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狭山丘陵寺社めぐり 80 願誓寺  (所沢市糀谷)

狭山丘陵寺社めぐり 80 願誓寺  (所沢市糀谷)

 入間市と所沢市三ヶ島を結ぶ「浅間山通」を、林地区から狭山丘陵に向って南下すると、糀谷地区に入ったところに建つ大寺が「願誓寺」。 入口(写真)の門柱には「浄土真宗願誓寺」と書かれている。
願誓寺入口

 大きな本堂の左には、浄土真宗の宗祖「親鸞聖人」の立像(写真)があり、本堂の右には小さな石庭(写真)が造られている。

願誓寺本堂

願誓寺本堂2

 大きな本堂に比べると、立像・石庭以外は山門・鐘楼もないシンプルな寺院。 願誓寺のホームページには「願誓寺は親鸞聖人を宗祖とする真宗大谷派(本山・京都・東本願寺)の寺院です。首都圏の皆様に親鸞聖人の明らかにされた浄土真宗の教えに出遭っていただきたく、平成18年に建立されました」と紹介されている。 この地は新田義貞の鎌倉攻めの時の「小手指原の戦い」の戦場に近いので、新田義貞が勝利を誓願した寺院ではないかと期待していたが、外れだった。
 狭山丘陵周辺には、真言宗、禅宗(曹洞宗・臨済宗)の寺院は多いが、浄土宗・浄土真宗の寺院が少ないのに疑問をもっていた。私の故郷・島根県には、浄土真宗の寺院が沢山あり、我が家の菩提寺も浄土真宗である。 親鸞聖人は京都で修業し、越後に流罪となり、放免された後は常陸で布教したのだから、関東には浄土真宗の寺院が多いものだと信じていた。それが狭山丘陵周辺には浄土真宗の寺院がほとんどなのに驚いていたのである。 しかも初めて出会った浄土真宗の寺院が、8年前建立と知り、少々がっかりしたものである。
 親鸞聖人の12代目において兄弟の跡目相続争いがあり、浄土真宗が東西に分裂し、長男の教如が東日本の真宗のリーダーとして東本願寺を総本山とし、真宗大谷派と称するようになった。 一方、三男の准如が西日本の真宗のリーダーとして西本願寺を総本山とし、真宗本願寺派と称するようになった。
 ホームページに書かれた「親鸞聖人の明らかにされた浄土真宗の教え」とは、親鸞の説いた「絶対他力の教え」のことで「私たちはあらゆる自己のはからい『自力』を捨てて、阿弥陀仏の本願力を信じることによってのみ救われる」ことを指していると思われる。
 初めての浄土真宗の寺院との出会いで、私もいささか勉強させられた
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狭山丘陵寺社めぐり 79 八坂神社  (所沢市林)

狭山丘陵寺社めぐり 79 八坂神社  (所沢市林)

 前報の「松林寺」を出て、林地区の中心、林交差点を左折した住宅地の中に「八坂神社」が建っている。 明神系の両端が反り上がった鳥居(写真)の向うには、小さな社殿が見えている。

八坂神社鳥居

 平成21年改築の社殿(写真)は、小さいながらとても見た目のよい社殿である。 社殿内部(写真)には小さな祠(写真)が安置され、左に「神明舎」と彫られた置物がある。

八坂神社社殿

八坂神社内部

 八坂神社の祭神は素戔嗚尊であり、狭山丘陵周辺には素戔嗚尊を祀る八坂神社、八雲神社がとても多い。明治時代に廃された素戔嗚尊の別名である「牛頭天王」の信仰がこの地で強かったものと思われる。 全国の八坂神社の総本社である「八坂神社」が、京都市の祇園に建っているので「祇園信仰」とも言われる。 元は森林地帯であった林地区が開墾され集落となったので、この「八坂神社」が勧請されたと思われる。
 社殿内の「神明舎」の置物の存在が、今一つよく分らない。隣の祠は神明社ではなく八坂神社の祠と思われる。素戔嗚尊の姉神である天照大神を祭神とする「神明舎(社?)」の置物は、伊勢神宮(祭神、天照大神)詣でをした記念品ということになるのだろうか?

