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ギリシャ旅行 6 パトモス島

 昨夜はクルーズ船内に泊り、エーゲ海クルーズの2日目の朝を迎える。今日はパトモス島(写真、赤丸)を観光後、トルコのクシャダス港(写真、赤丸)に立ち寄る予定。

ギリシャ旅行パトモス島070

1 パトモス島

エーゲ海に「パトモス島」の中心スカラに上陸。 バスに乗り込むとガイドの説明「パトモス島は起伏の激しい小さな島であるが、教会が400もある。この島が有名なのは、聖人ヨハネがローマ人に追放され流された場所ということと、この島の洞窟で暮している間に天啓を受けて、聖書の『黙示録』を書いたこと」 バスは狭い山道を登っていく。車窓から小さな教会がいくつか見られるものの、民家の少ない寂しい村。 山頂のホラ部落で下車。そこから見えるエーゲ海の入り江とスカラの町がとても美しい(写真)。

パトモス島
 バスに乗り坂道を下った駐車場で下車。ここが「聖ヨハネが暮らした洞窟」。洞窟へは狭い石段を下りて行くが、見学を終えた観光客とのすれ違いが大変。お互いがクルーズ船仲間であろうが、小さな島、小さな教会に何台ものバスが集中するのだから仕方がない。洞窟は小さな礼拝堂となっていた(写真)。ヨハネはペトロと並ぶキリストの高弟。キリストの殉教の後、イエスの母マリアを連れエフェソスに移り住んだ。その後パトモス島に幽閉されたが、釈放されエフェソスに戻り、そこで没したとされる。
パトモス島教会

 パトモス島の観光を終え、クルーズ船(写真、23.000㌧)はエフェソスの外港であるクシャダス港に向かって、島の多いエーゲ海を進む。 

パトモス島船

船の上甲板に上ると、肌寒いのでプールで泳ぐ人はいないが、デッキチェアーではビキニ姿の人々が日光浴。私なら確実に風邪をひくであろうが、欧州人のこの強靭な体質についてはいつも驚かされる。
パトモス島日光浴
 
2 クシャダス(トルコ)
  
クシャダス港からのオプションが「エフェソス遺跡見学」であったが、10年前に観光したので、このオプションのみ参加を中止。 海岸通を歩いて、エーゲ海に突き出す「鳩島」(写真)に向う。

パトモス島鳩島

鳩島には昔のトルコ軍の要塞(写真)があった。 要塞下のオープンカフェでのんびり過ごす。

パトモス島要塞
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狭山丘陵寺社めぐり 35 禅昌寺  (武蔵村山市岸)

狭山丘陵寺社めぐり 35 禅昌寺

 前報、宿薬師堂で武蔵村山市三ツ木地区の寺社めぐりを終え、岸地区に入り狭山丘陵沿いを歩き「禅昌寺」に着く。「狭山観音霊場めぐり24番札所」(写真、赤丸)である。

観音地図禅昌寺069

 山門(写真)の前に説明版があり「岸清山禅昌寺は、室町時代の生長元年(1428)恵山和尚によって開山されたと伝えられています。江戸時代に強風でお堂が壊れ、文化十四年(1817)に再建されました。現在の本堂は、昭和四十六年に建てられたものです。観音堂は文禄三年(1594)の創建と伝えられ、狭山二十四番の札所になっています」と書かれている。

禅昌寺山門

 室町時代の開山や戦国時代の観音堂創建は、禅昌寺が相当古い歴史をもつ寺院であることが分る。
 山門をくぐると、本堂(写真)が建っている。

禅昌寺本堂

 禅昌寺は臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は釈迦如来。 臨済宗の開祖、栄西は備中国吉備津宮(寺社めぐり1437社目)に生まれ、天台密教を学び、二度中国の宋に渡り、帰国後「興禅護国論」を著し、鎌倉の北条政子の支援を受けた。栄西が建てた寺院は、京都の建仁寺であるが、栄西の弟子たちが「鎌倉五山」や「京都五山」を建立し、それぞれが建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、東福寺派などと称して各々が本山であるが、本山の数が15もあるとは複雑。 禅昌寺の本山は勿論、鎌倉の建長寺(写真、1884社目)となる。
 臨済宗の信者数は約100万人で、同じ禅宗の曹洞宗の信者158万人よりはやや少ない。 臨済宗の教えは「生まれそなわっている人間性(仏性)を坐禅によって目ざめさせ、人生を豊かに生きていくこと」とある。
建長寺068

 境内に戦国時代に建立されたという「観音堂」(写真)が建っている。 堂内には、これまで訪れた吉祥院や慈眼寺と同じく、聖観音が安置されている。

禅昌寺観音堂

境内には鐘楼(写真)が建っている。 六地蔵(写真)は雨露を避けるためか、建屋の中に安置されている。
禅昌寺鐘楼

禅昌寺六地蔵

 本堂の横に「少飛の塔」(写真)が立ち、説明版には「この地には、昭和十三年より終戦に至る八年有余にわたり東京陸軍少年飛行兵学校がありました。 祖国の急を救わんと、全国各地よりはせ参じた若冠十四・五才の少年達が、ひたすらに大空へと志し、情熱を燃やして訓練に励んだ、元陸軍少年飛行兵揺らんのちです。 昭和三十八年生存者有志により、戦没者のめい福を祈念して慰霊碑を建立しました」と書かれている。
 当時は横田飛行場の前身である多摩飛行場が近くにあったので、少年飛行兵学校が禅昌寺内に建てられたのであろう。学校を卒業した少年兵の多くが、神風特攻隊などで戦死したに違いない。戦争哀話がこの寺にあることが信じ難い。しかもちょうど私が生まれた年から小学校一年生の間の出来事であったのが重たい。

禅昌寺少飛塔

 寺社めぐりは、その土地の歴史や風物に触れられるのが嬉しい。 禅昌寺近くの芝桜(写真)が満開。その鮮やかな色彩は見事。

禅昌寺芝桜

ギリシャ旅行 5 ミコノス島

 楽しみにしていた「エーゲ海クルーズ」の初日は、港湾労働者のストライキで、クルーズは中止。 クルーズ2日目となる今日から「エーゲ海クルーズ」がスタート。 クルーズ船に乗り込み、アテネの外港、ピレウス港(地図、赤丸)を出港し、ミコノス島(地図、赤丸)に向かう。

ギリシャ地図066

1 ミコノス島

 17時にミコノス・タウンの中心に近い、小さな桟橋に着き、念願のミコノス島に上陸。青いドームを持つ教会と白い家並みが美しく「これぞミコノス島!」の風景(写真)が広がる。

ミコノス青教会
ミコノス島観光がスタート。最初の青いドームが「セント・ニコラス教会」 次いで訪れたのが真っ白な教会で、ミコノス島で最も有名な「パラポルティアニ教会」(写真)

ミコノス白教会

そこから狭い小路に入ると、おしゃれなカフェや土産物店が並びいい感じ。 海岸にある「ヴェニス」というシーフードレストランから、海岸の丘の上に風車が見えてくる。この「6つの風車」(写真)も有名で、全員で風車まで歩く。

ミコノス風車2

 風車の丘からの海岸の展望(写真)も素晴らしく、ミコノス島に来た幸せをかみしめる。

ミコノス海岸
 ガイドの説明はここで終わり、自由行動となる。地図を片手に、車の通れないような小路を歩く。買物の当てもなく歩いていると、小さな教会(写真)やホテルが出てきたり、美しい花に出くわしたりする。 
ミコノス街教会

迷路のような小路を歩いて、ようやく海岸通りに出た。 小さな桟橋に戻り、目の前に広がるミコノス島の風景(写真)を頭に刻みこむ。

ミコノス最後
 夕方、典型的なエーゲ海の島といわれるミコノス島観光を終え、クルーズ船に乗り込み、船中泊。

狭山丘陵寺社めぐり 34 宿薬師堂  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 34 宿薬師堂

 前報の御嶽神社から、青梅街道を西に向かうと「宿バス停」の傍に「宿薬師堂」が建っている。砂利敷きの広い境内の南隅に本堂(写真)が建っている。

薬師堂

 薬師堂は江戸時代慶長年間(1596~1614)の創建。本尊の薬師如来は霊験あらたかな秘仏であったが、昭和15年の火災で本堂と共に焼失。現在の本堂は焼失の翌年に再建されたもの。 薬師堂は、寺社めぐり萩の尾薬師堂(18報)に次いで二つ目。 薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主で、(修行中の)菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い、仏(如来)となったと説かれている。 瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされ、薬師瑠璃光如来とも称されている。 
 宿薬師堂は昔から長円寺(26報)の支配を受けていた。
 市内の歴史講座で学んだ「産泰講」を紹介する。「三ツ木の宿の薬師堂では、四月十五日にオヒマチの会合を行っていた。女衆は、この日は他所への外出を控え、東大和市高木の塩竈神社から出たと思われる軸をかけて準備する。数名の当番が飯を炊き、豆腐の汁や、野菜の白和えなどを作った。参加者は、各家の主婦か、年配の女性で、各自が食器を持って夕方に集まった。子どもを連れていく人もいた。これをサンタイコウサマ(産泰講様)ともいっていたが、現在はなくなってしまった」 豊鹿島神社(7報)の境内社である「産泰社」(写真)を紹介する。産泰社は木花開く耶姫命を祭神とする安産・家内隆昌の神徳がある神社。

豊鹿島産泰社

 本堂の左奥に五つの石碑(写真)が並んでいる。右の石碑には「供養塔」と読めるし、その左隣は「馬頭観音」のようである。

薬師石碑

 境内に地蔵堂(写真)があり、説明版には「宿の子育て地蔵尊 造立年代は不詳ですが、明治時代に旧青梅街道が改修されるまでは、東にあった道路の傍に立っていました。改修のとき現在の場所に移されたものです。以前は近所の子どものいない家でしゅもりをしていたそうですが、今は子育て地蔵とよばれ、毎月四、十四、二十四の縁日には、遠方からもお参りする人々があり篤い信仰を受けています」と書かれている。
 「しゅもり」とは、こどもを授かりたい家の人が、子育て地蔵を管理・世話をすることをいう。子育て地蔵を大切に守っていると、子どもが授かるご利益があるのだろう。 縁日とは、神仏と有縁の日のことで、この日に参詣すると普段以上のご利益があると信じられた。

薬師地蔵

 宿薬師堂は、萩の尾薬師堂同様に、青梅行のバスの車窓からいつも眺めていた。どちらも無住の堂宇であるため、侘しいたたずまいとなっている。

寺社めぐり 9 広島県竹原市

寺社めぐり 9 広島県竹原市

 広島県野呂高原でのクラス会を終え、呉線広駅から三原行の電車に乗り、竹原駅で途中下車。「安芸の小京都・竹原」の寺社めぐりをスタート。パンフレットには「はるか平安時代、京都下鴨神社の荘園として栄えた竹原。今も貴重な文化遺産が生き続ける情緒あふれる町です。特に上市・下市には、江戸時代後期に製塩や酒造業で栄えたお屋敷や由緒ある町並みが往時の姿をそのまま伝えています」と書かれている。
 駅前から約1km歩いて「町並み保存地区」に着く。

1 長生寺  寺社めぐり 2142社目

 天正十五年(1587)小早川隆景が開山。正保元年(1644)には僧、快辺が再興して真言宗となる。現在の本堂(写真)は昭和三十七年の建築。 「毛利家三本の矢」で名高い、毛利三兄弟の末弟、隆景が幼い頃小早川家に養子に入り、竹原で幼少期を過ごしたことを知る。 平安時代の荘園、戦国時代の小早川家支配、江戸時代の塩田が、竹原を小京都にした要因であることが分る。

竹原長生寺

2 町並み

 町並み保存地区(写真)を歩く。高い壁や長屋門の格子、覆いの漆喰壁などが、江戸時代の町の雰囲気をよく伝えている。

竹原町並1

竹原町並2

3 西方寺

 石段を上った高所に建つのが「西方寺」(写真)。 慶長八年(1603)に建立された浄土宗の寺院。

竹原西方寺

 西方寺本堂横の高台に建つのが、宝暦八年(1758)に建立された「普明閣」(写真)。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっており、京都の清水寺を模して建立された。

竹原普明閣

 「普明閣」の舞台からの竹原市の町並み(写真)を紹介する。

竹原展望

4 照蓮寺

 もとは定林寺と称し曹洞宗の禅寺で、小早川氏代々の子弟が学んだ寺。慶長八年(1603)僧、浄喜が真宗に改宗、すぐれた学問僧が輩出した。江戸時代からは竹原の文化センター的役割を果たしている。 明和三年(1766)建立の鐘楼門(写真)から境内に入る。

竹原照蓮門

 本堂(写真)は元文二年(1737)の再建。

竹原照蓮寺

5 頼山陽

 町並み保存地区の入口に「頼山陽広場」があり「頼山陽座像」(写真)がある。

竹原頼山陽

 説明版には「頼 山陽(1780~1832年) 頼 山陽は竹原を故郷とし、文化文政の江戸時代の最盛期に活躍した儒者である。詩文は一世を風靡し歴史に残る代表的な『日本外史』『日本政記』の二つの大著によって明治維新の原動力となり、日本の夜明けに多大の影響を与へ歴史家としても著名である」と書かれている。 頼家は七人の優れた学者文人を世に輩出した名家で、山陽は号で名は襄(のぼる)。

6 伊勢神社

 町並み保存地区を歩きながら見つけたのが「伊勢神社」(写真)という小社。

竹原伊勢神社

天照大神を祭神とする1万八千社に及ぶ伊勢神宮系の神社は、決して「伊勢」とは名づけないで、神明社、皇太神社と名付けられている。それは伊勢神宮の名を冠するのは畏れ多く「伊勢」の名は使ってはいけないものと思っていた。 それが竹原で伊勢神社を見つけたので驚いた訳。 インターネットで検索すると、なんと佐賀市に「伊勢神社」が存在すると分った。その伊勢神社の広告に「日本で唯一伊勢神宮より破格の恩恵を受けて分霊を勧請することのできた社です」とやや勿体ぶって説明されている。これを見ても「伊勢神社」はまことに珍しい存在なのである。 ところが竹原市西野町には「伊勢両宮神社」もあることも分った。両宮とは伊勢神宮の「内宮」と「外宮」の「両方」を指すのかと思われる。 不思議に思って竹原市役所に問い合わせると「両神社共に古くから存在するが、伊勢神宮との関係は不明。伊勢神社の祭神は天照大神、大国主命、素戔嗚尊。伊勢両宮神社の祭神は天照大神、豊受大神」との返事。 伊勢神宮内宮の祭神が天照大神であり、外宮の祭神が豊受大神であるので、伊勢両宮神社の祭神は予想通り。 いずれにせよ祭神に伊勢神宮と同じ天照大神を頂きながら、堂々と「伊勢神社」「伊勢両宮神社」を名乗るとは、竹原の神社の立派な根性には感心してしまった。

寺社めぐり 8 尾道市

寺社めぐり 8 尾道市

 大学クラス会の前日、総社市の寺社めぐりを終え、尾道市に宿泊。クラス会の当日の午前中、尾道市の寺社めぐりを楽しむ。尾道を訪れるのは5回目。その都度寺社を見ながら街歩きをしたが、本格的な寺社めぐりは今回が初めて。

1 千光寺   寺社めぐり2114社目

 急な石段を上りつめた千光寺山の山頂に建つのが「千光寺」(写真)

尾道千光寺065

 寺伝によれば、大同元年(806)に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はない。 大宝山権現堂千光寺が正式名の真言宗系単立寺院。ご本尊は千手観音である。
 千光寺で有名なのが、境内からの展望(写真)。尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島が一望できる絶景の地である。写真左上の尾道水道に架かる橋は「瀬戸内しまなみ海道」の「新尾道大橋」である。

尾道絶景
2 天寧寺

 千光寺に上る石段の下に建つ、海雲山と号す曹洞宗の寺院(写真)。 青梅市にも天寧寺という曹洞宗の名刹(寺社めぐり1395社目)があり、京都市、彦根市、会津若松市にも天寧寺が存在するので、曹洞宗所縁の寺院名なのであろう。

尾道天寧寺

 本堂のかなり上に、貞治六年(1367)に足利義詮が建立した国重文の三重塔(海雲塔、写真)が建っている。

尾道天寧塔

3 艮(うしとら)神社

 天寧寺の東隣に、千光寺と同時期に建立され、尾道市で最も古い「艮神社」(写真)がある。屋根の上の千木や堅魚木が、昨日参拝した総社宮と同じく伊勢神宮様式。 神社の門の屋根にも千木や堅魚木がある(写真)のが興味深い。 

尾道艮神社

尾道艮門

 祭神は艮金神と思われる。艮とは丑寅、即ち東北の方位のことで、陰陽道では鬼門とされる。艮金神は人々に大変恐れられていたが、吉備の国では信仰した者も多く、後に金光教の誕生につながったといわれる。 関東ではあまりお目にかかれない艮神社への参拝を願望していたが、この備後の地で願いが叶ったのは幸いだった。

4 御袖天満宮

 民家の中の小道を東に進むと、急斜面の石段が待ち受けている。石段の上に鎮座するのが「御袖天満宮」(写真)。 祭神である菅原道真が左遷され大宰府へ船で向かう際、尾道に上陸すると土地の人々に馳走されたので、これに感謝して自らの着物の片袖を破り人々に与えた。菅原道真亡き後、延久年間(1069~1074)にその袖を祀る神社を建立したといわれる。 尾道が、古から京都・奈良と九州をつなぐ航路の中継地であったことが分る。

尾道天満宮

5 西国寺

 天満宮の石段を下りて東に向かうと、大わら草履で名高い「仁王門」(写真)が建つ。

尾道西国門

仁王門をくぐると再び急峻な石段上りとなり、喘ぎながら着いたのが「西国寺金堂」(写真)。

尾道西国寺

 西国寺は天平年中(709)、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山。 ある日、尾道に立ち寄った行脚中の行基はその夜、加茂大明神の霊夢を見て、その御告げによってこの地に開山したと伝えられる。1066年に本堂炎上、行基作の本尊薬師如来も消滅したが、永保元年(1081)、平安朝白河天皇の勅命により再建し、今に至る。伽藍の規模は正に西国一という意味を込め、西国寺と名付けられた。
 武蔵野の寺社めぐりでも、行基の開基とされる寺院や行基の作とされる仏像によく出会う。これらのほとんどが行基の高名を利用したものと判断している。行基の活躍は近畿地方が主体であって、中国・九州では岡山県(大聖寺)と佐賀県(仁比山地蔵院)に行基が開基した寺院があるだけなので、西国寺の行基創建は信じがたいように思われる。なお東国では愛知県に行基開基の寺院が六つあるだけで、勿論関東には存在しない。
 真言宗醍醐派の総本山は京都市の醍醐寺で、大本山が西国寺の他に五寺ある。青梅市のツツジで有名な塩船観音寺は、十八寺ある別格本山のひとつ。
 本堂の裏山に三重塔(写真)が見えるけれど、もうこれ以上はのぼれないと判断し、遠望だけに留めておく。 右上の三重塔を含めた西国寺全景(写真)を紹介しておく。

尾道西国全景

6 浄土寺

 尾道市街地の東端に建つのが、国宝「浄土寺本堂」(写真)。真言宗泉涌寺派大本山の寺院。総本山は泉涌寺である。山号は転法輪山。院号は大乗院。本尊は十一面観音である。 本堂は嘉暦二年(1327)の建立。入母屋造本瓦葺き。和様を基調として大仏様、禅宗様の細部を取り入れた、中世折衷様仏堂建築の代表作。

尾道浄土寺

 浄土寺の創建年代については不詳であるが、聖徳太子が開いたとも伝えられる。この寺が文書等にあらわれるのは鎌倉時代中ごろのことで、鎌倉時代後期に真言律宗系の僧、定証によって中興された。
 浄土寺の二つめの国宝「多宝塔」(写真)は、嘉暦三年(1328)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。

尾道浄土塔

 これで久しぶりの尾道散策を終える。寺社めぐりを目的とすると、山の中腹にある塔や堂に上る必要があり、老いた身にはとてもきつい。されどそのきつさを克服した後の古刹の神秘や眺望の楽しみが、寺社めぐりの醍醐味と悟る。三浦雄一郎氏の「八十才エベレスト登頂」を思えば、尾道の坂ごときに弱音を吐いてはおられない。




寺社めぐり 7 岡山県総社市

寺社めぐり 7 岡山県総社市

 広島で大学のクラス会が開催されるので、前日に東京を発ち、古の吉備の国を訪ねた。昨年2月に法事の帰途、吉備の国の吉備津神社(写真、祭神大吉備津彦命、1437社目)と吉備津彦神社(写真、祭神大吉備津彦命、1438社目)に参拝した。生憎天気がよくなかったため、早々に帰京したので、今回は吉備の国探訪の総仕上げをしたい所存。 「のぞみ」を岡山駅で下車し、JR伯備線に乗り換えて、吉備の国の中心となる総社駅に着き、レンタサイクルで寺社めぐりをスタート。

吉備津神社062

吉備津彦神社063

1 井山宝福寺 (寺社めぐり2095社目)

 室町時代の画聖・雪舟が修行した寺として有名。 本堂(写真)を仏殿または法堂と呼び、その中に宝福寺の御本尊虚空蔵菩薩が安置されている。山号の井山は、天皇の病気治癒に効能があった「千尺井」という井戸に因んで付けられた臨済宗東福寺派の寺院。虚空蔵菩薩は知恵と福徳を授ける仏様である。
総社宝福寺

 境内の奥には600年の歴史を持つ「三重塔」(写真)が建っている。色彩がきらびやかなのは、昭和四十四年に解体修理したため。国指定重要文化財である。

総社三重塔

 境内には「雪舟碑」(写真)が立ち、説明版には「雪舟等楊禅師は約五百年前の人であり、総社市赤浜に生まれ、十二才の時当山に入門し小僧となりました。天性画を好み経巻を事とせず、遂に師僧の怒りに触れて方丈の柱に縛られ、落つる涙を足の親指につけて板敷に鼠の絵を描いたということは有名な伝説です」と書かれている。

総社雪舟碑

 私の故郷、島根県益田市には二つの雪舟庭園があり、雪舟終焉の地ともいわれているので、吉備の郷で雪舟所縁の寺院を参拝できたのが嬉しい。故郷の雪舟庭園については、今秋帰省した折に紹介するつもり。

2 総社宮

総社市の地名の由来となったといわれるのが総社宮。総社は、国中の神社を巡拝する慣わしの不便を省くため、平安末期に国府の近くに造られるようになったもので、(吉備の国は備前、備中、備後に分れているが)ここ備中の総社は324社の神を合祀したもの。因みに武蔵国の総社は、府中市の大国魂神社である。 総社宮は大化年間(645~650)の創立で、祭神は大名持命(大国主命の若い頃の名前)と須世理姫(大名持命の妻)。 本殿(写真)は、きっぱりと天を指さす千木と棟の上に並ぶ太い堅魚木のある屋根が目立つ、伊勢神宮とよく似た建物。

総社宮本殿

拝殿前(写真)は、太いしめ縄と神楽面で飾られている。

総社宮拝殿

拝殿横から続く長い回廊(写真)が印象深い。 歴史の重さを感じさせる社であった。

総社宮回廊

3 備中国分寺

 田園に囲まれた丘陵地に、天平十三年(741)に聖武天皇の勅願によって建立された国分寺(写真)が建っている。当時の寺域は東西160m、南北180mで、周囲には1.2mの築地土塀がめぐらされており、寺域内には南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていた。 備中国分寺は日照山と号する真言宗御室派で、ご本尊は薬師如来。

総社国分寺

 古の吉備路のシンボル的存在の高さ34mの五重塔(写真)は、江戸時代弘化年間(1844~1847)に再建されたもの。奈良時代には高さ50mの七重塔が建っていたが、焼失してしまった。 それでも都内国分寺市の建物が全くない国分寺跡に比べると、この国分寺跡には建造物が残っているのが羨ましい。
総社五重塔

4 作山古墳

備中国分寺近くに、全長285m、高さ24mの作山古墳(写真)がある。古墳を樹木が   
覆っているので全体像が分りにくいので、上空から見た古墳を紹介する(写真)。 作山古墳の規模は全国で第九位に相当する。すぐ近くに全国第四位の造山古墳が存在するので、吉備国には古代から大豪族が君臨していたことが想像される。

総社古墳

作山古墳064

 古墳から遠くの山頂に「鬼ノ城」(写真)が遠望できる。ここには鬼が住んでいたのだが、桃太郎に征伐されたとの昔話がある。 昔、吉備国は大和政権に反抗していた。そこで大和朝廷の将、桃太郎(吉備津彦命といわれる)が犬猿雉(軍隊)を率いて鬼ノ城(吉備国)に攻め込み、鬼退治(吉備国を平定)をした。桃太郎が犬猿雉に与えたのが吉備団子(報奨金)とは、よくできた昔話である。

総社鬼城

 3時間の「吉備路探訪サイクリング」は快適で、かつ歴史を学ぶよい機会となった。中国地方では出雲国に次ぐ古代国家・吉備国があったことがよく分った。

 

狭山丘陵寺社めぐり 33 御嶽神社  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 33 御嶽神社

 狭山狭山丘陵沿いの寺社めぐりを続けていたが、久々に丘陵から離れて、青梅街道に出る。青梅街道は峰バス停から大きく左右に湾曲するが、曲がり終わった三ツ木バス停の近くに「御嶽神社」がある。青梅街道から狭山丘陵の方に少し入ったところに「御嶽神社」の小社(写真)が建っている。

御嶽神社社殿

 この社は「宿の御嶽神社」と呼ばれ、青梅市に鎮座する武蔵御嶽神社の分社として、明治四十年(1907)に宿村に勧請された。 御嶽神社は「5報、御嶽神社(東大和市蔵敷)」で既に紹介した。主祭神は武蔵御嶽神社と同じならば櫛真智命で、知恵や占いの神様。御岳山の土地神であって、あまり有名な神様ではない。 武蔵御嶽神社には主祭神の他に、祭神として大己貴命、少彦名命、安閑天皇、日本武尊がおられる。 大己貴命は、大国主命の若い頃の名前。大国主命は島根県の出雲大社に鎮座する縁結びの神として有名。出雲大社の60年ぶりの遷宮(本殿の修復)が、昨日行われた。4年前に出雲大社を訪れたときは、本殿が修復中で見ることができず、拝殿(写真、216社目)に参拝しただけ。今年こそ修復なった国宝の本殿を見てみたい。

出雲大社060

 少彦名命は「28報、十二所神社」の境内社「疱瘡神社」で紹介した医薬の神様で、小人(こびと)であったため一寸法師のルーツとされる。 安閑天皇は第27代天皇(在位531~535)で、蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社が、安閑天皇を祭神とし直したところが多いとされる。なお蔵王権現は、奈良県の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊で、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩三尊の合体したもの。 日本武尊は、西国や東国に出征し、反抗勢力を討伐し服従させた、日本神話のヒーローで、名古屋市の熱田神宮の祭神。

 社殿の左に建つ境内社(写真)は不明であるが、武蔵御嶽神社の境内社である大口真神社の可能性がある。武蔵村山市内の神明社に「大口真神御符」が貼られている境内社が多かったのが推定の理由。
御嶽神社境内

 御嶽神社の参拝を終え、青梅街道を西に向かうと、道路沿いに小社があり「赤稲荷神社」(写真)と分る。説明版には「赤稲荷は、嘉永二年(1849)稲荷総本社より勧請し、再三移転され現在の場所に祀られました。稲荷は、古代大陸から渡来してきた豪族秦氏の守り神といわれていますが、もともと農耕の神で『稲生』から『稲荷』・『いなり』に転化したといわれています」と書いてある。 「赤稲荷」とは、稲荷神社の社殿が赤く塗られているのが、命名の根拠とか。  後日、ブロ友様より「赤稲荷は祀ったすがたより、個人の神ではなく、一族の神とおもわれます。本家、分家、それらから分かれた一族が大切にした神でしょう」とのコメントをいただいた。

御嶽神社赤稲荷

 この「狭山丘陵寺社めぐり」では2社目の稲荷神社。全国に三万二千社もあり、神社では最も数の多い稲荷神社であるが、これまでの寺社めぐりで2社目とは、思ったほどには多くない。江戸時代に多いものとして「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われたのは有名。 因みにこれまでの寺社めぐりで多かったのは、神明社4社、熊野神社3社。

ギリシャ旅行 4 スニオン岬

 今日から3泊4日の「エーゲ海クルーズ」であるが、港湾労働者のストライキでクルーズは中止。その代わりにアテネ及び近郊の観光となった。出発前から懸念していたストライキのお蔭で、ロードス島観光が中止となったのが残念。

1 無名戦士の墓 衛兵交替式見学

ガイドの案内で衛兵交替式に向う。坂の多い小路をかなり歩き、「無名戦士の墓」に到着し、8人の衛兵が繰り広げる衛兵交替式(写真)を見学。衛兵の少し変わった制服と風変わりなステップを楽しんだが、モナコ等の衛兵交替式に比べると質素なセレモニー。 衛兵交替式の行われた後ろの建物が、ギリシャの国会議事堂。NHKテレビがギリシャのニュースを報道する時の背景が、この国会議事堂である。
スニオン衛兵2

来た道を引き返しながら「ギリシャのストライキの背景」を尋ねると、ガイドの返事「ギリシャの人口の20%が公務員。破綻した国家財政改善のため、政府は公務員に給料の1/3減額、年金受給者に年金の1/3減額と年金受給年齢を60歳から65歳に引き上げたため、公務員が怒っている。政府はこれまで公務員には甘かった。例えば、勤務時間内に職場に来ると、精勤手当てが支給されるという具合。公務員たちは国の最大の収入源が観光にあることを無視している。ストライキにより観光客を怒らせることが、今後のギリシャ経済に悪影響することを気付かないのはバカだ」 しかしこれまで如何に優遇されたとは云え、1/3も給料や年金をカットされたら、誰だっていや私だってストライキをしたくなるよ。

2 スニオン岬観光

 バスでアテネ(写真、赤丸)からスニオン岬(写真、赤丸)に向かう。

ギリシャ058

 スニオン岬に建つ「ポセイドン神殿」(写真)に到着。ガイドの説明「紀元前444年に建てられた海神ポセイドンを祀る神殿。アテネのパルテノン神殿より5年新しい。ポセイドンは最高神ゼウスの兄で、ポセイドンが海を支配し、ゼウスが天空と大地を支配した。 1810年、この神殿を訪れたバイロンが、石柱に『バイロン』と落書きを残している」 

スニオン神殿

ポセイドン神殿から見える海の色が抜群に美しい(写真)。 
 
スニオン海2

3 アクロポリスへの散策

 夕方ホテルを出て1㌔歩くと、アクロポリスの麓の広場に到着。アクロポリスの写真を撮る(写真)。 最終日がこのアクロポリス観光である。

スミオンパルテ

広場には果物屋台が並び、サクランボが美味しそう(写真)。値段は2,49ユーロ。 ガイドが「ギリシャの果物は美味しくて安い。売る単位は1kg」と言っていたのを思い出し、衝動買い。渡された1kgのサクランボのボリュームにびっくり。これが270円とはシンジラレナーイ! ホテルに持ち帰り食べると、とても美味しい。家内と二人で全部食べつくすのに、4日間もかかってしまった。

スニオン果物

狭山丘陵寺社めぐり 32 神明社  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 32 神明社

 前報の「慈眼寺」から西に向かい「東京多摩マップ」にある「新明社」を探す。後ヶ谷戸自治会館があり、自治会館は寺社の境内に建つことが多いと気付き付近を見渡すと、丘陵に上るような坂道(写真)がある。これが神明社の参道かも知れないと、坂道を上って行く。

神明社入口

 坂道をかなり上ると、小社が見えてきた。その前の立木に紐が掛けられているのが、鳥居(写真)であるらしい。なんとも微笑ましい鳥居であるが「神明系鳥居であるためには、紐はピンと水平に張っておかなくてはいけない。紐の両端が反り上がっているので、明神系の鳥居に見えるよ」と小声で注意。
神明社鳥居

 木洩れ日の中の小さな社殿(写真)が寂しそうに建っている。社殿の屋根には、神明社特有の千木や堅魚木もなく、忘れ去られた神社のように思える。 祭神である天照皇大神も寂しい思いをされていることだろう。 後ヶ谷戸の人々によって祀られた祠で、お伊勢様、伊勢社などとも言われている。 祭礼は「十二所神社(28報)」が行っているとのこと。十二所神社の主祭神、天神七代地神五代の大神の中、地神五代の初代が天照皇大神である。従って市内にいくつも存在する神明社ではなく、祭神が共通する十二所神社が、この神明社の祭礼を兼務するのには納得。 江戸時代にはこの神明社は、十二所神社の摂社(末社)の一つであったという。

神明社社殿

 境内には、社殿の左右に二つの境内社(写真)がある。十二所神社と伊勢神宮または神明社なら理解しやすいが、境内社については不明。

神明社祠1

神明社祠2

 参拝を終え、石段のない坂道を下りながら、武蔵村山市に神明社が多いことに気付く。この神明社が4社目であるが、残堀地区にも神明社(写真、63社目)があるので、あわせて5社も神明社があるのは驚き。残堀の神明社は、江戸時代の新田開発のため、峰(三ツ木)から移った人々により建立された。狭山丘陵から離れているので、残堀神明社は紹介しない。 市内に神明社が多いのは、昔の武蔵村山市には各地に有力者が住んでいて、各々が自前の神明社を建立し、信仰したためらしい。最も規模の大きい「お伊勢の森神明社(11報)」に参拝すればいいではないか、という訳にはいかないようである。
神明社(残堀)056

 この神明社には4年前に参拝(60社目)しているのに、見つけるのに苦労するとは情けない。4年前、息子がくれたサイクリング車で「近郊の寺社めぐり」を思い立ち、東大和市、東村山市に次いでチャレンジしたのが武蔵村山市の寺社めぐりだった。「東京多摩マップ」に記載された寺社を訪れて、写真を撮り記録するだけの時期だったので、当時は未だ寺社への打ち込み方が浅かったのが、神明社を忘却した理由のように思う。 これから訪れる狭山丘陵の寺社は全て既に参拝済みであるが、ブログに載せるため改めて訪ね、学習をするのが楽しみ。ブログを沢山の人に読んでもらうためには「写真を多く、字は少なく」がよいとされるが、私の場合は「字が多過ぎるのが問題」であるのは自覚している。「読んでもらえるブログ作り」はもっと先のこととして、先ずは狭山丘陵寺社から学び紹介することを優先したい。

狭山丘陵寺社めぐり 31 慈眼寺  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 31 慈眼寺

 前報の「阿弥陀堂」から狭山丘陵沿いに西に進むが、西に向かう道路がなくなり、青梅街道に出てしまう。それから再び狭山丘陵に向って着いたのが「慈眼寺」 「狭山観音霊場めぐり23番札所」である(写真、赤丸)

観音地図054

 曲がりくねった路地の突き当たりに、民家のような慈眼寺本堂兼公会堂(写真)が建っている。寺は無住で、これも長円寺が管理しているという。 阿弥陀堂同様に、墓所を守るだけでは住職の生活が補償できないようである。

慈眼寺本堂

 「慈眼寺」の看板に「本尊 聖観音」と書かれているので「20報、原山観音堂」と同じく、33の姿をもつ観音菩薩では基本となる仏様である。 聖観音(写真)の一例を紹介する。

聖観音053

 本堂前の庭に白い柱が立ち「村山第二小学校発祥の地 明治六年慈山学舎創立」(写真)と書かれている。 「22報、吉祥院」が村山第一小学校発祥の地であったのを思い出した。 ここが第二小学校で、慈山学舎と称するから、当時の慈眼寺の本堂で授業が行われていたに違いない。ここにも明治維新の足跡が残っている。

慈眼寺二小

 境内には六地蔵(写真)が並び、その後ろは墓地。多摩丘陵の日当たりのよい南稜には、長円寺、阿弥陀堂、慈眼寺の広い墓地が並んでいる。

慈眼寺地蔵

 慈眼寺の入口に、茶色な大きな建物(写真)がある。建物の中には機械類が並んでいる様子。屋根の上に「寺田の製茶機械装置」「高山産業」の看板がある。この建物が高山産業の製茶工場であると分る。高山産業を検索すると「武蔵村山産の『東京狭山茶』 村山で昔から愛飲されたお茶、東京狭山茶は、肉厚の新芽を使用し、伝統的な狭山火入れによるコクのある独特の味わい!」と、東京狭山茶を製造・販売していることが分る。 未だ製茶工程を見たことがない。スリランカで見た紅茶工場のように、茶葉を蒸したり、あぶったり、乾燥したりするのだろう。狭山茶の伝統が、これからも守り続けられることを願う。

慈眼寺工場

 

狭山丘陵寺社めぐり 30 阿弥陀堂  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 30 阿弥陀堂

 前々報「十二所神社」の西隣に、今回紹介する「阿弥陀堂」(写真)がある。訪れたとき、お堂の前で男性がお経を唱えながら、熱心にお祈りをされていたのが印象的。
 
阿弥陀本堂

 「阿弥陀堂」の本尊、阿弥陀如来像は、本堂内に安置されているのだろう。この阿弥陀堂は無住で、「26報長円寺」が管理されている。
 阿弥陀如来は、西方十万億土のかなたに極楽浄土という仏国土をつくり、あらゆる衆生をそこへ迎え、悟りに導こうと四十八の誓願を立てた仏である。誓願の中には、如来の誓願(本願)を信じ、極楽浄土へ生まれたいと念仏する者は、必ず往生することができると説かれる。
 阿弥陀堂の左に立つ大きな石像が「水子地蔵尊像」(写真) 石碑には「阿弥陀堂水子地蔵尊像建立について」と題し「仏像の造立と仏塔の建立仏果円満の布施の心によって、人々は善根や功徳を積むことが出来る、とお釈迦様は造顕の導きをわたくし達に教えております。 因みて、この世に生を享け成人に至らず逝かれた子たち、不運にもこの世の光はもとより父母の顔すら見ることもなく露と消えた水子たちの霊をお祀りし、お慰み申しあげるため、わたくし達発起人あい集い名称を阿弥陀堂水子地蔵尊と定め、造願を発起計画いたしました」」と書かれている。 悟りを拓いた人が書かれたと思われる名文である。

阿弥陀水子
 
 1970年代ごろから、人工中絶で死んだ胎児の霊を弔う水子供養の習慣が広まり、死亡した胎児のみを水子というようになった。それまでは死亡した胎児だけでなく、幼くして死亡した子供も水子といっていた。石碑でいう水子は、後者のようである。 この寺社めぐりシリーズでは、水子地蔵に初めてお目にかかることとなった。 私の6歳違いの妹が水子で亡くなったのを、おぼろげに記憶している。妹に着せるはずだった産着を、私が亡き妹の横においたことだけは忘れられない。
 
 境内には赤い袈裟をまとった六地蔵(写真)が立ち並んでいる。

阿弥陀六地蔵

 六地蔵は仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである。六道とは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道を言い、天に生まれると最高であるが、その次は人の世に生まれたいものである。 日本では現世で善行をするとか、南無阿弥陀仏を唱えると来世が幸せになると言われる。インドではベナレスで死に、遺灰をガンジス河(写真)に流すと、来世が幸せになるとされる。 六地蔵が墓地の入口に祀られるのは、亡くなられた人の来世の幸せを願うものであろう。

ガンジス川

 門を出ると、左隣に小さな「峯守稲荷神社」が建っている。 阿弥陀堂の鎮護神ではなく、地元の人々の信仰による神社である。 一の鳥居が直線的な神明系で、二の鳥居が反り上がった明神系(写真)。稲荷神社の鳥居は通常は神明系であるので、明神系の鳥居の神社を合祀したと思われる。 その二つの鳥居に「比留間熊次郎 元武蔵村山市議会議員 昭和五十四年」と刻まれている。 鳥居を奉納した土地の有力者であろうが、小さいけど立派な社殿(写真)もこの方の奉納であるのかも知れない。 但し肩書きは入れず名前に留めておくのが、奥ゆかしく思える。

峯守鳥居

峯守社殿

 この「狭山丘陵寺社めぐり」も、今回の「阿弥陀堂」で30社となった。ブログのテーマを決めた時は「狭山丘陵周辺の寺社は30社くらいだろう」と軽く考えていたので、ここで30社を超え愕然となる。30社に至るまで歩いたのは、狭山丘陵の寺社全体の20~30%程度かと思われる。すると紹介しなくてはいけない寺社は、全部で100社を越えそうな勢い。しかも我が家からの距離も、これからどんどん遠くになっていく。 と弱音を吐きそうになったが、それでもこの寺社めぐりは、私にとってはとてもよい勉強になるので、狭山丘陵の全寺社紹介を目指して頑張ることにしよう。今年のゴールは難しいが、来年中にはなんとか完結したいと、新たに決意した。

狭山丘陵寺社めぐり 29 住吉神社  (東大和市芋窪)

狭山丘陵寺社めぐり 29 住吉神社

 青梅大祭を見物した際「住吉神社」に参拝した。この「狭山丘陵寺社めぐり」シリーズで、未だ住吉神社を紹介していない。しかし我が東大和市に住吉神社があった筈、と気付いてパソコンを確認すると「8報蓮華寺」と「9報慶性院」の間に、「住吉神社」があった。取材して記事を作成しておきながら、なんとブログ発信を忘れていたとはお粗末。遅ればせながら、3ヵ月前に作成した記事を今回紹介することにした。           
 多摩湖に沈んだ寺社(写真)の2番目は「住吉神社」 石川の谷では蓮花寺(蓮華寺)と慶性院の中間に位置し、「天王様」と親しまれた神社。

多摩丘陵寺社

 前報の蓮華寺が面する旧芋窪街道を南に歩き、最初の信号を右折すると、住宅地の中に立つ木造の鳥居(写真)に着く。トタンを被った笠木の両端が上に反っているので、明神系の鳥居である。 鳥居の奥には神殿(写真)があり、蓮華寺や慶性院に比べると、とても小さな造り。 

住吉神社鳥居

住吉神社社殿

全国に2100社ある住吉神社の代表は、大阪の住吉大社(写真)で、祭神は底筒男命、中筒男命、上筒男命の住吉三神。古事記ではイザナギ命が禊(みそぎ)をしたときに生まれたのが住吉三神で、海や航海の神である。海の神信仰がどうして石川の谷にあったのかはよく分からないが、武蔵野に住吉神社は散在するので、その住吉神社に縁のある有力者がこの地に勧請したとも考えられる。 住吉大社は一昨年、寺社めぐり1028社目に参拝した。写真は第三、第四本宮で、国宝の四つの社殿はいずれも風格があった。 本宮が四社あるのは、住吉三神の他に神功皇后が祀られているため。神功皇后の新羅遠征を住吉三神が守護したので、神功皇后が住吉大社を創建したと伝えられる。
住吉大社052

 住吉神社の社殿の中に八雲神社が同居していることが分った。祭神が複数ある神社は多いけど、神社が二つある社殿は初めて。「7報、豊鹿島神社」の摂社に、住吉神社と八雲神社があったのが、この二つの神社のこと。 八雲神社は牛頭(ごず)天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。この神社が「天王様」と呼ばれるのは、摂社の祭神である牛頭天王に基づいている。 一昨年訪れたギリシャ・クレタ島に、頭が牛の人間ミノタウロス伝説があった。日本とギリシャに共通する神話があるのは興味深い。 スサノウ神も牛頭天王もどちらも大変な荒神という点が共通しているが、神徳は水難・火難・病難除去・五穀豊穣である。 八坂系の神社は全国で2651社にものぼり、関東に多い氷川神社も八坂神社の仲間で、祭神も同じスサノオ神。

社殿の左に建つ境内社は「大口真神社」(写真)であることを、ブロ友様から教えてもらった。大口真神社については「11報、神明社」で紹介したように、武蔵御嶽神社の境内社で、大口真神とは、狼を神格化したもので、猪や鹿から作物を守ることや善人を守護し悪人を罰する信仰とされる。 ブロ友様から更に教えて頂いたのは「この境内社は、多摩湖に沈んだ石川部落に伝わる『藤兵衛さんと狼』のやしろです。木樵の藤兵衛さんは、喉に骨をつかえて苦しんでいる狼を助けます。狼は朝晩、藤兵衛さんを送り迎えします。その藤兵衛さんが狼を祀った社は、移転と共にこの地に遷りました。大事に大事にしたい社です」という、心温まる東大和市の民話。ブロ友様に、心からお礼を申し上げたい。
住吉神社八雲

 八雲神社の名前の由来は、スサノオ神の詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻籠に 八重垣作るその八重垣を」から採られている。 島根県松江市に「八重垣神社」(写真、713社目)があり、祭神がスサノオ神と稲田姫。縁結びのご利益があるとかで、若い女性のグループが多かったのを思い出した。
八重垣神社024

 境内に小さな古い石塔が三つ(写真)並んでいる。 右の石塔には神明社の字が読み取れ、伊勢参り信仰がうかがえる。左の石塔には瓣財天と書かれており、水信仰・七福神信仰がうかがえる。真ん中の石塔は風化してしまっていた。いずれも石川の谷から持ち込まれたもの。  

住吉神社石塔
 
 小さな社であったが、湖底の村から移転した人々により維持されてきたのであろう。住宅地に取り囲まれてしまったが、この小社が風化してしまわないように祈って、次の慶性院に向った。

ギリシャ旅行 3 メテオラ修道院

 ギリシャ旅行の2日目はメテオラ修道院の観光。ギリシャ地図(写真)の北の赤丸が、昨夜泊ったカランバカの町で、郊外のメテオラ修道院観光後は、バスで南下して赤丸のアテネに戻って泊ることになる。
ギリシャ地図3049

1 メテオラ修道院

 ホテルを発ったバスは岩山の裂け目を縫うようにして登って行く。 ガイドの説明「メテオラとは『奇岩が空中に浮いている』を意味し、高さ数百mの奇岩が60もある。セルビア人の侵攻で追われた聖アサナティオスが、この岩山に修道院を建設したのが始まり。修道院は最盛期には24に達したが、現在は6つに減った。修道士たちは厳しい戒律を守るために、わざと険しい岩の上に修道院を建てた」 
 岩山の尾根伝いを走って着いたのが「メガロ・メテオロン修道院」(写真)最初に造られかつメテオラ最大の修道院で標高613mに建つ。

メテオラ1

 この展望台からの景色が抜群。眼下に見えるのが「ヴァルラーム修道院」(写真)。垂直の岩山の上に心細そうに建つ修道院は一服の絵画。

メテオラ2

 道路脇にバスを止めて展望したのが「アギア・トリアタ修道院」(写真)垂直な岩山の上に建つこの修道院は、メテオラの絵ハガキの定番とされとても美しい。昔は下界から人間あるいは生活物資を運ぶ手段は、滑車につるした網袋だったが、1925年に狭い階段が造られたという。ヴァルラーム修道院と双璧の美しい風景。

メテオラ3

 最後の「アギオス・ステファノス修道院」は、谷間に架かる橋を渡って入場。ここは今朝ホテルから眺めた建物で、尼僧院だった。展望所から眼下に広がるカランバカ村の風景(写真)が美しい。

メテオラ4

 これでメテオラ観光を終えたが、崖の上の修道院、異様な岩山、眼下の村落が絵画のように美しい。山頂に建てられた世界遺産としては、崖崩れで観光できなかったペルーのマチュピチュ、高山病と闘いながら上ったチベットのポタラ宮に匹敵すると思う。


寺社めぐり 6 薬王寺ツツジ  (青梅市今井)

寺社めぐり 6 薬王寺ツツジ

 昨年11月、青梅市今井地区の寺社めぐりをした時、「薬王寺(1853社目)」にツツジ園があることを知った。そこで昨日(5月3日)ツツジ見物に出掛けた。

1 薬王寺  青梅市今井

 バスを乗り継いで「峠バス停」で下車し、のどかな風景を眺めながら20分歩くと「薬王寺」に到着。 50人くらいの観光客と共に、鮮やかなツツジの花(写真)を楽しむ。

薬王寺ツツジ1
薬王寺ツツジ2

薬王寺ツツジ3

 「5月2日でライトアップ終了」と書かれているので、ツツジは満開の時期を過ぎたようである。一週間前の都心の根津神社のツツジが2分咲きだったのに比べ、より寒冷地の青梅市のツツジが満開なのが不思議。薬王寺のツツジは早咲きなのかなあ?
 ツツジ園から見下ろす薬王院は、とても落ち着いた風格のあるお寺(写真)。

薬王寺本堂

 薬王寺の説明版には「七国山薬王寺 本尊は薬師如来である。法相宗の僧良誓が奈良から聖徳太子の作と伝えられる薬師像を持ち来たり、一堂を建立したのにはじまると伝えられている。現在は真言宗豊山派である。良誓は暦応二年(1339)没といわれ、同年の板碑も現存している。また、足利尊氏の開基との説もある。 慶安二年(1649)には幕府から薬師堂領十石の朱印状を与えられている。 山門は、一間一戸、市内唯一の鐘楼門であり、屈指の古刹といえる」と書かれている。 聖徳太子の作には驚いたが、昔はよくあった宣伝と思いたい。
 境内にある鐘楼門(写真)と馬頭観音(写真)を紹介する。

薬王寺鐘楼

薬王寺馬頭

 ツツジ園の上の広場には「不動尊」(写真)が建っている。

不動尊本堂

 ご本尊は倶利伽羅不動尊。インターネットで検索すると、どうやら不気味な姿の不動尊のようであるが、その正体はよく分からない。石川県の倶利伽羅不動尊は、有名な千葉県の成田不動尊、神奈川県の大山不動尊と共に、日本三大不動尊の一つ。 境内に剣か木に絡まる蛇のような石像(写真)があったのが、これが倶利伽羅不動尊であるらしい。

不動尊くり

 神殿の右奥に「弁財天」の境内社が建っている。これはツツジ園の中を流れる小川や滝を祀ったものと思われる。

2 浮島神社   青梅市今井

 昨年11月に参拝済みの「浮島神社」(写真、1852社目)の境内にある、霞川を見下ろすベンチで昼食。
浮島神社本殿

 浮島神社は文禄三年(1594 豊臣秀吉の時代)に再建した棟札が残る古社で、今井村の村社。祭神は応神天皇と菅原道真。菅原道真に因み、かつては浮島天満宮といった。 神社の傍を流れる霞川が氾濫した際、社殿が島のように浮いて見えるため、浮島神社とよばれるようになった。
 境内社が4社あり、「疱瘡神社」「蚕蔭神社」(写真)「八幡宮」「綾瀬神社」(写真) 疱瘡神社と蚕蔭神社は同じ祠に同居されている。
浮島神社境内1

浮島神社境内3

 「疱瘡神社」は「狭山丘陵寺社めぐり28報十二所神社」で紹介した疱瘡・病気平癒の神社。「蚕蔭神社」は「23報熊野神社」で「蚕影神社」として紹介した養蚕に係わる人々の信仰の神社。狭山丘陵と同じ信仰がこの青梅市にもあったのが懐かしい。 「綾瀬神社」は足立区綾瀬にある元氷川神社。従って祭神は須佐之男命。昭和48年に他の神社を合祀した時に「綾瀬神社」と命名したとのこと。浮島神社の有力者に、綾瀬神社と係わる人がいたのだろうか

3 住吉神社(青梅大祭)   青梅市住江町

 5月2.3日は「青梅大祭」であることを知り、青梅駅で下車。駅前のロータリーから旧青梅街道一帯が歩行者天国となり、沢山の出店と大勢の祭り客で大賑わい。町毎に12台の山車が練り歩き、山車に乗る笛と太鼓のお囃子がテンポのよいリズムで流れてくる。山車には獅子舞、狐、鬼の面(写真)をつけた踊り手が、面白おかしく踊っている。 山車がすれ違う際にお互いのお囃子を競い合うのが「けんか囃子」(写真) 山車ごとにリズムが違うため、相手のリズムにのみ込まれてしまった方が負け。この場所には見物客が詰めかけて、身動きができないほどの大混雑だった。 道路の各所には固定の舞台(写真)が造られ、そこでもお囃子と踊りが繰り広げられている。 古い映画のポスターが有名ないつもは静かな青梅の街全体が湧きかえっている。 店の中に山車人形(写真、静御前)が飾られているのも面白い。

住吉山車1-2

住吉山車2

住吉山車3

住吉山車4

 住吉神社の一の鳥居の前にも山車がいた(写真)住吉神社の例祭が、青梅大祭に発展したのだから、住吉神社に参拝しなくてはならない。 

住吉一鳥居

 鳥居をくぐると、二の鳥居と急峻な石段(写真)が見える。

住吉二鳥居

 石段を上ると拝殿(写真)に着く。住吉神社は昨年1月に参拝(1402社目)しているので、今回は2度目の参拝となる。

住吉本殿

 拝殿横の説明版には「応安二年(1369)延命寺を開山した李竜が、創建と同時に李竜の故郷である摂津国の住吉明神をこの地に祀ったのが始まりと伝えられる。 旧青梅村の総鎮守であり、祭神は上筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后である。 変形春日造(背面入母屋造)の本殿は、正徳六年(1716、徳川吉宗の時代)に建立された。また、拝殿・幣殿の再建は、文政七年から天保六年頃と推定され、江戸時代に建てられた本殿・幣殿・拝殿が一体として残り、たいへん貴重である」と書かれている。
 祭神の最初の三人は住吉三神で、海の神、航海の神、和歌の神。神功皇后の新羅遠征を住吉三神が守護したことから、凱旋した神功皇后が摂津国の住吉の地に、住吉大社を建てて祀ったとされる。 私は2年前に住吉大社(1028社目)に参拝している。住吉三神と神功皇后を祀った国宝の4つの本宮(写真、第三、第四本宮)があり、歴史の重みを感じさせる大社である。

住吉大社052

 境内社が三社。「大鳥神社」(写真)「稲荷神社」(写真)と「天神社」(写真) 

住吉大鳥

住吉稲荷  

住吉天

 「大鳥神社」は都内目黒区の神社。祭神は日本武尊、国常立尊、弟橘媛命。日本武尊は九州、出雲、東国に出征して、反抗勢力を討伐した、日本神話のスーパーヒーロー。国常立尊は「24報七所神社」で紹介した、天と地が分れたときに最初に地に現れた神様。弟橘媛命は日本武尊の后。 日本武尊を祀る大鳥神社系の総本社は、神剣・草薙剣を御神体として祀る名古屋市の熱田神宮。 「天神社」は菅原道真を祭神とする天満宮系の神社である。
 ツツジ見物に出掛けたのが、思いがけない祭見物となり大喜び。青梅市には未だ昔の面影・伝統が残ることを嬉しく思う。

狭山丘陵寺社めぐり 28 十二所神社  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 28 十二所神社

 前報の「滝の入不動尊」から丘陵沿いに西に向かうと「十二所神社」に着く。二つの石柱(写真)の向うに、丘陵に向って参道がある。 参道の左に「神社ラーメン 峰英軒」なるラーメン屋があるのが面白い。
十二所石柱

 参道を進むと二つの大きな燈籠(写真)が立っている。

十二所燈籠

 燈籠の向うに低い石段があり、平坦な参道に神明系の鳥居(写真)が立っている。

十二所鳥居

 鳥居の傍に説明版があり「主祭神名 天神七代地神五代之大神 祭神 大己貴命 加久津智命 素戔嗚尊」「由緒 当神社は天照大御神をはじめとする天神七代、地神五代からなる十二代の大神が祀られているところから十二所神社とよばれております。 三ツ木村の鎮守で、社伝では奈良時代の和銅年間(708~714)の創建と言われております。その頃鎮座地三ツ木は貢という文字で書かれ、貢物を調整して奉るという意味を表していました。同時に初穂を奉る式を当神社において行われるようになったと言われています。 明治三十九年に無格社の山王社愛宕神社、神明社を合祀しました。 その他境内地には八坂神社、疱瘡神神社等が鎮座しております。例大祭は十二所神社が四月八日、八坂神社が七月十五日となっております」と書かれている。
 天神七代とは、日本神話で天地開闢のときに生成した七代の神様の総称。男神七代、女神五代(五組の夫婦)で、1 国之常立神 2~6省略 7 伊弉諾命・伊弉冉命。 国之常立神は24報七所神社の祭神であったし、伊弉諾命・伊弉冉命は3報熊野神社の祭神として紹介した神様。 地神五代とは、天照大御神とその子孫四代の、神武天皇以前の皇祖五代。 私の拙い解釈では「天神七代は神の国・高天原で七代続いた神様で、地神五代は高天原から日本に降りて、皇室の祖となった五代続いた神様」ということになる。 いずれにしても神様の中でもトップクラスの神様が、この十二所神社に祀られていることが分った。 すると十二所神社と七所神社は、伊勢神宮・神明社(祭神、天照大御神)と同格以上の、格式高い神社ということになろうか。

 社殿に上る石段の下は「伊勢神宮参拝記念」の石碑、八つに取り囲まれている。この十二所神社が、伊勢神宮や神明社と深い関わりがあることが予想される。
 石段を上ると昭和30年建立の拝殿(写真)の前に出る。参拝するために拝殿に近寄ると、突然妙なるメロディが鳴り始めたのに驚く。境内社である八坂神社の傍に説明板があり「三ツ木天王様祇園囃子は、八坂神社の祭礼に奉納される音曲で、鳴り物には笛と太鼓が使われる。七節に分れた曲を、太鼓に合わせて繰り返しながら神輿とともに三ツ木地区を巡行する。 この祇園囃子は明治二十五年頃、峰の比留間幸次郎が浅草から金村某なる人物を招いて伝授されたと伝えられている」と書かれている。峰の比留間家は、前報長円寺の有力な檀家であった。
 
十二所社殿

 本殿の姿は確認しにくいが、屋根の上には「きっぱりと天を指す千木、棟の上に並ぶ太い堅魚木」があったので、まさに伊勢神宮や神明社と同じ造りである。鳥居も勿論神明系であったので、十二所神社は神明社と深い関係があることがうかがわれる。
 境内には神楽殿(写真)があり、第二次世界大戦以前は神楽が催されていたという。この寺社めぐりで多くの神社を訪ねたが、神楽殿を初めてみた。

十二所神楽

 境内社が二つあり、その一つが社殿の右にある、江戸時代からの歴史をもつ「八坂神社」(写真) 何度も紹介した素戔嗚尊を祀る「天王様」で、疫病退散を目的として祀られている。

十二所八坂

 もう一つの境内社が「疱瘡神社」(写真) この詳細がよく分からないらしい。 私の調べたところでは、疱瘡神社が二つある。一つは広島市にある平清盛に関わる神社。清盛と源義経の母、常盤御前の間に生まれた天女姫が、疱瘡を患い14歳で亡くなったのを祀った神社。もう一つは大国主命の国造りに協力した少彦名命を祀った神社で、都内の赤羽八幡神社の末社として存在する。少彦名命は日本の薬の祖・医薬の神とされる。 神社として有名なのは前者であるが、病気平癒を願う後者が、十二所神社にふさわしいように思う。
十二所疱瘡

 石段を下りたところに「神輿舎」(写真)がある。この神輿が例大祭のときに三ツ木を巡行するのだろう。
十二所神輿

 鳥居の傍に、小さな稲荷神社(写真)がある。これは十二所神社の鎮護神かと思ったが、どうやら個人がもつ祠のようである。

十二所稲荷

 十二所神社はかなりの大社であることが分った。三ツ木村の鎮守であるばかりでなく、鎌倉時代に境内に立っていた三本の大木に因んで、この地を貢から三ツ木と改めさせた影響力のある神社。明治時代には三ツ木の村社となっている。奈良時代の創建の歴史的価値と合わせて、武蔵村山市では第一等の神社であると思う。
 天神七代地神五代を合わせた十二代が、十二所の由来と知り、七所神社の謎が解けたように思う。天神七代の七代が、七所神社の名前の由来のようだ。天神七代の初代の国常立命が、七所神社の祭神なのも裏付けとなる。更に七所神社を「しちしょ神社」と発音するのは、天神七代を「天神しちだい」と発音するのと同じである。但しこれは私の推理であって、それを裏づける文書・証拠がないのが問題と結論しておく。



 

狭山丘陵寺社めぐり 27 滝の入不動尊  (武蔵村山市三ツ木)

狭山丘陵寺社めぐり 27 滝の入不動尊

 前報「長円寺」から少し西に向かい、狭山丘陵に分け入ると、今回紹介する「滝の入不動尊」に着く。 入口に「心経院」(写真)というお寺があり、説明版には「本堂は、大日大聖不動明王を本尊として、昭和四十一年に建立されました。拝殿と奥院には、倶利伽羅大龍不動明王(拝殿のものは延宝三年(1675)造立)が祀られており、古くから信仰されています。狭山三滝の一つで白糸の滝といわれていた湧水は、古代から御神水として尊ばれているといわれています」と書かれている。

滝入拝殿

心経院の境内に「滝の入不動尊略図」(写真)が掲示されている。略図には、広い境内にいろいろな建物や仏像が配置されており、左下に「拝殿」と示されているのが、この「心経院」。 山号は真誠山と称し、正式名は「真誠山心経院滝の入不動尊」と称する、神仏一体の寺社。

滝入略図

 お寺の右側の道を進むと、丘陵の斜面におびただしい仏像が立ち並んでいる(写真)。これまでに訪れた狭山丘陵の寺社とは、全く異なる雰囲気を持っている。多くの仏像の中から私が選んだのが「ぼけ除不動明王」(写真) これからの我が人生を鑑み、「ボケ」にならないようにしっかり拝んでおいたのだが・・・・・
滝入仏像群

滝入ぼけ

 更に進むと、樋から水の流れ落ちる池(写真)があり、これが白糸の滝で「滝の入不動尊」と命名した所以なのであろう。池の壁に弁財天像が祀られ、池の上に弁財天堂が建っている。前報の長円寺にも大弁財天堂があったので、この地域は狭山丘陵の湧水に恵まれ、水の女神・弁財天を祀るにふさわしい土地柄のようである。

滝入白糸

 池の上の丘陵の中腹に「滝の入不動明王堂」(写真)が建っていて、この中にご本尊の大日大聖不動明王が祀られているのだろう。大日大聖不動明王とはいわゆる不動明王のことで、大日如来の化身の一つ。どんな悪人でも追いかけて衆生を救うため、憤怒相で現れたもの。不動明王は本来は如来や菩薩を守る仏であるが、既報の蓮華寺、慶性院のように、真言宗ではご本尊として祀られる場合が多い。
滝入不動堂

 不動明王堂の上に「奥院」(写真)の小社が建ち、この中に倶利伽羅大龍不動明王(写真,当堂のものではない)が祀られているのだろう。倶利伽羅大龍不動明王は、不動明王と龍の合体神というから、明王の世界にはおどろおどろしいものがあるようだ。

滝入奥院

倶利伽羅大龍不動明王045

 境内に張り巡らされた参拝道を歩くと「天満宮」(写真)と「艮金神」(写真)の祠がある。この祠は不動明王堂の鎮護神ではなく、神仏一体なので、不動明王堂と対等な神社・神様として祀られたものだろう。 「艮金神(ウシトラノコンジン)」は初めてお目にかかる神様。艮とは丑寅、即ち東北の方位のことで、陰陽道では鬼門とされる。金神とは方位神の一つ。金神の中でも「艮金神」は「久遠国」という夜叉国の王である巨旦大王の精魂とされる。そのため金神は人々に大変恐れられたが、岡山県周辺では信仰した者も多く、後に金光教の誕生につながった。広島県福山市に「艮神社」があると分ったので、帰省に合わせてぜひ参拝したいものである。

滝入天満宮

滝入艮

 境内を歩くと、おびただしい仏像に出会うのだが、諸仏像の紹介は省略する。この仏像の数だけみても、狭山丘陵では格別にユニークなお寺社であった。 更に初めての神仏との出会いがあり、そのためにいろいろ学んだことは評価したい。
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