FC2ブログ

狭山丘陵寺社めぐり 39 須賀神社  (瑞穂町殿ヶ谷)

狭山丘陵寺社めぐり 39 須賀神社

 殿ヶ谷の「須賀神社」の入口は分かり難い。4年前に訪れた時も苦労したのを思い出した。小さな公園の傍に二つの倉庫(写真)が建ち、その前に「殿ヶ谷の山車」と書かれた柱が立っている。説明版があり「殿ヶ谷の神輿 殿ヶ谷の神輿は、瑞穂町殿ヶ谷地区に伝わる神輿で、毎年七月初旬に行われる瑞穂の夏まつりにおいて、殿ヶ谷地区の鎮守である須賀神社祭礼より御霊代を受け、渡御に使用されている。 この神輿は慶応二年(1866)、江戸大門通小伝馬町の海老屋忠蔵藤原陸和により制作された。 地元の伝承には、当時九十五円で購入したという説があり、この説により明治四年新貨条例制定以降に購入されたと思われるが、確証するものはない」と書かれている。 前報、阿豆佐味天神社の入口に「明治政府から三百円のご下賜金」の石碑が立っていたことから、当時の九十五円は莫大な値段であったことが推定される。

須賀神社神輿

 この二つの神輿舎の近くに、殿ヶ谷の鎮守である須賀神社があると思われる。神輿舎の左に丘陵に上る坂道を見つけ、ここに至ってようやく4年前、この坂道を上ったのを思い出した。 かなり坂道を上り詰めたところにトタン屋根の付いた木製の鳥居(写真)があり、鳥居から丘陵に向って急傾斜の立派な石段がついている。

須賀神社鳥居

 石段を上りきった丘陵の上に、須賀神社の拝殿(写真)が建っている。

須賀神社拝殿

 拝殿の後ろには、更に小さな本殿(写真)がある。

須賀神社本殿

 祭神は素戔嗚尊、火産霊命、久恵比古命。瑞穂町図書館で入手した「瑞穂町周辺社寺一覧」には「由緒 伝承を失す。一般にはキノエネサマと称す。狭山丘陵支脈の尾根の平地にあり眺望絶佳、付近山腹には地下壙式古墳が散在する。大正元年に村内愛宕神社と天神社を合祀し祭神が三柱となった」と書かれている。
 キノエネとは甲子と書き、干支の組合せの1番目であることから、甲子の日は吉日とされる。殿ヶ谷には昔から「甲子講」があり、甲子の日に須賀神社に集い、大黒神を拝んでいたようだ。甲子の日は60日に1日の割でやってくるが、近年はその日がウィークディの場合は日曜日に代えて、甲子講を行っているという。大黒神即ち大国主命は須賀神社の祭神ではないが、大国神の像か絵が社殿の中に安置されていると思われる。大黒神は農業・商売・福徳・夫婦和合(家内安全)の神様。 なお、甲子神社は静岡県富士市にあり、出雲大社から勧請した大国主命の分霊を祀っているが、殿ヶ谷の甲子講とは関係ないようである。
 
 祭神は3神については、元々の須賀神社の祭神が素戔嗚尊。 火産霊神は愛宕神社の祭神で、本来は迦具土神と呼ばれる防火の守護人。 久恵比古命はどうもよく分らない神様である。天神社の祭神であるらしいが、天神社の祭神は菅原道真であるのが通常。 須賀神社を管理する阿豆佐味天神社に問い合わせると「天神社はどこかの天神社を勧請したものではなく、自然発生的につくられたと思われる」との返事。阿豆佐味天神社の境内社「雷神社」と同様に、殿ヶ谷の人々の信仰が天神社や雷神社と形となったのであろう。 
 境内には、小さな境内社(写真)があるが、どのような神社かは不明。 跡でブロ友様から「境内社ではなく、庚申塔。天明三年(1783)の青面金剛塔である」と教えてもらった。
 残念なのは「眺望絶桂」といわれる景色が、樹木にさえぎられて展望ができないこと。
 
須賀神社境内社

 参拝を終え石段を下りると、道路が左右に別れる。右は神輿舎横から上ってきた道路。そこで左の道路を下りていくと、住宅地に入り込む。下りてきた道路(写真)には、須賀神社入口を示すものがないので、土地以外の人には須賀神社を見つけるのが難しいことが分った。神社の表示のない不思議な神社だった。
 7月13.14日に「瑞穂町夏祭り」が開催されると教えられた。祭の日の須賀神社や阿豆佐味天神社を参拝してみたいもの。特に、閑散としていた須賀神社の祭り日の変貌を、見届けたいものである。

須賀神社入口

 「殿ヶ谷バス停」の近くに「殿ヶ谷地蔵尊」(写真)が祀られている。昔、武蔵七党のひとつ村山党の居館があったので、殿ヶ谷と名付けられた村山郷の中心地らしく、路傍の地蔵尊も威厳に満ちた表情であった。
須賀神社地蔵
スポンサーサイト



狭山丘陵寺社めぐり 38 阿豆佐味天神社  (瑞穂町殿ヶ谷)