 八坂神社の近くの路傍に「馬頭観音堂」と思われる祠(写真)があった。大分磨滅した石像であるが、その立ち姿は魅力的。 但し、私にはこの石像が馬頭観音であると断定できないのが問題。まだまだ石像に対する学習が不足している。

八坂神社馬頭観音

 私の姓のルーツと期待した林地区は空振り気味であったが、林地区に昔の武蔵野の姿を垣間見たように思ったのが収穫だった。

狭山丘陵寺社めぐり 78 松林寺  (所沢市林)

狭山丘陵寺社めぐり 78 松林寺  (所沢市林)

 前報「林神社」を出て、林川沿いに東に向かうと「松林寺」に着く。松林寺は「狭山観音霊場めぐり第30番札所」であり、添付した地図(写真)の赤○で示す。なお青○は、これまでにめぐった狭山観音霊場で、松林寺は最北の霊場であることが分る。

松林寺地図128

形の良い「山門」(写真)から、本堂に向かう長い参道が延びている。

松林寺山門

 参道の途中に、巨大な一対の仁王像(写真)が立って、悪者を境内に入れないように守護している。 
松林寺力士像

 更に、参道には4基の燈籠(写真)が立っている。この燈籠は江戸時代から芝の増上寺に立っていたのを、戦後西武鉄道が買い取り、現西武ドームの地に並べてあった。西武ドーム球場の建設が決まると、沢山並べてあった燈籠を処分することになり、埼玉県内の多くの寺院に引き取られて行ったという、いわくつきの燈籠である。

松林寺燈籠

 大きな本堂(写真)が建っている。本堂前の4頭のライオン像は、インドの「サルナート考古学博物館」に展示してあったライオン像のレプリカで、ライオン像はインドの国章にもなっている。サルナートは釈迦が初めて説法をした仏教の聖地で、7年前にインドを訪れた時に、このライオン像を見学したことがある。

松林寺本堂

 案内板には「松林寺 曹洞宗(禅宗) 本尊 釈迦三尊像(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩) 大本山 福井県永平寺 御開山 高祖道元禅師 大本山 横浜市総持寺 御開山 太祖瑩山禅師  伝統 お釈迦さまの正統の仏法は、達磨大師によって中国へ伝えられ、曹洞の禅風として開花し、鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。その教義は瑩山禅師によって広く全土に実践教化され今日に至る」と記されている。
 所沢市ふるさと研究室資料には「由緒 寛永年間入間郡上安松村(現所沢市)長源寺開祖徳英之法子・寒龍が創立して開祖である。寒龍は承応二年(1653)入寂した証が現存する」と記され、松林寺の本寺は長源寺であるという。
 以上のことから、本尊・釈迦如来の聖地・サルナートのライオン像が、本堂前に配置されている理由が分った。 更に、この林地区の開発に伴い、所沢市下安松地区の長源寺の息子が、長源寺から8 kmも離れたこの地に松林寺を開山したことも分った。
 釈迦三尊像は中国の唐時代に流行したもので、釈迦如来の両側に智慧をつかさどる文殊菩薩と、修行者を守護する普賢菩薩が脇侍する形式となっている。

 本堂の内陣(写真)の仏壇に、文殊・普賢菩薩を左右に配した釈迦三尊が安置されているとされるが、見つけることができなかった。

松林寺内部

 境内の真ん中に建つのが、六角堂とも呼ばれる「薬師堂」(写真)。堂内の仏壇の上にあるのが小さな薬師如来(写真)。病気を治す功徳のある仏である。

松林寺薬師堂

松林寺薬師内部

 「閻魔堂」には、地獄の主である恐い閻魔像(写真)が鎮座している。地獄に落ちた人の生前の罪を裁くと言われ、罪深い私には恐怖の仏様なのである。

松林寺閻魔像

 境内には鐘楼(写真)があり、大きな観世音菩薩立像(写真)や五輪塔があり、とても裕福な寺院であるように思われる。

松林寺鐘楼

松林寺観世音像

 前報の「林神社」が、武蔵野の森林の中に建てられたように、この「松林寺」も武蔵野の松林の中に建てられた寺院であることが推定される。今は一面の畑が広がり、郊外住宅地に変わってしまい、「林地区」の武蔵野の面影はなくなってしまっている。

狭山丘陵寺社めぐり 77 林神社  (所沢市林)

