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ギリシャ旅行 2 デルフィ遺跡

 昨夜、ドバイ経由でギリシャのアテネに到着。 今日から本番のギリシャ観光がスタート。 ギリシャ地図(写真)を参考にしてほしい。 今日はアテネ(赤丸)をバスで発って北西にあたるデルフィ遺跡(赤丸)を見学後、北上してカランバカ(赤丸)泊となる。

ギリシャ地図2-2048

1 アラホバの町

 バスは高速道路から下りて山道を登り、3時間のドライブ後に、アラホバの町に着く。山道で下車して、谷の向こうのアラホバの町を遠望(写真)。標高2,600mのパルナッソス山の麓に位置するリゾート地で、スキー場もある標高600mの町。とても絵になる風景で、メキシコのタスコの町に似ている。 

デルフィ町1
町に入り狭い通りにバスを止めて下車。町並みがとても美しい(写真)。毛皮、アンティーク、土産店の並ぶ小奇麗な通りを歩いて「タベルナ」(レストランのこと。タベルナとは面白い)に入り昼食。

デルフィ町2

2 デルフィ遺跡

昼食後、バスでデルフィに向う。ガイドの説明「紀元前12世紀頃からデルフィは、ギリシャのみならず世界の中心『世界のヘソ』と考えられていた。デルフィのアポロン神殿では、神託即ち神のお告げが行われ、国家の指導者が神託に基づいて国の大事を決定していた。この地がミケーネ時代の文化・体育の中心であったが、紀元300年頃ローマ軍により破壊され、デルフィの歴史は葬り去られ神話や伝説の世界となっていた。1829年、フランスの考古学者たちにより発掘され、古代デルフィ遺跡が復元された」
 バスは坂道を下り、「デルフィ遺跡」に到着。 先ず案内されたのが「デルフィ博物館」 紀元前5世紀頃の、デルフィ遺跡の出土品が展示されている。有名なデルフィのシンボル、神託が行われたという石「大地のヘソ」(写真)を鑑賞。神聖な石というに相応しい貫禄がある。

デルフィ展示1

最後に展示してあるのが、紀元前478年の作「青銅の御者の像」(写真)を鑑賞。シチリア島の王が奉納した物で、博物館では最も有名な展示品。

デルフィ展示2

 次いでデルフィ遺跡の見学。坂道や石段を登りながらの見学。気温33℃と暑くて難渋な遺跡めぐり。 ドリア式列柱6本が立っているのが「アポロン神殿」(写真) 紀元前370年頃に建設され、アポロン信仰と信託は全世界に広まり、デルフィは富と名声を得たとされる。神殿の地下に「大地のヘソ」とされた石があって、そこで神託がおこなわれた。

デルフィ遺跡1

更に登りきったところに「古代劇場」(写真)があり、4年ごとに演劇祭が行われた。更に上部に競技場があり、4年ごとにオリンピックと同様な競技会が行われたというから、デルフィの歴史は奥が深い。 古代劇場で見学を終えたが、何故このような急斜面に神殿、劇場、競技場を造らなくてはいけなかったのか。斜面で巨大な石柱を運搬し建設するのが大変だったろうと、古代の人々の苦難を思い遣る。「大地のヘソ」ならば谷間の平坦地にあった方が相応しいと思うのだが・・・・ 

デルフィ遺跡2

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寺社めぐり 5 根津神社ツツジ  (東京都台東区)

寺社めぐり 5 根津神社ツツジ

本日、根津神社に参拝した。ツツジと根津神社を紹介する。

1 ツツジ

有名な根津神社のツツジは2分咲き程度(写真)。ゴールデンウィーク後半が見頃かと思える。

根津ツツジ1

根津ツツジ2

根津ツツジ3

2 根津神社

 根津神社は日本武尊が1900年に創祀したと伝えられる古社。文明年間(1469~1486)には大田道灌により社殿が造られた。 現在の社殿は宝永3年(1706)第5代将軍・徳川綱吉が、養子となった徳川家宣(第6代将軍)のために創建したもの。権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている。
 主祭神 須佐之男命(八坂神社の祭神) 
     大山咋命 (日吉神社の祭神)
     誉田別命 (八幡神社の祭神)
  祭神 大国主命 (出雲大社の祭神)
     菅原道真公(北野天満宮の祭神)

社殿 鳥居(写真)

根津鳥居

   楼門(写真)

根津楼門

   唐門(写真)

根津唐門」

   拝殿(写真)

根津拝殿

狭山丘陵寺社めぐり 26 長円寺  (武蔵村山市本町)

狭山丘陵寺社めぐり 26 長円寺

 前報の「八坂神社」の西隣に、武蔵村山市で真福寺と双璧の大寺「長円寺」が建っている。 青梅街道の「長円寺バス停」の傍に「曹洞宗 長圓禅寺」と書かれた石柱と「長円禅寺斎場」と書かれた大きな石柱が立っている(写真)。更に二つの地蔵像と二つの石柱に挟まれた長い参道が、狭山丘陵に向って伸びている。参道の桜並木が満開。とてもよい季節に長円寺を訪れたことを喜ぶ。

長円寺入口

 100 m続く参道を歩くと、再び二つの白い石柱が立ち、その向う側が長円寺の境内ということになる。石柱の後ろに安永八年(1779)に建てられた山門(写真)が見える。 

長円寺山門

石柱の左に説明版が立ち「龍沢山長圓寺と号し、曹洞宗の禅寺で、室町時代永禄十一年(1568)に崋山秀委和尚によって開山されました。江戸時代の天保年間(1830~1843)と嘉永五年(1852)の火災により山門を除いて焼失しました。現在の本堂は文久年間から明治四年(1861~1871)にかけて建立されました。本尊は釈迦如来です。 境内には、三ッ木の地頭大河内氏の墓(市指定旧跡)があります。 また、毎年長圓寺を皮切りに横田・中村・馬場地区を巡る横中馬獅子舞(市指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣・無病息災を祈って盛大に行われています」と書かれている。 

 山門をくぐって歩くと再び門があるのは「中門」(写真)と呼ばれている。寺院の正面に配置される門は「三門」または「三解脱門」と呼ばれるが、長円寺の場合は「中門」と呼ぶ。