狭山丘陵寺社めぐり 38 阿豆佐味天神社

 この「狭山丘陵寺社めぐり」は、東大和市からスタートし、武蔵村山市をめぐり、ようやく瑞穂町にやってきた。今回は青梅街道の「殿ヶ谷バス停」近くの古社「阿豆佐味天神社」を紹介する。 青梅街道に面して二つの石碑(写真)が立ち、左の石碑には「延喜式内 阿豆佐味天神社 文久三年亥六月 神主 宮崎能登守 朝臣威豊」と書かれ、右の石碑には「内務省下賜保存資金三百円 明治十六年八月 郷社阿豆佐味天神社」と書かれている。

天神社入口 

 左の石碑の「延喜式内」とは、平安時代の延喜五年(905)に編纂を開始し、延長五年(927)にまとめられた「延喜式神名帳」に記載された神社のこと。即ち「延喜式内」の神社は1100年以上の歴史を有する古社であり、狭山丘陵周辺にはたった4社しかない。今歩いている狭山丘陵南麓では、阿豆佐味天神社のみが「延喜式」という、歴史的な古社である。 この石碑は幕末の文久三年(1863)に、宮崎神主が造立されたと思われる。
 右の石碑は、明治政府(内務省)が神社修復等に三百円を支給したもの。三百円の価値はよく分らないが、記念碑を造るくらいであるから、大金であったに違いない。 明治四年に全国の神社を官社と諸社に分け、諸社の中に府県社、郷社、村社、無格社と区分した。阿豆佐味天神社は村社よりも格上の郷社であるから、この村山郷では最も格の高い神社であったといえる。
 青梅街道から狭山丘陵に向かう、桜並木の参道を進むと、神明系の鳥居(写真)が立ち、その左には「郷社阿豆佐味天神社」の石柱が立っている。

天神社鳥居

 鳥居をくぐり参道を進むと、石段の前に二つのずんぐりした石灯籠(写真)が建っている。

天神社燈籠

 石段を上ると、風格のある拝殿(写真)の前に出た。

天神社社殿

 拝殿の横から本殿と、拝殿と本殿をつなぐ幣殿(写真)が見える。 本殿の屋根には神明社のような、千木や堅魚木がなくとてもシンプルである。 本殿は最も多い神社本殿の形式である流造で、屋根が反り前方に曲線的に長く伸びている。

天神社本殿

 阿豆佐味天神社の社伝によれば、寛平四年(892)桓武平氏の祖・高望王が創建したという。高望王は50代桓武天皇の孫で、坂東平氏(三浦氏、土肥氏、秩父氏、千葉氏)や伊勢平氏(平清盛)の祖。 阿豆佐味天神社は村山郷の総鎮守で、武蔵七党の一、村山党(秩父平氏の流れを汲む)の氏神として崇敬を受けた。 天正十二年(1584)、慶長三年(1598)の修復を経て、享保年間(1716~36)村山土佐守により社殿の修復が行われ、現社殿は明治二十七年に改修されたもの。 阿豆佐味天神社には後北条氏が社領15貫文、徳川幕府が朱印地12石を寄進するなど、歴代領主から厚く遇されている。 因みに阿豆佐味天神社の所在する「殿ヶ谷」の地名は、村山党の居館があったことに由来するという。
 
 阿豆佐味天神社の祭神は、少彦名命、素盞鳴命尊、大己貴命。 少彦名命は海の彼方の常世の国からやってきた小人神で、医薬の神。大国主命(別名が大己貴命)とコンビを組んで、国づくりの大事業を成し遂げている。少彦名命は酒造りや温泉の神でもあり、酒や温泉は古来より病気治療に有効と認められていた。 茨城県那珂湊市磯崎には「酒列磯前神社」があり、友人の磯崎氏が自分のルーツを求めてこの神社を訪れているのを記憶している。この神社の祭神が少彦名命なのである。
 牛頭天王と恐れられた素戔嗚尊を含めて、三人の祭神がいずれも出雲の神様であり、1100年も前から出雲系の人々が、この地に進出してきていたことがうかがわれる。

 社殿の右に建つ境内社(写真)の社名が消えて分らないので、近所にいた人に尋ねると「新青梅街道近くにあった『お伊勢さん』を移した」と教わり、神明社と分った。

天神社神明社

 社殿の左に、八幡社、熊野社、雷神社が、ひとつの祠(写真)に祀られている。雷神社は初めて知る神社で、阿豆佐味天神社に問い合わせると「地元の人たちが雨乞いのために祀ったもので、よそから勧請したものではない」との返事だった。「雨乞い神社」よりも「雷神社」の方が、ご神徳がありそうに思える。
天神社三社

 社殿の更に左に、正一位稲荷神社(写真)が建っている。神社の境内社として稲荷神社が多いのは、社殿や境内を守護する目的のように思われる。

天神社稲荷

 阿豆佐味天神社のホームページに記載されている境内社、奥宮、厳島神社、須賀神社、甲子社が見当たらない。神社に問い合わせると「奥宮などの境内社は、社殿の裏山の奥深くに鎮座している。そこに向かう道が整備されていないので、梅雨時には上ることができない」との返事。 後日調査することにし、調査結果は紹介したいと思っている。
 境内には神楽殿(写真)が建っているが、現在では祭事に使われることはないとのこと。