狭山丘陵寺社めぐり 77 林神社

 狭山丘陵から離れること2 km、少しタイトルの狭山丘陵から逸脱しているけれど、私の姓に係わる神社であるので、特別に訪れることにした。入間市に接する所沢市に「林地区」があり、林川の流域に建つのが「林神社」。この地域はまさに「林」のオンパレードである。 地元の人に道を尋ねながら、ようやく林神社の入口に到着。 入口には鳥居のような大きな建造物が立ち、その後ろに明神系の一の鳥居(写真)が立っている。鳥居の後ろには、長い参道が続いている。

林神社一鳥居

 長い参道の途中に、神明系の二の鳥居(写真)が立ち、明神系、神明系のいろいろな神様が合祀されていることが分る。

林神社二鳥居

 神社の境内の前を、狭山丘陵を水源とした林川(写真)が横切っており、川に架かる赤い橋は「神橋」(写真)と呼ばれている。この寺社めぐりで、神橋に出会うのは初めて。勿論、仏橋にもお目にかかっていない。

林神社林川

林神社神橋

 境内の奥には「林神社」と記された額の架かる、小振りな「拝殿」(写真)が建っている。

林神社拝殿

 拝殿に続く「幣殿」と「本殿」(写真)は、華美に流れない質素な建物である。

林神社本殿

 所沢市ふるさと研究室資料には「村社 林神社  祭神 彦火瓊々杵尊 彦火々出見尊
大山祇神 木花開耶姫命 倉稲魂命  当社天正年間(1573~92)創立したことが承応二年再営の棟札に記され現存している。 明治五年に村社となる。 当社は従来十代神社と称していたが、明治四十年山祇神社・稲荷神社の二社を合祀し、林神社と改称した」と記されている。 ほぼ同じ内容の案内板には、その他に「社名は武蔵野の林が続くことから『林神社』という」と記されている。
 祭神・彦火瓊々杵尊とは「天孫降臨」で有名なニニギノ命であり、祖母に当る天照大神の命により高天原から地上である日向の高千穂に降りてきた神様。山の神・大山祇神の娘・木花開耶姫命を妻として、生まれたのがもう一柱の祭神・彦火々出見尊即ち山幸彦である。山幸彦の孫が神武天皇となり、皇室の祖となる。 この二柱の祭神が主祭神に当り、大山祇命と木花開耶姫命は合祀された山祇神社の祭神で、倉稲魂命は合祀された稲荷神社の祭神と思われる。 

 社殿の左奥に「奥宮」(写真)という境内社が建っている。記念碑には平成元年新築で、祭神は高倉産霊神、天御中主神、神皇産霊神と記されている。これらの神様は、古事記において高天原に最初に現れた神で「造化三神」と呼ばれる。 その中で最初に現れたのが天御中主神で、全ての中心となる神様。高倉産霊神は高天原の中心的な神様。神皇産霊神は出雲の中心的な神様で、大国主命を助けたという。 小さな神社であるのに、神の世界でも最高の地位にある神様を祀ってあるのには驚いた。

林神社奥殿

 境内の建物(写真)は、舞台があるようなので神楽殿かと思われる。

林神社神楽殿

 自分の姓「林」のルーツに興味を持っている。故郷・島根県の海岸には、戦後、韓国からの密航船がやって来て、密航者が日本に潜入するのを知り、自分の祖先も韓国から船でやってきたのだと信じていた。しかし島根県には「林」と称する場所がない。 関東に来て、所沢市に林地区があるのを知り、ルーツにつながるかと関心を持っていたが、案内板には「武蔵野の林をもって林神社と名付けた」と記されていたのにはがっかり。武蔵野の林と島根県の林を結ぶのは難しい。 調べてみると、林性は北陸や中部地方に多いらしい。こうなるとルーツ探しは混沌としてきたので、しばらくはお休み。
 狭山丘陵南麓の武蔵野は、昔は生産性の乏しい茅の原であったという。それに比べ、北麓の武蔵野が森林地帯だったと知り、とても驚いた。不老川、林川、柳瀬川などの水域が森林を育成したと考えられ、茅の原の南麓よりも狭山丘陵北麓の方が人々にとって住み易かったことが推測される。この寺社めぐりには、いろいろな発見があってとても面白い。

