FC2ブログ

パリ旅行 3 ブルージュ(ベルギー)

 パリ観光の3日目。今日はパリから観光バスに乗り、ベルギーのブルージュへの日帰り観光。パリに出発前、日本で予約しておいたコース。

1  ブルージュ

  ブルージュに近づく頃、ガイドの説明「ブルージュは人口12万人の運河の町。13世紀、運河を利用して金融・貿易の一大拠点となり隆盛を極めた。世界初の証券取引所も開設された。15世紀以降は運河が土砂に埋まり、町は衰退した。近年運河を復活させ、水の都として世界遺産に登録されて、世界中から観光客を集めている」 
 ブルージュに着き、バスから降りて運河を渡る。橋の上からの落ち着いた中世の風景(写真)が美しい。
ブルージュ風景

 木立の向こうに白い建物(写真)が現れる。ガイドの説明「あの白い建物がベギン会修道院。1245年にフランドル伯夫人によって設立された、世界遺産にも登録された修道院」 

ブルージュペギン

 午後からは「運河クルーズ」 狭い運河の両岸に中世の家屋が立ち並び(写真)、とても魅力的なクルーズ。 ブルージュではもっとも高い聖母教会の高い塔(写真)も見ることができ、30分そこそこのクルーズに大満足。 運河クルーズとしては、ベネツィアに次ぐ満足感あり。サンクト・ペテルスブルグやアムステルダムの運河クルーズよりも、ブルージュの運河クルーズの方が評価は上。

ブルージュクルーズ1

ブルージュクルーズ2

 ブルージュの中心「マルクト(中央)広場」(写真)に出る。 ガイドの説明「欧州でも5指に入る美しいマルクト広場。東にはネオゴシック様式の州庁舎。北と西側には切妻屋根のレストラン、みやげ物屋。そして南側にはブルージュのシンボルである鐘楼(写真)が建つ」 
 
ブルージュ広場1

ブルージュ広場2

 鐘楼の上からの展望は抜群。先ず、一面に広がる赤い屋根が美しい。次いで、聖母教会の塔(写真)やブルグ広場の展望(写真)が素晴らしい。鐘楼からの展望は、ベネツィア、フィレンツェに次ぐ美しさだと思う。
ブルージュ鐘楼1

ブルージュ鐘楼2
スポンサーサイト



狭山丘陵寺社めぐり 50 筥の池弁財天

狭山丘陵寺社めぐり 50 筥の池弁財天

 前報「狭山神社」から西に100 mくらい歩くと、有名な「狭山池(旧名:筥の池)」に着く。 広い狭山池の東、残堀川への水門近くの池の中に「筥の池弁財天」が建っている。美しい池に相応しい赤い明神系の鳥居(写真)が、池の前に立っている。

弁財天鳥居

 鳥居の右側に、大きな常夜燈が立っている。これは江戸時代の日光街道に立っていた常夜燈で、この場所に移されたもの。箱根ヶ崎村の歴史的遺物であり、台座の彫刻(写真)は見ごたえがある。

弁財天常夜燈2

 鳥居をくぐり、池の中に向かう参道を進むと、池の中に建てられた「筥の池弁財天」の社殿(写真)がある。屋根を修復中のため、社殿の全貌が確認できないのが惜しい。

弁財天社殿

 祭神である弁財天は、本来はサラバスティ(聖なる河)と呼ばれるインド古代神話の水神で、ヒンドゥー教では梵天の妃。即ち、七福神では唯一の女神であり、インドからやってきた神様である。 ところが「宗像三神」のなかでもとりわけ美人とされて人気のある市杵島姫命が、弁財天と同神とされ「弁天様」として、水の神、農業神として信仰されるようになった。 全国の弁天社の総本社は広島県の「厳島神社」であり、関東では江の島の「江島神社」が有名である。

 瑞穂町資料に「筥の池弁財天  狭山池の中州にあり、由緒不詳。 狭山池の水を玉川助水として江戸幕府が活用した際、本来出口のなかった池に掘割を通じて水を取ったので池水極度に減少。そのため地下よりの湧泉の場所を掘り広めて池を造ったが、その時掘り上げた土を盛って中州をつくり、弁財天を祭ったのが始まりであるという」と書かれている。 補足説明すると、昔から狭山池の水は、不老川(旧名:としとらずがわ)によって埼玉県に流れ出していた。江戸時代のはじめ玉川上水が造られたとき、狭山池の水を玉川上水に流すため、玉川上水につながる残堀川に向けて新たな出口を造った。それ以降、狭山池の水が使えなくなった不老川流域の住民に不満がなかったのか、知りたいものである。