天神社舞殿

 「阿豆佐味天」とは変わった神社名である。阿豆佐味天神社のホームページでは「一説には『阿豆』は味で弥の形容詞で甘いの意であり、『佐』は味の接頭語、『味』は弥で水の意味とされ、古代に狭山丘陵から流れる湧水・甘い水を祀ったものとされています。『味』を『弥(水)』に混用するようになるのは奈良後期とされておりますから、上代は味佐弥神社であったと考えられております」と説明されている。
 いずれにせよ「阿豆佐味天神社」と同名の神社は全国にないので、この神社が「阿豆佐味天神社の総本社」と位置付けられる。 立川市西砂町に鎮座する「阿豆佐味天神社」(写真、寺社めぐり67社目)は、江戸時代の初め、砂川新田開発を行った村山郷岸村の村野氏(後の砂川氏)が、この阿豆佐味天神社を勧請したものである。

阿豆佐味天神社立川076

 更に、小平市小川町の小平神明宮(写真、109社目)、同市仲町の熊野社(写真、119社目)は、同じく小川新田の開発を行った岸村の小川氏が、阿豆佐味天神社の境内社である神明社と熊野社を勧請したものである。小平市の神明宮、熊野社ともに大社であり、阿豆佐味天神社内の小さな境内社を勧請したとは信じられないほどである。

小平神明宮079

小平熊野社082

 多摩地方の延喜式内社は8社存在する。阿豆佐味天神社の他は、阿伎留神社(あきる野市)小野神社(多摩市)布多天神社(調布市)大麻止乃豆乃天神社(武蔵御嶽神社、青梅市)穴沢天神社(稲城市)虎柏神社(青梅市)の7社。穴沢天神社以外の延喜式内社は既に訪れているので、穴沢天神社を参拝した時に、多摩地方の延喜式内社をまとめて紹介したいと思う。
 

ギリシャ旅行 8 アクロポリス

ギリシャ旅行の最終日は、アテネ市内観光。 朝、アテネの外港、ピレウス港で、クルーズ船から下り、バスでアテネ市内に向う。

1 アクロポリス遺跡

ギリシャ最後の観光となる「アクロポリス遺跡」に着く。アクロポリスとは「高い丘の上の都市」を意味する。 緩やかな坂道を登ると「イロド・アティコス音楽堂」(写真)に着く。紀元161年に建てられ、舞台裏の建物が残るステージでは、コンサートやギリシャ古典劇が演じられているという。とても音響効果がよく、小沢征爾がタクトを振るい、蜷川幸雄の演出の催しもあったという。

アテネ劇場

次いで「ブーレの門」を潜って、神殿への参道を登る。坂の途中には紀元前424年に建てられた「アテナ・ニケ神殿」を通過。ニケは勝利を意味し「勝利の女神神殿」のこと。 参道を登り詰めた大きな建物が「プロピレア(前門)」(写真)即ちパルテノン神殿の入口の門。

アテネニケ

丘の上の平坦なところに聳え立つのが「パルテノン神殿」想像していたよりもスケールが大きく、石柱の太さに驚く。ガイドの説明「古代アテネの栄光を象徴するパルテノン神殿は、紀元前432年に建造された。神殿内部には、高さ12 mのアテネの守護神、アテナ女神像が祀られていたが、今はない。巨大なドリア式列柱は46本あり、1本の高さは10 mで下部の直径は2 mもある。石柱の真ん中に穴をあけ、木の棒をさしこんで連結した。アテネの何処からでも目に付くこの丘は、紀元前13世紀より要塞が造られたのが始まり。このパルテノン神殿は1687年、ヴェネツィア軍の砲撃で大破し、修復作業は今も続いている」 中学の教科書で見たパルテノン神殿に立っているのが夢のよう。小中学生時代の夢「万里の長城、ピラミッド、死海」を既に訪れ、更にパルテノン神殿まで見たので、この世にもう思い残すことはない。
自由行動となったので、パルテノン神殿を一周。最も神殿が美しいとされる場所で記念撮影(写真)。

アテネパルテ

 丘の上に紀元前86年に建てられた「エレクティオン」(写真)には、6人の少女像が柱となっている。この少女像はレプリカで、本物の5体はアテネの博物館に、1体は大英博物館に保管されている。この優美な建物が、オスマントルコ占領時には、ハレムとして使われたとはけしからぬ話。

アテネ少女像

 この建物の近くから、アテネの街の展望が素晴らしい(写真)。左手に我々の泊まったホテルがある筈であるが、当然見当たらない。高所から街を見下ろすのが好きで、これまでに多くの街の絶景を見てきた。中でもクスコ、ケープタウン、マルセーユは私の見た世界の3大絶景。アテネの場合は、街から見上げるアクロポリスの丘が絶景といえよう。