狭山丘陵寺社めぐり 76 長久寺  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 76 長久寺

 国道16号線「東京環状」の「宮寺交差点」の東200 mに「真言宗凉光院長久寺」と彫られた石柱が立ち、そこから長久寺の「本堂」(写真)が見える。

長久寺本堂

 いつも引用させていただく入間市博物館資料には「浄悦山冷光院長久寺は、真言宗豊山派(旧新義派)で、徳川三代将軍家光の時、正保二年(1645)英俊法師が開山した。 本尊は馬鳴大士蚕守経尊像で5.5 cm(1寸八分)、聖徳太子の作といわれている。これはもと筒井順慶の守護の尊像である。 徳川時代旗本土屋忠次郎利次が奈良奉行となり、大和国平群郡額田郡村に至り五百石を拝領知行した。この地はもと筒井順慶の領地で廃城後は順慶法心入道して、額田郡村の山峰に馬鳴大士を安置した。正保二年に利次が土屋新田に一寺を建立し、その後寛文四年、筒井氏より奈良奉行に献上されたので、その尊像を長久寺に奉進したものである。 古来本寺は東京都村山中藤真福寺末寺であったが、明治二十九年奈良真言宗大本山長谷寺の末寺となった」と記されている。
 更に入間市博物館資料は馬鳴(めみょう)大士について「馬鳴大士は古代インドの詩人であり、また織物特に色彩或いは工作方面に才たけており、従って詩人であると共にデザインの名人、言いかえると芸術家でもあったようである。古来日本の衣料は養蚕に求められていたので、このへんから信仰がうまれたのではないか」と記されている。 毎年4月には長久寺で「馬鳴(みんみょう)様祭」が催され、近郊の人々で賑わうとされる。
 聖徳太子の作と伝えられる馬鳴大士像が、長久寺に安置された経緯については、資料だけでは分かり難いので、後述する。

 境内には「奥多摩新四国八十八ヶ所霊場第六十二番札所」(写真)がある。 真ん中の座像は、真言宗開祖の空海・弘法大師で、右の立像は真言宗の本尊・大日如来ではないかと思われる。 左の石柱には「光明真言五百万遍供養塔」と刻まれている。

長久寺札所

 光明真言とは、密教の真言であり、真言宗のお祈りの言葉と思われる。 真言は23の梵字から成り、その発音と意味は
 オン アボキャ ベイロシャノウ 不空なる御方よ 毘慮遮那仏(大日如来)よ
 マカボダラ マニ ハンドマ   偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
 ジンバラ ハラバリタヤ ウン  光明を 放ち給え
このお祈りを、500万回唱えた記念碑が「光明真言五百万遍供養塔」のようである。

 本堂右手の広場に、大小11の墓石(写真)が並んでいる。

長久寺墓所

 案内板には「旗本土屋氏の墓付墓石一基  これらの墓石は、旗本として徳川氏に仕えた土屋氏一族(初代利常から十代利薄の墓石と家来の付墓石)のものである。 土屋氏は、利常が初代旗本に登用され、寛永二年(1625)に中野村(現入間市宮寺)の一八七石を初めとする五八〇石余りの領地を拝領した。利常は、没後二本木の地福寺(現在廃寺)に葬られたが、後に長久寺(この場所)に移葬されている。 二代利次は、中野村北部の土屋新田(現宮寺北中野)を開墾し、その一角に正保二年(1645)浄悦山長久寺を建立して、土屋氏の菩提寺と定めた。なお、利次の次男成勝が出家して、長久寺の第一世住職栄俊となぅている。 また、利次は、寛文四年(1664)に奈良奉行となって、大和国平群郡額田部村(現奈良県大和郡山市)に五百石の知行地を加増されるとともに、額田部村森川重左衛門より馬鳴大士像を寄進され、これを長久寺に奉納している」と記されている。
 この案内文で、大和国にあった馬鳴大士像が、はるばる長久寺にやってきたことが理解できた。但し、奉納された聖徳太子作、筒井順慶所有だったお宝を、遠い東国の弟の寺に移す行為は如何なものかとも思われる。 墓石群は存在感があるし、旗本の知行や移封の様子がよく分り、興味深い寺院であった。
 更にこの辺りは、狭山丘陵から1.5 kmは離れ、その間を林川、不老川が流れている。不老川の北の原野、森林を旗本・土屋氏が開墾して、土屋新田と名付けたことも分った。 更に北の河岸段丘の上には「入間市博物館」の巨大な建物が建っている。バブル前に建てられた「夢の跡」を思わせる博物館を訪ねて、入間市の寺社資料を入手したのが、積雪の残る寒い日だったのが印象深い。

狭山丘陵寺社めぐり 75 長福寺  (入間市二本木)