 多摩地域には珍しい大池である狭山池(写真)を周回する。大昔、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられた窪地となった所が、今の狭山池である。周辺は粘土質のため水はけが悪く、昔から耕作できずに芝地になっていた。

弁財天狭山池

 池の西北に小さな石橋(写真)があり「調練橋」と刻字され、説明板に「この調練橋は、慶応元年(1865)から二年にかけて、この辺りの芝原で農兵に鉄砲等の調練を行ったために名づけられたのである。 箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村は天領(幕府の領地)で西洋式戦術の研究家として有名な、江川太郎左衛門が代官として支配していた関係で、この地が訓練場として選ばれたのであろう。 この訓練は、武士階級の崩壊や徴兵制につながる我が国の近代化への第一歩を示すものとして、意義深いものといえよう」と書かれている。
鉄砲を撃つのだから、相当に広い芝原であったことが想像される。

弁財天調教橋

 橋の架かる小川を上流に遡ると「丸池」(写真)があり、ここが狭山池の水源地にあたるようである。この池に流れ込む小川の水と池の湧水が、玉川上水の助水として活躍したことが偲ばれる。 今でも大雨が降るとこの一帯が冠水するという、多摩地方にしては特異な地形が「狭山池」なのである。

弁財天丸池

パリ旅行 2 マルモッタン美術館

 パリ観光の二日目。ホテル近くのマルシェ(写真)で、フランスの食材を買い込む。夜、部屋に付設する台所で調理し、珍しいフランスの食材を楽しむ。特に、ムール貝とサクランボが美味しかった。

パリマルシェ1

パリマルシェ2

1  マルモッタン美術館

初めてメトロに乗り、少々迷いながら「マルモッタン美術館」(写真)に到着。美術史家ポール・マルモッタンの邸宅が、そのまま美術館となっているので、まるで美術館らしくない。

パリマルモ

その各部屋や廊下に、おびただしいモネの絵が展示され、ここはまさに「モネ美術館」である。有名な「ルーアン大聖堂」や「雪の中の列車」など50点近くのモネの絵を鑑賞。 廊下には印象派絵画の暁を告げる「印象、日の出」(写真)が展示されている。 

パリ印象、日の出

当時の画家は、サロンの展示会で入選することで絵が高く売れ、画家の生活を支えていたが、モネはサロンを否定し、1874年に反サロンの展示会、即ち第1回印象派展示会を開催。その展示会にモネが出品したのがこの「印象、日の出」だった。それほど強烈な印象を与える絵とは思えないが、当時の画壇に新風を送った画期的な絵画だったのだろう。 

館内では昨日強烈な印象を受けた「マリー・ローランサン特別展」が開催されていて、100作に近いローランサンの作品(写真)を鑑賞。あまりに多くの作品を見たので、ローランサンの絵にはやや食傷気味となった。 
パリローランサン1

美術史家、マルモッタン夫妻によって集められたコレクションが、本美術館のベースであるが、後でモネの息子ミシェルが遺贈した父親の作品群が増えたおかげで、今や印象派絵画フアンにとっては見逃せない美術館となっている。

2 ブローニュの森

昼食後「ブローニュの森」に向かった。マルモッタン美術館から少し歩いた後「アンフェウール湖」(写真)という広い湖に突き当たった。湖畔を散策して引き返した。

パリブロニュ

広い森の左奥には「ロンシャン競馬場」がある。ここでは10月に競馬の最高峰「凱旋門賞」が開催され、過去に日本からディープインパクト、メイショウサムソンなどの名馬が挑戦したが、未だ優勝したことがない。昨年はオルフェ―ブルが挑戦し、惜しくも2着であった。 今年もオルフェ―ブルとダービー馬・キズナが挑戦したが、オルフェーブル2着、キズナは5着。 「日本馬優勝」の朗報が待ち遠しい。



狭山丘陵寺社めぐり 49 狭山神社  (瑞穂町箱根ヶ崎)

狭山丘陵寺社めぐり 49 狭山神社

 今年の初めに「狭山丘陵の寺社めぐり」を目指して、我が家から時計回りにスタートし、「狭山観音霊場めぐり地図」(写真)の赤丸、即ち狭山丘陵の西端にあたる「狭山神社」に到着した。既にめぐり終えた観音堂八か所を、緑丸で示しておく。 狭山丘陵の全寺社めぐりのゴールまでには、更に100社以上の寺社に参拝が必要と思われる。