アテネ展望
 最後にアテネ市内から写した「アクロポリス遺跡」(写真)を再度掲載して、ギリシャ旅行の紹介を終わる。
スミオンパルテ

狭山丘陵寺社めぐり 37 須賀神社  (武蔵村山市岸)

狭山丘陵寺社めぐり 37 須賀神社

 青梅街道を東大和市から西に向かい、武蔵村山市の寺社めぐりをしてきたが、とうとう市の西端の「須賀神社」にまでやってきた。 須賀神社の長い参道を進むと、神明系の白い鳥居(写真)があり、その左の説明版に「江戸時代寛政二年(1790)の創建で、村内悪疫鎮護のため祀られたものです。岸の天王様ともいわれ、村人の信仰が篤く、境内の杉や樫の葉をいただき門口につるしておくと、伝染病にかからないといわれています。 祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト) 軻遇突智命 天照大神 豫母津事解之男神」と書かれている。

須賀神社鳥居

 狭山丘陵の尾根にかかる石段を上ると、昭和十九年建立の小振りな「拝殿」(写真)が建ち、その後ろの「本殿」(写真)は更に小さい。それはこの社殿が昔は遥拝所であり、遥拝する本殿は1 km北に離れた狭山丘陵の中にあったことによるらしい。昔の遥拝所が現在は本殿で、昔の本殿は現在奥の院となっている。
須賀神社拝殿

須賀神社本殿

 須賀神社は、牛頭天王・素戔嗚尊を祭神とする祇園信仰の神社で、八坂神社、祇園神社、八雲神社が仲間である。 社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言って、そこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。
 祭神の素戔嗚尊の神徳は、水難・火難・病離除去、五穀豊穣など。 軻遇突智命は愛宕神社の祭神で、神徳は鎮火、火難除け、郷土守護など。 天照大神は素戔嗚尊の姉で、伊勢神宮の祭神であり、国土平安の守護などあらゆる神徳を発揮する万能の神。 豫母津事解之男神(よもつことわけのおがみ)は事解男神とも呼ばれ、伊弉諾神から生まれた神であるが、あまりよく分っていない神様であるらしい。 事解男神を祀る島根県益田市の「染羽天石勝神社」(写真、寺社めぐり252社目)を紹介しておく。
石勝神社水平

 須賀神社は、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれ、明治時代になり須賀大神、須賀神社と改称され、岸地域の鎮守として信仰された。 これから訪れる予定の瑞穂町の阿豆佐味天神社と須賀神社のかかわりは深く、阿豆佐味天神社の宮司が須賀神社の宮司を兼ねた時代もあった。

 境内には神輿舎があるので、例祭の時には神輿が担ぎ出されるのであろう。 境内社として熊野宮の祠(写真)がある。 大きな伊勢神宮参拝記念碑と乃木大将書の明治三十七年八年戦役の碑(写真)がある。 祭神の天照大神を祀る伊勢神宮参拝は分るが、熊野宮の存在については不明。

須賀神社熊野

須賀神社乃木

 拝殿の左の小道を上っていくと、稲荷神社(写真)があった。これは須賀神社の境内社ではなく、明治二十五年に茨城県笠間市の笠間稲荷から勧請された「笠間稲荷神社」。名称が紋三郎稲荷から胡桃下稲荷から笠間稲荷と変わってきた。 笠間稲荷は日本三大稲荷の一つで、その他は総本社の京都の伏見稲荷と佐賀県の祐徳稲荷。笠間稲荷の代わりに愛知県の豊川稲荷を日本三大稲荷と呼ぶこともあるようだが、残念ながら未だ一社も参拝していない。 白雉二年(661)創建とされる笠間稲荷の別称が、胡桃下稲荷、紋三郎稲荷と分り、昔の名称変更の根拠が分った。

須賀神社稲荷

 奥の院に向って歩くと「里山民家」がある。これはこの地域にあった江戸時代建築の宮鍋家住宅をモデルにして、当時の民家を忠実に再現・新築した施設で、平成12年にオープンした。生垣に囲まれた敷地の中には、大きな母屋(写真)のほかに蔵や作業小屋、納屋なども再現されている。私も何度か訪れたことがあり、無料の「野草汁」をふるまわれたが、その中にぺんぺん草が浮かんでいたのには驚いた。決して美味しい汁ではなかったが、飢饉の時には村人はこの野草汁で飢えをしのいだのではなかろうか。
須賀神社里山

 里山民家の傍を通り、狭山丘陵の中に続く寂しい道路を歩いていくと「須賀神社奥の院」の鳥居(写真)が現れる。
須賀神社奥鳥居

 鳥居をくぐり石段を上った上に「奥の院」(写真)が建っている。「岸の天王様」と呼ばれた須賀神社の元本殿は、文治年間(1185~89)に建てられたものだという。はじめ大山衹神と日本武尊が祀られていたが、岸村が開かれた際に、山伏三行院信道が村の悪疫鎮護のため、素戔嗚尊を祀ったという言い伝えがある。
須賀神社奥院