長円寺中門

 中門をくぐると、明治四年に建立された大きな本堂(写真)が現れる。


長円寺本堂

幕末、明治維新の大混乱期に本堂を建造したのが驚き。戊辰戦争や維新の荒波は、この村山の地に及ばなかったのであろうか? 本堂建立を支えたのが、檀家の有力者、比留間氏ではないかと推定。武蔵村山市資料に「長円寺には、西側に『御霊家』なるものがあり、裏の一角に比留間氏の墓がある」と書かれ、有力檀家22家が記載されているが、比留間家が中藤、中村、横田、峰地区に四家もあり、もっとも多い姓であるのが推定の理由。更に「赤堀山王(日吉神社)前の波多野氏は、山門や山林を寄進するなど大きな檀家だった」と書かれている。本堂建立については、比留間氏の他に波多野氏の支援もあったのだろう。 長円寺に問い合わせると「昔の本堂の内部は柱がむき出しの状況で、昭和の初めや近年に本堂内部の修理をしてよくなった」とのこと。明治維新の混乱期では、本堂建設のお金が不足していたため、内装などには行き届かなかったことがうかがわれる。
 長円寺は青梅市三田にある海禅寺(写真、既報の寺社めぐり1青梅市沢井・二俣尾地区参照、1893社目)の末寺。 長円寺を開山した崋山秀委和尚は、海禅寺六世の跡継ぎであり、長円寺四世、五世は各々海禅寺の十世、十二世となるなど、長円寺と海禅寺は昔から関係が深い。 寺社めぐり22報で紹介した吉祥院は、長円寺の末寺であるので、海禅寺の末々寺に位置づけられる。

海禅寺

 長円寺の本尊は釈迦如来。仏教を開いた有名なお釈迦様である。私はお釈迦様が初めて説法をされたインドのサールナート(写真)を訪れたことがある。ガンジス川の流れるベナレスの郊外にある旧跡で、巨大なストゥーパが印象深い。釈迦の生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤー、入滅された(亡くなられた)クシナガラを合わせて、仏教またはお釈迦様の4大聖地といわれている。 曹洞宗の本尊は釈迦牟尼仏とされているので、長円寺の本尊はまさにその通り。しかし長円寺の末寺、吉祥院の本尊が聖観音であったので、長円寺に問い合わせると「曹洞宗寺院の本尊は釈迦牟尼仏にこだわらない。聖観音もあれば馬頭観音の場合もある」とのこと。

長円寺インド

 境内には鐘楼があり、大きな五輪塔(写真)もあって、大寺であることが分る。

長円寺五輪

 しかし、13年前に建造されたという大きな聖観音菩薩像(写真)は、静寂な禅寺の雰囲気にはそぐわないように思える。
長円寺観音

 本堂の左裏手に「市指定旧跡 地頭大河内氏墓」(写真)があり、説明版に「大河内家は、初代忠正が徳川家康に仕えて以来の旗本で、天正十八年(1590)に二代正勝が三ッ木村のなかに二百五十石の知行地を受けてから幕末まで、代々この地を支配していました。 大河内家の菩提所であった長円寺には、初代忠正から八代忠春までの位牌が祀られています。 左側の墓石が三代忠次、右側が五代忠政のものです。忠次は大番組頭や御納戸頭を、忠政は江戸の道路や上水を掌る道奉行をつとめました」と書かれていて、江戸時代の地頭を知るにはよい機会であった。 「泣く子も黙る地頭」と恐れられた地頭ではあるが、大河内地頭は江戸時代の260年この地に居座って、その間善政を敷いて民に慕われたので、その墓が市の旧跡となりえたと信じたい。 なお、この墓の左にあるのが比留間家の墓で、地頭と並ぶくらいの勢力があったと思われる。

長円寺墓

 山門の左には、池を配した美しい小社(写真)があり「大瓣財尊天」と分る。この七福神の一人である弁財天は、宝暦八年(1758)に建立された。やがて弁財天の祠は廃れ、弁財天の像も庫裏にしまわれたが、20年くらい前に弁財天像が見つかった。それを知った地元の乙幡氏が、弁財天を祀るために「大瓣財尊天」の社を建立した。 弁財天は七福神の一人で、七福神中、唯一の女神。インド古代神話の水神で、日本の神様ではない。琵琶を奏でる絶世の美女の姿で描かれ、弁財天社の周辺は通常、池で囲まれている。 この弁財天は、長円寺の寺域や墓地の鎮護神なのであろう。

長円寺弁天

 長円寺は、昔は西武バスの行先に使われていたので、とても印象深い。立川駅から「長円寺行き」バスに乗車して、我が家に帰ったものである。今は「イオンモール行き」に路線が変わり、西武バスが長円寺前を通ることはない。 その長円寺には過去何度も訪れたが、今回ほど詳細に見学・観察したことはない。ブログに載せるということが、とてもよい勉強の機会になったことを感謝している。

 
 
 


 

狭山丘陵寺社めぐり 25 八坂神社  (武蔵村山市本町)

狭山丘陵寺社めぐり 25 八坂神社

 前報の七所神社から軽便軌道跡に戻り、狭山丘陵沿いの道路を西に向かうと、今回紹介する「八坂神社」に着く。 石段の上に直線的な白い神明系の鳥居(写真)が立っている。12報で紹介した中藤地区の八坂神社の二つの鳥居が、曲線的な明神系だったのとは違う。参考書にも「明神系の鳥居の代表は京都の八坂神社」と書かれているので、この八坂神社の神明系鳥居は不思議。 

八坂鳥居

念のため、京都の八坂神社の鳥居(写真)を載せておく。 23報の熊野神社でも、本町と中藤の鳥居が神明系であったのに、蔵敷の鳥居は明神系と異なっているのに気付いた。同系列の神社内で、鳥居の形が統一されていないのはつまらない。鳥居を造った時の神社の神主さんが、自分の好みで鳥居の形を決めているのだろうか?

八坂神社鳥居044

 武蔵村山市の神社では、鳥居の近くに必ず設置してある説明版が、この神社では見当たらない。武蔵村山市歴史民俗資料館に問い合わせた結果「この八坂神社の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト」と判明。祭神は八坂神社の総本社、京都の八坂神社の祭神・素盞鳴尊と同じ。 武蔵村山市資料によると「鍛冶ヶ谷戸の八坂神社は、江戸時代に牛頭天王社と呼ばれ、大行院の境内に小祠が造られていた。神体は木の座像で、大行院の支配を受けていた神社である。明治維新後の神仏判然により八坂神社に改称された」と書かれている。 スサノオ尊は最初、神の住む高天原の秩序を破壊する乱暴者として登場し、牛頭天王(ゴズテンノウ)とも呼ばれていた。高天原を追われたスサノオ尊は、人間の世界である出雲に降り、弱きを助ける英雄にイメージチェンジするのである。 資料では牛頭天王社は、大行院の鎮護社であったのが、八坂神社と名称を変えて独立したようである。なお八坂神社の敷地の裏手にあった大行院は、明治時代に廃寺となってしまった。 そしてこの地が鍛冶ヶ谷戸と呼ばれていたことも判明した。