狭山神社地図107

 狭山神社の山麓に国道16号線があり、狭山丘陵の中で唯一国道16号線の西側の丘陵の頂上に、狭山神社が建っている。 明神系の一の鳥居(写真)の傍の説明板には「御祭神 伊邪那岐尊(イザナギノミコト)伊邪那美尊(イザナミノミコト)泉津事解男命 箱根大神 木花咲耶姫命 大山衹命 巌永姫命  由緒 創建年代不詳 箱根大神は永承年間(1046~53)源義家の奥州征伐の折、筥の池(狭山池)辺に陣営、箱根権現の霊夢に感じ、当地に勧請、凱旋の時に奉賽したと謂われる。木花咲耶姫命他二柱は源頼朝の関東五百社勧請の一社と思われる。主祭神の伊邪那岐、伊邪那美二神と泉津事解男命はそれ以前の奉斎と思われる。幕末と明治の火災の後、昭和二十六年拝殿幣殿完成」と書かれている。
狭山神社一鳥居

 一の鳥居をくぐると、神明系の二の鳥居(写真)が立っているので、鳥居からみた系列別の神様が合祀されていることが分る。

狭山神社二鳥居

 狭山丘陵にかかる石段を上った中腹の平地に、美しい燈籠と赤いトタンの屋根付の三の鳥居(写真)があり、古い歴史を感じさせる。

狭山神社三鳥居

 急勾配の石段を上りつめた狭山丘陵の頂きに、美しい狭山神社の拝殿(写真)が建っている。昭和26年という終戦後の混乱期に建てられたとは思えない、優美な拝殿・幣殿である。

狭山神社拝殿

 本殿はよく見えないが、木々の間に見える屋根(写真)の上には、天に向かう鋭い千木や横とう堅魚木が見渡せ、伊勢神宮や出雲大社に似た神々しさが感じられる。この本殿が建立された時期は、拝殿・幣殿よりも古いが、年代は不明とのこと。

狭山神社本殿

 主祭神のイザナギ尊、イザナミ尊は、神話のなかに一番最初に出てくる夫婦神である。そこから、夫婦婚姻のはじめとか結婚の神などといわれる。また、結婚して数々の国土を誕生させる「国生み」や、多くの自然神や文化神を誕生させる「神生み」を行ったことから、国堅めの神、生命の祖神などともされている。
 イザナギ尊・イザナミ尊の二神が鎮座するのが滋賀県の多賀神社であり、全国の多賀系の神社、233社の総本社。関東の多賀信仰の神社としては、秩父の三峰神社がある。
 主祭神の一人泉津事解男命は、イザナミ尊亡きあとにイザナギ尊から生まれた神様で、事解の神名から事態を収拾させる神といわれるが、どうもよく分らない。同じイザナギ尊から生まれた兄が、熊野速玉大社の祭神である熊野速玉男神といわれたり、兄弟は同一神といわれることもある。 「八百万の神」と呼ばれるくらいに、日本の神様の数は多いので、個々の神様について説明が十分できないのが残念である。

 社殿の左右に4つの境内社が並んでいる。 左端に建つのが「権現山稲荷社」(写真) 境内社として稲荷社は何度も紹介しているので、説明を省く。「権現山」は、説明板にある箱根権現のことらしい。

狭山神社稲荷

 社殿の左脇に建つのが「機神社」(写真) この「機神社」は「機織り」のことで、武蔵村山市の「大島紬」の神社として建てられたとのこと。

狭山神社機

 社殿の右には「金刀比羅宮神社」と「高尾神社」の小社(写真)が並んで建っている。 「金刀比羅宮(ことひらぐう)」は、四国・香川県・琴平町に建つ「讃岐のこんぴらさん」であり、通常「金毘羅さま」と呼ばれて親しまれている。祭神である金毘羅神は航海の神、船の神であり、海辺に祀られていたが、農業守護や雨乞いの神として内陸部でも祀られるようになり、金毘羅神の神社は全国に683社もあるという。 「高尾神社」は神社の裏側の人々が建てたもので、由来は不明。高尾山(薬王院)とは関係がないらしい。広島県呉市に高尾神社が存在するが、そのような遠方の神社を祀るのも考えにくい。