狭山丘陵寺社めぐり 75 長福寺

 前報「寿昌寺(上の寺)」から200 m東北に建つのが「長福寺(下の寺)」である。入口の「不儘山長福寺」と彫られた白い石柱(写真)から、長い参道に入る。

長福寺入口

 六地蔵の立ち並ぶ「山門」(写真)は、鎌倉の武家屋敷の門を思わせるような造り。

長福寺山門

 本堂(写真)は大きくて重厚な造りである。

長福寺本堂

 本堂の内部(写真)は金色に輝き、とても美しい。

長福寺内陣

 入間市博物館資料には「長福寺は臨済宗建長寺派に属し多摩郡柴沢村普済寺末。本尊は釈迦如来である。初代桃源宗悟禅師が開山、永徳二年(1382)入寂。 この長福寺はもと宮寺郷坊村にあったものを、八世関宗玄悦禅師が寛文九年(1669)に現在の地に移転したもので、今から六百年前に建立された古い寺である。 保存されている延享年間(1744~47)の過去帳を見ると坊村、西坊村に多数の檀家があり、西坊村は現在の元狭山坊と考えられ、中心は宮寺の坊にあったようである。宮寺出雲祝神社を一番地として振り出した地番は二本木に二千八百番代、高根に三千番代がある。これは新開地に寺を建立すると同時に住民移住したものと考えられる」と記されている。
 先ず、多摩郡柴沢村普済寺は立川市の普済寺と考えられ、長福寺の本寺に当る。 この長福寺はもともと狭山丘陵の出雲祝神社近くに建っていたのだが、二本木地区の開墾が進み、丘陵に住んでいた人々が二本木地区に移住してきた時に、長福寺も人々と一緒に移転したことが分る。我が東大和市においても、狭山丘陵に住んでいた人々が、立川市方面に移住して行ったのと同じ歴史なのである。

 境内には、毎朝5時に鐘が鳴らされる鐘楼(写真)があり、不動尊堂(写真)が建っている。但し堂内には像が安置されていなかった。

長福寺鐘楼

長福寺不動堂

 境内の明治三十年に造られた「百体地蔵尊」(写真)は圧巻である。四角な柵を背にして並べられた百体の地蔵尊像はとても美しい。

長福寺百体地蔵尊

狭山丘陵寺社めぐり 74 寿昌寺  (入間市二本木)

狭山丘陵寺社めぐり 74 寿昌寺

 狭山観音霊場めぐり地図(写真)のもっとも西北に当る札所が「寿昌寺」で、赤○で示す。緑○は、これまでに参拝してきた札所。

寿昌寺地図127

 入口の白い石柱(写真)から境内に入る。

寿昌寺入口

 大きな堂々とした本堂(写真)である。

寿昌寺本堂

 入間市博物館の資料には「鶴園山寿昌寺 臨済宗建長寺派 本寺 建長寺 開基 蔵海性珍禅師  鶴園山寿昌寺は応永年間(足利時代前期)の建立で、初代蔵海性珍禅師大和尚が開山した。同僧は応永十六年(1409)入寂し、以降十五世に至っているが、現住職は長福寺渡辺和尚が兼務している。 本尊は釈迦如来で、俗に長福時は二本木下の寺といい、この寺は上の寺と呼ばれている」と記されている。 これから訪れる予定の長福寺とは同じ宗派であるので、長福寺住職が兼務しているのを理解した。更に近くを流れる不老川の流れは、寿昌寺が上流にあたるので「上の寺」と呼ばれることも理解した。

 境内に、すごく形のよい「観音堂」(写真)があり「狭山観音霊場めぐり27番札所 本尊正観音 室町時代作 文政五年(1886)造の根本山薬師堂を、昭和五十八年移築」と書かれた案内板が立っている。堂内を覗いたが、正観音像は見当たらなかった。

寿昌寺観音堂

 境内の鐘楼(写真)の鐘は、昔から美しい、いい音がする。鐘の中に金が入っているからだ、と評判があったが、第二次世界大戦に供出したという。今の鐘は、下の寺と同じく京都で鋳造されたものである。 鐘楼の前には、交通事故で亡くなった夫を供養した「交通安全地蔵尊」が、六地蔵と並んで立っている。

寿昌寺鐘楼

 境内には「閻魔堂」(写真)があり、格子の中から怖そうな石造の閻魔大王像(写真)が睨みつけている。この閻魔大王像は享保十五年(1730)廃寺となった浄珍寺にあったものを、移し替えたという。 閻魔は地獄、冥界の主であるが、おだやかな表情の地蔵菩薩の化身でもある。

寿昌寺閻魔堂

寿昌寺閻魔大王

 入口の近くに4体の「馬頭観音」が祀られている。いずれもこの二本木地区に立っていたものを、この場所に集めたものであろう。
 
寿昌寺馬頭観音

寺社めぐり 21 根津神社 ツツジ

寺社めぐり 21 根津神社 ツツジ

 5月1日、好天に恵まれて、根津神社のツツジの花の観賞に出掛けた。

1 根津神社

表参道入口の鳥居(写真)付近は「根津神社つつじまつり」の観光客が多い。

根津神社鳥居

境内の左手斜面のツツジ(写真)は、残念ながら三分咲き程度。「ツツジの名所」である境内は旧甲府藩邸であり、甲府藩主であった第五代将軍徳川綱吉の兄、綱重が屋敷の庭にツツジを植えたことに始まるという。

根津神社ツツジ

 社殿は、楼門(写真)唐門と瑞垣(写真)拝殿(写真)と連なり、緑の屋根と赤や金色の柱や壁が、とても美しい。いずれも国の重要文化財に指定されている。

根津神社楼門

根津神社唐門

根津神社拝殿

 丘の上から見える社殿は、右から拝殿、幣殿、本殿が一体(写真)となった権現造りの傑作とされる。
根津神社本殿

 根津神社は、1900年ほど前に、日本武尊が創祀したと伝えられる。文明年間(1469~86)には大田道灌により社殿が造られた。 江戸時代、ツツジを植えた綱重の子・綱豊が第六代将軍・家宣に就任すると、根津神社は家宣の産土神とされて興隆し、宝永3年(1706)に現在の社殿が完成した。当時は「根津権現」とも称された。
 主祭神は、須佐之男命(八坂神社の祭神)大山咋命(日吉神社の祭神)誉田別命(八幡神社の祭神)。相殿に、大国主命(出雲大社の祭神)菅原道真公(天満宮の祭神)。境内社に二つの稲荷社(祭神は宇迦之御魂神)となると、天照大神以外の有力な神様が、根津神社に勢揃いされており、まことに壮観である。天照大神を祀らないのは、皇室の伊勢神宮信仰への配慮があったものと思われる。

2 円乗寺

 根津神社から少し歩いて、八百屋お七ゆかりの「円乗寺」(写真)を訪ねた。

円乗寺

 天和2年(1683)の大火で焼け出され、この寺で避難生活中のお七は、寺小姓の吉三郎と恋仲になる。寺を引き払った後、お七は吉三郎と会いたいために家に放火して捕まり、鈴ヶ森刑場で火あぶりに処せられた。
 境内にお七の墓(写真)がある。寛政年間に、お七役で名を馳せた四代目岩井半四郎によって建立された。真ん中の小さいのがお七の墓。

お七の墓

 今年1月に鈴ヶ森刑場跡を訪れ、お七が火あぶりにされた場所を知っていたのが、今回の参拝につながった。 更に成長した吉三郎が住職をしていた、目黒の「大円寺」も参拝した経緯がある。
 円乗寺は、南緑山正徳院円乗寺という天台宗の寺院。本尊は、聖観世音菩薩と釈迦牟尼如来である。
 
 近くの大円寺には「ほうろく地蔵」(写真)がある。お七を供養するために熱したほうろく(素焼きの土器)を頭にかぶり、火あぶりの刑になったお七の苦しみを受入れる地蔵が安置されている。 この地域の人々のお七に対する深い同情があるのがよく分る。

ほうろく地蔵

3 六義園

 根津神社のツツジがイマイチだったので、バスで「六義園」のツツジ観賞に向った。 「六義園」(写真)は、徳川五代将軍・徳川綱吉の御用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。

六義園

 「六義園」の名称は、紀貫之が「古今和歌集」の序文に書いた「六義(むくさ)」という和歌の、六つの基調を表す語に由来する。 「六義園」には、将軍綱吉のお成りが58回もあり、柳沢吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。

 六義園は昔からツツジの名所であり、今回は満開に近いツツジの花(写真)を観賞できた。

六義園ツツジ

 特に「八重」の濃い赤色のツツジ(写真)はとても美しかった。

八重ツツジ
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