお、護国神社近くの海岸で、横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致されたのが忌まわしい事件。今年に入り、北朝鮮が拉致被害者の再調査をするとか。風光明媚な新潟の海岸に、全く考えられない事件が起こっていたのである。

2 白山神社

 護国神社と並ぶ新潟市を代表する神社が白山神社。総本社の石川県白山市の白山比咩神社に次ぐ、白山信仰の大社で新潟の総鎮守である。新潟市の繁華街に近いので、新潟在住時によく参拝した神社である。 赤く大きな一の鳥居(写真)から境内に入る。

白山神社一鳥居

 二の鳥居、三の鳥居、四の鳥居をくぐると、「隋神門」という大きな楼門(写真)に至る。

白山神社随神門

 拝殿(写真)は松の枝に隠れて、全体像がつかみにくい。拝殿の内部(写真)はとても美しく、特に花を描いたカラフルな天井絵が魅力的。 「神明照覧」の大文字は「神様が見守ってくださる」の意味かと思われる。
白山神社拝殿

白山神社内部

 白山神社の主祭神は、菊理媛大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神で、加賀国の白山比咩神社を勧請したものである。菊理媛神は白山比咩大神で女神。「日本書紀」では、夫婦である伊邪那岐神と伊邪那美神が言い争いをするのをとりなした神として登場する、加賀の霊峰白山の御神体である。来年、大学のクラス会が金沢市で開催されるので、白山比咩神社参拝を楽しみにしている。
 
沢山ある境内社の中では「稲荷御蔵」(写真)が興味深い。この小社は「稲荷神社」なのであるが、高床式の建物が稲、即ち米の蔵そのものである。伊勢神宮内に建てられていた「稲荷御蔵」を、新潟地震復興を願って、昭和49年、伊勢神宮を預かる皇室から下賜されたという。これまで稲荷神社は沢山見てきたが、まことに稲荷神社らしい建築様式に感銘を受けた。

白山神社稲荷
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