狭山神社金刀

 最後に「狭山丘陵の成り立ち」について、歴史講座などで学んだことを紹介する。 狭山丘陵周辺の武蔵野の大地は、太古は海底であった。そこに多摩川が奥多摩の土砂を堆積させながら、埼玉県南部と東京都に渡る広い流域を、川筋を変えながら流れ込んでいた。その多摩川の広大な流域の中にできた三角州に、火山灰が降り積もって形成されたのが「狭山丘陵」。その三角州、即ち狭山丘陵の上流部先端が、この狭山神社辺りではないかというのが私の推定。少々乱暴な「狭山丘陵の成り立ち説」であるので、ご批判・ご意見を頂きたいと思う。
 狭山丘陵西端の地に到着した喜びをかみしめながら、狭山神社を後にした。

パリ旅行 1 オランジュリー美術館

 これまでの海外旅行は全てツアーであったが、今回は初めての家内との二人旅。しかも私には初めてのパリの旅。14日間をどのように過ごそうかと、期待と不安がいっぱいの観光初日を迎えた。

1 オペラ座

 金と緑色の屋根を持つ、美しいオペラ座(写真)に着き、見学者入口から入場。これでミラノのスカラ座、ウィーンのオペラ座と並ぶ世界三大オペラ座を見学できた。但し、劇場内部の入場は、このパリのオペラ座が初めて。

パリオペラ座全景

 有名な大階段を上ったところに、宮殿のように豪華絢爛なホワイエ(写真)がある。オペラの幕間に紳士・淑女、ムッシュー&マダム、パリジャン&パリジェンヌが集い、幕間の歓談を楽しむ場所。既にパリ観光済みの家内が「ホワイエはヴェルサイユ宮殿と同じ豪華さ」と教えてくれた。ホワイエの豪華さは、世界のオペラ座の中でも最高峰に位置するという。 

パリオペラ座ホワイエ

3階に上ると桟敷席の一つに入場でき、そこから舞台や観客席を見下ろすことができる。カーテンが閉じているので舞台は見えないが、2000席といわれる観客席を見渡すことができた。 劇場内では天井のシャガールが描いた「愛の花束」と名づけられた天井画(写真)が圧巻。1964年、シャガールがオペラの祭典を描写した天井画。

パリオペラ座絵

 オペラ座の正式名は「パレ・ガルニエ(ガルニエ宮)」 19世紀後半、ナポレオン3世(有名なナポレオン・ボナパルトの甥)は、貴族や資産家の社交場としてオペラ座の建設を命じた。設計コンクールで選ばれたシャルル・ガルニエが、このオペラ座を1875年に完成した。それから90年後に、シャガールが天井画を描きかえたことになる。 

2 オランジュリー美術館

 オペラ座から歩いて、コンコルド広場に面する「オランジュリー美術館」(写真)に着く。

パリオランジュ

先ず地下の廊下にルノワールの作品が30点も並んでいるのには驚いた。 ルノワールの作品では「ピアノを弾く少女」(写真)が気に入った。ルノアールの描く女性たちは、なんと美しいことか! 更にセザンヌ、ピカソ、マティスの作品が、各々10点以上もあるのがすごい。

パリピアノの弾く少女

マリー・ローランサンの作品(写真)が気に入ったので紹介しておく。女流画家が女性を描くと、こんなにミステリアスに仕上がるものらしい。

パリローランサン2

1階は有名なモネの大作「睡蓮」が、二つの楕円形から成る大広間(写真)の壁いっぱいに、8点の大作が掲げられているのは壮観。オランジュリー美術館の宝物である。

パリ睡蓮の間097
但し作品を注意深く観察すると、絵の具の使い方が乱暴で、水彩画のような美しさに欠ける。晩年のモネの力作ではあるが、この乱暴な筆づかいは、彼の体力の限界だったように思われる。この大作「睡蓮」(写真)の完成については、原田マハ著「ジヴェルニーの食卓」にその背景がよく書かれている。なにはともあれ、パリ西部のジヴェルニーにある「モネの睡蓮の池」には、絶対に行かなくてはいけない。 
パリ睡蓮095
 「オランジュリー」は「オレンジ(オランジュ)」に由来しており、17世紀、オレンジの温室がここにあったことから「オランジュリー」と名づけられた。 美術館の地下に144点の作品が展示されているが、これらは1977年、画商であったマダム・ウォルターの死後、パリ市に寄贈されたもの。印象派とポスト印象派だけの美術館である。 その後モネの大作「睡蓮」8枚が、第一次世界大戦の勝利を記念して、モネからフランス国家に寄贈されたのである。


狭山丘陵寺社めぐり 48 浅間神社  (瑞穂町箱根ヶ崎)

