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狭山丘陵寺社めぐり 41 福正寺  (瑞穂町殿ヶ谷)

狭山丘陵寺社めぐり 41 福正寺

 青梅街道の都バス「石畑バス停」から狭山丘陵に向って上って行くと、瑞穂町の名刹「福正寺」がある。 地図で示すと「狭山観音霊場図」(写真)の赤丸が、「正福寺観音堂」である。

福正寺霊場図105

福正寺参拝は今回が三度目となる。 境内の入口を示す二つの白い石柱の右に「臨済宗建長寺派 金龍山福正禅寺」の石柱と「狭山観音霊場 第二十五番 福正禅寺 本尊 聖観音」の説明板と「馬頭観音像」が立ち並んでいる。(写真)

福正寺入口

 石柱の左に説明板があり「天照林和尚(天台宗の僧)の開基にして、文保二年三月(1318)臨済宗として通翁鏡円禅師を勧請し、開山とした。 (中略、通翁鏡円禅師が宮殿内の宗論で勝利) 以来十六菊花紋を寺紋として、法灯連続二十八世の今日に至る。尚昔日当山に五塔頭有りと愚弁録にある。その間・八世雲峰和尚正眼寺を開く・九世梅室和尚円福寺を開く・十三世月叟和尚三百五十遠年諱厳修(中興開山なり)・十四世東林和尚砂川流泉寺を開く・二十二世法谷和尚五百年大遠諱厳修(1823)全国より法縁の和尚禅士参加記録法堂にあり。・二十七世現住昭和四十一年六百五十年遠年諱権修。その折如来相設置する。昭和五十八年五重塔、十六大阿羅漢建立、昭和五十九年鎮守大財天再興、金龍瀑築庭、平成二年開山堂再興、平成十年三解脱門・平成十三年邦寧観音建立。」と書かれている。
 開山された文保二年は鎌倉時代の末期であり、「福正寺」は武蔵村山市の「真福寺」に匹敵する古刹となる。八世開基の「正眼寺」は、今はなくなったとのこと。 九世開基の「円福寺」は、瑞穂町、箱根ヶ崎の大寺「円福寺」で、これから訪問の予定。 諱厳修とは、創建何百年かの大法要のことと思われる。 十四世開基の砂川流泉寺は、砂川新田開発時に建立されたお寺で、新田開発のリーダー・村野氏(砂川氏)のお墓がある。
 説明板の横に「福正寺、建物配置図」(写真)があるので、参拝の参考になる。

福正寺略図

 福正寺の境内に入ると、やや小振りな「総門」(写真)が建ち、説明板に「天明十一年(1791)村野五郎右エ門が寄進」と書いてある。砂川新田開発を推進した村野家が寄進した総門。新田開発から130年以上経っているので、五郎右エ門氏は村野家の何代目かの当主かと思われる。村野家の菩提寺(檀那寺)は、ここ福正寺であるのに、砂川新田開発のリーダー・村野三右衛門の墓が砂川流泉寺にあるのかは不明。村野三右衛門が自ら開発した砂川新田の地に愛着があったのだろうか?
福正寺総門

 総門をくぐると、石段の上に壮大な「三門」(写真)が建っている。この三門が説明板に記載されている「平成十年三解脱門建立」の「三解脱門」であるようだ。「三解脱門」は「三つの煩悩である欲望、怒り、愚かさから抜け出す門」の意味。

福正寺三門

 「三門」をくぐると、その横に「鐘楼」(写真)が建っている。福正寺に問い合わせると、鐘楼は明治時代の建立であるとのこと。
福正寺鐘楼

 「三門」の前には大きな「法堂」(写真)が建っている。法堂は江戸時代に建立され、通常の寺院では「本堂」にあたる。 説明板の通り、福正寺は禅宗の栄西が開いた臨済宗・建長寺派の寺院である。建長寺は鎌倉五山の第一位で、臨済宗・建長寺派の大本山。 寺社めぐりでは「35報、禅昌寺」に次ぐ臨済宗・建長寺派の寺院である。また福正寺は、立川市の建長寺派寺院・普凊寺の末寺でもあるという。 法堂内には十六菊花紋打敷三片などの寺宝の存在が、最初の説明板に書かれていた。菊花の寺紋を許されたことは、すごく格式の高い寺院の証である。 法堂の左前に立っているのは、瑞穂町天然記念物「たらようの木」である。「たらようの木」とは「古来インドをはじめ南方諸国において、針をもって文章を刻するに適しているので、経文等書写に使用した木」のこと。 更に、法堂の左斜面には「十六羅漢像」が立ち並んでいる。

福正寺法堂

 左の坂道を上っていくと、優美な姿の「狭山観音霊場第25番 観音堂」(写真)が建っている。説明板には「奥の一間は板敷で、手前中央に来迎柱があり、その柱間に仏壇を設け本尊の観音坐像を安置し、背後の中央間は板戸、他はみな板敷である。周囲には勾欄付の濡縁をめぐらす。建築細部の手法は唐様を主とし、少しく和様を混えている。 吹放の間の鏡天井には淡彩の竜の図、畳敷の間の格天井には彩色の花卉鳥獣等の絵がありともに入間市宮寺の人、吉川緑峰(1808~84)の筆である」と書かれている。 江戸時代に建立された観音堂は、有名な「山口観音堂」(狭山観音霊場第一番)に並ぶ、由緒ある観音堂であるとのこと。 

福正寺観音堂

観音堂に立つと、横田基地、草花丘陵、奥多摩の山並みが見渡せ(写真)、狭山観音めぐりの信者たちの目を慰めたことであろう。
福正寺風景

 観音堂の近くに、昭和五十八年に建立された赤い「ミニチュアの五重塔」(写真)が建っている。「昔日当山に五塔頭有りと愚弁録にある」とされた五重塔を再現したものであろうが、強烈な色彩はこの古刹にはあまり相応しくないように思える。

福正寺五重塔

 近くに建つのが「昭和五十九年鎮守大財天再興」と説明された「弁財天堂」(写真) 福正寺の寺院や墓地を守る神様が、七福神で唯一の女神・弁財天である。弁財天は水の神様。隣の武蔵村山市の大寺「長円寺」の守護神が同じ弁財天なので、狭山丘陵の湧水信仰に関連するのではないかと思った。

福正寺弁財天

 観音堂の横からは広大な墓地が広がっている。 墓地の手前の方に「村山土佐守の墓」(写真)がある。「村山土佐守」は、いつも引用させていただいているブロ友様の資料には「村山土佐守が、天正十五年(1587)の福正寺観音堂再建に貢献したという資料がある。その他の資料から、村山土佐守は天正年間にこの地で没したものと推定される。村山土佐守という人物が、戦国期におけるこの地の有力者であったことは確かであろう」と書かれている。 村山土佐守を、中世前期の武蔵七党の「村山党」と結びつける説もあるが、確証ある史料はないとのこと。

福正寺土佐墓

 墓地の最奥には「邦寧(やすらぎ)観音像」(写真)が建っている。国分寺市の久保田氏が23歳の若さで事故死したのを祀ったと書かれている。
福正寺23観音

 法堂の後ろには平成二年に建立された「開山堂」(写真)が建ち、福正寺を開山した「普照大光国師」が祀られている。

福正寺開山堂
 
 「福正寺」には村山土佐守墓所を除くと歴史的な遺物は少ないが、規模は狭山丘陵でも有数の大寺であった。「殿ヶ谷」という地名から、歴史的に有名な村山党の根拠地であってもおかしくない寺院で、近くには堀の跡があるとのこと。村山党の歴史解明が待たれる。

 
 

 

 
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狭山丘陵寺社めぐり 40 村山六地蔵

狭山丘陵寺社めぐり 40 村山六地蔵

 酷暑と旅行で中断していた「狭山丘陵寺社めぐり」を再開する。再開の第1報は、ブロ友様に教えていただいた「村山六地蔵」を取り上げる。「村山六地蔵」は、狭山丘陵南麓の瑞穂町、武蔵村山市、東大和市に存在する、六つの有名な地蔵像を言う。但し「村山六地蔵」については諸説があるので、今回はその一つの説である「村山六地蔵」を紹介する。  
普通「六地蔵」とは、六つの地蔵像が並んで墓地の入口にあるのを指すが、この「村山六地蔵」は、村山の地のあちこちに存在する六つの有名なお地蔵様を指している。「村山六地蔵」の多くが青梅街道沿いにあるので、青梅街道の西から東にかけて紹介する。

1 石畑地蔵尊  (瑞穂町石畑)

 青梅街道と残堀川が交差する場所(写真)に地蔵堂が建ち、都バス「瑞穂第一小学校前」バス停の前なので、バスの車窓からよく見える。 

芳野風景

地蔵堂の前に説明板があり「町重宝 吉野岳地蔵堂 屋根は方形造り・銅板葺(昭和四十九年に鉄板葺が銅板葺となる)総欅造り  地蔵堂は、江戸時代(文久三年、一八六三)の建造、棟札によると、当時、石畑村の名主(戸長)であった吉岡助右衛門が、子女の病気平癒を祈願し、大方の寄進をなし、この堂を再建したという。 小堂ながら正格な唐様建築で、地蔵堂としては他に見られぬ建物である。殿ヶ谷福正寺観音堂(写真)と同形式の仏寺建築で、同じ棟梁門下の作といわれている。堂内には石像地蔵尊(享保四年)が安置され、書川縁峰の筆になる竜の絵がえがかれている」と書かれている。

福正寺観音堂

地蔵堂(写真)はとても形がよく、小さいけれどとても見栄えのする建物である。

芳野地蔵堂
 
格子扉から堂内を覗くと、背の高いお地蔵様(写真)が、ピンクの着物を着て、赤いたすきを掛けている姿は、私には少し異様な感じがした。石像らしく衣装のないシンプルなお姿の方がお似合いではないかと思うのだけど・・・・・・  竜の絵は確認できなかったし、書川縁峰について調べたが不詳。 

芳野地蔵

地蔵尊即ち地蔵菩薩は「大地にめぐみをもたらし、地獄で苦しむ人々を救う慈悲深い仏」とされているが、石畑地蔵尊のご利益は説明板から推定すると「この土地の子供たちの病気の平癒」ということになるのだろうか。 医術の進歩していない当時は、子どもの病気が、この土地の人々の最大の悩み事であったのであろう。
地蔵堂の左に祠があるが、神社、祭神名は不明。 祠の右には三つの石像(写真)が立ち、左の大きな石像には「馬頭観音」と彫られている。馬頭観音はないけれど、「ここに馬頭観音があるよ」と説明した石像なのか。説明用石像にしては大き過ぎるようなので、これで「馬頭観音像」となるのか、残念ながら浅学の私にはよく分らなかった。

芳野馬頭


2 宿の子育て地蔵  (武蔵村山市三ツ木)

 この子育て地蔵は「狭山丘陵寺社めぐり 34 宿薬師堂」で取り上げている。青梅街道の都バス「宿バス停」の近くの薬師堂(写真)の境内に「地蔵堂」(写真)が建っている。

子育風景

子育地蔵堂

 説明板には「宿の子育て地蔵  造立年代は不詳ですが、明治時代に旧青梅街道が改修されるまでに、東にあった道路の傍に立っていました。改修のとき現在の場所に移されたものです。以前は近所の子どものいない家でしゅもりをしていたそうですが、今は子育て地蔵とよばれ、毎月四、十四、二十四の縁日には、遠方からもお参りする人々があり篤い信仰を受けています」と書かれている。
 「じゅもり」とは、子どもを授かりたい家の人が、子育て地蔵を管理・世話することをいう。子育て地蔵を大切に守っていると、子どもが授かるというご利益があるのだろう。今は子どもを授かるよりは、子どもが元気で育つご利益が重視されているように思われる。地蔵堂は薬師堂の境内に建っており、薬師堂の本尊、薬師如来が病気の平癒、寿命を延ばす仏であり、子育て地蔵のご利益を更に増やす効能もあるだろう。 縁日とは、神仏と有縁の日のことで、この日に参拝すると普段以上のご利益があると信じられた。

 扉の格子から堂内を覗くと、赤い帽子と赤い袖を着た地蔵尊(写真)が見える。これもなかなかユニークな服装だと思ったが、私がいつも見ているのはシンプルな路傍のお地蔵様。石畑地蔵尊と同様に、地蔵堂内に安置されている地蔵尊は、風雨にさらされることがないので、美しい服装で飾られているのだと初めて認識。これまで扉を閉めた地蔵堂の内部を覗く機会を持たなかったために、衣装を着た地蔵尊を奇異に感じたことを反省。

子育地蔵


3 薬師前地蔵  (武蔵村山市中央)

 この薬師前地蔵は「狭山丘陵寺社めぐり 18 萩ノ尾薬師堂」で取り上げている。青梅街道の都バス「萩ノ尾薬師堂バス停」の前に建つ「萩ノ尾薬師堂」(写真)の境内に「薬師前地蔵堂」(写真)が建っている。

薬師風景

薬師地蔵堂

 「萩ノ尾薬師堂」の説明板はあるが、残念ながら「薬師前地蔵」の説明板はない。従って地蔵尊の由来やご利益については分らない。 子育て地蔵が薬師堂の境内にあったと同様に、この薬師前地蔵も薬師堂の境内にある。従って薬師堂の本尊、薬師如来の「病気を治す」功徳に似たようなご利益があるのではないかと考えられる。 ブロ友様の資料によれば、台座に「享保八年(1721)卯天十一月  所願成就所 泰□□待供養 施主多摩郡萩野尾惣村中」と刻まれているとのこと。所願成就とは「抱いていた望みが叶うこと」とあるから、萩野尾村の人々の大きな望みが成就した記念に、地蔵尊像を造立したことが考えられる。 薬師堂の説明板には「建立年代は不詳ですが、天正十八年(1590)に八王子城が落城の折、北条氏の家臣石川土佐守の娘の持仏である薬師如来を祀ったといわれています」と書いてある。従って薬師堂の建立は、薬師前地蔵造立の131年も前であり、所願成就が薬師堂建立記念とは結びつかない。江戸時代の中期にこの地で何か大きな慶事があったようである。

 地蔵堂の内部を覗くと、赤い帽子と赤いむねかけを着た、高さ112 cmの大きな地蔵尊(写真)が安置されている。服装が大分シンプルとなり、路傍のお地蔵様に似てきたのに安堵する。

薬師地蔵

 ここで地蔵菩薩について言及する。地蔵菩薩は、もともと大地のめぐみを与える仏として、三~四世紀頃にインドで編纂された「大集経」というお経に登場した。中国に伝わると、地蔵菩薩は大地の下にある地獄という恐ろしい世界で苦しむ人々を救う性格も持つこととなり、菩薩としては珍しい、髪を剃った僧侶の姿で表されるようになった。 その地蔵菩薩の働きのシンボルとして「宝珠」という玉を手に持っている。 また、人々を救いにあちこちを遊行するために「錫杖」という、音のする杖を持っているのが特徴である。 日本にある典型的な地蔵菩薩立像(写真)を紹介する。

地蔵菩薩104


4 原山地蔵  (武蔵村山市中央)

 この原山地蔵は「狭山丘陵寺社めぐり 17 神明社」で取り上げている。青梅街道の都バス「原山バス停」から狭山丘陵の方に少し入った民家の中の四つ角(写真)に、地蔵堂(写真)が建っている。

原山風景

原山地蔵堂

説明板には「原山の地蔵尊  『享保四歳念仏供、原山村』と刻まれています。土地のお祭りのとき、人があやめられその供養として村人が造立したと伝えられており、今なお子育地蔵として信仰されています」と書かれている。 殺された人の怨霊を鎮めるための地蔵尊が、いつの間にか子育地蔵に替わっている。殺された人の供養と、子育てとの関連は考え難いのであるが・・・・・・
 ブロ友様の資料には「以前は旧青梅街道の辻にありましたが、明治時代に原山駐在所(中藤派出所の前身)を建てる関係で、現在の場所に移されたものです」と書かれている。今の人通りの少ない場所よりは、青梅街道に面して建てられていた方が納得しやすい。青梅街道が西に向かって「大曲り」する場所に、明治以前の原山地蔵が立っていたことが分る。

 これまでの三地蔵は扉のある地蔵堂に安置されていたが、原山地蔵堂には扉がない。従って、地蔵尊(写真)の全身が容易に見ることができるのが有難い。扉の格子窓から覗くよりは、はるかに親近感がもてるのである。 原山地蔵は薬師前地蔵と同様に、赤い帽子と赤いむねかけをつけているので、二つの地蔵尊の管理は同じ人か、同じグループでやられているように思った。 原山地蔵のとてもやさしいお顔(写真)をクローズアップしておく。

原山地蔵

原山地蔵顔


5 大橋地蔵  (武蔵村山市中藤)

 この大橋地蔵は「狭山丘陵寺社めぐり 12 八坂神社」で取り上げている。青梅街道の都バス「大橋バス停」の傍、奈良橋川(写真)を渡ったところに地蔵堂(写真)が建っている。

大橋風景

大橋地蔵堂

説明板には「大橋の地蔵尊  この地蔵尊は享保十三年(1728)に中藤村の人々により造立したものです。この地蔵尊も土地の人々の信仰が篤く、無病息災や交通安全を祈ってお参りする人が大勢います」と書かれている。
 ブロ友様の資料には更に詳しく記載されているので、紹介させていただく。「(台座には)享保十三年 戌申三年吉日 武州多摩郡中藤村 渡辺源蔵母 内野佐兵衛 田口右衛門 水難、交通事故除け」 「村山町史では『大橋の地蔵は、「村山の六地蔵」の中の一つといわれているが、昔から子供や酔っぱらいが河に落ちても皆無といってよいほどけがをしないし、最近多い交通事故も不思議にけがの少ないのは、地蔵様のおかげだと土地の人は言っている』」 「武蔵村山市史民俗編では『鍛冶ヶ谷戸の谷戸川に架かる大橋のたもとには地蔵様が祀られている。この場所は以前から交通事故が少なく、また事故が起きてしまった場合でも被害者が極端に少ないという。 たとえば、バスが川に落ちてしまったときにも死亡者が一人も出なかった。また、自転車で通行中の人が自転車ごと川に落ちてしまったときもまったくけががなかったという。人々はこれを「地蔵様のおかげ」であるという』」

ブロ友様の資料で参考になったことがいくつかある。 先ず、大橋地蔵の造立者の筆頭が「渡辺源蔵母」とあるが、これまでの寺社めぐりで女性名の登場は初めて。渡辺氏、内野氏は当時の名主で、田口氏も土地の有力者であったと思われるが、それよりも上位に「母」という名前で刻字されているのが興味深い。何らかの事情があって、大橋地蔵造立の音頭をとった人のように思われる。 次いで、江戸時代に「交通事故除け」というのが興味深い。当時の交通事故としては、歩行中に行き倒れるか、馬に蹴られるか落馬するくらいしか想像できないのに、何故「交通安全」が重要視されたのだろうか? 最後に奈良橋川の上流を「谷戸川」と呼ぶことが分ったのと、そこに架けられた橋が「大橋」とは面白い。ここは奈良橋川の源流に近く、現在の橋も大きな橋ではないが、鍛冶ヶ谷の地形からして、江戸時代に谷戸川が広い川幅を持っていたとは考えにくい。それで何故「大橋」と名付けたのか興味深い。同時に、洪水時を除くと「水難」の発生するような深い川だったとは思えないのだが・・・・・ 

地蔵堂に扉がないので、大橋地蔵尊(写真)の全体像がよく見えるのは有難い。赤い帽子と赤いむねかけは、前記の薬師前地蔵、原山地蔵と同じであるが、大橋地蔵は更に白い着物と赤い前掛けをして、とてもおしゃれな衣装を着た地蔵尊である。最初の吉野岳地蔵に次ぐ身体の露出度の少ない地蔵尊で、地元の人々の信仰の大きさが伺われる。但し私の好みは、あまり着飾らない石像姿の地蔵尊なのである。
大橋地蔵

注目したのが、享保年間に造立された地蔵尊が多いこと。石畑地蔵尊の造立が享保四年。薬師前地蔵尊が享保八年。原山地蔵尊が享保四歳。大橋地蔵が享保十三年。 享保年間は第8代将軍・徳川吉宗の時代で、享保の改革が行われているが、地蔵信仰に結びつくような出来事は見当たらない。しかしこの村山地方では、享保年間に行政・農政などでなんらかの出来事があったように思われてならない。

6 松こごれ地蔵(イボとり地蔵)  (東大和市高木)

 これまでの地蔵尊は全て青梅街道沿いにあったが、この松こごれ地蔵だけは青梅街道から外れている。それでも他の五地蔵と同じ狭山丘陵南麓にあり、東大和市高木地区の高木神社の傍(写真)に、松こごれ地蔵堂(写真)が立っている。

松風景

松地蔵堂

 説明板には「この地蔵尊は今から二百八十五年前に高木村の人達に依り志木街道の傍(写真、ガードレールの周辺)に建立され、近郷の住民の信仰きわめて厚くイボ地蔵さまと呼ばれておりました。 時代の変遷に伴い交通も多くなり事故が多発するのでこの度有志の人々が相談して高木二丁目一一七番地に移転し、道路を拡げる事になりました。 多くの人々の協力と奉仕に依り新しい堂宇も完成したので慈に供養を行い、これからも地域住民のご加護を念願致します」と書かれている。

松地蔵跡 (2)

 この地蔵堂も扉がないので、松こごれ地蔵尊(写真)の全体がよく見える。高さ115 cmの大きな地蔵尊は、赤いむねかけ(くびまき?)と赤く長い布の環を左手にぶら下げており、更に左肩から右胸に松かさの環を掛けておられるのが面白い。「松こごれ」とは松の固まり、即ち松かさのことと思われる。堂内に松かさの環が三つ置いてあったので、松かさの環は時々取り替えられるようである。

松地蔵

 道路から50 mほど奥まったところに地蔵堂があったので興味深かったが、元は志木街道の傍にあったと知り納得。これで六つの地蔵堂は全て街道沿いに建てられることが分った。
 イボ地蔵とは「イボとり地蔵」のこと。イボはウィルス感染する皮膚病で、昔の不清潔な生活では厄介な病気であったことだろう。
ブロ友様の資料によると「(地蔵尊の)背後に 毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 無仏世界度衆生 今世後世能引導 と地蔵賛が刻まれている」 「『東大和のよもやまばなし』では『昔、このあたりが一面の原だった頃から、「いぼ地蔵」といわれ村の人達の信仰を集めていました。このお地蔵さんにお願いするとがんこないぼもいつの間にかコロリと取れてしまうからなのです。 いぼを取ってもらった人は、お礼に山から「松っこごれ」(松かさ)を取ってきて木綿の糸でつなぎ、首や手にかけてあげました。いつも松っこごれでかざりたてられているので、いつしか「松っこごれ地蔵」といわれるようになり親しまれています』」 この資料から「松こごれ地蔵」のすべてが理解できた。自分の見聞した範囲からは、とてもこのような地蔵尊の背景は記載できないことを悟った。

松こごれ地蔵堂の周辺に、沢山の仏像(写真)が見える。ブロ友様の資料によれば「現在の松こごれ地蔵堂は『高木勝楽寺墓地前』に建っている」とのこと。今では墓地は残っていないが、多くの仏像は墓地の入口に立つ仏像なのだろう。

松墓所 

「村山の六地蔵」めぐりを終えた。ほとんどの地蔵尊の顔が、目鼻立ちが判然としないくらい摩減されている。これは地蔵尊が昔は、風雨にさらされた状況下にあったのではないかと想像される。それが今では全て地蔵堂の中に安置されているのはとても喜ばしい。 医学の普及していない昔の人々が、子育て、病気やイボの平癒を地蔵尊におすがりした姿を、この六地蔵めぐりで学ばせていただいた。

 

 
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