 境内には、須賀神社に土地を奉納したことを刻む小さな石碑(写真)が、二つ並んでいる。村の鎮守様への信仰の証と受け取った。
須賀神社奥奉納

 引き返そうとすると、奥の院の裏の方を人が歩いているのを見つける。その方向に小路を上ると、多摩湖道から六道山に向かう遊歩道(写真)があった。ここは幼かった子供たちと六道山にハイキングしたことのある懐かしい道。その道路脇に須賀神社の奥の院があったことを初めて知った。全く人の気配のない寂しい奥の院とは対照的に、明るい遊歩道に出て気分爽快となり、武蔵村山市の寺社めぐりに別れを告げた。
須賀神社遊歩道


狭山丘陵寺社めぐり 36 禅昌寺2  小川寺 (小平市小川町)

狭山丘陵寺社めぐり 36 禅昌寺2

 「前報、禅昌寺」に対し、ブロ友様から「禅昌寺本堂を左に進むと裏側に壮大な墓地があり、小川村(現・小平市)を開発した小川家の墓地があります。立派な宝篋印塔がまつられています。 また、寺の過去帳に砂川村(現・立川市)を開発した砂川家の記録が残されています。 東大和市域の村々とも関わりあいがあったであろう両家です。中世から江戸の初期の夢いっぱいの地でもあります。記事を拝見して急に訪ねたくなりました」とのご指摘と、いつもながらの暖かいエールを頂いた。
 そこで早速、禅昌寺を再訪することにした。本堂の左裏の丘陵に広がる墓地を見て、数年前にブロ友様にご案内頂いた墓地であることを思い出した。前報の取材で禅昌寺を訪れたにもかかわらず、小川家の墓地を失念していたのが恥ずかしい。寺社に関する問題意識の甘さを痛感させられた。
 墓地の中腹に「小川家の墓」と刻まれた黒色の墓があり、その左に3基の宝篋印塔(写真)が並んでいる。この墓所こそブロ友様のご指摘頂いた「小川家の墓」であると確信できた。

小川家墓禅昌寺1

小川家墓禅昌寺2

小川家墓禅昌寺3

 宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに石造が多い。中国の呉越王・銭弘俶が延命を願って立てたのが原型とされ、日本では鎌倉時代から造立が盛んになった。名称は、銭弘俶塔に宝篋印陀羅尼(経文のようなもの)を納めたことによるとされる。五輪塔が僧俗を問わず多くの階層で用いられたのに対して、宝篋印塔は主に貴顕の間で用いられる傾向があった。

 黒色の「小川家の墓」の周辺に、沢山の墓石や塔が並んでいるが、小川新田を開発した「小川九郎兵衛」の墓が見つからない。 帰宅して、ブロ友様に問い合わせると「九郎兵衛の墓は、小平市の小川寺にある」と教わった。 小川九郎兵衛の墓は、出身地の岸村の禅昌寺にはなく、自らが開発した小川新田の中にあることが分った。
 早速、自転車で小川寺に向かう。4年前に小川寺は訪れていた(寺社めぐり107社目)けれど、小川九郎兵衛の墓の存在には気付いていなかった。 本堂左に広がる墓地の入口に、大きな宝篋印塔の「小川九郎兵衛の墓」(写真)があった。

小川寺墓

 墓の中に説明版があり「小川九郎兵衛安次は、元和8年(1622)に多摩郡岸村(現武蔵村山市)に生まれる。祖先は後北条氏の家臣で、天正18年(1590)後北条氏滅亡後、村山郷に土着したいわゆる郷士の家柄である。 九郎兵衛は、承応3年(1654)玉川上水、翌明暦元年(1655)野火止用水が開通して、水を確保できる自信がつくと、その内側一本榎(仲町熊野宮)の線まで、約7百町歩の自費開拓と、青梅街道最大の難所、箱根ヶ崎と田無の両馬継馬5里の中間に、新たに馬継馬の開設を願い出て、同年老中松平信綱の許可を得る。 九郎兵衛は、小川村の開拓と馬継馬の基礎を確立した寛文9年(1669)に、婿養子市郎兵衛に家督を譲って岸の旧宅に帰り、その年に病を得て12月17日に48歳でその生涯を閉じている。明暦2年(1656)、34歳で小川村の開拓と馬継馬の開設に乗り込んで14年後のことである。この短い期間に当時としては極めて進歩的、超時代的大事業を完成したのである。 九郎兵衛の墓所は、小川名主家の菩提寺である医王山小川寺と、終焉の地、岸の禅昌寺の二ヶ所にある」と書かれている。
 この説明版には「小川用水」と「小川新田」が書かれていない。説明版の「小川村の開拓」は、玉川上水から分水した「小川用水」を用いて「小川新田」を開拓したことをいう。それまで一面のススキの原であった不毛の土地を、小川用水により田畑に変え、その後大沼田新田、野中新田、鈴木新田、廻り田新田と開拓を広げて行ったのである。 なお九郎兵衛の墓所が岸の禅昌寺にあると書かれているのは、禅昌寺に小川家代々の墓があることをいうのか、九郎兵衛自身の墓があることなのか、不明。