狭山丘陵寺社めぐり 48 浅間神社

 前報の「八雲神社」の社殿の右手に白い鳥居(写真)が立ち、ここから狭山丘陵を上る参道の先に建つのが「浅間神社」
浅間神社鳥居

 参道の石段(写真)はとても長く、狭山丘陵の西端の尾根の上に浅間神社の社殿(写真)が建っている。
浅間神社石段

浅間神社社殿

 社殿の内部はお祓いを受けたり、参拝する場所があり、その奥にある小さな祠(写真)にご祭神が祀られているのだろう。
浅間神社内部

 これまでの寺社が人家の近くに建っていたのに、この神社は木立に囲まれて静寂そのもの。 須賀神社の奥宮(37報)以来の寂しいというか、神々しい雰囲気の境内である。
 多摩地方に多い浅間神社は、富士山信仰の神社。祭神の木花咲耶姫命は、世界遺産に登録された富士山の神霊である。狭山丘陵の尾根の頂上に社殿が建っているのは、昔は参拝者がこの社殿から富士山を遥拝したと思われる。現在は富士山の方角には樹木が生い茂り(写真)富士山を見ることはできない。
浅間神社境内

 武蔵村山市の「仙元神社(14報)」や東大和市の狭山富士(玉湖神社傍)では、人々が土を盛って人工の山を造り、その頂上に神社を建て、境内から富士山を遥拝したといわれる。それほどに多摩地方での富士山信仰は根強いのである。
 浅間神社の総本宮は、富士山本宮浅間神社であり、その奥宮は富士山の頂上に鎮座しており、世界遺産・富士山そのものである。

 この神社は富士山村と箱根ヶ崎村の境界の尾根にあり、宝永九年その帰属争いが起り、評定所裁定によって境内は箱根ヶ崎分となり、以来箱根ヶ崎で祀りをするようになった。
現在の瑞穂町内に「駒形富士山」地区があり、駒形富士山地区の名称には予てから「地区のどこかに富士山があるのだろうか?」と興味を持っていた。 調査の結果、駒形村と富士山(ふじやま)村が合併し「駒形富士山」地区ができた。 富士山村の由来は、村の北側に「富士山」即ち「浅間神社」が存在することにあったという。そうすると富士山村の象徴である「富士山即ち浅間神社」を、帰属争いの末に箱根ヶ崎村に奪われたのは、富士山村の人々にとっては村名に関わる痛恨事であったに違いない。
 寺社めぐりをしながら、寺社と地元の人々との深い関わりを知ったときは、とても幸せを感じる。

ブロ友様より「ビワまつり」の問い合わせがあったので、瑞穂町歴史資料館に問い合わせた結果を報告する。
 「ビワ祭」は富士山の山開きの日、即ち7月1日に「浅間神社」で行われる祭り。祭に行く人は各々、手に「ビワを描いた団扇」を持参したので「ビワまつり」と呼ばれた。昔からこの地ではビワの木が生育しにくかったので、ビワは貴重な果物だったと考えられる。 富士山や浅間神社とビワの関係は不明で、「ビワまつり」は昭和20年頃は露店が並ぶほど盛んであったが、現在は神社の内輪の神事となっている様子。 この地区の祭は、7月15日の「大王まつり」が現在でも盛大に続けられている。

狭山丘陵寺社めぐり 47 八雲神社  (瑞穂町箱根ヶ崎)

狭山丘陵寺社めぐり 47 八雲神社

 瑞穂町箱根ヶ崎地区の狭山丘陵の谷間を分け入った住宅地の奥に「八雲神社」が建っている。 入口には鳥居がなく、二つの大木(写真)が鳥居の代わりに立っている。左の大木が枯れているのに歴史の重みを感じる。
八雲神社入口

 参道を上ると石段があり、石段の上に簡素な造りの社殿(写真)が建っている。

八雲神社社殿

 格子窓から社殿の内部を覗くと、質素な部屋の正面に祠(写真)があり、祠の中にご祭神が祀られているらしい。
八雲神社内部

 この八雲神社の祭神は、素戔嗚尊、大山祇命、火産魂神、市杵島姫命である。 八雲神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神とする祇園信仰の神社であるから、四神の内でも主祭神は素戔嗚尊なのだろう。 社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社。 八坂神社はこれまで寺社めぐりでは二社に参拝したが、八雲神社の参拝は初めて。
 瑞穂町資料によると「創立年月不詳。もと牛頭天王社(祭神、素戔嗚尊)と称す。明治二年八雲神社と改む。明治四十一年日枝神社(祭神、大山咋神)を、同四十二年に愛宕神社(祭神、火産霊神)を合祀する」とあるので、大山咋神(大山祇命は誤り)、火産霊神の出所が判明。市杵島姫命は厳島神社の祭神であるので、厳島神社も合祀されたものと推定した。
 「八雲」や「スサノオ」は、私の出身である島根県に所縁があるので、とても懐かしく感じる言葉。古代の島根(出雲)から、どのような経路を辿ってこの地に鎮座したのか興味深い。 素戔嗚尊は農業・防災除疫の神であり、狭山丘陵西端の箱根ヶ崎地区の人々の厚い信仰を受けたことであろう。
 瑞穂町には素戔嗚尊を祭神とする三社(他は石畑・殿ヶ谷の須賀神社)があり、毎年7月には三社合同で「瑞穂天王祭」が開催され、神輿や山車が町内を巡幸している。

 境内に「八雲神社造営記念碑」が建ち「遷座祭平成十年」と書かれていたので、この社殿は15年前に修復されたことが分る。 その記念碑の裏側に「建設基金 神社基金 700万円 狭山神社崇敬会 800万円 箱根ヶ崎財産管理会 600万円」と彫られていた。 神社基金とは、八雲神社が出資した資金と考えられる。次の狭山神社崇敬会とは、近くに建つ狭山神社の氏子たちからの資金で、狭山神社はこの地区の神社の取りまとめ役であるので納得。最後の箱根ヶ崎財産管理部資金とは、瑞穂町に合併前の箱根ヶ崎町の財産であると推定される。 神社修復時の資金の出所は、神社財産と寄付以外にも存在することを知った。

 前報の「石畑御嶽神社」から歩いて来る途中に「ジュンサイ池」(写真)を見つけた。これまで狭山丘陵内では多くの溜め池を見てきたが、ジュンサイの育つ池は初めて。この池は、近年建設された「瑞穂ビューパーク」と同時に造成された人口池。近所にある「狭山池」のジュンサイを移植したという。この地で好まれたソバの中でも、特に「ジュンサイ蕎麦」が名物であったとのこと。

八雲神社池

狭山丘陵寺社めぐり 46 石畑御嶽神社  (瑞穂町石畑)

狭山丘陵寺社めぐり 46 石畑御嶽神社

 青梅街道の都バス「瑞穂役場入口バス停」に近い住宅地の中に「御嶽神社」がある。 大きな白い一の鳥居(写真)が立っている。

御嶽神社一鳥居

 一の鳥居の後方には、同じ明神系の両端が反り上がった二の鳥居(写真)が立っている。 二の鳥居の後ろに欅(けやき)の大木があり、推定樹齢350年といわれる巨木である。

御嶽神社二鳥居

 境内の奥には屋根の端が反り上がった瀟洒な社殿(写真)が建ち、説明板には「石畑御嶽神社本殿 総ケヤキの小社殿。 壁面はもちろん勾欄の手摺、土台に至るまで彫刻が施されている。このような工芸品に近い神社建築は、幕末から明治初年にかけて流行した一様式である。 棟札により、この本殿は弘化二年(1845)に完成したことがわかる」と書かれている。但し、私の見たかぎりでは、さほど見事な彫刻とは思われなかったので、彫刻の紹介は省く。

御嶽神社社殿

 石畑御嶽神社の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)であり、本社と思われる武蔵御嶽神社の五人の祭神の一人。 日本武尊は第十二代・景行天皇の皇子に生まれ、天皇の命を受けて西国や東国に出征し、九州の熊襲建兄弟や出雲の出雲建を、次々に討伐し服従させるという功績をあげたことが「古事記」に記されている。日本神話のスーパーヒーローである。
 御嶽神社は石畑地区の氏神。石畑地区にはお金持ちが多く「水乞の儀式」には消防車を仕立てて、武蔵御嶽神社の御神水をもらいに行ったという昔話があるという。
 社殿の左には神輿舎があり、豪華な神輿(写真)が鎮座し、例祭のときには「石畑の山車」が町に繰り出すとのこと。
御嶽神社神輿

 最後に、これまで訪れた狭山丘陵の神社は、全て南向きに造られていたが、この石畑・御嶽神社のみが東向きに造られていた。神社を見つけた時に「何か変だな」と思ったのが、これだったのだ。 武蔵村山市の神明社(11報、参照)で「神社の鳥居は太陽のある南か東向きが普通」と教えられていた。従って東向きもおかしくはないが、狭山丘陵に平行した方向(東)を向く神社が、たまたまこれまでに無かっただけとも思われる。

狭山丘陵寺社めぐり 45 稲荷神社  (瑞穂町石畑)

狭山丘陵寺社めぐり 45 稲荷神社

 石畑地区の狭山丘陵の麓に「稲荷神社」がある。 立派で大きな明神系の鳥居(写真)が立っている。
石畑稲荷鳥居

 鳥居をくぐると石段があり、丘陵の中腹に、大きな鳥居とは対象的な、小振りでシンプルな社殿(写真)が建っている。
石畑稲荷社殿

 扉の格子から社殿内部を覗くと、小さな木製の祠(写真)が見える。これは稲荷神社の総本社・伏見稲荷大社を見立てた祠なのだろうか?

石畑稲荷内部 

 この辺りには、個人所有の稲荷神社が多いという。前々報の「石畑・大野稲荷神社」は、大野家の神社だった。付近の家に問い合わせると、その辺の事情が分るかも知れないが、なんとなく気乗りせずに神社を後にした。

 稲荷神社の祭神・倉稲魂神は稲の精霊を神格化した神で、五穀・食物をつかさどる神様。「衣食住」の中でも、生きる基本であるのが「食」であることから、日本に稲荷神社は3万とも5万ともいわれ、全国の神社では最も数が多い。多摩地方の神社では、境内に稲荷神社を祀るケースが多く、稲荷神にはその神社や境内を守護するパワーが存在するようだ。更に多摩地方の旧家の中にある屋敷神の多くが稲荷神社であることから、この稲荷神社も元は土地の有力者の屋敷神であったのかも知れない。

寺社めぐり 14 島根県益田市

寺社めぐり 14 島根県益田市

 高校同期会に参加し、出雲市、石見銀山、津和野町の寺社めぐりをしてきたが、最後に私の生まれ故郷の益田市の寺社を紹介する。

1 医光寺

益田七尾城主、益田宗兼が建立。総門(写真)は益田七尾城の大手門だったが、関ヶ原の合戦後、医光寺に移築されたもの。がっしりした門構えは、寺院の門としては特異な存在である。
 
益田医光寺門
 
 医光寺(写真)は臨済宗東福寺派の寺院で、本尊は薬師如来。「医」「薬師」から推定すると、病気の治癒にご利益のある寺院なのであろう。

益田医光寺

 医光寺で有名なのが「雪舟庭園」(写真)

益田医光寺庭

 説明書には「画聖雪舟作、池泉観賞式庭園。 雪舟は文明十一年(1479)、益田氏第十五代当主益田兼尭に招かれ、画業の傍ら作庭したと言われている。(中略) 当庭園は万福寺庭園(市内)、常栄寺庭園(山口県)、旧亀石坊庭園(福岡県)とともに『雪舟四大庭園』と言われている」と書かれている。
 子供の頃から何度も見てきた庭園であるが、いつ見ても心落ち着くよい庭である。
 「雪舟」についての説明書には「室町時代の禅僧、画僧(1420~1506)。備中国(岡山県)に生まれ、幼時、宝福寺(寺社めぐり 7 総社市 参照)で涙のネズミを描いた話は有名です。応仁元年(1467)志を得て遣明船に乗り、明国(寧波、北京)に行きました。帰国後、文明十年(1478)には益田を訪問して、万福寺とともに当寺の庭に山水庭を築きました。晩年益田を訪問し、この地で87歳の生涯を終えました」と書かれている。

2 万福寺

医光寺の近くの益田川沿いに「万福寺」(写真)が建っている。

益田万福寺

万福寺にも「雪舟庭園」(写真)がある。

益田万福寺庭

「万福寺庭園」の説明書には「雪舟禅師によって作られた寺院様式の庭園である。須弥山世界(仏教の世界観)を象徴した石庭で、曼茶羅(悟りの境地を表現したもの)さえ連想される。雪舟の墨絵に似通う趣も感じられる」と書かれている。
昔から両庭園を見てきたが、医光寺庭園には「枯」を感じ、万福寺庭園には「華」を感じていた。

「万福寺」の説明書には「応安七年(1374)、15代城主・益田越中守兼見により建立され、益田家の菩提寺と定められました。(雪舟庭が作られたのは、医光寺と同時期) また、慶応二年(1866)第二次長州征伐・益田口戦争の際、当山は幕府軍の陣営となり、兵火のため総門は焼失しましたが、幸いに本堂・庫裏は類を及ぼすことなく、現在に至っています」と書かれている。 
 幕末の頃、益田は幕府方の「松平浜田藩」であったため、大村益次郎率いる長州藩と闘い激戦の末に敗れ、大村長州軍はその後さしたる抵抗もなく江戸に侵攻したと、子供の頃から聞かされていた。

3 柿本神社

私の生家の傍にあり、少年時代の遊び場だったのが「柿本神社」。 懐かしい鳥居と石段(写真)が見えてきた。子供の頃は「すごく高い石段」と記憶していたが、この歳に至るとそれほどの高さを感じないのが不思議。
益田柿本石段

 石段の中程には、昔からの大きな楼門(写真)が見える。昔、急な階段を上ると、二階には百人一首のような宮廷男女の絵が、沢山掲げられていたが、今はどのようになっているのだろうか?

益田柿本楼門

 石段を上りきって拝殿(写真)に出る。ここで結婚式を挙げるのが、この地の慣わしであった。

益田柿本拝殿

 社殿を横から眺めると、拝殿に続く幣殿と形のよい本殿(写真)が見える。そのスケールは益田市の第1等神社であることを物語っている。

益田柿本本殿

 説明板には「柿本神社の祭神は柿本人磨で、その起源は人磨の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。 鴨島は万寿三年(1026)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1806)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671)には津和野藩主亀井茲政によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。 そして、延宝九年(1681)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました」と書かれている。
 宮廷歌人として活躍した歌聖・柿本人麿は、罪をえて石見国に流刑され、その終焉の地は、明治時代までは益田市鴨島と決まっていた。ところが明治の歌人、齋籐茂吉が島根県にやって来て、人麿終焉の地を江の川上流の湯泡鴨山と発表した。茂吉説には梅原猛夫氏の反論があるものの、爾来人麿終焉の地がややあいまいとなってきた。茂吉の人麿の石見国で作った和歌からの推定よりは、私は昔からの伝承による益田市沖の、鴨島終焉の地説を支持したい。

 画聖・雪舟の終焉の地も、益田市の「大喜庵」(写真)とされている。しかし雪舟には謎が多いのが懸念材料。それでも雪舟が修行した中国の寧波市が、益田市の姉妹都市となったのは、寧波市が雪舟・益田市を高く評価してくれたものと思う。

益田大喜庵

 高校の校歌は「歌の聖と絵の聖 二人眠れるこのさとは」から始まる。私の高校在学中に来校した作家・佐藤春夫氏が作詞したもの。 柿本人麿と雪舟は、私には永遠に忘れられない故郷の聖である。 

狭山丘陵寺社めぐり 44 神明神社  (瑞穂町石畑)

狭山丘陵寺社めぐり 44 神明社

 前報の石畑大野稲荷神社の少し西の住宅地の中に建つのが「神明社」 武蔵村山市には五社をも数える神明社であるが、瑞穂町では初めての神明社である。総本社の伊勢神宮に因んで「伊勢社」と名乗りたいが、「伊勢」という畏れ多い名称は名乗られないので、伊勢神宮の末社は全て「神明社」となっているようだ。
 神明系のそりのない鳥居(写真)の傍に「神明神社」の石柱があり、地図に記載されている「神明社」ではないことに気付く。武蔵村山市の神明社には「神明神社」はなかったので、「神明神社」と名付けたのにはなんらかの理由があるのかも知れないと思ったが、瑞穂町郷土資料館に問い合わせると「神明神社、神明社には特別な意味はない」との返事だった。小平神明宮もあるので、神明神社、神明社、神明宮のいずれも同じ、伊勢神宮の末社と思うことにした。

神社神明鳥居

 境内の奥に建つ社殿(写真)はシンプルな造り。通常神明社の屋根には、伊勢神宮のように天に向かう千木や屋根上に横たう堅魚木があるのに、この神明神社の屋根には千木も堅魚木も見当たらないのが寂しい。
神明神社社殿

 神明神社の祭神は天照大神。石畑三地区即ち坊ヶ谷戸、丸ヶ谷戸、砂の氏神である。 昔は東京府指定の天然記念物になっていたケヤキの大木があったが、今は古株が残るのみ。 扉の格子窓から社殿内部を覗くと、奥まった本殿らしき場所に小さな祠(写真)が祀られている。ミニチュア伊勢神宮ではなかろうかと想像しながら、神明神社を去った。

神明神社内部
プロフィール

リンおじい

Author:リンおじい
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR