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寺社めぐり 13 島根県津和野町

寺社めぐり 13 島根県津和野町

 高校同期会の翌朝、益田駅から津和野駅行きのバスに乗り込む。今夏の島根・山口県境の集中豪雨のため、JR山口線が未だ不通のため、JR代行バスで津和野町に向かう。 津和野町は「山陰の小京都」と呼ばれる美しい町で、明治の文豪・森鴎外生誕の地としても有名。津和野は何度も訪れた町であるが、今回は初めての寺社めぐりが目的。
 清流、高津川・津和野川を遡り、バスは1時間後に津和野駅に到着。駅でもらった観光地図をたよりに、津和野川左岸を遡りながらの寺社めぐりをスタート。

1 亀井家墓所

 最初に訪れたのが、永太院という寺院の裏山にある「亀井家墓所」 荒れた山道を上ったところに平らな墓地があり、大きな墓石が立ち並んでいる。(写真)

津和野亀井墓1

 墓所の入口の説明板には「四萬参千石の津和野藩主亀井家歴代の墓所で、大正十五年に東京にあった墓碑をすべてここに移した。 門の右手の奥にある碇石でできた墓が初代藩主政矩公の墓(写真)で、元寇の蒙古軍船の碇石(いかりいし)と伝えられる」と書かれている。

津和野亀井墓2

 墓所は整然としているが、参道の坂道はとても荒れている。 現在の亀井家の当主の三男が、島根県選出の元代議士、元国民新党の亀井久興氏。「政治も大切であろうが、先祖の墓所にも少し目を向けてほしい」とお願いしたい気分だった。

2 永明寺

 亀井家墓所の近くに、津和野町の大寺「永明寺」(写真)がある。

津和野永明寺

 説明板には「この寺は応永二十七年(1420)に津和野城主吉見頼弘公が創建せられた。 爾来吉見氏十二代、坂崎出羽守一代、亀井氏十二代の歴代城主の菩提寺。 覚皇山と号する曹洞宗の修行道場として昔は栄えた」と書かれている。
 境内の墓地には、明治の文豪「森鴎外の墓」(写真)がある。遺言状に「余は石見人森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎墓の外一字もなる可らす」と書かれた通り、本名森林太郎が刻まれたシンプルな墓碑であった。 幼い時に上京して作家として成功した鴎外が、生涯「石見人」の気概を持って生きていたことに、同じ石見人として熱い感動を覚えた。

津和野鴎外墓

 墓所には「坂崎出羽守の墓」もあったのだけど、失念して見損なった。 大阪夏の陣のとき、出羽守は炎の中から家康の孫千姫を救いだすが、姫を嫁にやるという約束をうらぎられ、やがて自刃する羽目になった悲将である。 次の津和野訪問時には、必ず訪れたいものである。

3 太鼓谷稲荷神社

 津和野町でもっとも有名な神社「太鼓谷稲荷神社」に向かう。津和野川沿いにある神社のつづらおりの参道は、赤い鳥居でぎっしり埋まり、JR山口線の列車の車窓からもよく見える名所。 先ず一の鳥居と二の鳥居(写真)をくぐる。

津和野稲荷一鳥居

 次の鳥居からはおびただしい赤い鳥居のトンネル(写真)が、頂上まで続くのは圧巻である。

津和野稲荷トンネル

 頂上の華やかな社殿は、日本五大稲荷のひとつと数えられる「太鼓谷稲荷神社」(写真) 津和野藩主七代亀井矩貞が安永二年4(1773)に、京都の伏見稲荷大社から勧請した。現在の豪華な社殿は昭和四十四年に再建されたもので、当時は私が島根県を去った12年後の高度経済成長の黎明期であった。 太鼓谷は地名で、津和野城の鬼門にあたる場所。

津和野稲荷社殿

 駐車場から津和野町が展望(写真)できる。津和野川に沿った狭い城下町で、右手の山上に津和野城跡の石垣が残っている。 今夏の集中豪雨で津和野川が決壊し、この地に大被害をもたらしている。
津和野稲荷展望

4 鷲原八幡宮

 津和野川沿いに北上した町外れにあるのが「鷲原八幡宮」 朱色の大きな楼門(写真)が目立つ。 説明板には「初代津和野藩主吉見頼行公が、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮から弘安五年(1282)に勧請した。社殿がこの地に移されたのが嘉慶元年(1387) 爾来津和野城の守護神として吉見、坂崎、亀井の歴代藩主に崇敬された。

津和野八幡楼門

 大きな楼門の後ろに、拝殿、幣殿、本殿と並んでいる(写真)のが、横から見るとよく分る。

津和野八幡全景

 鷲原八幡宮の最大の見どころが、社殿前の広大な「流鏑馬馬場」(写真) 説明文には「この流鏑馬馬場は、永禄十一年(1566)吉見氏により、鶴ヶ丘八幡宮の馬場に倣って造られた。南北の長さ251 m、中央部の幅27 mの長方形となっている。当時の馬場の遺構がそのまま残っている、日本でも唯一のものである」と書かれている。 

津和野八幡馬場

 この流鏑馬馬場は、素人の私が見ても歴史的価値が分る見事な史跡。 狭い通路で繰り広げられる、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の流鏑馬行事を、この広い流鏑馬馬場に移すことができないものかと、暫しの夢を楽しんだ。 なお、この馬場では毎年4月の第二日曜日に、流鏑馬神事が行われている。

5 津和野町紹介

・ 森鴎外旧居(写真)

 明治の文豪森鴎外が明治五年に十才で上京するまで過ごした家。その当時の様子は作品「イタ、セクスアリス」の中にも描かれている。

津和野鴎外

・ 西周(にしあまね)旧宅(写真)

明治の啓蒙思想家、西周が4歳から25歳までを過ごした屋敷。 この地方の小規模な武家屋敷の構えをよくとどめている。 現在我々が使う「化学」「哲学」「心理学」は、西周の訳語である。

津和野西周

・ 家老多胡家表門(写真)

 多胡家は、津和野藩の筆頭家老職。 この門は構造、意匠とも簡素な造りであるが、威厳のある江戸時代中期の武家屋敷門の建築様式を今によく伝えている。

津和野多胡

 古い町並みの溝には清流がながれ、色とりどりの鯉が群れる「山陰の小京都」と呼ばれるに相応しい、津和野の城下町を紹介。
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狭山丘陵寺社めぐり 43 石畑・大野稲荷神社  (瑞穂町石畑)

狭山丘陵寺社めぐり 43 稲荷神社

 42報で紹介した「塔頭山地蔵」から青梅街道に向って歩くと、住宅地の中に「稲荷神社」がある。道路から狭山丘陵に向かう、長い参道(写真)を進むと、四つの鳥居(写真)が連なり、稲荷神社らしい雰囲気。但し、鳥居の色は稲荷神社特有の赤が二つの他に、白い鳥居が二つ交互に立つのが興味深い。

大野稲荷入口

大野稲荷鳥居

 鳥居の奥に、小さな社殿(写真)が建っている。

大野稲荷社殿

 社殿の扉の格子窓から覗くと、ミニチュア社殿(写真)が見え、これがご神体にあたるのであろうか。

大野稲荷神体

 参拝を終えて、参道を引き返していると、植木を剪定中の男性に声をかけられた。「神社に関する資料があるから見せましょうか?」との問い合わせに、有難く同意。男性が家から持ち出し、頂戴した資料が「石畑・大野稲荷縁起(昭和六十三年作成)」 男性がこの稲荷神社のオーナーである大野氏で、この神社は「石畑・大野稲荷神社」が正式な名称であることが分った。
 頂いた資料と大野氏の談話を私なりにまとめると「石畑・大野稲荷神社」は次のようになる。 神社の祭神は、稲倉魂神(うがのみたまのみこと)と大宮能売大神(おおみやのひめのおおかみ) 稲倉魂神は五穀・食物をつかさどる有名な稲荷神。大宮能売大神は稲荷神を祀る巫女だったが、のちに神格化されて神様となり、京都の伏見稲荷大社に、主祭神の稲倉魂神に付き従うように祀られている神様。 神社の御神体は、京都伏見稲荷本宮聖域の土及び御神木の枝・葉。神社を勧請した場合、本社聖域内の土・枝・葉などを頂くことを初めて知った。
 この神社が京都伏見稲荷から勧請されたのは、文化・文政年間(1820頃)と推定される。それは御神体外箱の側面に「宮崎能登守」と記されており、殿ヶ谷阿豆佐味天神社神官の宮崎家で能登守を名のったのは、文化・文政期の当主、能登守盛豊であったことによる。同時に、この神社の祭祀が(38報の)阿豆佐味天神社により執行される理由も判明した。
 昔は大野家を講元とする120名の氏子による稲荷講(写真)が行われていたが、今では氏子の数も半減しているようである。
大野稲荷講2

 最後に、稲荷神社の鳥居が赤いのは、万物の元、木火土金水の中の火を意味することを学んだ。 更に「一期一会」の言葉通りに、参拝者の私に声をかけて頂いた大野氏により、多くのことを学んだのを感謝

寺社めぐり 12 石見銀山

寺社めぐり 12 石見銀山

 JR出雲市駅を発ち、8時過ぎに石見大田駅に着く。駅前から「石見銀山行き」のバスに乗り込む。今夜の高校同期会の前に、島根県の寺社めぐり第2弾として、今日は「石見銀山寺社めぐり」である。 石見銀山観光は3度目。世界遺産登録前と登録後に観光している。今回は銀山観光は省いて、銀山のある大森町の寺社めぐりに徹することにする。

1 羅漢寺

「羅漢寺前バス停」で下車すると、小川に面して建つ「羅漢寺」(写真)の前に出る。正式名は「石室山無量寿院羅漢寺」と称し、石窟五百羅漢を造営して銀山で亡くなった人々の霊を供養するために、明治元年(1764)に建立された、高野山真言宗の寺院。

銀山羅漢寺

 五百羅漢は、小川の反対側の崖に造られた、三つの石窟(写真、石窟の一つ)の中にある。この五百羅漢は、これまで2度も拝観したので、今回は拝観を省略。 五百羅漢は仏に付き従った500人の弟子たちの像で、東京では川越の喜多院や目黒の羅漢寺で拝観することができる。

銀山羅漢

2 佐毘売山神社

大森の町を川沿いに遡り、町外れの有名な銀山坑道「龍源寺間歩」の近くに建つのが「佐
毘売山神社」 参道の鳥居をくぐると、山の急斜面に長い石段(写真)が見える。

銀山佐毘石段

 100段の崩れかかった石段を上ると、大岩の上に建つ大きな拝殿(写真)が見える。運悪く逆光となっているので、重厚な拝殿が見え難いのが惜しい。

銀山佐毘神社

 説明板には「この祭神は、鉱山の守り神である金山彦神で、別名では『山神社』といい、鉱夫や村人からは『山神さん』と呼ばれ親しまれていました。 永享六年(1434)室町幕府の命によって周防国(山口県)守護大内氏が現在の島根県益田市から分霊を移し祀ったとも伝えられており、戦国時代には銀山を領有した大内氏、尼子氏、毛利氏などに崇敬され、江戸時代には幕府の初代石見銀山奉行として赴任した大久保石見守長安などに手厚く保護され、毎年正月十日には銀山の繁栄を祈願しました。 社殿は文政元年(1818)の大火で消失しましたが、翌年には代官所の援助を得て本殿、幣殿、拝殿、神楽殿などが再建され、特に拝殿の重層屋根は天領特有なものとされています」と書かれている。
 これによると、石見銀山は室町時代から採鉱が始まり、その後中国地方の有力大名の争奪の場となった後、徳川幕府の天領となり、有名な大久保長安が銅山奉行の時に最盛期を迎えたことが伺われる。 更にこの神社が、私の故郷である益田市の比礼振山の山頂に建つ「佐毘売山神社」から分祀されたことを知る。今回同期会が開催される高校の東6 kmにそびえる比礼振山は、少年時代には毎日見てきた山であり、その山の神社の分霊が銀山にあるとは興味深い。 
 金山彦命は鉱山の神であり、古代日本の製鉄の中心地であった中国地方に多いのはよく分るが、故郷・益田市に鉱山があったとは聞いたことがない。故郷の比礼振山に佐毘売山神社が建っていた背景を解明したいものである。

3 観世音寺

銀山のある大森の町の真ん中に岩山(写真)があり、岩盤を刻んだ石段の上に朱色の山
門が見える。岩盤に刻まれた仏像もあり、大森町のランドマークのような岩山である。
銀山観世音山

 石段を上り、朱色の山門をくぐると、岩上の平地に建っているのが「観世音寺」(写真) 江戸時代には大森代官所が、銀山隆盛を祈願するための祈願寺だった。寛政十二年(1800)の大火で観世音寺が全焼したため、創建年は不詳となったが、現在の本堂や山門は万延元年(1860)に再建されたもの。
銀山観世音寺

 宝暦年間(1751~63)に観世音寺の住職であった月海浄印が、銀山で亡くなった人々の供養のため、前述した五百羅漢と羅漢寺を建立したという。
 岩上の観世音寺の境内からは、大森の町(写真)が一望でき、赤い石州瓦の街並みがとても美しい。
銀山観世風景1

4 勝源寺

町並みから少し谷間に入り込んだところに、壮大な山門(写真)が見えてきた。

銀山勝源寺山門

山門をくぐると、これも壮大な本堂が建つのは「勝源寺」(写真)

銀山勝源寺本堂

この寺には銀山奉行代官18名の位牌と墓がある。説明板には「即応山勝源寺は二番目奉行竹村丹後守の時代の創建で、開祖は日誉上人といわれている。 本堂は木造瓦葺入母屋造り。 再建は元治元年(1864)から慶応二年(1866)の間であるが、宝暦度を踏襲した内外陣は格調高い」と書かれている。

5 城上神社

大森の街並みの突き当たりに、白い大きな鳥居(写真)が見えてきた。

銀山城上鳥居

 鳥居を潜り境内に入ると、荘重な社殿が見えてきたのが「城上神社拝殿」(写真)

銀山城上神社

 説明板には「拝殿の屋根は重層式の入母屋造り瓦葺きで、江戸の亀戸天満宮を手本にしたものと伝えています。 内部は、前半分が拝殿、後半分を五室に仕切り、中通りに幣殿を置き、本殿から向かって左側に直会殿と神楽殿、右側に神楽殿の神供舎を配しています。 祭神は大物主命(大国主命)を祀り、銀山と大森町の両方の氏神でもあります。 平安時代の儀式や制度を記した『延喜式』にもあり、社伝によれば永享六年(1434)大内氏によって邇摩郡馬路村から大森村に遷座され、天正五年(1577)に毛利氏によって現在地に遷座されたと伝えられています。 寛政十二年(1800)の大火で焼失しましたが、文化九年(1812)に現在の社殿が再建されました」と書かれている。

6 世界遺産石見銀山と大森町の紹介

 石見銀山の坑道(間歩)で有名なのは、坑道観光ができる「龍源寺間歩」であるが、前回観光済み。今回「福神山間歩」(写真)の前を通過したので紹介する。このような間歩が石見銀山には600もあり、その入口から岩山に潜り込んで、銀鉱石を採取していたのである。 このようにして生産された銀は、最盛期には年間40トンともいわれ、当時の日本は世界中の銀の生産量の約30%も占めたとされる。

銀山間歩

 大森の町並み(写真)を紹介する。この古い町並みが保存されていたのが、世界遺産に登録された要因だったと思われる。最盛期には20万人の人口があったとは、とても思われない鄙びた町並みである。
銀山町並み

 大森代官所跡(写真)を紹介する。現在は「石見銀山資料館」となり、銀山の歴史や遺品や当時の銀貨などを展示している。

銀山代官所

狭山丘陵寺社めぐり 42 塔頭山地蔵  (瑞穂町石畑)

狭山丘陵寺社めぐり 42 塔頭山地蔵

 前報の名刹「福正寺」から西に向かうと、丘陵に向けて急勾配の石段(写真)がある。

塔頭石段

 石段を上り切ると、広い墓地があり、その中に建つのが「塔頭山地蔵」の建物(写真)。この堂の中に墓地を守る地蔵像があるに違いない。

塔頭地蔵堂

 扉の真ん中の格子から内部を覗くと、小さな木製の社屋らしいのが二つあるだけ(写真)で、地蔵像は存在しない。この旨を電話で「瑞穂町郷土資料館」の問い合わせると「堂内に二体の地蔵像がある筈。確認してお知らせする」との返事だった。

塔頭内部

 合わせて「『塔頭山地蔵』は福正寺の塔頭である」と教えられた。調べてみると「塔頭(たっちゅう)は、本来禅寺で、祖師や高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)または、その敷地内に建てた小院である」と分る。
 そこで福正寺の問い合わせると「あの墓地は、当地の有力者・鈴木一族の墓地で、福正寺は管理しているが、福正寺関係者の墓はない」との返事。 気が付いたことを調査していくと、その寺社の内容が少しずつでも分っていくのが嬉しい。

 墓地からの展望(写真)はとてもよい。墓に眠る人も、墓参する人にも、武蔵野の展望を楽しんでもらいたいとの、鈴木一族の願望がよく理解できる。

塔頭展望

 後日、地蔵像についての連絡があったので、再び「塔頭山地蔵」に向かう。 急な石段を上りきった両側に、古い地蔵像が向かい合うようにして立っている(写真)。これがご本尊のお地蔵様。右の地蔵像に「弘化四年」左の地蔵像に「天保九年」の彫刻があった。

塔頭山地蔵

寺社めぐり 11 出雲市

寺社めぐり 11 出雲市

 東京駅を8時過ぎの「のぞみ」で発ち、岡山駅で特急に乗り換えて出雲市駅に着いたのが15時過ぎ。明日の高校同期会参加のため島根県を訪れる機会を得たので、島根県の寺社めぐりの第一弾として、出雲市の寺社めぐりを紹介する。

1 出雲大社

4年前に来た出雲大社は本殿が修復中であったので、今日は60年ぶりの遷宮なった出雲大社に参拝するのが目的。バスで出雲大社の「大鳥居」(写真)前に到着した。
 
出雲大鳥居

 この大鳥居は高さが23 mもある鉄筋コンクリート製の「一の鳥居」である。鳥居のてっぺんに置かれた笠木の両端が上に反っている「明神系鳥居」で、笠木が直線的な伊勢神宮の「神明系鳥居」とは違う。この違いに「国譲り」の神話に出てくる出雲大社(出雲族)と伊勢神宮(皇室)との対立が隠されているように思われる。
 大鳥居から1 kmの参道「神門通り」を歩いて着いたのが、木製の「勢溜の正面鳥居」であり、広大な神域の入口にあたる「二の鳥居」(写真)である。

出雲二鳥居

 ここから数100 mも続く松並木の参道を歩く。神社には珍しい下りの参道。 松並木の中に立つのが鉄製の「三の鳥居」(写真)

出雲三鳥居

 松並木のつきる社殿の前に最後の鳥居が見える。鳥居の材料がこれまでコンクリート、木、鉄だったのが「四の鳥居」(写真)はなんと銅製であった。材料が段々と高価になってくると共に、鳥居の大きさが小さくなっているのは納得。しかもこの鳥居に手を触れると「金運がアップする」とされる。このご利益は神々しい神域に反するように、思われるのだが・・・・・

出雲四鳥居

 いよいよ大注連縄で有名な「拝殿」(写真)に参拝。ここの拝礼の作法は「二拝四拍手一拝」 「四拍手」は珍しいと思ったが、宇佐神宮、弥彦神社も四拍手で、伊勢神宮に至っては八拍手であるとのこと。拍手は「感謝や喜びを表す」意味があるので、由緒ある神社では拍手数が多くなるようで、通常の神社の「二拍手」は、拍手の簡素化となったように思われる。

出雲拝殿

 4年前に参拝したのが、今回同様10月(神無月)の出雲では神在月。 有名な「出雲そば」を食べながら、女将に「本殿が修復中で見ることができず残念だった」と告げると「とんでもない。いつもの年ならば塀に囲まれているため、神様の集まる本殿には近づけないが、本殿修復中のため、今全国の神様は拝殿に集まっておられる。神様の集まる拝殿の前で参拝できたのだから、貴方は幸せと思わなくては」と女将に諭され納得したのが懐かしい。

 拝殿の後ろに建つ修復なった「本殿」に参拝するが、本殿は何層もの土塀の内側に建っているので、全貌が見渡せない。僅かに遠望できる本殿の上部(写真)は、屋根の上に天に向かう鋭い千木と、屋根上に横たわる堅魚木の姿は、まさに伊勢神宮の屋根と同じ構造。鳥居とは違って、屋根には両大社の共通点があるのに気づく。

出雲本殿1

 本殿を囲う土塀を一周したが、見えるのは本殿の上部(写真)のみ。もっと参拝者に本殿を見せてもよいのではと思ったが、神様の世界は畏れ多い場所なのであろうと納得。

出雲本殿2
 
 出雲大社は今月、60年ぶりの「平成の大遷宮」を迎え、観光客で賑わっている。「遷宮」とは「神社の本殿の造営または修理の際に、神体を以前とは異なる本殿に移すこと」をいう。伊勢神宮の遷宮は20年置きと決まっているので「式年遷宮」と呼ばれているが、出雲大社の場合は60~70年の遷宮なので「式年」は付けない。 木造の本殿なので、ある時期を経ると修理のために「遷宮」があるのは致し方ないけれど、伊勢神宮の20年という短期間の遷宮はなんだか勿体ないように思われる。「神様が新しい建物を喜ばれる」という説もあるらしいが、神社側に「国費(税金)を使う(のだから平気)」という感覚もあるように思われてならない。

 出雲大社の祭神は大国主大神。 「国譲り神話」によれば、天照大神に出雲の国を譲るにあたり、大国主大神が「国を譲る代わりに、この地に大きな神社を建てて欲しい」として建てられたのが出雲大社となっている。 従って本殿の高さが、上古には96 m、中古には48 m(現在は24 m)もあり、古代には「雲太、和二、京三」と称された。即ち、雲太=出雲太郎=出雲大社は、和二=大和二郎=東大寺大仏殿(当時の高さ45 m)、京三=京三郎=平安京大極殿よりも高かったとされる。 古代出雲には数多くのロマンがある。

2 出雲阿国

出雲大社を出て日本海に向って歩くと、丘の上に「出雲阿国の墓」(写真)を見つける。   平たい大石が墓石となり、なにやら侘しいたたずまい。

出雲阿国墓

説明板には「日本を代表する芸能・歌舞伎の始祖として知られている出雲阿国は、大社町の鍛冶職中村三右衛門の子で、出雲大社の巫子であったと伝えられています。 天正の頃、出雲大社本殿の修復勧請のため京都へ上り、世にいう歌舞伎踊りを創始しました。 豊臣秀吉や徳川家康の御前でも、この歌舞伎踊りを披露するほどに名をあげ、世に『天下一阿国』として知られました」と書かれている。

 阿国の墓から少し離れた所に建つのが「阿国寺、連歌庵」(写真) 説明板には「歌舞伎の始祖として一世を風靡した出雲阿国は、晩年大社に帰り尼となり、連歌を楽しんで余生を過ごしたと言われ、そのため、この草庵は阿国寺『連歌庵』と呼ばれるようになりました」と書かれている。

出雲阿国庵
 
 更に、少し離れた所に建つのが「安養寺」(写真) 説明板には「出雲阿国が晩年を過ごした連歌庵が廃寺となった後、この寺に阿国の持仏である三十三体の観音像や遺品を移してまつられています。 今は三十三体のうち二体の観音像と、阿国の愛用した鏡と数珠が残されています。また、毎年夏には、阿国を愛する人々によって盛大な法要がとり行われます」と書かれている。

出雲阿国寺

 出雲阿国を歌舞伎の始祖とするわりには、墓の周辺に現在の歌舞伎の名優たちの足跡が認められない。私の大胆な推測では、阿国の歌舞伎は「踊り」であって、それが段々と卑猥な方向に流れたため、風紀を乱す理由で幕府の弾圧を受けて廃れてしまった。 現在の劇場スタイルの舞台を持つ歌舞伎が興隆したのは、阿国から100年後の元禄時代。その当時の名優「西の藤十郎、東の団十郎」などが、現在歌舞伎の名優たちの先祖に位置し、阿国歌舞伎は別次元と見なされているのではなかろうか? 物悲しい阿国の墓を見ると、そのように思われてならないのであった。

3 稲佐の浜

17時過ぎ、夕陽の沈む頃にようやく日本海に面する「稲佐の浜」に着いた。砂浜の波
打ち際に、形のよい弁天島があり、岩の上に神社(写真)がある。江戸時代は七福神の唯一の女神・弁財天が祀られていたので「弁天島」と名づけられていた。 ところが今の祭神は豊玉毘古命に替わっている。弁財天がインドの神様であることが、この古代出雲の地に相応しくないとされたのだろうか?

出雲弁天島

 運よく「稲佐の浜」が夕焼け(写真)で、とても美しい。東京に住むと、海に沈む夕陽は見ることができないけれど、島根県に育った私には、いつも見ていた懐かしい夕焼けの風景である。

出雲稲佐浜

 「稲佐の浜」は、古事記によると「天照大神より国譲りの使命を受けた建御雷神が、大国主大神と対面した場所」とされる。また旧暦の10月10日には、出雲大社に集る全国の神々が、この浜から出雲へ上陸すると伝えられ、今なお神迎えの神事が行われる出雲のパワースポットの一つである。
 
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