 小川寺(しょうせんじ)という名刹に来たついでに「小川寺」を紹介する。 青梅街道沿いに建つ山門(写真)は二階建てになった二天門で、とても風格がある。

小川寺山門

 山門をくぐると六地蔵が並ぶ通路の向うに建つのが修行門(写真)。

小川寺修行門

 修行門をくぐると左に鐘楼(写真)があり、梵鐘は第二次世界大戦中に供出され、溶かされる寸前に待ったがかかり、小川寺に戻ってきたといういわくつきの鐘。

小川寺鐘楼

 本堂(写真)は落ち着いたたたずまいを見せている。小川九郎兵衛は、小川新田開発に着手する一方で、江戸市ヶ谷の月桂寺住職・雪山碩林大禅師を勧請、薬師瑠璃光如来を本尊として開山したのが医王山・小川寺。臨済宗円覚寺派の寺院である。 病気を治す功徳のある薬師如来を安置したのは、九郎兵衛が小川新田の人々の健康を願った表れであろう。

小川寺本堂

 本堂の裏庭(写真)は広々としていて、とても美しい。

小川寺庭

 裏庭の中を、九郎兵衛が苦労して引いた小川分水(写真)が横切っているのが、とても印象に残る。小川分水という歴史を取り入れた作庭に、敬意を表したい。 玉川上水から引いた清流の溝が小平市にあるのに、玉川上水が市内を流れる我が東大和市には溝がないのかと疑問を持っていたが、小平市には小川九郎兵衛という卓見と実行力を持った偉人がいたことを知り、納得。それでも東大和市民としては寂しい思いがする。

小川寺分水

 武蔵村山市には「指田日記」の指田家があり、多くの神明社の存在を含めて、歴史的な重みを感じていたが、更に小川家や砂川家の存在を知るに及んで、武蔵村山市が昔の狭山丘陵地域の中心地であったことを再認識させられた。鉄道がなく、東京の田舎町の印象が強かった武蔵村山市であるが、江戸時代には武蔵野の盟主であったのではないかと、大いに見直したものである。
 次は、砂川分水と砂川新田開発に関わった砂川家(村野家)の墓所を訪ねてみたい。



 

ギリシャ旅行 7 サントリーニ島

 エーゲ海クルーズの3日目、即ち最終日。今日はクレタ島とサントリーニ島の観光。地図で赤丸で示した島。
サントリーニ島地図072

1 クレタ島

 クルーズ船はクレタ島のイクラリオン港に着き、7時から観光スタート。ガイドの説明「これから案内するクノッソス宮殿は、紀元前2000年に建設された。その300年後にサントリーニ島の火山爆発で宮殿は破壊されたが、紀元前1450年頃クノッソス宮殿が再建された。その後のギリシャ人の侵入により、クレタ文明は消滅して宮殿も埋もれてしまっていた。1900年イギリスの考古学者エヴァンスの発掘により、神話とされていたクノッソス宮殿が実在していたことが明らかになった」  
入場した「クノッソス宮殿」(写真)はとても広く、いろいろな建物が重なり合っている。

クレタ宮殿3

ガイドの説明「ギリシャ神話によると、クレタ島のミノス王が、一度入ったら二度と出ることのできない迷宮を建てて、ミノタウロスという牛頭人身の怪物を閉じ込めたとされる宮殿。或る時ミノス王が海神ポセイドンの怒りを買い、ミノス王の妻にミノタウロスを産ませたとされる」 ギリシャ神話はオドロオドロしいなあ。 宮殿の内部には王宮、神殿(写真)、倉庫等があり、通路の下に地下がある立体的な建物。赤い石柱が目立ち、石柱の上下の黒色が不気味なムードを醸し出している。

クレタ宮殿1

  最後に3900年前の劇場跡(写真)を見学。立体感には乏しいが、かなり大きな劇場。ヨーロッパ最古の劇場との説明がある。

クレタ劇場 

 バスの中でガイドの説明「ミノス王はミノタウロスの餌食として、毎年アテネの若い男女の献上を命じていた。アテネの英雄テセウスが自ら志願して、餌食としてクノッソス宮殿に入り、ミノタウロスを殺すことに成功。目的を達成した時には、黒い帆をつけてアテネに凱旋する約束を忘れたので、テセウスの父は白い帆を見て自殺した」 

2 サントリーニ島

 16時にデッキに昇り、船の先端に移動して、近づくサントリーニ島を眺める。大きな火山の火口に海水が入り、その周辺を外輪山が囲むというスケールの大きな風景。真ん中の小さな火山には人家がなく、周辺の外輪山の上に部落がある。遠くから見ると、外輪山の上に白い雪がかぶったように見えたのが、近づくにつれて白い屋根の家だと分る(写真)。それ家並みが何㌔にも渡って連なっているのは異様な風景。

サント遠景1
 船が外輪山の裂け目から、火口の中に入ってくると、外輪山の絶壁の上に人家がへばりついているのがよく分る。この風景(写真)を見ただけで、サントリーニ島にきた価値がある。

サント遠景2
 港に待機していたバスに乗り込み、サントリーニ島観光がスタート。ガイドの説明「サントリーニ島には5000年前から、クレタ島から移り住んだミノア人の文明があったが、3500年前の大噴火により、一瞬にして歴史から姿を消した。その後再び人々が移り住んでいたが、1956年に再び大噴火が起こり、町や村が崩壊した。船から見えたフィラの町やこれから観光するイヤの町並みは、それ以後に造られた」
 島の北端の小さな町、イヤに着く。 石段の上がイヤの中心「スクエア」で、ここから眼下に火口の海が見え、その向こうに白い雪のようなフィラの町が望める景勝地。イヤの町は断崖の上にしがみつくように造られている。ガイドの案内で断崖の小路を少し下ると、青いドームの小さな教会が、絵のように美しい。断崖に建つ白い家との組み合わせは、エーゲ海では最も印象的な景色(写真)。

サントイヤ1

 ここで自由行動となる。小奇麗な店の並ぶ小路がメインストリートを歩きながら、時々断崖の小路を下ると、別の教会が見えて、どこも絵葉書の世界(写真)。ミコノス島が典型的なエーゲ海の島ならば、このサントリーニ島はエーゲ海の中では、規格外の島というべきだろう。「世界にはこのような絶景があったのだ」と、この歳まで知らなかったのが勿体ないように思える。

サントイヤ2

 バスはサントリーニ島をほぼ一周して、フィラの町に戻る。ここは船上から雪のように見えた断崖の上の町(写真)であるが、景観はイヤの方が上。

サントラスト






寺社めぐり 10 会津若松市

寺社めぐり 10 会津若松市

 新潟での行事を終えて宿泊。翌日8時過ぎの列車で新潟を発ち、10時半過ぎに会津若松駅に到着。サイクリング車で、会津若松市の寺社めぐりをスタート。既に何度か会津若松市を訪れて、鶴ヶ城や飯盛山を観光しているので、今回は寺社めぐりに徹することにする。

1 大龍寺

東に向かって走り、山沿いの「大龍寺」を訪ねる。ここにはNHK大河ドラマ「八重の   
桜」のヒロイン、新島八重の生家、山本家の墓所がある。 先ず本堂(写真)で参拝。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は宝雲山。 天正年間(1573~93)小笠原長時によって創建された桂山寺に始まるとされ、寛永二十年(1643)に保科正之によって中興され、現在に至っている。

大龍寺

 本堂の左に墓所があり、その奥に「山本家の墓所」(写真)があり、説明版に「墓所の題字は新島八重の直筆であり、この墓標の裏には『昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七歳』と記されています。 大龍寺の過去帳によると文化年間(1804~17)から、山本家は(八重の高祖父の時代)菩提寺としていました。昭和六年八重は点在していた山本家の墓を一ヶ所に整備してこの墓所を建立しました。 墓所完成の翌年、昭和七年(1932)享年八十七歳、波乱の人生に静かに幕を閉じ、安らかに永眠されました」と書かれている。

山本家墓

 写真の左の石柱に「山本家の墓所」と、八重の真筆で書かれている。 幕末。維新を生きた八重は長生きし、なんと私の生まれる6年前にこの世を去ったとは信じがたい。 テレビの視聴率は芳しくなく、更にこれから会津藩の敗戦を観るのは辛いけれど、八重と新島穣の出会いを楽しみにしよう。

2 天寧寺

大龍寺の少し南に「天寧寺」があり、ここには「近藤勇の墓所」がある。 急勾配の石
段を上った山の中腹に本堂(写真)が建っている。 山号を萬松山という曹洞宗の寺院。

天寧寺

 文安四年(1447)に蘆名盛信の開山といわれ、蘆名氏の菩提寺であった。 蘆名氏は天正十四年(1586)、伊達正宗との戦いに敗れ、その時に天寧寺も焼亡した。 後継者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人々の尽力で現在につづいている。 天寧寺は青梅市にも、尾道市にもある曹洞宗の由緒ある寺院である。

 裏山をかなり上った山林の中に「近藤勇の墓」(写真)があった。近藤勇は新撰組を率いて戊辰戦争を戦って敗れ、千葉県流山で官軍に捕らわれ、板橋刑場で斬首され葬られた。新撰組副長、土方歳三が遺髪等遺体の一部を収容し、会津藩主松平容保の許可を得て、戊辰戦争前にこの地に葬ったとされる。
近藤勇墓

 近藤勇の墓は全国にあり、米沢市の高国寺には勇の首を埋葬した墓があり、三鷹市の龍源寺や岡崎市の法蔵寺にも遺体を埋葬した墓がある。 なお近藤勇の墓の右には、函館で死を予想した土方歳三が生前に作った墓が並んでいる。

3 会津藩主松平家墓所

 天寧寺の近くの山中に「会津松平家歴代藩主の墓所」がある。 初代藩主、保科正之の墓所は、猪苗代町の土津神社にあるので、この墓所には2代藩主から9代藩主、松平容保までの墓がある。 崩れかかった石段を上ること20分、ようやく広い墓所に着く。広場には5代、6代、7代の巨大な碑石(写真)が並び、周辺の山の中腹に各代の藩主の碑石が散在している。

藩主墓所

 広場の奥の石段を上ったところに、現在大河ドラマに登場している、9代藩主松平容保の墓(写真)がある。広場の碑石に比べると小さな碑石である。松平容保は戊辰戦争で生き残った後、日光東照宮の宮司を務め、明治二十六年に59歳で亡くなっている。埋葬時には会津藩は存在しなかったのだから、それ相応な墓となっているものと納得。

松平容保墓2

 石段を下る途中「御庭」と称する広場には、藩主の家族などの碑石が並び(写真)、厳粛な雰囲気であった。 広大な墓所には人影がなく、不気味な気分を味わったが、帰りにやっと一人の若い男性に出会い、ほっと安堵するするというほど人の気配のない寂しい墓所であった。

御庭

 4年前に山口県萩市の東光寺にある長州藩毛利家の墓所を訪れたのを思い出した。会津藩との宿命のライバルであった毛利家の墓所(写真)には、歴代の藩主の墓が並び、その前には500基の石灯籠が整然と並んでいた。東光寺の境内という環境からして墓所の面積は狭く、関ヶ原の戦いに敗れ70%の減封を受けた毛利藩の苦衷を物語っているかのようである。
 一方、徳川幕府の親藩であった会津藩松平家の墓所は規模が大きいが、碑石以外の石灯籠等はなく、実直な会津士魂そのままの墓を感じた。

毛利家墓所071

4 善龍寺

 会津若松市街の東南に位置する「善龍寺」は、会津藩の家老「西郷頼母と家族の墓」がある。 先ず石段の上に建つ山門(写真)がとても目立つ。説明版には「この山門は寛政九年(1797)の建立とされ、竜宮門あるいは竜宮造りと呼ばれる珍しい様式であり、当地方ではほとんど例を見ない山門である」と書かれている。 九州でよく見かける唐国造りの門を思わせる。

善龍寺山門

 石段の上に建つ本堂(写真)の説明版には「祥雲山善龍寺は寛永二十年(1643)曹洞一派の泉海という僧が、藩祖保科正之に従い花畑に建立、その後現在地に移った。本堂は戊辰戦争で焼失した」 保科正之は、三代将軍徳川家光の異母弟で、会津藩初代藩主となり、三代将軍家光、四代将軍家綱を補佐した名君として名高い。

善龍寺

 本堂の裏山に墓地があり、中腹に「西郷頼母の墓」(写真)があり、説明版には「西郷頼母近悳夫妻の墓は生前から保科家歴代の墓所この善龍寺に用意されていたが、祖先の墓石の何れよりも小さくその人柄が偲ばれる。正面に保科八握髯翁墓、室飯沼千恵子位 右側面には近悳の命日明治三十六年四月二十八日が刻まれる」と書かれている。 中央の小振りな白っぽい墓が、西郷夫妻の墓。

西郷夫妻墓

 西郷頼母は最期まで官軍への恭順を説くが入れられず、鶴ヶ城落城前に長男を伴い逃亡し、明治36年まで生きのびる。その間に松平容保が宮司をしていた日光東照宮の禰宜を務めている。明治以降は姓名を西郷近悳に、更に保科八握髯翁と変えたので、墓名が西郷頼母となっていない。官軍のリーダー西郷隆盛と姓が同じというのが、頼母の人生に大きな影響を与えたのではなかろうか。 室飯沼千恵子と書かれているのは、千恵子の旧名が飯沼だったのであろう。西郷と名乗れない事情があったのかもしれない。
 墓所の上部に「二十一人の墓」(写真)があり、説明版には「慶応四年(1868)八月二十三日、西軍が若松城下に侵入するに及んで、国家老西郷頼母は登城したが、家族は入城せず死を選んだ。 生きて戦いの足手まといとなり、また敵の辱めを受けんとするよりはと、頼母の母律子、妻千恵子など家族九人と一族十二人が、西郷邸で互いに刺し違え自刃し果てたのである」と書かれている。 藩主や家来を捨て、更に家族を捨てて逃亡した西郷頼母の心境を、大河ドラマ「八重の桜」でしっかり確認したいものである。
二十一人墓

5 蘆名家花見ヶ森廟

最後の墓は、松平家以前に会津を支配していた「蘆名家の墓」(写真)である。説明板には「会津最初の領主である蘆名家は、初代佐原義連(後に蘆名氏を称した)から天正十七年(1589)に二十代義広が、磐梯山ろく磨上原において伊達正宗に敗れて会津を去るまで、四百年の長きにわたった。 この墳墓は十六代盛氏を中心として、左が十七代盛興、右が十八代盛隆の墓である」と書かれている。

蘆名家墓

 これで会津若松の寺社めぐりというか、墓めぐりを終える。時刻も16時を過ぎたので、鶴ヶ城観光は止めて帰途についた。 会津若松の歴史を見守ってきた磐梯山(写真)を、車窓から撮影できた。新潟市在住中に何十回も見てきた磐梯山も、これが見納めとなるのかもしれない。

磐梯山
プロフィール

リンおじい

Author:リンおじい
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR