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寺社めぐり 15 埼玉県毛呂山町

寺社めぐり 15 埼玉県毛呂山町

 「狭山丘陵寺社めぐり 58 出雲祝神社」において「出雲祝神社は延喜式内社であり、昔は出雲伊波比神社と呼ばれていた」と書いたが、「毛呂山町の出雲伊波比神社も、延喜式内社であると名乗っている」とも書いていた。 それを読まれたブロ友様から「毛呂山町の出雲伊波比神社を見ておいた方がよい」とコメント頂いた。 入間郡の延喜式内社はどちらの正当性が高いか、私なりに評価をするべきと考えて、毛呂山町に向った。
 八高線の毛呂駅の近くに、目指す「出雲伊波比神社」の入口(写真)があった。

伊波比神社入口

 入口から坂道の参道と石段を上った丘の上が神社の境内で、一の鳥居(写真)が立っている。

伊波比神社一鳥居

 一の鳥居をくぐり、境内の参道を進むと、なにかいわくのありそうな赤茶けた燈籠が二つ立っている。
伊波比神社燈籠

 参道の奥に二の鳥居(写真)が立ち、その向うに神殿が見える。

伊波比神社二鳥居

 堂々とした造りの拝殿(写真)は、昭和五十八年に改築されたもの。

伊波比神社拝殿

 拝殿の左の大きな石柱(写真)に「国寶出雲伊沙比神社本殿」と刻まれていたのに驚く。正確には昭和十三年に、本殿が国宝に指定されたが、戦後は国宝指定がなくなり、重要文化財指定と変わっている。
伊波比神社国宝碑

 重文の本殿は高い垣根に囲まれ見にくいが、拝殿以上に風格のある本殿(写真)が望まれる。

伊波比神社本殿

 社務所で頂いた「参拝のしおり」や「神社由緒」は、内容が詳しすぎるので、インターネットの「出雲伊佐比神社」を紹介すると「古式ゆかしい『やぶさめ』で有名な神社。小高い独立丘陵である臥龍山の上に位置しています。 当社に伝わる『臥龍山宮伝記』によると、景行天皇の53年(123)に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を成し遂げ、がい施した際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲の大己貴命をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄多毛比命が、出雲の天穂日命をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされています。 奈良時代の宝亀3年(772)の大成官符によると天平勝宝7年(755)に朝廷から幣帛(神前に供えるもの)を受けたという記載があり、出雲伊波比神社が官幣社であったことが明らかにされました。 平安時代には、醍醐天皇の勅命で編さんされた延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられており、古来より格式の高い神社であったことが解ります。鎌倉時代以降、武士の信仰も集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、大永7年(1527)の焼失後、翌享禄元年(1528)には、毛呂顕繁が再建しました。 現在の本殿はこの再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築であり、棟礼二面と併せて国の重要文化財に指定されています」と書かれている。 なお、大己貴命は大国主命の別名である。また、毛呂顕繁はこの地の豪族・毛呂氏の一族と考えられる。
 「参拝のしおり」にも「国指定重要文化財・旧国宝 延喜式内 出雲伊波比神社」と書かれている。但し、1500年代の棟札はあっても、900年代の延喜時代の棟札がある訳ではない。 一方、入間市宮寺の出雲祝神社には、大宝二年(702)の棟札がある。 この二社の延喜式内社論争への言及は、ブログの最後にしたい。

 境内には「稲荷神社」(写真)が祀られている。 更に「神楽殿」(写真)があり、社務所には神主さんの家族らしい人々が住んでおられる。社務所に常駐の人がいない、出雲祝神社とは大分事情が異なっている。

伊波比神社境内社

伊波比神社神楽

 更に、社殿の左には細長い「やぶさめ馬場」(写真)があり、十一月三日の「秋祭」では「やぶさめ」が斎行されている。源頼義・義家親子が奥州平定の凱旋途中の康平六年(1063)に、流鏑馬を奉納したのが起源と伝わる。小中学生が乗り子となり騎射を行う民俗行事。 やぶさめ馬場を含む神社一周の非舗装道路では、中学生のグループがかけ声を掛けながら走り回っていて、とても賑やかな雰囲気の神社だった。

伊波比神社流鏑馬

 最後に「延喜式内社」について言及する。 先ず「武蔵国の式内社一覧」の中に「入間郡5座」があり、出雲伊波比神社、中氷川神社、広瀬神社、物部天神社、国渭地祇社が挙がっている。その内、社名と比定社所在地が確定しているのは中氷川神社(所沢市山口と三ヶ島)と広瀬神社(狭山市上広瀬)の二社のみ。他の三社は、社名と比定社所在地が記入されていないのは、素材地などが確定していないのである。中氷川神社のように、二か所記入するならば、出雲伊波比神社(毛呂山町)と出雲祝神社(入間市宮寺)としてもよいのに、「式内社一覧」には記入されていない。
 確定していないのであれば、出雲伊波比神社が「延喜式内社」を名乗ってもよいし、出雲祝神社が「延喜式内社」を名乗るのも構わないだろう。 私なりに二社を比較してみると、神社のスケール、歴史上の記述、式内社への意欲などは、遥かに出雲伊波比神社が勝っている。 出雲祝神社は大宝二年(702)の棟札を持つ強みはあるが、戦国時代に名称が「伊波比」から「祝」に変わっている弱みもある。しかし古式な社殿と長い参道と静寂な森の雰囲気は、延喜時代からの古社を彷彿させるに十分である。 このような私の推定よりは、「出雲伊波比神社」論争は、矢張り歴史学的な判断を待たないといけないであろう。
 私のブログ「狭山丘陵寺社めぐり 59 出雲祝神社」を読まれたブロ友様の「毛呂山町の出雲伊佐比神社を見ておくとよい」とのアドバイスには感謝。お蔭で「延喜式内社」について、多くを学ぶことができたのが有難い。 
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狭山丘陵寺社めぐり 61 都稲荷神社  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 61 都稲荷神社  (入間市宮寺)

 前々報の「出雲祝神社」横の道路を200 m東に向い、狭山丘陵に向って上ると「都稲荷神社」の赤い一の鳥居(写真)が見える。

都稲荷鳥居

 二の鳥居のすぐ後ろに、赤い小さな社殿(写真)が建っている。

都稲荷社殿

 「都」という名称に似つかわしくない「田舎の小社」という感じ。 しかも社殿や鳥居が鬼門にあたる北向きで、これまでの狭山丘陵北麓の神社が、東または南向きであったのとは違うスタイル。 稲荷神社については、56報「兜稲荷神社」でいろいろ説明したが、この神社の祭神は稲荷神である宇迦之御魂神だと思われる。 稲荷信仰のルーツは、奈良時代山城国一帯に住んでいた渡来系の豪族・秦氏が、自分たちの氏神として祀った穀霊神、農耕神であった。即ち、朝鮮半島から稲荷神はやってきたことになるが、七福神の神様の中に、インドの神様が三人、中国の神様が三人もいることから、渡来系の神様は日本では珍しくないのである。
 「都」という名称の由来について問い合わせたが、よく分らない。出雲祝神社関係者によれば「昔、神社の近くに『都座』という芝居興行グループが居て、出雲祝神社の神楽殿で『切られ与三郎』などを上演していた」とのこと。「都座」は都稲荷に因んで名付けたのかもしれない。しかし、神楽殿では神楽を舞うものと信じていたが、神聖な舞台において芝居を興行していたとは驚いた。何でもよいから土地の人に聞いてみるものである。 合わせて「都稲荷は狭山丘陵内にあったが、昭和になって現在地に移し替えた」とのこと。神社を移し替える時に、いろいろな事情で社殿や鳥居が北向きとなったように思われる。
 社殿の内部(写真)には、美しい祭壇があり、これは狭山丘陵北麓の神社に共通している。

都稲荷内部

 神社の周辺は茶畑(写真)で、狭山茶の中心地に神社があることが分る。 背後の狭山丘陵は「さいたま緑の森博物館」と名付けられた森林公園で、公園内には「西久保湿地」「大谷戸湿地」「トンボの湿地」などが存在する。公園内の道を歩き、狭山丘陵を越えると、狭山湖の上流部に至るようである。 
「都」の由緒に首をかしげながら、都稲荷神社を後にした。

都稲荷茶畑

狭山丘陵寺社めぐり 60 西久保観音堂  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 60 西久保観音堂  (入間市宮寺)

 前報、出雲祝神社社殿裏の重闢茶場碑から丘陵に向かう小路を歩くと寺院の境内に入る。「狭山観音霊場めぐり」の第21番霊場「西久保観音堂」(写真の赤丸。緑丸は既に参拝した観音霊場)である。

西久保観音地図121

 本堂(写真)は丘陵に向って、即ち南向きに建っている。これまでめぐってきた観音堂では最大級の建物で、寺院といってよいほどの風格がある。

西久保観音本堂

 入間市博物館の資料には「この観音堂は『清水山観音堂』とも呼ばれ、安産祈願で有名である。腹帯授与によって無垢な子供が生まれるといわれ、清泰寺が管理している。 本尊の正観音は、神亀五年(728)壬春行基が清水観音の霊夢によって、神木三の木を以って四十四糎(センチ)の像を作ったものである。 宝亀年間(770~780)に沙彌延鎮行基が正観音を向う山に安置したことを聞いて、清水山観音寺と名づけられた。 西久保観音は、もと狭山丘陵の中腹飛入という所にあったものを、明暦年間に現在の地に移転したもので、出雲祝神社と隣りあっている」と書かれている。 
正観音は聖観音と同じで、観音菩薩の三十三の変化の中ではもっとも基本となる姿。 壬春行基大士と沙彌延鎮行基と、いずれも大仏殿建立に当った奈良時代の高僧・行基(667~749)の名が使われているが、高僧がこの地に登場するとは思われないのだが・・・・・ 神亀五年の壬春(十干の第九の春?)、行基が夢のお告げにより、自ら正観音像を作ったとはなかなか信じがたい。武蔵野の地には、行基が作った仏像や創建した寺院があちこちにあるのは、行基の名を付けると「箔が付く」のではないかと私は思うのだが・・・・・・ 沙彌延鎮行基は、高僧・行基と時代がずれているから、この行基は人名ではないように思われる。坂東三十二番札所「音羽山清水寺」の縁起に「我かって宝亀年間、沙彌延鎮に山背音羽清水をひらかしめ・・・・」と記されていることから、沙彌延鎮という僧が坂東の地に居たようである。

本堂を覗くと、きれいな内陣(写真)があり、狭山丘陵北麓の寺社の内陣はいずれもよく出来ている。但し、本尊の正観音は見えなかった。

西久保観音内部

 本堂の前に説明板があり「西久保観世音の鉦はり 西久保観世音の鉦はりは、毎年一月十七日・八月十七日に西久保観音堂で行われる。起源は定かでないが、江戸時代に始まったと考えられる。 鉦はりは、太鼓一名、鉦四名をもって構成され、念仏に節をつけて歌のごとく唱え、これに太鼓、鉦を打ち込むのである。打ち鳴らす双盤鉦と太鼓の音がリズミカルに調和し、念仏の唱和と相まって独特の境地に誘い込むものがある。 鉦はりは一般に双盤鉦を打ちながら特殊な節をつけて唱える引声念仏のことである。引声念仏は比叡山常行堂に伝えられるもので、十五世紀には京都真如堂、鎌倉光明寺で行われるようになり、その後民間に広まり双盤念仏として定着したものとかんがえられます」と書かれている。
 鉦はりに使われる鉦(しょう)は銅製の打楽器(写真)で、撞木で叩くと妙なる音が出るという。家内の友人が「西久保観音の八月十七日の催しは有名」と言っていたので「鉦はり行事」は盛大なものらしい。
西久保観音鉦120

 入間市博物館資料には「正観音拝殿前に古墳時代後期(300頃)の地下坑がある。昭和三十二年に発掘したが、全国にも類を見ない珍しい摺鉢型のもので、この他に境内に六ヶ所の古墳が確認されている」と書かれている。この地は昔から人々をひきつける場所であったようだ。
 更に近くに、4個の「力石」(写真)が保存され、昔の若者たちの力自慢を発揮する場所でもあったようだ。
西久保観音力石

 更に、境内の東側に立つ大木(写真)の説明板には「西久保観音堂とカヤの木 陽射しをいっぱいに浴びた西久保観音堂。神亀5年(728)春、行基が全国行脚の途中、堂を開いたのが始まりといわれています。また、樹齢1000年を越すといわれるカヤの木は、市内第一の古木で、自然界の持つ悠久の時の流れを感じさせてくれます」と書かれている。
 行基の存在を入間市の説明板が肯定しているのだから、私も行基の存在を否定してはよろしくないと反省した。 更に入間市博物館資料には「カヤの木は延鎮の手植えと言い伝えられている」と書かれている。そうするとカヤの木の樹齢は1230年以上となるが、これも「言い伝えられている」ことは信じるようにしたい。

西久保観音カヤ

狭山丘陵

狭山丘陵寺社めぐり 59 出雲祝神社(2)  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 59 出雲祝神社(2)  (入間市宮寺)

 出雲祝神社の境内を紹介する。 先ず、二の鳥居の左に「神楽殿」(写真)が建っている。大きな神社には必ずある神楽殿であるが、私の出身の島根県には存在しない。島根県で有名な「石見神楽」の上演は、神社の境内に前日に作られた組立可能な舞台で行われる。従ってこの地のような常設の神楽殿は珍しいのである。常設されているのだから、年間に何度も神楽が催されているのだろうか? それにしてはほとんどの神社の神楽殿が老朽化し、手入れがなされていないように見えるのが気懸かりである。

出雲祝神楽殿

 境内社は二つ。 社殿右には、かなり大きな「八雲神社」(写真)が建っている。八雲神社は、牛頭天王・素戔嗚尊を祭神とする祇園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社。出雲祝神社の祭神・天穂日命の母である天照大神の弟が素戔嗚尊という関係にある。 前報の入間市博物館資料において「文化年間に出版された武蔵野話には、寄木宮とて素盞鳴命を祀る、案ずるに出雲伊波比神社ならんか、これによりてこの地を宮寺と云うらん」と記されているから、出雲祝神社を代表する境内社であったらしい。 社名は、日本神話において素戔嗚尊が詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣作るその八重垣を」の八重に因むものである。

出雲祝境内1

 社殿の左に建つ小振りな境内社は「護国神社」(写真)。 護国神社は国家のために殉職した人の霊(英霊)を祀るための神社。東京都を除く都道府県に建立され(東京都は靖国神社と称す)、その都道府県出身ないし縁故の戦死者、自衛官・警察官・消防士等の公務殉職者を主祭神とする。 護国神社の境内社には初めて出会い、とても驚いた。

出雲祝境内2

 最後に、出雲祝神社の社殿配置について言及したい。丘陵にある神社は通常、社殿を丘の上に建て、鳥居は丘の下に配している。狭山丘陵南麓の神社のほとんどが、鳥居をくぐり石段を上って社殿に向っている。即ち、社殿や鳥居は南向きに建てられている。 狭山丘陵北麓の出雲祝神社は、通常通りであれば社殿や鳥居は北向きに建てられていてよい。 ところが出雲祝神社は、丘陵に平行して造られており、社殿と鳥居は東向きとなっている。 これは武蔵村山市の神明宮の神主さんの言われたように「社殿や鳥居は太陽の方向、即ち南または東を向くのが普通」の考えに基づくのであろうか。これまで訪れた狭山丘陵北麓の神社は、丘陵地ではなかったけれど水天宮は東向き、兜稲荷神社は南向きに造られていた。 北向きや西向きは「鬼門」ということで避けているのだろうか・・・・・

 社殿裏の広場に立っているのが「重闢(かさねてひらく)茶場碑」(写真)。

出雲祝茶碑

 説明板には「この碑は天保三年(1832)の撰文銘をもつ碑で、狭山茶の由来が記されている。題額は鳥取県若櫻藩主前縫殿頭松平定常、碑文は後の大学頭林韑があたり、当時の一流書家であった巻大任(菱湖)が筆をとったものである。 鎌倉時代栄西によってもたらされた茶は、各地に広まり、この地方にも川越茶がつくられた。その後戦国の乱をへて衰微したが、江戸時代の後期に狭山茶復興の機運が起り、地元の吉川温恭・村野盛政の努力で再興され、文化・文政時代に至って茶の復興全くなり、茶戸五十有余におよび江戸との取引も盛んに行われた。そこで天保元年に建碑の議がまとまり同七年に建立された」と書かれている。
 「重闢」とは、一度閉じた茶作りの扉を再び開くという「復興」を意味する。この辺りが狭山茶畑の中心地であるらしい。

 その広場から斜面と石段を下ると、重闢茶場碑の入口を示す白い鳥居(写真)が、北に向いて立っている。茶場碑のためだけの鳥居には疑問があるが、神社の鳥居ではないので北向きでも構わないということなのか? 社殿・鳥居の南・東向きを発見し喜んでいたのに、最後になって北向きの鳥居を見て、なにか割り切れない気分となってしまった。

出雲祝茶鳥居


狭山丘陵寺社めぐり 58 出雲祝神社  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 58 出雲祝神社  (入間市宮寺)

 前報「山際観音堂」から狭山丘陵の山麓沿いの道路を、東に向かって500 mも歩くと、古社「出雲祝神社」に着く。 境内東側の入口の右に「出雲祝神社」の石碑と共に、屋根付の説明板(写真)がある。
出雲祝入口

 その説明板には「御祭神 天穂日命  由緒 延喜式内社で人皇第十二代景行天皇の御代創建 大宝二年再建す その後幾度かの乱世にあいながらも 御神徳のゆるぐことなく一般から寄木様と親しまれてきた 弘冶三年小田原城主北条家より社領を賜り 尚徳川家康将軍はじめ代々将軍より朱印十石をいただく 明治になり有栖川宮一品幟仁親王より御染筆を賜はる 宮寺郷の総鎮守で むすびの神(生々発展の神)としてたたえられ この宮内に大黒様(八千矛命)天神様(菅原道真公)が合祀されている 尚古社を物語る石剣 棟札 鏡 和琴 其の他文献等多数の宝物あり」と書かれている。

 入口の左にも説明板があり「出雲祝神社社叢ふるさとの森  出雲祝神社は、出雲大社(寄木の造営)との関係が深く、天穂日命の子孫が出雲の国よりこの地にやってきた時に、樹種を携えてきて蒔種したのがこの森で、『寄木の森』といわれています。市内ではめずらしいオガタマノキや野生のヤブツバキなどがあり、林相としては主に、ヒノキ・スギ・ヒサカキ等から構成されています」と書かれている。
 説明板の内容についての考察は、後述する。

入口の燈籠から始まる参道(写真)の途中に、風格のある一の鳥居(写真)が立ち、長い参道の先には石段が見える。この参道の長さからして出雲祝神社が、この宮寺郷の総鎮守であることが納得される。

出雲祝参道

出雲祝鳥居

一の鳥居からの参道の右に、二本の大木に屋根を付けた施設(写真)がある。これは祭礼に使用する旗竿であるが、今はこの大木を立てる人がいなくなり、使用されることはないとのこと。

出雲祝木置場

石段を上り、二の鳥居をくぐると、大きな社殿(写真)の前に出る。社殿の前面が格子と白壁という極めて質実剛健な造りで、延喜式内社としての古い歴史が偲ばれる。

出雲祝社殿

延喜式内社とは、平安時代中期の延長五年(927)にまとめられた「延喜式」神明帳に載っている神社(全国2861社)のことで、日本の古社として認められた神社。これまでの寺社めぐりで延喜式内社は、瑞穂町の「阿豆佐味天神社」一社のみで、出雲祝神社が二社目となる。
祭神の天穂日命(あめのほひのみこと)は、高天原の天照大神の子であるが、地上の出雲国(島根県)と縁の深い神で、二つの異なった姿が伝えられている。 一つは「古事記」の国譲り神話で、高天原の天照大神が出雲国を譲るように、使者として天穂日命を派遣するが、天穂日命が出雲国の大国主命に心服してしまい、出雲国に住みついてしまうという説。 もう一つは、天穂日命は出雲国の有力豪族の出雲氏の祖神であるという説。出雲氏に関係する「出雲国造神賀詞」に、天照大神に命じられて、国譲り後に乱れた出雲国を、天穂日命が平定する話が記されている。 いずれにしても出雲国とは、とても関係の深い神様。 その神様の子孫がこの地にやってきて住みついたということになる。
天穂日命を祀る神社は全国に分布しているが、埼玉県毛呂山町に「出雲伊波比(いわい)神社」があり、この出雲祝神社の身内ということになろう。これは平安中期以前に、出雲国の住人たちが、関東地方に移住してきたことが推定される。埼玉県高麗には、朝鮮半島から渡来した高麗人が住んでいたとされるように、大昔の日本国内を出雲人、高麗人が移動していく姿には古代のロマンを感じる。
祭神が更に二人おられ、天夷鳥命と兄多毛比命。いずれも出雲国に所縁の神様である。

ここで4年前に、この出雲祝神社をご案内いただいたブロ友様の資料を掲載しておく。最初の説明板と共通する点は多いが、とても参考になる。「由緒 人皇第12代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当られた時、当地においでになり、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波佐神社と崇敬せされた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。 醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式第九巻・神名帳に入間五座の筆頭として記された式内社です。社名の『祝』の文字は、小田原城主・北条氏康公からの朱印状を、弘治3年(1557)に賜り、それ以前は現存する大宝2年(702)の棟札をはじめすべて『伊佐比』が使用されています。宮寺郷十八ケ村(現在の所沢市から東京都瑞穂町)の総鎮守として、また江戸時代には、徳川家康公を始め、代々の将軍より十石の社領を賜り当時から隆盛な社でありました。 なお、出雲大社とは所縁が深く、社紋も同じ亀甲剣花菱であり、いずれも結びの神、生産の神として信仰の厚いものがあります。当社の森を『寄木の森』と称しますが、出雲国の杵築湾に漂う古木を以て造られたのが寄木の造営(出雲大社)であり、天穂日命の子孫が東国に下ったときに樹種を携えてきて蒔種したのが当社の森『寄木の森』であります。明治初年には、出雲大社大宮司・千家尊福氏も参拝され、大きな額を奉納されています。  全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」

この資料を読むと、「祝」よりも「伊佐比」の方が歴史は古そうで、ここの「出雲祝神社」と毛呂山の「出雲伊佐比神社」との間で、式内社をめぐる論争が展開されている事情もよく分る。
しかし、入間市博物館資料には「毛呂山の出雲伊波比神社は明治維新の頃、勤王家の神主、権田直助等が熱心に主張して、飛来明神を改めて出雲伊波比神社としたもので、それまでは社伝にも式内社であった伝えも証拠もない。ただ当社は中世毛呂山の氏神として有勢であったらしく、本殿は草祿元年(室町末期)の建築を寛永十年に補修したもので、建築そのものは重要文化財に指定されているが、式内社であるとは言えない。これに反して宮寺の伊波比神社はすくなくとも口碑に伝えられている、と東京都史談会菱沼勇氏は述べられている。また所沢市史にも毛呂山の伊波比神社は近代に至っていわれるようになったもので、古くは臥龍山といわれたと記されているし、文化年間に出版された武蔵野話には、寄木宮とて素盞鳴命を祀る、案ずるに出雲伊波比神社ならんか、これによりてこの地を宮寺と云うらん。と記されている」と、出雲伊波比神社の毛呂山説を否定し、地元である宮寺説を支持している。
論争は別にしても、毛呂山の「出雲伊佐比神社」は大社であると聞いたので、いつか参拝したいものである。

社殿内を覗くと、美しく整備された神棚(写真)があり、狭山丘陵北麓の社殿内部は、いずれも一見の価値がある。神棚上の額に「出雲祝神社」と書かれたのは、来社された千家氏の筆だったのだろうか。
出雲祝内部

本報はかなりの長文となったので、境内の紹介などは次報にまわす。



 

狭山丘陵寺社めぐり 57 山際観音堂  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 57 山際観音堂  (入間市宮寺)

 狭山丘陵北麓の寺社めぐりを、北麓から500 m くらい離れた不老川(としとらずがわ)流域にしぼっていたが、今回初めて狭山丘陵北麓の寺社めぐりとなる。丘陵の東京都との県境に建つのが「山際観音堂」(写真)。 茶畑の丘陵の広場に、小さなお堂が建っている。 

山際観音堂

「狭山観音霊場めぐり地図」(写真)の赤丸が26番札所の山際観音堂であり、緑丸はこれまでに参拝してきた観音堂。「霊場めぐりコース」に沿って寺社をめぐった数が約56社。これから狭山丘陵を一周すると、寺社数が150社くらいには達しそうで、まだまだ前途は多難である。

山際観音地図

観音堂のご本尊は十一面観音。観音菩薩の中でも人気の高い十一面観音菩薩は、頭上に十一面の顔を持ち(写真,但し山際観音堂の本尊ではない)、人々の苦を滅し仏果を与える広大な功徳を表している。 観音菩薩は三十三の姿に変化し、基本は聖観音であるが、他に十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音などがある。

山際観音十一119

山際部落に建つので「山際観音」と呼ばれ、「西観音」とも呼ばれるのは、西久保地区に建つからだという。 扁額(写真)には「山際西観音」と書かれ、この観音堂は宮寺地区の中心地にある清泰寺の管理下にあることも分る。

山際観音額

貼りつけてある「ご詠歌」には
  はかりなき 法の光の 尊さよ
  野にも山にも みつる月影
と、ありがたいお言葉が並んでいた。
 
境内からは特産「狭山茶」の茶畑(写真)が見渡せるが、茶畑の向こうにはこの地へも住宅化の波が押し寄せてきているようである。

山際観音茶畑

狭山丘陵寺社めぐり 56 太子堂  (入間市宮寺)

狭山丘陵寺社めぐり 56 太子堂  (入間市宮寺)

 狭山丘陵北麓の高根通りを東に向かって進むと、瑞穂町駒形富士山地区から入間市宮寺地区に入った。即ち、東京都から埼玉県に入って来たことになる。 県境の埼玉県側に建つのが「太子堂」(写真)。 左の建物が本堂で、右の建物が不動堂。

太子堂全景

 本堂の内部は暗く、内陣(写真)の様子はあまりよく分らない。 瑞穂町資料によると「ご本尊は聖徳太子で、二歳の時の像、丈一尺九寸。延文三年雲慶の作。無住の堂で、この堂を護りし寺は長福寺」と書かれている。 長福寺は太子堂の北西 1 kmにあり、後日訪れる予定。

太子堂内部

 本堂の左に説明板があり「宮寺旧坊村八雲神社祭礼古文書および太子堂大般若経(写真) 宮寺旧坊村の鎮守八雲神社(旧天王社、山王社が八雲神社となり、さらに現在は出雲祝神社境内に合祀)と太子堂の祭礼に係わる文書など、旧坊村の当時の信仰のようすなどを今に伝える史料である。 宮寺旧坊村八雲神社祭礼古文書は、嘉永七年(1854)から大正二年(1913)の約六十年間にわたる四百十六点におよぶ坊村の天王社、山王社祭礼文書で、祭礼の経費をはじめ当時の祭礼のようすが記録されている。 太子堂に納められている六百巻の大般若経は、いわよる鉄眼版で、幕末の弘化から安政期にかけて奉納されたもので、十二箱に収蔵されている。 毎年四月の大般若祭(坊太子堂大祭)では、大般若経を開いて転読供養が今も行われる」と書かれている。
太子堂文書

 説明された文書が、この太子堂内に収蔵されていたのである。大般若経とは、有名な玄奘三蔵がインドから中国に持ち帰り、翻訳した大乗仏教の経典である。あまりにも分厚い経典であるため、経典をパラパラとめくって、その一部を読誦しして、一巻を読誦したとする転読が行われている。
さらにこの地が、昔は坊村と呼ばれていたことが分る。 なお八雲神社が合祀された出雲祝神社には、これから訪れる予定である。

 「太子堂」のご本尊にあたる聖徳太子(574~622)の事績としては、まず第一に、日本に渡来して間もない仏教を、国家仏教へと展開させてその権威を確立し、わが国において最初の仏教文化を花開かせたことである。さらに、造寺・造仏を奨励し、日本最初の本格的な寺院である法興寺をはじめとして、四天王寺、法隆寺などの大寺を次々と造営した。これは当時としては国家的な大事業であり、これが建築関係の職人と関係し、大工や建築関係の職人の守護神として崇敬されている。 瑞穂町資料でも「この坊村でも、太子講を組織して今でも職人が集まり、太子像を飾ってお祝いし、各々の技術と共に家運の隆昌を祈願している」と書かれている。
 太子堂の建つ「宮寺郷」の中に「坊村」があるのが興味深い。お宮や寺院やお坊様の名称から、この地が昔はこの辺りの信仰の中心地であったように思われてならない。

 本堂の右の「不動堂」の内部は暗くて見えないが、不動明王が祀られているものと思われる。
 本堂の裏に七つの石塔(写真)が並んでいる。 左から三つ目は庚申供養塔で「見ざる言わざる聞かざる」の三猿が彫られ、元禄二年の銘が見える。庚申供養塔は、道教の庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、庚申塔を建てた際には供養を伴ったことから庚申供養塔と呼ばれる。江戸時代中期の華やかであった元禄時代に造られている。 その左は女性の墓標のようであるが、如意輪観音のような首を傾げた姿が妖艶に見える。 石塔の内容が分れば、興味がさらに増してくるだろう。
太子堂庚申塔

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狭山丘陵寺社めぐり 55 兜稲荷神社  (瑞穂町駒形富士山)

狭山丘陵寺社めぐり 55 兜稲荷神社  (瑞穂町駒形富士山)

 前報の「水天宮」前の道路を北上し、不老川(としとらずがわ)を越えると、国道16号線を背にした「兜稲荷神社」に着く。狭山丘陵からは 500 m 以上も離れているが、折角この地を訪れたので参拝することにした。
 武蔵野の風景を残す雑木林を背景に、明神系の白い鳥居(写真)が立っている。

兜稲荷鳥居

 鳥居をくぐると参道の向うに、兜稲荷神社の社殿(写真)が建っている。雑木林で陽がさえぎられ、境内は薄暗い。

兜稲荷社殿

 社殿の内部を覗くと、鏡を中心とした、小作りながらも整然とした神棚(写真)があった。これまでの狭山丘陵南麓の神社の社殿内部は、がらんとした空間が多かったけれど、前報の水天宮を含め、狭山丘陵北麓の神社の社殿内部はとても見栄えがする。

兜神社内部

 祭神は「稲荷神」と称される倉稲魂命で、稲の精霊を神格化した神様。日本の代表的な食物神であるが、ご神徳は五穀豊穣、産業興隆、商売繁盛、家内安全、芸能上達など、願いごとはなんでも可能とある。 稲荷神社の総本社である京都の「伏見稲荷神社」に、早く初参拝したいものである。
 この兜稲荷神社は、神社に隣接する栗原家の屋敷神だったとの説がある。多摩地方の旧家の屋敷内にある屋敷神(私の出身の中国地方にはなかったので、とても興味深い信仰である)が、格上げされて神社となったとする説である。 「兜」の由来については、神社の南1 km にある「五輪様の柿の木(後日確認の予定)」の下に置いてあった兜を、神社の神官であった栗原家の先祖が持ち帰り、祀ったことに由来するという説がある。 栗原家の先祖は、加藤丹後守(加藤神社の祭神、52報参照)の家来であったという話もあり、兜稲荷に関する諸説は真偽のほどを別にしても興味深い。

 社殿の右奥に境内社(写真)は「浅間神社」であることが分った。浅間神社は前報「水天宮」で述べた駒形富士山地区名の源となった神社。浅間神社は裁判の結果、箱根ヶ崎地区の所有となってしまったので、駒形富士山地区にある兜稲荷神社の境内に、浅間神社の末社を造ったことが推定される。 兜の由来や境内社の名前から、昔のこの地区で起ったいろいろな出来事が思い浮かぶのであった。
兜稲荷境内社

 これまで全国の稲荷神社は三万二千社もあり、日本で一番数の多い神社であると紹介してきた。それが最近発売された本「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」には、全国の稲荷神社は2970社で、八幡神社、伊勢信仰(神明社など)、天神信仰(天満宮など)に次いで、日本で第4位と記載されている。これは神社の総元締めである神社本庁が、その傘下にある79.355社の神社を対象にしてまとめると、稲荷神社の数は2970社となるとのこと。すると稲荷神社三万二千社というのは、神社本庁に登録されていない小社、境内社なども数えたものらしい。 前報の「水天宮」の境内社の一つが「稲荷神社」だったように、多摩地域の神社のほとんどが、境内社として「稲荷神社」を祀っているので、三万二千社という数も間違いではなさそう。 江戸時代の多いものとして「火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞」と言われるくらい、稲荷神社が多かったのもよく分るのである。 

狭山丘陵寺社めぐり 54 水天宮  (瑞穂町駒形富士山)

狭山丘陵寺社めぐり 54 水天宮  (瑞穂町駒形富士山)

 前報の福泉寺から200 m 北東に「水天宮」が建っている。狭山丘陵から流れる小川(写真)に沿って建つ、比較的に新しい小社(写真)である。

水天宮小川

水天宮全景

 笠木の両端が上に反って曲線的な明神系の鳥居(写真)は、社殿から見ると東南の方向を向いている。これまでに訪ねた狭山丘陵南麓の神社の鳥居は、ほとんど太陽を望む南向きであったので、北麓の水天宮の鳥居の向きも南麓同様である。

水天宮鳥居

 小さな社殿(写真)には歴史的な重みは感じられないが、農村に溶け込んだような親しみを感じさせる。 社殿の内部の神棚(写真)もすっきりしているので、この小社は信心深い氏子たちに大切に守られていることが察せられる。

水天宮社殿

水天宮社殿内部

 この小社の祭神は不明であるが、水天宮の総本社である福岡県久留米市の水天宮の祭神は天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院)、二位の尼(平時子)である。源平壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇以下を除くと、天御中主神がこの小社の祭神である可能性がある。 天御中主神は、高天原に一番最初に現れた神で、天は宇宙、御中は真ん中、主は支配する意味で、宇宙の根源神というとても偉大な神様である。 この天御中主神を祭神とする近くの神社としては、東京水天宮、秩父神社がある。昨年訪れた東京水天宮は、社殿の大改修中で参拝できなかった。 私は福岡県久留米市に3年間在住したので、大河筑後川に沿って建つ水天宮(写真)には何度も参拝した懐かしい神社である。その水天宮が、全国の水天宮の総本社であることは、この寺社めぐりで初めて学ぶことができた。
 なお、天御中主神のご利益は水とは関係がなく、安産・子育ての神とされる。

水天宮115

 小さな境内社が二つあり、その一つが稲荷神社(写真)であることが分った。残念ながらもう一つの境内社(写真)は不明であった。

水天宮境内社1

水天宮境内社2

 神社を去りながら「この水天宮は、昔の筥ヶ池(現在の狭山池、50報参照)から埼玉県側に流れ出ていた川の水神を祀る、歴史ある神社であったのだろう」と考えていた。 神社前で地元の男性に出会い挨拶すると、その男性が「この神社は震災か空襲の後に、東京都内から移ってきたと聞いている。横の小川の水源は狭山池ではなく、目の前の狭山丘陵から流れ出している」と教えてくれた。 筥ヶ池から流れ出していたのは不老川であって、この小川は不老川の支流であることが分り、この小社が私の思っていたほどには歴史的に著名なものではなかったようである。
 
 この地区名が「駒形富士山」 富士山を「ふじやま」と読むらしい。 何が富士山かと言うと、富士山は浅間神社のことで、この地区の裏山に建つ「浅間神社(48報)」が富士山の言われである。 浅間神社は富士山信仰の神社であり、裏山に建つ浅間神社の土地帰属について、隣村の箱根ヶ崎と争って敗れ、浅間神社は駒形富士山地区の所有ではなくなった。 しかし昔からの村名であった「富士山」が、今でもこの地区名として残っているのが興味深い。 

狭山丘陵寺社めぐり 53 福泉寺  (瑞穂町高根)

狭山丘陵寺社めぐり 53 福泉寺 (瑞穂町高根)

 寒い冬の間中断していた狭山丘陵寺社めぐりを、3月に入り再開。前報で狭山丘陵南麓の寺社めぐりを終えたので、これからは狭山丘陵北麓の寺社めぐりを開始。瑞穂町北端の高根地区の福泉寺(地図の赤丸、緑丸は訪れた観音堂)を訪れた。

狭山丘陵地図福泉寺114

 旧国道16号線の「駒形富士山」信号から別れた「高根通」と呼ばれる道路に面した参道を入ると、2本の白い石柱の向うに、福泉寺の「本堂」(写真)が見える。

福泉寺本堂

 石柱の前に「松沢山福泉寺」と彫られた石碑(写真)が立ち、石柱には「臨済宗建長寺派」と彫られている。境内には豪雪の名残の雪が見られるが、それでも白梅が咲き春の訪れを告げている。
福泉寺入口

 本堂や鐘楼(写真)を眺めていると、寺務所から出てきた男性が「この本堂は18年前に建設された」と教えてくれた。 鐘楼の右に「本堂落成記念碑」があり、その中に「本寺は永享十一年(1436)開山」と書かれている。 室町時代中期に創建されたことになる。

福泉寺鐘楼

 瑞穂町資料には「松沢山福泉寺 本尊、釈迦如来 開山、真庵玄性和尚 由緒、往古此処に寿昌院という寺があったが、三世文峰和尚の時に寺を二本木に移し、その跡地に小さな庵室をつくり福寿庵と称したという。寿昌寺六世単道和尚の代に本山に願い一寺に取立て福泉寺と号し、寿昌寺二世真庵玄性を開山として勧請したという」と書かれている。 福泉寺の本寺と思われる寿昌寺は、ここから北500 mの入間市に位置し、後日訪ねる予定である。 大本山建長寺の末寺に寿昌寺があり、その末寺が福泉寺という構図。臨済宗建長寺派の大寺としては、瑞穂町の福正寺(41報)、円福寺(51報)や武蔵村山市の禅昌寺(35報)があり、建長寺と寿昌寺の間に、これらの大寺が介在しているのかも知れない。

 境内には、馬頭観音を中心とした5体の石像(写真)が並んでいる。

福泉寺馬頭

 境内の入口には、右に六地蔵と一回り大きな地蔵像が、七地蔵(写真)の形に並んでいる。六地蔵の横に並ぶ地蔵の名前は決まっているのであろうが、浅学の私には何地蔵であるのか分らない。 更に入口の左にも地蔵像(写真)がある。いずれの赤い布をまとって、大切にされているように見受けられた。

福泉寺七地蔵

福泉寺地蔵

 これから狭山丘陵の北麓を、西から東に向かって寺社めぐりをして行く。南麓には豪雪の跡は既に消えているが、北麓のこの寺の境内には残雪が多い。狭山丘陵の南北では、季節の移ろいや人々の生活に違いのあることが予想され、これからの長い寺社めぐりの旅のテーマとして、なんらかの期待が持てそうに思えてきた。
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