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狭山丘陵寺社めぐり 73 二本木神社  (入間市二本木)

狭山丘陵寺社めぐり 73 二本木神社

 二本木神社は狭山丘陵から1 kmも離れていて、狭山丘陵の寺社とは言い難いけれど、入間市二本木地区の狭山観音霊場を訪ねるついでに足を延ばしてみた。 前報の「元狭山神社」から更に北に向い、大妻女子大に至る途中に、二本木神社がある。 参道の入口に「村社 二本木神社」と彫られた白い「石塔」(写真)が立っている。

二本木神社入口

 参道を進むと急勾配の石段がある。石段の横の坂道(上の写真の右側に見える道路)は「オッパケ坂」と呼ばれている。オッパケという言葉の由来は「ハケ(崖のこと)」からきているらしい。この辺りは不老川の河岸段丘の崖が続いている地形。その崖を上る坂道が地元の人々に「オッパケ坂」と呼ばれたらしい。「オバケ坂」を予想していたのは、外れ。
 石段を上ってハケの上に造られた参道に出ると、風格のある大きな木造の明神系の鳥居(写真)が立っている。

二本木神社鳥居

 参道を進むと、これも風格のある二本木神社の拝殿(写真)が建っている。

二本木神社拝殿

 拝殿から続く本殿(写真)は、拝殿の後方に隠れ見難いが、これも堂々とした建物である。

二本木神社本殿

 入間市博物館資料には「村社 二本木神社 祭神 素戔嗚尊 少彦名命  総説 二本木神社は菅原道真公を万治二年(1659)勧請し、また元禄三年(1690)素戔嗚尊を祀ったものである。又祭神は少彦名命ともなっており、旧来産土神であったことから明治五年村社に列せられ、明治四十五年字伊達にあった八雲神社、金比羅神社、稲荷神社もここに移された。元の社号は渡唐天神社と称していたが、更に改めて二本木神社となった。 二本木の語源は元狭山小学校(現瑞穂第三小)南の高台に二本の大きな榎があり、これを二本榎と呼び、のちに二本木と唱えるようになったと伝えられる」と記されている。
 祭神の素戔嗚尊、少彦名命共に出雲の神様で、狭山丘陵北麓ではもうお馴染みの神様。 産土神(うぶすながみ)とは、その者が生まれた土地の神様を指し、その者を一生守護し続け、その者が他所に移住しても産土神が守護してくれるという。従って素戔嗚尊、少彦名命を産土神とする二本木神社は、二本木村の村社として崇められたのである。 昔は渡唐天神社と呼ばれていたのは、菅原道真と中国・宋の仏鑑禅師を結びつけた、室町時代の禅宗の信仰に係わるものらしい。 そして最後に、二本榎が二本木の地名となったことを知った。

 境内を歩くと、大きな境内社「金比羅神社」(写真)が建っている。明治時代に二本木神社に合祀されたのだが「金比羅神社」が境内社として残されているのは、地元の人々の格別な信仰があったのだろう。 総本社は香川県琴平町の「金刀比羅宮」で、祭神は金毘羅大権現。もともとはインド・ガンジス川に棲む鰐を神格化したクンピーラ神が、日本に入って来て金毘羅神として祀られるようになった。本来は水に関係する漁業・航海の神であるが、雨乞いの神で農業殖産の神でもある。
二本木神社境内2

 もう一つの小さな境内社は「三峯神社」(写真)。総本社は埼玉県秩父市にある三峯神社。主祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊。社伝によれば、日本武尊の東征中に創建されたという古社。山犬信仰が有名である。
二本木神社境内1

 合祀された「八雲神社(祭神、素戔嗚尊)」「稲荷神社(祭神、倉稲魂命)」の境内社は存在しない。いずれも狭山丘陵北麓には数多く見かける神社である。
 境内で見つけた狛犬(写真)は、獅子を思わせる迫力がある。牛頭天王とも呼ばれる「荒ぶる神、素戔嗚尊」を祀る神社に相応しい、猛々しい狛犬だった。 「オッパケ坂」の急石段を上った甲斐のあった二本木神社だった。

二本木神社狛犬

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寺社めぐり 20 塩船観音寺 ツツジ  (青梅市塩船)

寺社めぐり 20 塩船観音寺 ツツジ

 4月23日、奥多摩での高校同期会の帰りに、ツツジの観賞を楽しみに「塩船観音寺」を訪れた。 入口に建つのが仁王門(写真)と呼ばれる切妻造、茅葺の八脚門。門の中に二つの仁王像が立ち、悪い人が入って来ないように睨みつけている。

塩船仁王門

 仁王門をくぐり、石段を上ったところに建つのが阿弥陀堂(写真)。寄棟造妻入、茅葺形銅板葺である。仏壇の上にあるのが阿弥陀如来だと思われるが、撮影禁止であるのが残念。

塩船阿弥陀堂

 更に上って行くと、広場の左奥に「薬師堂」(写真)が建っている。堂内には木造薬師如来立像が安置されている。赤い布に「ぼけ封じ薬師如来」と書いた幟が10本も並び「後期高齢者となったあなたの参拝を待っていた」と言われているように思うのは、私のひがみ。 薬師如来は病気治癒の仏様であることから、ぼけは病気の一種ということか。

塩船薬師堂

 広場から石段を上ったところに建つのが「大悲山塩船観音寺」の本堂(写真)。 

塩船本堂

 パンフレットの塩船観音寺の由来には「大化年間(645~650)に若狭国の八百比丘尼が、一寸八分の紫金の千手観音を当寺に安置したのが開山と伝えられ、貞観年間(859~877)には安然和尚が十二の坊舎を建て興隆を極めたと伝えられております。 当寺の御本尊は十一面千手観音の木彫立像で、像身四尺六寸(1.4 m)鎌倉時代・文永元年(1264)の作にして、宋朝様式の影響を多分に受けています」と書かれている。 大化年間とは、大化の改新のあった飛鳥時代であり、貞観年間とは、空海・最澄が活躍した平安時代初期に当り、すると武蔵の国では大変な古寺ということになる。但し「伝えられています」という表現が微妙であり、古代を明かす物証はないように思われる。
 鎌倉時代には武蔵七党の流れを汲む金子氏の庇護を受け、室町時代には青梅・奥多摩方面に勢力をもっていた三田氏の帰依を得て栄えたとされる。 更に三つの札所でもある。即ち、関東八十八ヶ所72番、東国花の寺百ヶ寺東京13番、奥多摩新四国59番の札所である。
この「狭山丘陵寺社めぐり」を終えたあとは「東国花の寺百ヶ寺」巡礼に出るのも面白い。
 塩船観音寺は真言宗醍醐派の別格本山であり、本山・醍醐寺に次ぐ寺格を持つ大寺。軒下につながる赤・黄・緑・青・白の旗状の幕は、チベットの寺院のタルチョを想わせる。この幕は真言宗醍醐派に通じるものか、単につつじ祭りのものかが見分けられないのが口惜しい。

 本堂横の高地から見渡す塩船観音寺の風景(写真)は見ごたえがある。

塩船展望

 パンフレットには「塩船とは、周囲の地形が小丘に囲まれ、舟の形に似ており、仏が衆生を救おうとする大きな願いの舟である『弘誓の舟』になぞらえて塩船と名付けられたのであります」と記されている。 ツツジの開花は一分咲程度であるのが残念。満開時には、周辺の丘がツツジの花で埋まってしまうのである。
 三方を丘に囲まれた中心に建つのが「護摩堂」(写真)。真言宗などの寺院で、護摩をたき修法を行うための仏堂で、本尊は不動明王。 「厄除け祈願」の幟が沢山並んでいる。

塩船護摩堂

 谷間の最奥の丘の上には、大きな観音像(写真)が立っているが、この美しい小丘には不釣り合いのように見える。
塩船観音像2

 最後に、三分咲となった鐘楼下のツツジ(写真)と納札堂上のツツジ(写真)を紹介する。 ゴールデンウィークには満開のツツジを観賞でる、塩船観音寺は「花の寺」である。

塩船鐘楼

塩船納札堂

狭山丘陵寺社めぐり 72 元狭山丘陵神社  (瑞穂町駒形富士山)

狭山丘陵寺社めぐり 72 元狭山神社  (瑞穂町駒形富士山)

 前報「五輪様の柿の木」から北上すると、駒形富士山地区の北端に「元狭山神社」がある。 入口の石段の上に神明系の鳥居(写真)が立ち、長い参道の両側に赤い燈籠が並んでいる。

元狭山入口

 参道の奥に、四角い造りの拝殿(写真)が建っている。

元狭山拝殿

 拝殿の内部(写真)は、赤い布を基調としたとても簡素な造り。

元狭山拝殿内

 本殿(写真)は前方からは見えにくいが、拝殿同様にがっちりした造り。

元狭山本殿

 案内板には「大正七年、地元の四社を合祀して創建した。合祀された神社は、駒形神社。木造りの葦毛の馬が奉納されていたこと、または神社の地形が駒に似ていたのが駒形神社の名称の由来。二社目は1505年創建の高根神社。高根大明神と呼ばれていた。三社目は1708年創建の八雲神社。 四社目は蛇骨を祀って神宝としていた子安神社」と記されている。 私は、「元狭山神社」という名称から、同じ瑞穂町の大社「狭山神社」よりも創建が古いのかと想像していたが、大正時代の創建とは意外だった。
 駒形神社、高根神社は、地元の地名を冠する神社であり、祭神は不明。 後日、ブロ友様から「駒形神社は天正年中再造営との伝承があり、八王子域との関係を伺わさせるのですあ、江戸初期の地頭が祀ったとも云われ、興味の尽きない神社です」とのコメントを頂いた。 八雲神社は狭山丘陵北麓に多い、素戔嗚尊を祀る神社。 寺社めぐりに初めて登場する「子安神社」は、伊勢神宮内宮にある神社で、八王子駅前にも大きな神社がある。その祭神は木花開耶姫神。瓊瓊杵尊の妻で、猛火の中で3柱の子を出産したとされ、安産祈願の神様。木花開耶姫神は、狭山丘陵に多い浅間神社や山神社の祭神でもあり、人気の高い神様。 その後、ブロ友様から「子安神社に蛇骨が祀られているとは初めて知りました。成木村からの勧請とされ、日本武尊が祭神であるところから来ているのでしょうか?」とのコメントを頂いた。伊勢内宮の神社とは祭神が違うことを教えられた。

 境内には「神楽殿」(写真)がある。比較的新しい造りなので、今でも使われる現役の神楽殿かと思われる。
元狭山神楽殿

 元狭山神社の隣に「元狭山ふるさと思い出館」が建っており、この付近は「元狭山村」と呼ばれる地区だったことが判明。 明治22年、二本木村、高根村、駒形富士山村、富士山栗原新田村の4村を統合して「元狭山村」が誕生した。狭山郷の発祥の地という意味かと思われる。

狭山丘陵寺社めぐり 71 五輪様  (瑞穂町駒形富士山)

狭山丘陵寺社めぐり 71 五輪様

 狭山丘陵北麓の丘陵沿いの寺社めぐりを終えた。今日からは狭山丘陵から少し外れた、狭山丘陵北方の寺社めぐりをスタート。先ず瑞穂町の狭山神社の傍を北に向い、駒形富士山地区の「五輪様の柿の木」を目指した。 「兜稲荷神社(55報)」で紹介した「五輪様の柿の木の下に落ちていた兜を拾って、祀ったのが兜稲荷神社の始まり」に興味を持ったのが「五輪様の柿の木」を目指した所以である。
 駒形富士山部落の中に、柿の木の大木(写真)が見えてきた。

五輪様カキ木

 大木の幹に添うように、鳥居(写真)が立ち、その向うに小さな祠が見える。

五輪様鳥居

 祠の中に、長い年月を感じさせる古い五輪塔が二つ(写真)安置してある。

五輪様

 案内板には「五輪様と柿の木  五輪様は二基の五輪塔で、伝承によると天正年間(1573~91)甲州武田の家臣がこの地方に住んだといわれ、また天正十年武田氏滅亡の時、その家臣加藤丹後守一族が落ちのびて箱根ヶ崎で討死した際、細渕氏はこの富士山の地に来たり土着したという。 その先祖の供養塔として五輪塔を建てたとみるならば、ここは細渕家先祖の墓であり子子孫孫守り継がれ、墓域は墓地として大切に保存され、五輪様の名で厚く祭祀されてきた。 傍らの柿の木は、古くこの墓所に生育したもので野柿の一種である。推定樹齢三百年、目通り幹周りは二、三五メートル、樹高は十四メートルあり、樹勢なお盛んで枝は遂に地に届くまでに至った。実を採ることや枝を折ることなど固く禁忌として、人皆これを守ってきた」と記されている。
 五輪塔は鎌倉時代以降に一般化した、供養塔や墓塔である。 この五輪塔は武田氏との繋がりがあるようで、一方兜稲荷神社の神主さんも武田家との繋がりがあると言われている。すると柿の木の下に置いてあった兜と伝えられるのは、武田氏所縁の武士の兜、または加藤丹後守一族の兜とも推理できるが、真実は分らない。 五輪塔と柿の大木の組合せには、何故か中世の息遣いを感じた。

 五輪様を訪ねる道端に、庚申塔(写真)が立っていた。駒形富士山地区の人々の、庚申塔への深い愛着が感じた。
五輪様庚申塔

狭山丘陵寺社めぐり 70 三ヶ島八幡神社  (所沢市三ヶ島)

狭山丘陵寺社めぐり 70 三ヶ島八幡神社

 去る3月4日に狭山丘陵北麓の寺社めぐりを、愛用の自転車で実施した。福泉寺(53報)からスタートして16社をめぐったところで15時を過ぎた。今日の寺社めぐりは、次の三ヶ島八幡神社を最後と決めて、再び狭山丘陵の中に分け入った。狭山観音地図(写真)の赤○が三ヶ島八幡神社。緑○はこれまでにめぐった狭山観音札所。

三ヶ島八幡神社地図126

 路傍で見つけたのが馬頭観世音碑と地蔵像(写真)。寺社めぐりをしているとき、偶然の石像との出会いはもっとも嬉しい瞬間である。

三島八幡馬頭

 丘陵の尾根の上に、笠木の両端が上に反った明神系の鳥居(写真)が見えた。狭山丘陵北麓では初めての南向きの鳥居で、丘陵に向きあう形となっている。鳥居の右に「八幡神社」と刻まれた、大きな石碑も立っている。

三島八幡鳥居

 鳥居の向うに形のよい「拝殿」(写真)が建っている。拝殿の横から眺めると、拝殿に続くやや小振りな本殿(写真)が見える。

三島八幡拝殿

三島八幡本殿

 案内板には「三ヶ島八幡神社  狭山丘陵の西北に八幡社あり、応神天皇(誉田別尊)を祀る地は三ヶ島に属す。 往古、元和発亥九年(1623)、代々ここに住める郷民、鶴岡八幡宮より分祀勧請して一社となし、子孫の守護繁栄を祈願せり。 郷民の崇敬、年を経て重畳、遂に宝暦辛己十一年(1761)大破、三ヶ島村を知行する旗本、武蔵孫之丞、郷民とともに修復普請、建立をなす。社殿の御神体は文化庚午七年(1810)銘文の御神像を祀り、また御神鏡を安置せり  境内社 湯殿神社(大山祇命) 八雲神社(素戔嗚尊)」と記されている。 
神社の創建は江戸時代初期で、修復が江戸時代中期であることが分る。 三ヶ島の近くに大破地区が存在したようであるが、今はどこに位置するのか不明。これから所沢市を歩く時に、大破地区を注意して探してみたい。更にその地区を知行していたのが「武蔵孫之丞」という、武蔵地方管轄にはうってつけの名前であるのが興味深い。
社殿の左に二つの境内社が並び、左側が「湯殿神社」(写真) 出羽三山として名高い羽黒山、月山と並ぶ湯殿山に建つのが「湯殿山神社」 ご神体の大きな岩の上から流れ落ちるお湯(温泉)が特異な風景であった。趣味の温泉めぐりの第139湯目が、湯殿山温泉だと記録している。 この寺社めぐりでは、初めて登場する湯殿神社が、何故ここに祀られているのかは不明。湯殿山神社は修験道の霊地とされているので、境内社「湯殿神社」は修験に関連するのかも知れない。 

三島八幡境内社1

湯殿神社の右に建つ境内社が「八雲神社」(写真)狭山丘陵北麓の神社に多い素戔嗚尊信仰である。
三島八幡境内社2

境内の一角には三個の「力石」(写真)が並び、昔の若者の力比べが偲ばれる。

三島八幡力石

三ヶ島八幡神社をもって、本日の狭山丘陵北麓の寺社めぐりを終える。犬を連れた子どもに「狭山湖の堤防への道」を尋ねると「丘陵への坂道を上れ」と教えてくれた。狭山湖の最奥部からスタートしたのが、いつの間にか狭山湖の堤防の近くにまで来ていたのである。 次は狭山丘陵北麓から離れた平野部の寺社を、瑞穂町、入間市、所沢市と回ることになりそう。この距離的にもっとも苛酷な寺社めぐりをやり遂げれば、狭山丘陵寺社めぐりのゴールが見えてくるのではなかろうか。楽しみである。

狭山丘陵寺社めぐり 69 常楽院  (所沢市三ヶ島)

狭山丘陵寺社めぐり 69 常楽院

 国道179号線の早稲田大学の入口近くに「真言宗豊山派 長坂山常楽院」と記された大きな寺院門碑(写真)が立っている。 入口に立つ二つの石燈籠は、西武鉄道から寄進されたもので、戦後、徳川幕府の墓所(増上寺など)から西武・堤家が、沢山の石燈籠を買い取ったと聞いている。二つある石燈籠の一つは、伊勢亀山城主松平家が、正徳六年(1712)に七代将軍に寄進したものである。
常楽院入口 

 境内に入ると、常楽院の大きな本堂(写真)が建っている。

常楽院本堂

 本堂の内部(写真)はとてもシンプルで、仏壇は張られた幕の後ろにあるように思われる。

常楽寺内部

 門碑の後方の案内板には「当山のご案内  当山の本尊は不動明王で、当寺は長坂山
常楽院薬王寺と号し、遠く大和の国真言宗豊山派大本山長谷寺に属し、かっては東京都武蔵村山市中藤の真福寺の末寺として三ヶ島の現在地に、約一千百年の星霜を経て栄えつつある寺院であります。 通称常楽院と呼ばれているが、徳川十代に亘り七石三斗を賜りし御朱印寺です。なお、僧妙澤筆に依る不動明様の三幅の画像が安置されています」と記されている。
 22報で紹介した「真福寺」は、この地方の真言宗豊山派の本寺で、狭山丘陵周辺の22寺が真福寺の末寺であることは知っていたが、狭山丘陵の反対側にまで勢力が及んでいたことを初めて知った。 真言宗のご本尊は大日如来であるが、常楽院の本尊・不動明王は、大日如来の化身であり、真言宗の宗祖・空海が日本に伝えたとされる。
 
 境内で目立つのが、本堂に向きあって建つ「薬師堂」(写真)。堂内部(写真)の仏壇の木箱の中に、薬師如来像が安置されているのだろうか? 説明板に「長坂山常楽院薬王寺と号する」と記されていることから、薬師堂は薬王寺とも呼ばれているようである。薬師堂の本尊である薬師如来は、病気を治す功徳があるとされる仏様。立派な薬師堂に祀られて、三ヶ島の人々にとても敬われているに違いない。

常楽寺境内社1

常楽院大師内部

 薬師堂の建つ丘(写真、右が薬師堂)には、中腹に小さな弁財天堂が建ち、丘の頂上には「白玉石尊大権現堂」が建っている。白玉石尊大権現がどのような神様なのかはよく分らない。権現とは、日本の神社が日本仏教に取り入れられた際に、権現という神号がもちいられたもので、白玉石尊という神様が寺院に祀られていることは分る。白玉石という石材はあるが、その石の神様がおられるとは思えないのだが・・・・・・・

常楽寺全境内社

 通常は野ざらしである六地蔵が、常楽院では屋根の付いたお堂(写真)に入っている。前々報で六地蔵の有難さを学んだので、大切にされている六地蔵の姿を見るのは嬉しい。

常楽寺六地蔵

狭山丘陵寺社めぐり 68 聴松軒  (所沢市堀之内)

狭山丘陵寺社めぐり 68 聴松軒

 前報「金仙寺」から、早稲田大学沿いに谷の奥に向かうと、民家の裏の丘に「聴松軒」がある。観音霊場地図(写真)の赤丸が聴松軒で、緑丸はこれまでに参拝した狭山観音霊場の札所。1年と3ヵ月をかけて、我が家からようやくこの地までたどり着けた。

聴松軒地図125

 丘の上り口に看板が立ち「狭山観音霊場めぐり 第31番札所 聴松軒 本尊 馬頭観音」と記されている。 丘の上に「馬頭観世音」の額が架かる、聴松軒の小振りな「本堂」(写真)が建っている。
聴松軒本堂

 聴松軒は真言宗豊山派の寺院。 本尊の馬頭観音は観音でありながら、まるで不動明王のような怒った顔をして、頭上に馬の頭を乗せているのが特徴である。馬頭観音は主に畜生道を教化するといわれる。民間信仰も篤く、牛馬や家畜の守護をし、無病息災を願う信仰が生まれた。ここ武蔵地方の路傍には、馬頭観音像がとても多いが、このように本尊として祀られているのは珍しい。
 境内の裏には多くの石造物(写真)が並んでいる。正面の左から、享保19年(1734)造立の馬鳴尊者像、宝永8年(1711)造立の不動明王像、宝永7年(1710)造立の大日如来像。左側には地蔵像と了念仏法師像、右側には六地蔵像が並んでいる。

聴松軒馬頭観音

 馬鳴尊者とは、馬頭観音の別名かと思ったが間違いで、古代インドの有名な仏教詩人アンヴァゴーシャの漢訳名とのこと。馬鳴尊者は禅宗の始祖として数えられ、道元禅師の「西法眼蔵」に、馬鳴大和尚として取り上げられている。 大日如来は真言宗の本尊であり、不動明王は真言宗の寺院が本尊として祀ることが多く、この二つの石像は聴松軒が真言宗の寺院であることを示している。
 小さな境内社(写真)があり、その梁に「弁財天神」「市杵比女神」と記されている。

聴松軒境内社

 市杵比女神は、宗像三神の一柱「市杵島姫命」と考えられ、美人の誉れ高い市杵島姫命は、弁財天神と同神とされる。いずれにせよ両神は「水(海)の神」であるので、狭山丘陵の水源を護る神様として祀られているのであろう。
 狭山丘陵の奥深くに、家畜と水を護る寺院と境内社が、密かに建っていたいることを確認できた。

狭山丘陵寺社めぐり 67 金仙寺  (所沢市堀之内)

狭山丘陵寺社めぐり 67 金仙寺 

 前報「中氷川神社」から狭山丘陵の中に分け入ると、早稲田大学キャンバスに突き当たる。キャンバスの西隣の丘陵の斜面に「金仙寺」が建っている。石段を上っていくと、金仙寺の修復中の「本堂」(写真)の前に出る。

金仙寺本堂

 本堂前の案内板には「別所山 西光院 金仙寺  宗派 真言宗 豊山派  総本山 奈良県桜井市 長谷寺  今から約千百年前に覚堂という僧が、真言宗を開かれた弘法大師空海(774~835)の作られた身の丈約五十九cmの阿弥陀如来を本尊として、現在地の西方「堂入り」に開山したと伝えられています。 その後、鎌倉北条氏の信仰を得て、建長六年(1254)に八町歩余りの土地が寄贈されました。 現在地へは天正十八年(1590)尭戒律師によって再建されました。 また、昭和三十八年現在の本堂が落慶しました。 本堂内には本尊阿弥陀如来・宗祖弘法大師・中興の祖興教大師・不動明王・観音菩薩像を安置しています」と記されている。
 ご本尊が空海作の阿弥陀如来像ならば、国宝級の仏像となるが、高僧・行基の仏像の如く、製作した物証はないが「と伝えられています」の説明には納得せざるを得ない。

 境内には「新四国八十八ヶ所霊場第六十六番」の「弘法大師堂」(写真)がある。右手の大木は、樹齢百二十年余の名木「しだれ桜」である。

金仙寺大師堂

 大祠堂内を覗くと、二体の石像(写真)が並んでいるが、左が弘法大師像。右は千手観音像。

金仙寺大師像

 墓地の入口には、お馴染みの六地蔵(写真)が並んでいる。各々の地蔵像の下に名前が彫られているので、右の地蔵尊から左に向って、個々の地蔵尊を紹介する。

金仙寺六地蔵

 紹介の前に「我々は、生前の行いによって死後に下記のお地蔵さまにお世話になり善い人間の心に引き戻してもらい極楽浄土に旅立つことになっております。 皆さんは、今現在、どのお地蔵さまの元でお世話になるか考えてみてください」
褝林地蔵尊(地獄担当) 何でも悪いことは、みんな他人のせいにして、他人を責めてきたが、この地蔵さまのもとで修行して善い人間の心に引き戻してもらうのです。
無二地蔵尊(餓鬼担当) この世にいる間に、貪りの心から他の人に施しをしなかった者「欲張りの者」が落ちる餓鬼の世界です。極端なまでに餓鬼、飢渇に苦しむとされています。
護讃地蔵尊(畜生担当) 自分が得をするなら、人がどんなに迷惑をしようと平気(自己中汚染に染まっている人)と言う「強いもの勝ち」の心を持っている人が落ちる畜生の世界です。
諸龍地蔵尊(修羅担当) 争いごとを好んで、他人を傷つけた者、誹謗中傷を好んでした者が死後にお世話になるお地蔵様です。
伏勝地蔵尊(人間担当) この世で、人畜無害で一生を終えた人がお世話になるお地蔵さまです。 伏息地蔵尊(天上担当) 十善戒をよく守り、世のため、人のために尽くした人、陰徳(無償の行為)を惜しまず積んだ人が死後にお世話になるお地蔵様です。できれば、このお地蔵さまのもとで修行して、直ちに極楽浄土に行きたいものです。

 これまでなんとなく見ていた六地蔵であるが、六地蔵の個々の担当を知ることで有難さを感じることができた。但し、伏息地蔵尊以外は全部、私に係わる地蔵尊であるように思えてきたのは頂けない。
 狭山丘陵北麓の山中に、集落や寺院があるのに驚いたが、いくつかの丘の上に早稲田大学のキャンパスが散在する風景には、更に驚かされたのである。

狭山丘陵寺社めぐり 66 中氷川神社  (所沢市堀之内)

狭山丘陵寺社めぐり 66 中氷川神社  (所沢市堀之内)

 前報の「山之神神社」から国道179号所沢青梅線に出て、東に500 m進むと、国道と平行して建つ「中氷川神社」に着く。所沢方面に向かって、笠木が直線的な神明系の鳥居(写真)が立ち、鳥居の向うに桜並木の長い参道が延びている。

中氷川鳥居

 参道を歩いて境内に入ると、古風な屋根と太いしめ縄と朱色の壁という、これまで狭山丘陵では見なかった拝殿(写真)が現れた。拝殿を一見して「これぞ延喜式内社」と呼ぶに相応しいと思った。延喜式神名帳(927年編纂)の入間五座の中に「中氷川神社」が登録されているのである。

中氷川拝殿

 拝殿の内部は、大きな鏡を中心とした美しい神殿で、神様を拝むのに相応しい。

中氷川拝殿内部

 次いで、拝殿の横から見える本殿(写真)は、拝殿に比べると簡素化した造り。

中氷川本殿

 本殿の内部は網目によって見にくいが、形の良い神殿(写真)があり、その中にご祭神が祀られているのだろう。
中氷川本殿内部

 境内の案内版には「由緒 狭山丘陵の北麓に位置するこの三ヶ島は、開村当時は家もまばらであたかも原野に三つの小島が浮かんでいるようであったことに由来する。当社は、この頃の人々によって累代奉斎されてきた。一千年の歴史を物語る神木やうつ蒼とした杉桧の混在林に囲まれた丹塗りの社殿は、柱や梁に至るまで竜や獅子など細やかな彫刻が施されており、江戸時代中期の建築美を今に伝える文化財である。 境内が北東から南西にかけ長い形をしているところから、かっては長宮とも言われたり、また中武蔵にある氷川神社のため、武蔵一の宮大宮氷川神社と奥多摩にある氷川神社の中間にある中宮とも言われた記録もある。即ち崇神天皇(258没)の代に神託により勧請された社で、延喜式(927)には武蔵四十四座の一座として、その名が記されている。 当社の造営の歴史を伝えるものとして正長年間(1428)、天文(1554)・寛延(1748)の棟札や近世文書が残っている。 祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫 日本武尊 大己貴命 少彦名命」と記されている。
 案内板で分ったことは、この辺りを「三ヶ島」と呼ぶこと。赤い壁は丹塗りということ。大宮と奥多摩の両氷川神社の中間に位置するので「中氷川神社」と称すること。古社である証となる棟札はあるが、いずれも延喜式名帳の作られた年代よりも、遥か後年であるため、当社が延喜式内社という物証はない。 祭神である四体は、出雲祝神社と同様にいずれも出雲の神様。素盞鳴尊(氷川神社の祭神)と櫛稲田姫は夫婦であり、大己貴命は大国主命であり、少彦名命は大国主命とコンビを組んで国づくりを成し遂げた神様。私の出身である島根県の神様に、ここでも出会えたのが嬉しい。残る一体の祭神、日本武尊は武力にすぐれた偉大な戦士で、東国遠征が有名。

 社殿の後ろに、ご神木であるケヤキの大木(写真)がある。既に枯れた大木を、屋根で覆っているのは大切にされている証拠。

中氷川名木

 境内社は4社あり。左から稲荷社、神明社(祭神の天照大神は、素盞鳴尊の姉)(写真、二社並ぶ)。
中氷川境内社1

 中央の大きな境内社は八坂神社(祭神は素盞鳴尊)(写真)。

中氷川境内社2

 右の境内社は山王社(祭神は大山咋神)(写真)。山王とは山の神を意味し、前報の「山之神神社」同様に、山に対する信仰が伺われる。

中氷川境内社3

 境内には大きな「神楽殿」(写真)が建ち、出雲祝神社と同様に、神楽の他に歌舞伎・芝居が興行されたものと思われる。

中氷川神楽殿

 最後に、再び延喜式内社問題を取り上げる。 狭山丘陵北麓には「中氷川神社」が二社(三ヶ島郷と山口郷)あって、どてらも「延喜式内社は当社である」と主張している。これは「58報出雲祝神社」で述べた「出雲伊波比神社」との延喜式内社争いと、全く同様なのである。「三ヶ島、中氷川神社」は「出雲祝神社」と同様に、古風で素朴な社殿であるのに対し、「山口、中氷川神社」は「出雲伊波比神社」と同様に、重厚で大きな社殿という共通性があるのは興味深い。私は古社の雰囲気を残す「三ヶ島中氷川神社」と「出雲祝神社」を延喜式内社にしたい気持ちはある。 これから20報くらい後に「山口、中氷川神社」を訪ねる予定なので、その時に再度「延喜式内社争い」に言及してみたい。

 中氷川神社の社殿や鳥居は東向きであり、狭山丘陵北麓の神社に共通している。ところが社殿の後ろに、西向きの白い鳥居(写真)が立っているのは、私が歩いてきた糀谷地区や入間市宮寺地区の参拝者の便宜を図ったように思われる。但し、西からの参拝者に対し「参道をつけるのはよしとしても、鳥居まで立てる必要はあるのかな?」とは思った。正式な参拝は、社殿前方の鳥居・参道を通らなくてはいけない。 

中氷川裏鳥居

寺社めぐり 19 神奈川県藤沢市

寺社めぐり 19 神奈川県藤沢市

 江の島の寺社めぐりの後、江の島近辺の寺社めぐりを行った。 

1 満福寺

江ノ電・腰越駅の近くに「満福寺」がある。 江ノ電の踏切を越えると、石段の上に「山門」(写真)が建つ。
満福寺山門

大きな本堂(写真)は、現在修復中である。

満福寺本堂

案内板には「龍護山満福寺と号し、開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来像です」と記されている。 西国で活動したといわれる高僧・行基が、開山したと伝わる寺院が武蔵国にも多いが、鎌倉の近くにも行基伝説があるのは驚き。行基の開山には疑問を感じるが「伝えられている」ことを否定するわけにはいかない。 真言宗大覚寺派の寺院である。
更に、案内板には「源義経(1159~89)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります」と記されている。 兄頼朝の怒りを買い鎌倉入りを許されず、腰越の地に留められた際、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として有名である。 本堂には、弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示(有料)されているが、数年前に拝見済みなので今回はスキップ。 義経・弁慶フアンには見逃せない場所である。
本堂の左手に「弁慶の腰掛石と力石」(写真)があった。

満福寺弁慶

2 龍口寺

江ノ電「江ノ島駅」近くに、日蓮上人法難の「龍口寺」がある。 大きな山門(写真)     があり、次いで形のよい三門(写真)をくぐって境内に入る。

龍口寺山門

龍口寺三門

境内には、天保三年(1832)竣工の、木造欅造りの大きな本堂(写真)が建つ。
龍口寺本堂

龍口寺は寂光山と号す、日蓮宗の本山。境内の案内板は詳細過ぎるので、インターネットの調査結果「この地はかって刑場跡で、文久八年(1271)に日蓮宗の開祖・日蓮が、その著『立正安国論』が幕府の政策への中傷と受け止められ、刑場で処刑されそうになった。処刑直前に天変の奇蹟が起り、斬首の刑が中止となり、日蓮は佐渡島への流罪となった。その後延元二年(1337)に日蓮の弟子、日法がこの地を『竜ノ口法難霊蹟』として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが、龍口寺の始まりと伝わる」と分る。 本堂に安置されている首敷皮とは、法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮のこと。
本堂の右奥には明治四十三年に竣工した五重塔(写真)が建っている。神奈川県では唯一の五重塔で、木造欅造り。木立に囲まれ、甚だ写真に撮り難かった。

龍口寺五重塔

3 常立寺

龍口寺の近くに建つのが「常立寺」。 山門(写真)をくぐり境内に入る。

常立寺山門

山門近くの六地蔵から、本堂(写真)を望む。

常立寺本堂

龍口山と号する日蓮宗の寺院で、もともと龍口で処刑された罪人を弔うために建てられ た。 この寺院で有名なのは「元使塚」(写真)。

常立寺元使塚

第一の元寇があった文永の役の翌年、建治元年(1275)元への服従を求める国書を携えて来日した社世忠ら元の国使ら5名が、鎌倉幕府・北条時宗の命により処刑され、この地に葬られ、五基の五輪塔が建てられた。 その後、大正十五年に「元使塚」が建てられた。 元は現在のモンゴルに当ることから、平成十七年朝青竜や白鵬らモンゴル出身の力士らが「元使塚」を参拝。写真に見られる青い布(青はモンゴルで英雄を意味する色)を五輪塔に巻き、元使を弔った。
江の島の近くにも、いろいろな歴史があったことを学んだ。 

寺社めぐり 18 江の島

寺社めぐり 18 江の島

 前報「鎌倉寺社めぐり」を終え、江の島電鉄に乗り久々の江の島に着く。今回の「江の島寺社めぐり」の目的は、有名な弁財天像の見学と、初めて「江島神社奥津宮」への参拝。

1 江島神社 辺津宮

江の島の入口には、江の島弁財天信仰の象徴である「青銅の鳥居」(写真)が立っている。今の鳥居は文政四年(1821)に再建されたもので「江島大明神」の額が架かっているが、長年の潮風により緑青化して読み取れない。江戸時代からの「江の島詣で」の参拝客が、この鳥居をくぐった歴史の重さを感じさせる。

江の島一鳥居

両側に店が並び狭くて賑やかな参道を上って行くと、赤い大きな二の鳥居が現れ、その背後に建つのが龍宮城を模した竜宮造りの「瑞心門」(写真)。 

江の島二鳥居

瑞心門をくぐり、結構急勾配の石段を上ると「江島神社辺津宮」(写真)に着く。社殿前の「茅の輪」をくぐると、体にしみついた汚れが清められ、参拝すると功徳が増すとされている。
 
江の島辺津宮
 
 この辺津宮は、旧下之宮で田寸津比賣命を祀っている。この神様は宗像三神の一柱、多岐都姫命の別名で、宗像・厳島神社系列の海の神様である。 建永元年(1206)源実朝が創建。権現造の社殿は延宝三年(1675)に再建された。
 辺津宮の左に建つのが「弁天堂」(写真)。 掲示板に「日本三大弁財天 秘宝 八臂弁財天像 妙音弁財天像」と記されている。 因みに「日本三大弁財天」とは、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、江の島・江島神社、天川村・天河大弁財天社の内の三体をいう。四寺社による三大弁財天争いがあり、それが寺院二つ、神社二つと寺社にまたがるのが興味深い。

江の島弁天堂

 入場料を払って、待望の弁天堂内に入る。二体の弁財天像(写真)が並び、左が有名な妙音弁財天像、通常「裸弁天」である。鎌倉時代に作られた、裸で琵琶を抱いた姿は妖艶で、江戸の町人たちを江の島弁天詣でに夢中にさせた理由が分る気がする。日本の寺院に、裸体のご本尊が安置されている事例が、他にあるとは思えない。 右の八臂弁財天像は、八本の手にそれぞれ武器を持っている勇ましいお姿。これには鎌倉武士といえども勝てないだろう。 源頼朝が戦いの前に祈念したことから、戦勝祈願の神様である。

江の島弁財天

 弁財天は、ヒンドゥー教の女神、サラスヴァティーが仏教や神道に取り込まれた呼び名。日本では宗像三女神の一柱であり、美人の誉れ高い市杵嶋姫命と同一視されることが多い。しかし辺津宮の祭神は市杵嶋姫命の妹、多岐都姫命である。この点に疑問を抱きながら、次の「中津宮」に向った。


2 江島神社 中津宮
 
石段を上り、江の島最高地点に建つのが「江島神社中津宮」(写真)。 旧上之宮で、元禄二年に改築された権現造の社殿は美しいが、逆光となったのが惜しい。

江の島中津宮

 中津宮は仁寿三年(853)、慈覚大師による創建。辺津宮よりも353年も古い。祭神は市寸島比賣命で、これが宗像三神の一柱・市杵嶋姫命であり、弁財天として名高い女神。 これで弁天堂の弁財天の謎が解けた。弁天堂は辺津宮の境内社ではなく、江島神社全社の境内社と考えたほうがよさそうである。

3 江島神社 奥津宮

 中津宮から石段を下り、江の島の西端に建つのが「江島神社奥津宮」 源頼朝が奉納した古びた「石鳥居」(写真)が立っている。鶴岡八幡宮ほどではないが、源氏の厚い信仰を感じさせる。

江の島石鳥居

 石鳥居をくぐると「江島神社奥津宮」の拝殿(写真)に着く。

江の島奥津宮

 本殿(写真)は、樹木が邪魔して見にくいが、天保十三年(1842)に再建された、入母屋造の堂々たる社殿である。初めて参拝できたのが嬉しい。

江の島奥津宮2

 奥津宮は、旧本宮で祭神は多紀理比賣命、即ち宗像三神の一柱の多紀理姫命である。 社伝によれば、欽明天皇十三年(552)、欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのが始まりと伝える。これだと中津宮よりも301年も古い。 「吾妻鏡」によれば、寿永元年(1182)、源頼朝の命により、文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これを創建とすれば中津宮よりも329年も新しい。
 奥津宮は昔「岩屋本宮」と呼ばれ「江島寺」とも称していた。慶安二年(1649)に京都・仁和寺の末寺となり「岩本院」と称し、寛永十七年(1640)、岩本院は幕府からの朱印状を得て、旧上之宮(中津宮)や旧下之宮(辺津宮)を支配した。 明治六年には、仏式を廃して神社となり「江島神社」に改称した。 従って弁財天は昔「岩本院」のご本尊であったが、江島神社となった後は「弁天堂」に安置されるようになったと思われる。

 本来ならば、これから急な石段を下り、海岸にある「江の島岩屋」を見学するのであるが、鎌倉・江の島と観光を続けて疲れてしまった。再び、急な石段を上ってここまで戻ってくる元気がないので、悔しいけれど「江島神社奥の院」に当る「岩屋」見学を断念。 40年も前に、家族で「岩屋」を訪れたのを思い出しながら、帰途についた。

寺社めぐり 17 鎌倉市 極楽寺・長谷

寺社めぐり 17 鎌倉市 極楽寺・長谷

 孫の中学校入学祝に鎌倉に来たついでに、江の島電鉄の極楽寺駅で下車。ここから長谷までの寺社めぐりを楽しむ。

1 極楽寺

 何度も訪ねた「極楽寺」の茅葺の山門(写真)は、鎌倉時代の武士の信仰を偲ばせるものがある。
極楽寺山門

 山門近くの案内板には「開山は良観房忍性。奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長二年(1262)に北条業時に招かれて多宝寺住持となり、その後文永四年(1267)に極楽寺に開山として迎えられました。 元寇に際しては、幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また、鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所として寺格を保ちました」と記されている。
 境内に入ると「撮影禁止」の立札が並んでいる。何故「撮影禁止」なのかよく分らない。山門から遠望した木蔭に見える本堂(写真)は迫力に欠ける。

極楽寺本堂

 開山当時、この地が地獄谷と呼ばれた場所に建てた寺院なので「極楽寺」と名付けられた。 真言律宗の寺院で、山号は霊鷲山。本尊は釈迦如来である。

2 成就院

極楽坂切通の山上に建つのが「成就院」 山門(写真)の近くの案内板には「弘法大師さまが全国を巡り修行された折、この地にて護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。 その後、承久元年(1219)に北条泰時が深願を込め高僧を招き、本尊に不動明王をまつり、普明山法立寺成就院と名付け建立した。 元弘三年(1333)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失したが、元禄年中祐尊僧正が復興し現在に至っている。 本尊は縁結び不動明王さまとして信仰されている」と記されている。 

成就院山門

元禄年間に復興した「本堂」(写真)は重厚であり、成就院は真言宗大覚寺派に属し「アジサイの寺」として有名である。

成就院本堂

境内の庭園内に,ご本尊の不動明王像(写真)が安置されて、「縁結び」のパワースポットとなっているらしい。「(願いが)成就(する)」という言葉が要因のように思われるが、休日には不動明王像前に、若い女性参拝客の列ができるとは信じられない。

成就院明王

成就院の参道を海側に下りていくと、鎌倉の海岸、由比ヶ浜の展望(写真)ができる。6月になると、参道の両側にアジサイの花が咲き、アジサイの中の由比ヶ浜の展望が素晴らしいのである。   
成就院風景

3 御霊神社

極楽寺坂切通を下りていくと、御霊神社の大きな石碑(写真)が立っている。石碑には「五霊社鎌倉権五郎景政」と彫られている。「御霊」ではなく「五霊」と彫られたのは「権五郎霊」の略字なのだろうか?
御霊神社石碑
 
石碑から参道を歩くと、江ノ島電鉄の踏切の傍に白い鳥居(写真)が立っている。

御霊神社鳥居

境内の石段の上に、大きな社殿(写真)が建っている。

御霊神社社殿

案内板には「御霊とは、強く尊い祖先の御魂の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で『鎌倉武士団』を率いた鎌倉権五郎景政を祀っています。 景政は『後三年の役(1083~)』に十六歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では『権五郎さま』と呼ばれ、親しまれています」と記されている。
現在の鎌倉市の市名のルーツである「鎌倉権五郎」の存在を理解した。 調査すると石碑に刻まれた「五霊」は、関東平氏五家、即ち鎌倉家、梶原家、村岡家、長尾家、大庭家の五氏の霊を祀り「五霊神社」と称していたが、後に祭神を鎌倉権五郎の一柱にしぼって「御霊神社」としたようである。 私の住む狭山丘陵近辺に御霊神社はないと思っていたところ、博学のブロ友様より「東大和市郷土博物館のある八幡谷ツを通るのが、地元で鎌倉街道の伝承がある参道です。参道をそのまま直進して村山下貯水池に入り、下ると(今はダムの湖底となった)内堀部落があり、鎌倉権五郎に関する御霊明神が祀られていました。創建に1000年の伝承を持ちます」と教えられた。 身近に「御霊神社」は存在したのである。

4 光則寺

何度も参拝した「長谷寺」を素通りして、隣に建つ「光則寺」を訪れた。 本堂(写真)の周辺のカイドウの花が満開である。

光則寺本堂

案内板には「『立正安国論』などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕えられました。やがて光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。 境内には樹齢二百年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々なさまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です」と記されている。
大きな池を中心とした庭園と本堂(写真)の配置はなかなかのもの。

光則寺庭園

最後に、満開のカイドウの花(写真)を紹介しておく。

光則寺花

狭山丘陵寺社めぐり 65 山之神神社  (所沢市堀之内)

狭山丘陵寺社めぐり 65 山之神神社  

 前報の「八幡神社」から東に向かって300 mも歩くと、目指す「山之神神社」がある。4年前には逆の方向からこの神社を目指し、狭山丘陵麓の民家の裏道から薄暗い参道を上り、やや心細い気分で参拝した思い出のある神社。 茶畑の中の道路で老夫人に教えてもらった神社への参道は、4年前とは違う斜面の小道を上ると、丘陵の上の明るい茶畑ぬ出る。
 茶畑の中の道路の下に「山之神神社」を見つけ、社殿の裏側から薄暗い境内に入る。小さな神社を横から見ると、大きめな拝殿の後ろに小さな本殿(写真)がつながっていることが分る。

山之神神社社殿 (2)

 境内の端に赤い鳥居(写真)が立ち、鳥居も社殿も「都稲荷神社」同様に北向きであるのに驚く。北向きは「鬼門」にもつながり、あまりよい方向とはいえないと思う。
 
山之神神社鳥居

 鳥居の後ろの案内板には「山之神さま由緒 祭神 大山祇神・猿田彦  比留間家の広い山頂に今から約二百年前に鎮座し、多数の信仰があったと伝えられます。本殿内の玉石の記録によれば『文政十一年二月吉日』とあるのみをみても、第120代仁孝天皇(1818)の頃に比留間家13代豊蔵氏が山之神の熱心な信者で、その頃の創立と考えられます。やがて14代音吉氏に継承されますが、家難が続き日蓮様の導きを求めた音吉氏は、敬神の念を深め日蓮様・猿田彦も併祀した」と記されている。 狭山丘陵南麓でも有力者・比留間家の名前に出会っていたが、北麓にも土地の有力者として比留間家の存在があるようだ。
 仏教の日蓮上人を神社に祀るのは、神仏習合の江戸時代には普通のことだったのだろう。今は祭神から外されているが・・・・・・ 前報の八幡神社の境内社である山神社の祭神が大山祇神で、この神社の祭神と同じ。このは単なる丘陵地帯であるのに、山神信仰があったとは興味深い。 最後に、この寺社めぐりで初登場の猿田彦命は、猿や天狗のような怪奇な風貌な神様で、瓊瓊杵尊(ニニギ尊)を日向の高千穂に導いた神様。導き(道案内)の神で、道祖神としても有名。 佐渡島での神式の葬儀では、部屋の神棚の前で笛や太鼓に合わせて、怪奇な猿田彦神が踊り出したのに驚いたことがある。 

 北向きの質素な拝殿(写真)が、薄暗い木立に囲まれて建っている。

山之神神社社殿

 拝殿に近づき内部を覗こうとすると、拝殿の中からラジオの音が聞こえてきた。ラジオ(またはテレビ)のニュース番組が流れているのは、拝殿内に人がいることを示唆している。薄暗い境内なので、なにやら不気味で早々に退散した。
 4年前も、薄暗い参道を不気味に感じたが、今回も同様な気分を味わい、どうもこの「山之神神社」は私の苦手な神社となってしまった。

狭山丘陵寺社めぐり 64 八幡神社  (所沢市糀谷)

狭山丘陵寺社めぐり 64 八幡神社  (所沢市糀谷)

 前報、入間市「西勝院」を東に向かうと、所沢市に入る。糀谷(こうじや)地区の狭山丘陵に「八幡神社」が建っている。 「邘社」と刻まれた石柱の後ろに、明神系の一の鳥居(写真)が立っている。
八幡神社鳥居

 参道に続く石段の上に、屋根の付いた二の鳥居(写真)が立っている。大きな屋根の割には柱が細く、これまで見たことのない変わった鳥居である。

八幡神社二鳥居

 境内に建つ社殿(写真)は、横長の古風な造りで、出雲祝神社社殿によく似ている。狭山丘陵北麓の神社は華美に流れず、古の姿を保存したいという地域の人々の意思を感じる。

八幡神社本殿

 境内の案内板には「祭神 応神天皇(誉田別命)第十五代  創始は明らかでないが、宇佐八幡、鶴ヶ岡八幡を勧請して『若宮八幡』と号したこと、江戸幕府御鷹司新藤但馬守が崇敬した神社等『風土記稿』に記載がある。江戸期寛永十二年(1672)社殿朽廃し慶応三年(1867)に糀谷名主水村市郎宇衛門が社殿と鳥居を再建している。明治四十五年、氏子一同協力し社殿を新築し、知事から神饌弊帛料供進神社に指定されている。明治三年の御大典記念には鳥居の新築、明治四十一年には境内社として山神社(浅間神社、八雲神社)愛宕神社、気比神社を詞り、社務所を建立して糀谷の鎮守になっている。
 気比神社  祭神  仲哀天皇(応神天皇の父)
 山 神社  祭神  大山祇命神(富士塚より移転)
 浅間神社  祭神  木の花咲耶姫命           」と記されている。
 「若宮八幡」とは「八幡本宮から迎えた若宮」の意味で、八幡神である応神天皇が祀られる。 神饌弊帛料供進神社とは、県知事から祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌弊帛料を供進された神社のこと。 今の社殿は明治四十五年の新築で、風変わりな二の鳥居は慶応三年の再建であることが推定される。
 既報「55 兜稲荷神社」で、日本で一番多い神社は、八幡神社であることを紹介した。神社本庁の傘下にある79.355社のうち、もっとも多いのは八幡信仰にかかわる神社。これは八幡神社、八幡宮、若宮神社と呼ばれるもので、その数は7.817社。2位の伊勢信仰の社(神明社、神明宮、皇大神社、伊勢神宮など)の4.425社を圧倒的に上まわっている。 文武の神とされる八幡信仰は、武家の棟梁・源氏の守護神となったことから、全国に拡大して行ったという。

 境内社は三社(写真)があり、唯一の鳥居には「浅間神社」と記されている。

八幡神社小鳥居

 境内社の真ん中に位置する小社(写真)には「八雲神社、浅間神社、山神社」が同居しいる。 主境内社と目される「浅間神社」は、この糀谷地区の人々にも富士信仰が強いことが分る。但し、この地、即ち狭山丘陵北麓からは、富士山は直接見ることはできない。狭山丘陵の尾根に富士塚を造って、富士山を遥拝していたのであろう。 「山神社」は「やまのかみしゃ」と呼び、山の神、例えば富士山信仰の浅間神社の祭神・木の花咲耶姫命を祀る。案内板では「山神社」の祭神が、木の花咲耶姫命の父である大山祇命神となっていたので納得。 山の神の中でも女神、例えば木の花咲耶姫はとても恐いので、恐い妻のことを「山の神」と呼ぶようになったとか・・・・・

八幡神社境内1

 左手の境内社(写真)は「気比神社」 この狭山丘陵寺社めぐりで初めて出会った「気比神社」は、総本社が福井県敦賀市の「気比神宮」 三人の祭神は、主祭神の伊奢沙別命と仲哀天皇、神功皇后。この境内社は、神功皇后の夫・仲哀天皇を祭神としている。 来年のクラス会が金沢市と決まったので、ぜひ福井市の気比神宮に参拝したいと、今から楽しみにしている。

八幡神社境内2

 右手の境内社(写真)には「三峯神社、愛宕神社、金毘羅神社」が同居している。 「三峯神社」は埼玉県秩父市にある「山犬信仰」のある神社。 祭神は伊弉諾命と伊弉冉命。奥多摩の御嶽神社と共に、関東では代表的な山岳信仰の神社。 「愛宕神社」と「金毘羅神社」は何度か紹介したので、説明は省略する。

八幡神社境内3

 狭山丘陵北麓に建つこの神社も、出雲祝神社と同様に、社殿や鳥居が東向きであったので納得。糀谷地区の郷社・鎮守に相応しい神社である。 「糀」は、酒・味噌・醤油の醸造に用いる「麹」のことであるが、地名の由来は不明。 神社に近い狭山丘陵に広がる「糀谷八幡湿地」は、田んぼが整備され、ホタルの飛ぶ里となっている。

狭山丘陵寺社めぐり 63 西勝院  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 63 西勝院

 前報の「清泰寺」から300 m東、国道179号線「所沢青梅線」から狭山丘陵に分け入ったところに「西勝院」がある。「狭山観音霊場めぐり地図」(写真)の赤丸で示した「29番札所」である。緑丸はこれまでに参拝してきた札所。

西勝院地図122

 白い石柱の立つ入口(写真)から、境内に入る。

西勝院入口

 山門(写真)は「黒門」と呼ばれ、江戸時代からの歴史があり、院内では本堂に次ぐ古い建物。徳川幕府の庇護を示す菊水の御紋(写真)があるとのことだが、見逃してしまった。

西勝院山門

菊水御紋124

 本堂(写真)は安政時代(1854~60)の建立とされ、昭和59年に修復されている。屋根に菊水の御紋があるとのことだが、これも見逃すとは悔しい。

西勝院本堂

 西勝院は宮寺山と号する真言宗豊山派の寺院で、本寺は奈良県の長谷寺。ご本尊は薬師如来である。 開基は知養上人で、慶長11年(1606)没とされるので、江戸時代初期に開山されている。

境内の狭山観音29番札所である「観音堂」には、正観音が祀られている。堂内(写真)を覗くと、美しい祭壇は見えたが、正観音は正面奥の木箱の中に納められているとのこと。

西勝院正観音

 観音堂の左には「大師堂」があり、奥多摩新四国霊場第五番札所。堂中の二体の石佛(写真)は、左が弘法大師像で右は地蔵菩薩像。

西勝院二体像

 五輪塔の右にあるのが筒六地蔵(写真)という珍しい六地蔵。墓所の入口にある六地蔵は、通常は六つの地蔵像がならんでいる。ここでは四面ある石塔の一面に二体の地蔵像が彫られ、三面合わせて六地蔵となる。残りの一面には製作日が彫られている。

西勝院五輪塔

 本堂の右に「閻魔堂」(写真)があり、中に閻魔大王像(写真)が鎮座している。

西勝院閻魔堂

西勝院閻魔像

 閻魔堂右の土の盛り上がりが「宮寺氏館跡」 近づいて撮影(写真)すると、昔の土塁跡であることがよく分る。
西勝院居館跡

 入間市の案内板には「市指定史跡 宮寺館跡  桓武天皇9代の孫、村山(平)頼任は、今から約9百年前、村山に住み武蔵七党の一つ村山党の祖となった。村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称して、この地に居館を構えたのである。 すでに8百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側、東側の土塁と空堀また山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の堀であったと推測される」と記されている。
 4年前に西勝寺をご案内して頂いたブロ友様の資料には「西勝院が宮寺氏の館跡に立地していることは、立川の普済寺が立河氏の館跡に立地し、立河氏の菩提寺であったように、宮寺氏が庇護した寺と推察されます。付近には、城の腰・城東・的場・的場後などの城に関係のある地名があります。 村山頼家の長男は山口氏を名乗り『山口郷』の領主となります」と記されている。
 西側から西勝院を眺めると(写真)、小川の向うに存在する寺院が古の城郭のように見え、宮寺郷の領主が住んだ場所に相応しく思えた。

西勝院全景

狭山丘陵寺社めぐり 62 清泰寺  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 62 清泰寺  (入間市宮寺)

 宮寺地区の中心で、四つの道路が交わる「宮寺」交差点の近くに「清泰寺」の入口(写真)がある。白い門柱に「真言宗豊山派 清泰寺不動尊」と書かれていて、不動尊が有名な寺院らしい。入口の白梅が満開で、積雪は残るが春近しを感じさせる。

清泰寺入口

 常緑樹の大木に隠れるように本堂(写真)が建っている。

清泰寺本堂

 入間市博物館資料には「この宥峰山清泰寺は真言宗豊山派に属し、本尊は不動明王で、堂は間口七間半、奥行六間の大伽藍、それに境内仏堂として薬師堂がある。 新編武蔵風土記稿によると、開山頼栄遷化の年月は伝えざれども、第三世の住僧智養元和五年(1619)寂すといえば開宗の年代も知るべし。 と記されているが、寺の記録には開基は頼栄上人で創立年代は詳かならず、と伝えられてきた。ところが明治四十一年本尊(不動)明王の彩色修復を行ったところ、尊像の片面に開基天長二年(825)三月二十一日と記されていたので、その開基の年代が明らかになった。もしこの年代が事実とすると、平安時代初期に創立された古刹ということになる。 本堂は江戸時代、宝暦四年(1755)に再建されたものであるが、内陣欄間の龍の墨絵二面は檀家出身の画家吉川緑峰氏が、弘化五年(1849)に描いたものである」と書かれている。 入口に書かれた本尊の不動明王を拝観できないのは心残り。 一方、開基が825年でありながら、第三世住僧が寂したのが1619年というのは、隔たりがあり過ぎる。資料作成者は疑問を持たなかったのかと不思議に思う。
 清泰寺の本寺は奈良県の長谷寺で、この辺りには真言宗豊山派の寺院が多い。

 本堂の左に建つ「薬師堂」(写真、右の堂。左は奥多摩八十八ヶ所第五十六番霊場)の内部には、薬師如来坐像(写真)が鎮座している。

清泰寺薬師堂

清泰寺薬師像

 本堂裏には、十塔が並ぶ墓石(写真)があり、由緒ありそうに思える。

清泰寺十塔

 境内に二つある地蔵像(写真)は大切にされている様子。特に二つ目の地蔵像には「風邪・邪気・厄除け石尊」と書かれている。

清泰寺地蔵1

清泰寺地蔵2

 積雪の中に咲く梅の花を愛でながら、清泰寺に別れを告げた。

寺社めぐり 16 埼玉県日高市

寺社めぐり 16 埼玉県日高市

 毛呂山町の「出雲伊波比神社」を訪れた帰途、八高線の「高麗川駅」で下車し、「高麗神社」とその周辺の寺社めぐりを行った。

1 高麗神社

 高麗川駅から西に向かって30分歩き、高麗川の「出世橋」を渡ると、高麗神社に着く。神社入口の桜が咲き始め「高麗の郷」も春満開である。 大きな二の鳥居(写真)の近くに説明板がある。

高麗神社二鳥居

 説明板には「高麗神社は、高句麗国の王族・高麗王若光を祀る社である。 高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年君臨していた。その後、唐と新羅の連合軍の攻撃にあい668年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀二年(716)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。 高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、この地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで、高麗王若光の直系によって社が護られている」と書かれている。 高麗郡や高麗神社の歴史は、予想以上に古いことが分る。

 参道を進むと、石段の上に美しい楼門(写真)が出現。

高麗神社門

 楼門の向こうには、これも美しい拝殿(写真)が建っている。拝殿と同じような造りの本殿が見えにくいのが惜しい。

高麗神社社殿

 社殿の裏側は広場となり、その中に茅葺の「高麗家住宅」(写真)があり、説明板には「高麗神社の神職を代々勤めてきた高麗氏の住宅です。高麗家に伝わる絵図面に、慶長年間(1596~1615)に建てられたと記されています」と書かれている。
 説明板にはハングル語が併記され、韓国人の参拝客の多いことがよく分る。

高麗神社高麗家

2  聖天院

 高麗神社から300 m南の丘陵に、多くの伽藍を持つ「高麗山聖天院」が建っている。入口付近に建つ山門(雷門)は雄大である。

聖天院雷門

 石段を上り「中門」に至ると、拝観券300円の購入が必要。武蔵野の寺社で入場料を支払うのは初めて。 境内の「阿弥陀堂」(写真)は霊場めぐりの一つで、待ち構えていた僧侶に、仏像にまつわる有難いお話を5分間も聞かされた。

聖天院阿弥陀堂

 そこから急勾配の石段を上ると、平成十二年に落成した大きな「新本堂」(写真)に到着。

聖天院本堂

 新本堂前の崖に、清水の舞台のような造りの展望台があり、日高市街を展望(写真)。

聖天院展望

 拝観券には「聖天院縁起 聖天院は奈良時代に高句麗国より渡来した高麗王若光の菩提寺として、侍念僧勝楽上人により天平勝宝3年(751)創建されました。若光の守護仏聖天尊を本尊とし、爾来600年間法相宗の道場でありましたが、貞和年間(1345)中興秀海上人の代に真言宗に改宗されました。天正年間(1584)圓真上人により不動尊(胎内仏弘法大師御作)を本尊とし聖天尊を別壇に配祀し、現在に至っています。江戸時代には高麗郡の本寺として、門末54箇寺を擁するほどの隆盛を誇りました。境内には王霊廟(墓)があります」と書かれている。
 山門の横にある「王霊廟」(写真)を確認して、聖天院を後にした。

聖天院王廟

3  野々宮神社

 高麗川駅から高麗神社に至る途中、野々宮地区に「野々宮神社」(写真)がある。木立に囲まれた雰囲気のよい神社。

野々宮神社全景

 説明板には「野々宮神社は、祭神に天照大神、瓊瓊杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると大宝三年(703)社殿修築という記述があって、かなりの古社と考えられる。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に『奉献大祓一万度』とあるところなどから、潔斎の宮、お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野の野宮の分祠とかんがえられる」と書かれている。嵯峨野の野宮神社の祭神が天照大神で、ここ野々宮神社の祭神と一致するので、野宮神社からの分祠は肯ける。但し、野宮(ののみや)神社を野々宮神社に改めているのが少々気懸かりなところではある。

4  九万八千神社

 聖天院から西武線・高麗駅に向かって歩いていると、巾着田近くの丘陵に「九万八千神社」(写真)という変わった名称の神社を見つけた。「くまんはっせん」と読むそうである。鳥居の後ろに建つ社殿は小さくて紹介するまでもないが、名称が面白い。

九万八千神社鳥居

 インターネットの記事によると、「埼玉の神社」という本では「祭神は八千矛命、つまり大己貴命(大国主命)で『一説には九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。この高麗地域は上古渡来人の住居した場所であるから興味深い説である』と書かれている」という。 「九万」と「高麗」との関係は分るが、「八千」と「新羅」の関係がよく分らない。私なら単純に「八千」は祭神の「八千矛命」と結びつけたくなるが、如何なものか?
 更に、この神社内に大久保長安の代官所が置かれたという説があるらしい。こんな田舎に代官所は想像しがたいが、江戸時代のこの高麗本郷地区は、結構栄えた場所であったのかも知れない。
 高麗という少し変わった土地の寺社めぐりは結構面白かったと、自己満足をして西武線の高麗駅に向かった。
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