 鳥居をくぐると再び石段があり、その上にあまり大きくない社殿(写真)が建っている。この社殿が市内のいろいろな神社の社殿とよく似ており、同一の宮大工が建てたことが推察される。
 
八坂社殿

 社殿の扉の隙間から内部を覗うと、小さな祠(写真)があり、これが京都市祇園の八坂神社の祠かと思われる。
八坂祠

 社殿の右上に奇妙な額(写真)が架かっている。獅子のような動物のようである。額の横に「奉納」のタイトルがある説明版に「北海道地方を旅行した時、阿寒湖の密林に生えていたという樹令三百年に及ぶ紅葉の根幹を店頭に見た。風雪の厳しい北辺の地に育つ、生命力の強さと、獅子の貌に似た樹形に惹かれて土産として購入し、拙いながら作品としたので、産土の八坂神社に奉納する。 昭和六十年 進藤利治」と書かれている。 少々グロテスクな作品ではあるが、木の根をここまで仕上げた腕前は見上げたもの。 合わせてこの八坂神社が鍛冶ヶ谷戸地区の産土神であることが分る。氏神信仰の後に流行した産土神信仰が、この地にあったことを理解した。

八坂額

 社殿の右に神輿舎(写真)があり、中に華やかな神輿(写真)が納められている。八坂神社の例祭は六月三〇日、七月一日であり、この神輿が練り歩くのだろ

八坂神輿舎

八坂神輿

狭山丘陵寺社めぐり 24 七所神社  (武蔵村山市本町)

狭山丘陵寺社めぐり 24 七所神社

 前報の「熊野神社」から住宅地を北に向かうと、桜並木の道路を横切る。この道路が多摩湖建設のため、羽村市から土砂を運んだ羽村・村山軽便軌道跡(写真)。今はサイクリング・ロードとして、都民に親しまれている。 

七所桜

更に丘陵沿いに北上すると、今回紹介する「七所神社」に着く。 入口に白い直線的な神明系の鳥居(写真)が立っている。

七所一鳥居

 鳥居の傍に説明版があり「創立年代は不詳ですが、この七所神社の他に愛宕社(勝軍地蔵)・八幡社・諏訪社・八坂社の四社が祀られています。八幡社等以前は横田の各所に鎮座していましたが、明治四十年に合祀されたものです。 祭神 国常立命 素戔嗚尊 軻遇突智命 誉田別命 建御名方命」と書かれている。
 祭神を考察するに、国常立命は初めて知る神様で、天と地が分れたときに最初に地に現れた神で、日本の神々の最高位のグループに属する神様。これが七所神社の主祭神と思われる。 素戔嗚尊は八坂神社の祭神。 軻遇突智命(カグツチノミコト)は迦具土命とも書かれる愛宕神社の祭神。 誉田別命は八幡神社の祭神。 建御名方命は諏訪神社の祭神である。 勝軍地蔵は地蔵菩薩のひとつ。これに念ずれば戦いに勝ち、宿業・飢饉などを免れるといわれ、甲冑を身につけ武器をもった姿(写真)。愛宕社にあった勝軍地蔵が、合祀されたときに七所神社にうつされたのである。

勝軍地蔵043

 国常立命以外は合祀された神社の祭神と一致するので、国常立命が元々の七所神社の祭神に間違いない。神名の「国」は天に対する地の意味であり、また「常」は底のことで土台を意味し、この神はふだんわれわれが生活する大地に宿っている大地の神様。国常立命の神徳は、国土安穏、出世成功、開運招福、商売繁盛、悪霊退散、厄除け、病気治癒、縁結びなどの、何でもあれの尊い神様なのである。
 
 一の鳥居の向うに、カラフルな二の鳥居(写真)が立っている。笠木の両端が上に反って曲線的な明神系の鳥居。 一の鳥居は神明系であることから、神明系鳥居の必要な神社と明神系鳥居の必要な神社の両方が合祀されていることが分る。これまでの寺社めぐりでは、八幡神社と八坂神社が明神系鳥居であったので、七所神社、愛宕神社、諏訪神社のどれかが神明系鳥居の神社に当るのだろう。
七所二鳥居

 社殿(写真)はそれほど大きくない。これまでの寺社めぐりで参拝した三つの熊野神社の社殿によく似ている。これらの社殿は全て同じ宮大工が造ったように思われる。 この地は昔「横田」と呼ばれ、七所神社は横田村の人々の産土神(ウブスナガミ)だった。産土神とは、氏神信仰が衰え新たに起った、土地の守護神信仰の神様。

七所社殿

 横田といえば「米軍横田基地」が浮かぶが、七所神社は横田基地とはかなり離れているように思う。武蔵村山市歴史民俗資料館に問い合わせると「太平洋戦争中の日本軍の多摩飛行場を、戦時中に米軍が勝手に横田飛行場と名付けたため、戦後そのまま横田飛行場即ち横田基地となった。横田基地周辺にはいろいろな町村が存在するが、その中から米軍が横田村の地名を選んだ理由は不明」との返事で納得。 七所神社は当初、七か所の神社を合祀した神社と思っていたが、資料館に問い合わせると「そうではない。七所という地名もなく、七所神社の社名のいわれは不詳」との返事。
後日、七所神社の名前が「天神七代」の七代を七所と呼んだことを発見。十二所神社が天神七代と地神五代を合わせて十二代を、十二所神社と呼んだことを知り、七所神社に当てはめただけ。天神七代の最初の神が、七所神社の祭神である国常立命であるから、私の推測はほぼ間違いないと思う。

 社殿の左右に二社ずつ合祀された境内社が建っている。左から八坂社(写真)、愛宕社(写真)、八幡神社(写真)、諏訪神社(写真)かと思われる。少なくとも右二社は神社名が読み取れるので間違いない。
七所社1

七所社2

七所社3

七所社4

 参拝を終えると、ここから「野山北公園」が近いと分り、暗渠の上の道を歩く。この暗渠が空堀川の源流であると分り、上流に向かって歩くと水源の釣池(写真)に到着。奈良橋川水源の番太池に次いで、東大和市を流れる二つの川の水源と出会ったことを喜ぶ。

七所池

 更に釣池のある谷間を上ると「カタクリの群生地」があり、満開のカタクリの花(写真)を鑑賞できた。水芭蕉も咲いており、偶然にもよい季節に来ることができたのは、寺社めぐりのご褒美であるのかも知れない。 まだまだ先の長い狭山丘陵寺社めぐりのゴールに向かって、「これから頑張るぞ」との、元気をもらった。

七所カタクリ

ギリシャ旅行 1 ドバイ

 2010年5月に10日間のギリシャ旅行を楽しんだ。帰国後作成した紀行文「エーゲ海クルーズ ギリシャ紀行」より抜粋して、ギリシャの魅力を紹介する。
成田空港を22時に発ち、早朝4時30分にドバイ空港に到着。ドバイ経由のアテネ行きのフライトを選んだのは、半日のドバイ観光に魅力を感じたため。

 バスでドバイ市内に向う。車窓から次々と現れる超高層ビル(写真)に目を見張る。しかもビルのデザインが非常に個性的で、ただただ感心。(写真が見にくいのは、街風景写真担当だった私が、撮った写真をその夜に全部消去するミスを犯したため,家内の撮ったスナップ写真を採用)

ドバイビル 

ガイドの説明「これからヤシの葉の形をした人工島『パーム・シュメイラ』に案内する。ドバイの目玉として、日本のテレビによく紹介される人工島。最近オープンしたリゾートで、ベッカム選手が別荘を購入したことで有名。リゾート内には入れないので、島の先端のアトランティス・ホテルに行く」 バスは海底トンネルを潜り、ヤシの葉を波浪から守る、円形の人工島に着いた。ここに建つのがテレビのコマーシャル「高須クリニック」でお馴染みの「アトランティス・ホテル」。バスから降りて記念撮影(写真)。 ハート型の空間の上に位置するスイートルームは、1泊96万円もするが、日本人の常連客がいるとは驚き。 これで「パーム・シュメイラ」見学が終わり。結局「ヤシの葉」の全体像が把握できなく終わる。上空か高層ビルから眺めなくては、この斬新なリゾートの全体像が分らないことを理解。        

ドバイホテル1

 朝食後から再びドバイ観光。 先ずジュメイラ海岸に降りて、7つ星の超高級ホテル「バージュ・アル・アラブ」をバックに記念撮影(写真)。ヨットの帆のような見事なデザインは感動的。個性的なデザインのビルが多いドバイでも、際立ってユニークな建物である。ホテルの最上部近くに造られたヘリポートが小さく見えるけど、ガイドが「あのヘリポートでテニスができる大きさ」と言うから、とてつもないホテルを建設したものである。パリのエッフェル塔よりも高く、ホテルとしては世界一の高さ。ガイドブックには宿泊料金が1泊25万円以上となっており、全てがスイートルーム。勿論ツアーで泊まれるレベルではない。
ドバイホテル2

 バスの中で、ガイドの説明。「ドバイの人口は150万人程度。その80%が外国人で、インド人、フィリピン人、パキスタン人が多い。彼らは3年間の就業ビザを取得して、ドバイで稼いでは帰国するので、正確な人口が把握できない。 ドバイに住む人々には法人税、所得税、消費税がかからない。但し、年金や医療等の公的な社会保障もない。『自分のことは自分で責任を持て』と言うこと」 すると国の財源が税金や石油(ドバイは石油を産出しない)でないとすると、他国から調達した資金や金融から生まれる利益が財源で、それが公務員の給料や道路の整備に使われているのだろうか。金融という不安定な財源や80%の外国人の労働者に依存しているとても不安定なドバイの超高層都市を見ていると、まさに「砂上の楼閣」に思えてならない。

 午前の最後の観光が、あの有名な「パージュ・ハリファ」(写真) 今年オープンした高さ828 m世界最高の高層ビル。これまで世界一高かった台北のTipei101の高さ508 mを軽くオーバーし、東京に建設中のスカイツリーよりも200 m 近くも高い。 ビルの下で記念撮影となるが、建物が高すぎて写真の中に入りきらない。こんな時のために広角レンズが必要と悟るが手遅れ。 ガイドの説明。「2ヵ月前に正式にオープンしたばかり。 地上442mにある展望台に上るためには、15,000円の食事付き搭乗券を買うこと。ビルの下層はオフィス。中層はマンションで、上層はアルマーニがデザインしたホテル」 3,000円程度であれば、展望台からドバイの街や今朝の「パーム・シュメイラ」を眺めたかった。しかし15,000円は想定外。パージュ・ハリファ観光はコースにも入っていないので、登乗を諦める。 

ドバイハリファ

狭山丘陵寺社めぐり 23 熊野神社  (武蔵村山市本町)

狭山丘陵寺社めぐり 23 熊野神社

 前報の「吉祥院」から西南に向って500 mも歩くと、今回紹介する「熊野神社」に着く。これまで武蔵村山市の中央地区を歩いてきたが、これから本町地区に入る。この地は昔、中村と呼ばれていた。 住宅地の中に、窮屈そうに建つのが熊野神社。白い神明系の鳥居(写真)が立っている。

熊野神社鳥居

 鳥居をくぐると、参道は左に折れ、短い参道の向うに、小振りな社殿(写真)が建っている。武蔵村山市内の寺社には必ずある説明版が、この神社にないのはどうしてだろうか。

熊野神社社殿

 この「狭山丘陵寺社めぐり」で、熊野神社は東大和市蔵敷(3報)、武蔵村山市中藤(13報)に次いで三社目。 ご祭神は速玉男之命(ハヤタマオノミコト)。熊野三神のひとりで、熊野速玉神社のご祭神である。これまでの熊野神社の祭神が、伊弉諾尊や天照大神であったのに対し、初めて本来の熊野神の登場である。 社殿の形を比べると、これら熊野三社の拝殿がとてもよく似ていることを発見。三社共に同一の宮大工が建造したのではないかと思われる。 鳥居はこの神社と中藤熊野神社は笠木が直線的な神明系であるのに対し、蔵敷熊野神社の鳥居は笠木の両端が上に反った明神系であった。同じ熊野神社であっても、鳥居の形が違うことを発見。鳥居の形は各々の神社の好みで決まるものらしい。これからの寺社めぐりで、神社の系列と鳥居の形を学んでみたい。 社殿の建立時期は不明であるが「新編武蔵風土記稿」には、江戸時代から社前に鳥居をもった神社だったことが記載されている。
 これまで述べたように、熊野信仰の本拠地は和歌山県の熊野三社であり、山や滝の神秘性を背景にしていたが、新宮市に位置する熊野速玉大社は海の神秘性を背景にしている。海から遠い狭山丘陵のこの地と海の神が結びつくのかよく分からないが、熊野信仰のご神徳が国土安穏、延命長寿、無病息災であるというから、これ以上海との関連を追及するのは止める。

 社殿の左に境内社「蚕影(こかげ)神社」(写真)が建っている。「蚕」の字から分るように、養蚕に係わる人々の信仰を集めた神社。茨城県つくば市に「蚕影神社」があり、祭神は稚産霊命(穀物の生産を司る神)、埴山姫命(土の神)、木花開耶姫命(山の神)の三神。 境内社としてはとても大きく、江戸時代に養蚕が盛んだったこの地方で信仰を集めたようである。

熊野神社蚕

 社殿の右には、境内社ではお馴染みの「稲荷神社」(写真)が建っている。西国出身の私が関東に移り住んで、地元の人々の住宅地の隅に、小さな祠がある家が多いのに注目した。その祠は「屋敷神」と呼ばれ、屋敷およびその土地を守護する神様であることが分り、屋敷神の多くが稲荷神であり稲荷社だと分った。 その観点からすると、神社および境内の屋敷神として、神社に稲荷社が多いということになるのだろうか。数か月前に府中市の寺社めぐりをした時、全ての神社の境内に稲荷小社が鎮座していた。その時「境内に稲荷小社を置くのは、その神社の宮司の趣味の問題ではなく、稲荷神を置かなくてはいけない理由がある」と気付いたので、今日境内社=稲荷社説を取り上げてみた。
熊野神社稲荷

 境内に、明治神宮宮司や大国魂神社宮司の揮毫された、大きな石碑が立っている。その石碑のひとつに「熊野神社土地購入記念碑」があった。この神社の鳥居と社殿の配置が不自然であり、かつ普通は南か東を向く鳥居が西向きとなっている。 これらの疑問を武蔵村山市歴史民俗資料館に問い合わせると「神社は昔から移動していない。土地購入は付設されている公会堂関連かも知れない。鳥居は西をむいていてもおかしくない」との返事。 私の第六勘もあやしくなってきたと悟って、本報を終わる。

狭山丘陵寺社めぐり 22 吉祥院  (武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 22 吉祥院

 前報の「日吉神社」から西に向かって歩くと、今回紹介する「吉祥院」に着く。 石段の右に「狭山観音霊場 第二十二番札所 吉祥院 本尊 聖観音」の看板が立っている。「狭山観音霊場地図」の赤丸が吉祥院の位置(写真)。

         吉祥院図042

 看板の横に「馬頭観音菩薩」の石柱が立ち、石段の左に馬頭観音の祠がみえる(写真)。馬頭観音の祠には色紙や草履が飾られ(写真)、地元の人々に大切にされていることが分る。
馬頭観音は「16報入り天満宮」で紹介した。忿怒相をもち、頭上に馬の顔を戴く観音菩薩で、江戸時代に道中の安全の祈願や家畜としての馬に対する供養が、信仰の中心となっている。

             吉祥院入口

             吉祥院馬頭

 石段の右の説明版には「横龍山吉祥院は、曹洞宗長圓寺の末寺で、江戸時代のはじめ長圓寺三世竹同呑行によって、開山されたと伝えられています。本尊は聖観音で、狭山二十二番の札所になっています。江戸時代の末ごろには寺子屋であったといわれています。明治時代には、明治五年の学制制定に基づき、第一小学校の前身である吉祥学舎が置かれていました」と書いてある。
 
 石段を上ると広い境内に、明治三十六年(1903)に再建された本堂(写真)が建っている。お寺というよりは、古い大きな民家と言いたいような造り。 

             吉祥院本堂

 狭山丘陵寺社めぐりを始めて、曹洞宗の寺院は初めて。曹洞宗は鎌倉時代に道元により興された宗派。道元が中国に渡り坐禅により悟りを開き、帰国して京都・建仁寺に入り「普勘坐禅儀」を著し、坐禅のやり方を説き、「坐禅こそ安楽の法門である」とした。 総本山は福井県の永平寺と神奈川県の総持寺。 全国に寺院数15.000ヵ寺。信者数158万人。
 永平寺には20年前に参拝したし、総持寺(写真)は趣味の寺社めぐり2.000社目記念に今年参拝した。総持寺は関東地区総本山の位置づけにあると思われ、歴史や規模・寺格の点において永平寺には及ばない。私のブログ「2/14 寺社めぐり2総持寺・川崎大師」を参照していただきたい。

         総持寺大祖堂

 吉祥院は武蔵村山市内の長円寺の末寺で、長円寺の住職が吉祥院の住職を兼ねているとのこと。 吉祥院の本尊は聖観音。二十一番札所・原山観音堂と同じ本尊。「曹洞宗の本尊は釈迦牟尼仏」と書かれた文書もあるので、長円寺に問い合わせると「曹洞宗の寺院は釈迦如来を本尊にすることが多いが、聖観音や馬頭観音を本尊とする寺院もある。本尊は釈迦如来にこだわらない」との返事だった。

 境内に「村山第一小学校発祥の地」と書かれた木柱(写真)が立っている。吉祥院の本堂が学び舎であったことが分った。 

             吉祥院学校

 本堂の左奥に「大黒天」と書かれた祠(写真)がある。お寺や墓地の鎮護神だろうか。 七福神のひとり大黒天は、もともとはマハーカーラと呼ばれるインド・ヒンドゥー教の神で、創造と破壊を司るシヴァ神の化身。後に日本神話の大国主命と結びつき、福の神として信仰された。故郷の石見神楽の開幕は、打ち出の小槌を持つ大黒天と釣竿を持つ恵比寿が、面白おかしく舞うのが決まりだった。 公民館サークルの活動で、毎年1月に七福神めぐりを続けており、既に深川、川越、亀戸七福神めぐりを行った。来年1月に予定している東海七福神めぐりが楽しみである。

             吉祥院大黒

スリランカ旅行 3 3日~6日目 ボロンナルワ~キャンディ~コロンボ

1 仏歯寺   キャンディ

本日はキャンディ観光のハイライト「仏歯寺」の見学。商店街を抜けると広場が現れ、その向こうに建つのが仏歯寺(写真)。 ガイドの説明「仏歯とは仏陀の歯で、紀元前543年にインドで仏陀が火葬された時に取り上げられた。4世紀にインドの王子が、頭髪の中に仏歯を隠して、セイロンに持ち込んだ。仏歯は聖地アヌラーダプラに奉納されていたが、ポロンナルワを経て16世紀にキャンディに移され、仏歯寺内に安置された。スリランカでは仏歯は非常に重要なもので、王権者の象徴であるため、仏歯のある場所が首都とされる。ポロンナルワのシンハラ王朝は、インドからの侵入者に追われて、1474年キャンディに移り首都としたが、1815年イギリスに滅ぼされてしまった」 仏歯って本物?と疑いたくなるが、スペイン・バレンシアのカテドラルにはキリストの聖杯があったし、トルコ・コンヤの博物館にはマホメットのあごひげがあった。宗教・信仰に関しては「疑うよりも信じることが大切」と割り切らないと、ついて行けない。仏歯を日本の三種の神器と同様に理解すべきと考えた。

         ブログ仏歯寺
 
靴を脱いで仏歯寺に入る。日曜日のせいか、観光客であふれかえっている。建物の中心に豪華な部屋(写真)があり、仏歯はこの部屋の中の、宝石をちりばめた小箱に入っているという。部屋の前の廊下には、沢山の信者が座り込んで、部屋の中心に向って敬虔なお祈りを捧げている。その信者たちの目の前を、我々観光客がゾロゾロ歩くのは申し訳ない気分。

            ブログ仏歯寺内

 見学を終えて入口に戻ると、天井に象の祭り行列が描いてある。これが有名な「ペラヘラ祭り」 仏歯を入れた容器を、全身を美しい衣装をまとった象の背中に乗せ、キャンディの町を練り歩くスリランカ最大のお祭り。象が100頭も行列をなし、その間を民族衣装の人々が踊り歩く。夜になると象の衣装に付けた豆電燈の明りがとても美しく、テレビ画面に釘付けとなったほど。このペラヘラ祭りはスリランカ全土で行われるが、キャンディの祭りが特に有名。 

            ブログ仏歯寺祭


2 紅茶畑   ヌワラ・エリア

  スリランカ仏教の中心である「文化三角地帯」を後にして、高原地帯に向かうドライブとなる。標高200 mだった私の高度計が、どんどん上昇する。バスは左は山、右は谷の崖伝いの道路を上って行く。標高700 mを過ぎると、山の斜面に紅茶畑が現れた。 ガイドの説明「1815年スリランカを支配したイギリスは、コーヒー農園を開いたが失敗し、コーヒー農園を紅茶農園に替えて成功した。年中温暖で水はけのよい条件が、紅茶の栽培に好適なことが分かり、イギリス人が大挙してこのヌワラ・エリアに入植して、紅茶産業を発展させた。シンハラ語でヌワラは町、エリアは日差しを意味し、ヌワラ・エリアは『光あふれる町』 世界最大の紅茶輸出国の中心が、このヌワラ・エリア。紅茶畑に点在する樹木は、強い日差しを緩和するために植えている」 崖道でバスが止まる。紅茶畑では数人の女性が茶摘作業中。道路際のサリーを着た女性が茶摘のポーズ(写真)。皆で写真を撮ると、チップを要求してきたのにはガッカリ。運転助手が代表してチップを払ってくれた。緑一面の茶畑は美しいが、相当急な斜面。急斜面での作業はかなり厳しそう。

            ブログ茶摘み

  イロハ坂の途中で「マクウッドファインティー」という紅茶工場に到着。周辺の山々が全て紅茶畑の景観(写真)は一見の価値あり。静岡や狭山のお茶畑をネズミに例えると、象のようなスケールの大きな茶畑。急斜面の山の頂上まで茶畑が広がるのが、世界一の紅茶産地の証明。 工場では摘んだ葉を、発酵したり乾燥したり、すり潰したりしている。 売店に入って紅茶の試飲。等級があってBOP(ブロークン・オレンジ・ペコー)が一般的。BOPF(F:ファニングス)は渋みがある。これはすり潰した紅茶の粒の大きさの違いで、細かくすり潰すと苦味が出る。お土産は標準的なBOPに決定。5袋入りのカートンが1300ルピー。なんと1袋240円程度にはビックリ。4カートン買ったけど5000円もしない。但し全重量が4 Kgと相当重い。宝石を買わなかったのに免じて、この重量の運搬には耐えなければいけない。

         ブログ茶畑


3 大津波   ゴール

 右手の車窓に海が見えてきた。ガイドの説明「2004年、スマトラ島沖の大地震による高さ13 mの津波に襲われ、この海岸沿いで5万人の死者が出た。当時の廃屋が所々未だ残っている」 地図で確認すると、スマトラ島からは1500 kmも離れているけれど、同じインド洋上の島。それでも高さ10 mを超える津波が襲うとは信じ難い。
 インド洋の日没を眺めながらのドライブ。 車窓から津波で放棄された廃屋が見える。バスが止まった所が大きな公園の前。巨大な仏の立像(写真)が見えた。ガイドが「これは日本の本願寺が寄付した、津波の被災者を弔った『津波記念公園』」 本願寺って、こんな所にお金を使っているのか! 本願寺は日本の福祉団体や弱者救済にもお金使っているの? スリランカの津波被災者は、この公園を喜んでいるの? 宗教団体は無税なのをいいことにして、末寺や信者からの莫大な奉納金の使途に困っているのでは、と勘ぐりたくもなった。この不信感、私の勘違いであることを祈る。 

            ブログ津波公園

 スリランカ南部最大の町、ゴールの駅前を通過。ガイドの説明「この駅前に、高さ13 mの津波が押し寄せ、帰宅時間だった満員バスが何台も押し流されるテレビ中継が、世界中に発信された」 津波が街を襲う光景はテレビで何度も見たが、スマトラ島かタイの海岸だと思っていたけど、ここゴールもそうだったとは記憶になかった。 

ホテルに着き、5分以上も廊下や砂浜の道を歩き、コテージ風の部屋に着く。波の音が聞こえ、海岸の傍にいることが分る。一瞬、津波の来襲が頭をよぎったが、これは心配のし過ぎ。津波が怖いなら、モルディブを含めて、インド洋のリゾートには泊まれない。

以上のように「仏教の聖地 スリランカ紀行」に書いている。旅行したのが、2011年1月20日~27日。紀行文を書き上げたのが3月10日。 ところがその翌日に「東日本大震災」の大津波が発生! テレビで津波が町を襲うシーンを見ながら、スリランカで体験した大津波の怖さを思い出したのだった。
                                  スリランカ旅行終わり
 

狭山丘陵寺社めぐり 21 日吉神社  (武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 21 日吉神社

 「原山観音堂」から住宅街の道路を西に向かって500m も歩くと「日吉神社」に着く。住宅地に建つ神社だけに、神秘的な雰囲気には物足りない。 神明系の白い鳥居(写真)の近くに説明版があり「創建年代は不詳ですが、御神体は元禄四年(1691)に三ヶ島の照明院から遷宮されたものです。現在の御霊社(社殿内に祀られている)は文化七年(1810)に、波多野文右衛門が奉納したものです。 別名 日枝神社、山王権現ともいわれます 祭神 大山咋尊(くいのみこと)」と書かれている。

             日吉神社鳥居

 鳥居をくぐり参道を進むと、左手に柵に囲まれたご神木(写真)がある。周りの木よりも小さいので、前のご神木の子孫である可能性あり。木の名称が分らないのが残念。

             日吉神社神木

 石段の上に小振りな拝殿(写真)が建っており、横から見ると屋根の高い本殿が拝殿と一体化した社殿(写真)であることが分る。

             日吉神社拝殿

             日吉神社社殿

 日吉(ひえ)神社は日枝神社とも書かれ、祭神の大山咋神は松尾大社の祭神でもある。大山咋神はもともと比叡山(日枝山)に宿る山の神で、延暦寺の鎮護神。延暦二十五年(806)伝教大師・最澄が、比叡山の山頂に延暦寺を創建したときに、古くからこの山の地主神として鎮座していた大山咋神を、寺の鎮護神としたことに始まる。そのときに大山咋神が鎮座する日吉大社を「日吉山王」と呼ぶようになり、やがて仏教風に日吉権現または山王権現と呼ばれるようになった。 
 全国の日吉(日枝)・山王神社の総本社は、滋賀県大津市の日吉大社東本宮である。東京都の江戸城の鎮護神として名高い日枝神社(写真、919社目)には参拝したが、未だ日吉大社は訪ねていない。 日吉(日枝)・山王神社または権現は、最澄の天台宗の寺院を中心に全国各地三千七百九十九社に勧請されている。 ご神徳は諸産業繁栄、家系繁栄、厄除け開運などである。

         日枝神社040
                                      
 説明版に記載されている所沢市三ヶ島の照明院は地図に載っていない。インターネットで検索すると「照明院の本尊が、明治初年の廃仏毀釈の際に、近くの宝生院に移された」とあるので、その時に照明院はなくなったようである。 更に説明版の御霊社とは、大山咋神の御霊を祀った祠のようなもので、鎌倉市の御霊神社とは関係ないと思われる。

 社殿の左に結構大きな境内社(写真)があるが、社名が書かれていない。境内社の横に立つ石碑に「三柱社新築記念碑」と書かれているので、この境内社は「三柱社」なのだろうか。しかし調査しても三柱社の正体がよく分からない。ある神社の境内社に三柱社があり、祭神が倉稲魂神、天御柱神、国御柱神となっている。倉稲魂神とは稲荷神社の祭神で食物神。天御柱神と国御柱神は「風の神」で、俵屋宗達の描いた「風神図」(写真、京都市建仁寺蔵)の荒々しい神様で、農作に関わる神。これらの祭神たちから「三柱社は農耕の神」と推定したが、あまり自信はない。 武蔵村山市資料には、境内に大口真神社と八坂神社が祀られていると書かれている。「三柱」とは、この二社にもう一社加えた社名であるのかもしれない。社名の記載がないと困ってしまう。電話帳にも日吉神社の記載がないので、問い合わせも出来ない。今後正確な情報を得た場合には、本文を訂正することにした。

             日吉神社境内社

             風神図

 この地域は昔、赤堀と呼ばれていたようで、日吉神社は赤堀村の鎮守だったのだろう。


 
 

狭山丘陵寺社めぐり 20 原山観音堂  (武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 20 観音堂

 前報の最後に記載したように、稲荷大明神から木立の中を下りた住宅地に「観音堂」(写真)が建っていた。地図に記載がないお堂に巡り着けたのは、稲荷大明神のご利益だったのだろう。お堂に付設された駐車場が目立ちすぎるため、存在感の乏しい観音堂だった。

             稲荷参道

 観音堂の前に「狭山観音霊場第二十一番札所」と書かれており(写真)、これまでに18番雲性寺、19番はやし堂、20番真福寺と回ってきたので、次に参拝する札所に着いたのだ。 この観音堂のご本尊は聖観音と書かれている。 

             原山観音前

観音菩薩は三十三の姿に変化してすべての人々を苦難から救うとされ、従って観音菩薩そのもののお姿はない。観音菩薩の中でも基本となる姿が聖観音で、その他の十一面観音、千手観音、不空羂観音、如意輪観音、馬頭観音を総称して六観音という。これまでにいろいろな観音様との出会いがあったが、未だ千手観音と不空羂観音との出会いがない。この二つの観音との出会いを「狭山観音霊場めぐり」の新たな目標としたい。

 観音堂の扉の格子の隙間から内部を覗くと、小さな仏像が鎮座している。これがご本尊の聖観音だと思われる。 お祈りした後で、立ち去ろうとしていると、初老の男性が近づいてきて「お参りありがとうございます。観音堂を開けますので、中を見てあげてください」と言って、錠を外して扉を開けてくれた。 正面に仏壇があり、真ん中に小さな聖観音が鎮座されている(写真)。花も飾られ、ご本尊が大事に祭られているのがよく分かった。

               原山観音本尊
               
 観音堂の内部の壁に「狭山観音霊場めぐり」の地図が貼られている。狭山丘陵の周辺を33の観音堂が取り囲む地図で、これからの私の寺社めぐりに役立ちそう。男性が「1番の山口観音でもらった地図」と教えてくれた。 後日、山口観音を訪れて地図を頂き、ブログ掲載の許可も得たのでここに紹介する(写真)。赤丸をつけたのが、原山観音堂であり、これからも観音堂に出会うと、赤丸でその場所を紹介する。

原山観音堂図037

 今回の原山観音堂は、私の地図に記載されていなかった。本来ならば見逃すところであったが、稲荷大明神のご加護で、偶然にも見つけることができたのが有難い。三十三霊場の名前と場所も分かったので、私の「狭山丘陵寺社めぐり」に「狭山観音霊場めぐり」を加えることにした。

スリランカ旅行 2 2日目  ボロンナルワ

1 古代都市シーギリヤ  ボロンナルワ

 狭い道を走ると、樹海から抜きんでるように二つの岩山が見えてきた。岩山の一つがシーギリヤ・ロック、即ち3番目の世界遺産「古代都市シーギリヤ」である。 岩山を見上げる場所でガイドの説明「ここは水の広場と呼ばれる宮殿跡。王宮は岩山(写真)の頂上に建っていた」 広大な水の広場には、王の沐浴場やパレス跡がある。これらの施設が5世紀に造られ、上下水道設備も完備していたというから、スリランカの古代文化は奥が深い。当時の日本が古墳時代であったことを思うと、驚き。
          シギリア全景
 
 ガイドの説明「5世紀に、昨日見学したアヌラーダプラを統治していた王様に、二人の息子がいた。弟の母親が王族の血筋だったので、平民の母親だった兄カーシャパは、このままでは後継者になれないと思って、父親を殺して王位を奪い、弟はインドに亡命した。弟の復讐を恐れたカーシャパは、切り立ったシーギリヤの岩山の頂上に宮殿を建設して住んだ。しかし11年後、インド軍を率いた弟との戦いに敗れて、カーシャパは自殺。それ以来、岩の上の宮殿は廃墟となった。 1875年、望遠鏡でロックの岩壁を見ていたイギリス人が『シーギリヤ・レディ』と呼ばれる、極彩色の壁画を見つけ、それ以来スリランカを代表する観光地となった」  ここから見上げるシーギリヤ城は難攻不落に見え、山頂に立てこもれば絶対に負けないように思えるが、戦いは守りだけでは勝てないに違いない。

 さあ、これからロック頂上への1200の石段上りに挑戦だ。大きな岩の間を縫うようにして続く石段を上り始める。 息を切らして20分も上ると、頭上にらせん階段が見えてきた。昔はハシゴだったが、1938年即ち私の生まれた年に、イギリスが周りを金網で囲った、鉄製のらせん階段を造ってくれた。 崖に掛けられたらせん階段は、鉄網を通して崖下の景色が丸見えでとても怖い。下を見ないようにしてらせん階段を上りきると、オーバーハングした岩壁に、鮮やかな美女たちの半身像(写真)が描かれているではないか! これまでの恐怖が全部消し飛んで、シーギリヤ・レディの鑑賞と撮影に没頭。 美女たちは二人ずつに分かれて、別々に描かれており、現在18体残っている。岩壁に石灰を塗り、その上に顔料で描いたとされるが、5世紀に描かれたとは思えない、美しい色と妖艶な姿をしていた。裸の女性が上流階級で、服を着ているのが侍女。ストロボ禁止なので、あまり上手く写真が撮れなかったのが残念。

               シギリヤ絵1

               シギリヤ絵2
       
 怖いらせん階段を下りて、シーギリヤ・ロックの中腹の道を右から左に歩いて着いたのが「ライオンの入口」(写真) ガイドの説明「石段の左右に石造りの大きなライオンの爪がある。昔は爪の上にライオンの足と大きく口を開けた頭があり、石段を上っていくと、ライオンののどに飲み込まれるような仕組になっていた。ライオンののどをシンハラ語で『シンハギリヤ』と言い、それが『シーギリヤ』に変化した。これから400段の石段を上り切ると、岩の上の王宮跡に着く。皆さん王宮跡に上りますか? 上りたくない人は、ここで待機してください」
 そう言われて見上げると、垂直に近い岸壁を縫うようにして、鉄製の階段が付いている。階段を上り下りする人たちが小さく見え、これは大変な所に来てしまったことを自覚。しかしここまで来て王宮跡を見学しない訳にはいかない。

               シギリヤ入口

 上り始めて鉄製階段にかかると、手摺りはあるものの下界が丸見えで怖い。それでも上り階段は岩壁に接近しているからよいものの、下り階段は岩壁からせり出すように取り付けてある。下りの怖さを先取りして心配するとは、我ながら情けない。「怖い怖い」を連発しながら、高さ50 m程度の岩壁を上りきった。 
頂上は平坦で、石垣の上の王宮跡(写真)に立つ。

                    シギリヤ王宮

ガイドの説明「王様は家来たちと女性たちを連れて、王宮に上ってきた。皆さんが上っ
てきた鉄製階段は後で取り付けたもので、昔は別の道があったと思われる。王様は11年間ここに住んで、弟の襲撃を待ち続けた」 小さな王宮に少人数で住むカーシャパ王の孤独感が分かるような気がする。 ここからは360度の展望が開けている。天気がよいと昨日見学したアヌラーダプラのルワンウェリ・サーヤ大塔が見渡せるというが、今日は曇天のため一面に広がる樹海が見えるだけ(写真)。 
               シギリヤ景色

2 クワドラングル  ボロンナルワ   

第4番目の世界遺産「古代都市ボロンナルワ」観光がスタート。入場したのが「クワドラングル」 ガイドの説明「クワドラングルとは四辺形の意味で、城壁に囲まれた中に11の仏教の建築物が集まっている」 先ず「トゥーパーラーマ」という仏堂に入る。薄暗い室内に三体の仏像が安置されている。仏堂の外壁の彫刻が、ベトナムのヒンドゥー教のミーソン遺跡と似ている。外壁や周辺の木の上に、精悍な表情をしたサルの群れがいた。ヒンドゥー教の猿神「ハヌマーン」のモデルかも知れない。 次いで石柱が立ち並ぶ遺跡が5個所あった。「菩提樹寺跡」「仏歯寺跡」などの石柱群(写真)のみ残っている。
               シギリヤ跡1

 動物たちの並ぶ楽しい彫刻もあった。 「ワタダーゲ」という大きな円形の仏塔があり、入口にはガードストーンという、悪魔を追い払うガードマンの彫刻がある。 ガードマンの後方に白い仏像が鎮座し、この遺跡のハイライト(写真)。 

               シギリヤ跡2

「ガルポダ」という象の彫刻のある石碑には、インドとの関連などの碑文が残されている。 最後は「サトゥマハル・プラサーダ」(写真)という7階建ての建物。カンボジア様式とされるが、メキシコのインカ遺跡の塔に似ているのが興味深い。

                    シギリヤ跡3

これらの建物は、日本の平安時代にあたる10~12世紀に造られた。


寺社めぐり 4 龍珠院の桜  (あきる野市乙津)

寺社めぐり 4 花の山寺

 先週「花の山寺」と呼ばれる「龍珠院」(℡ 042-596-4647)に電話すると「もう花は咲いてるよ」とのこと。昨日(4月8日)になって、龍珠院に向った。 武蔵五日市駅から「数馬行き」のバスに乗車。「荷田子バス停」で下車し、秋川に架かる橋を渡り、坂道を上ると龍珠院に着く。
 沢山の石像が並ぶ場所が境内の入口で、坂道の参道を見上げると「しだれ桜」が満開(写真)。

龍入口

 参道を上って本堂(写真)に到着。今日は「花まつり」の行事があり、祭壇(写真)が花で飾られている。「甘茶」の接待もあり、特別な日に訪れたことを喜ぶ。

龍本堂

龍祭壇

 名物の「しだれ桜」(写真)は満開を少し過ぎたようであるが、それでも見ごたえは十分。

龍枝垂桜

 龍珠院の開山は、これから訪ねる予定の光厳寺十世日峰朝和尚で、貞治二年(1363)に開創され、徳川家より寺領高九石八斗に封地された御朱印がある寺で、本尊は観世音菩薩である。現在の本堂は寛政四年(1792)に再建されたもの。 「天照山龍珠院」と号し、臨済宗建長寺派の寺院。
 美しい「花の山寺」の風景を、更に2枚の写真で紹介する。

龍風景2

龍風景1

 龍珠院を後にして、1 km 歩いて、温泉施設「瀬音の湯」に行き「足湯」を楽しむ。

 「武蔵五日市駅行き」のバスに乗車し「坂下バス停」で下車。 坂道を上ると「光厳寺」に着く。 天然記念物の4本の山桜は、やや満開を過ぎていた(写真)。山桜の大木は老齢化が進み、そのうち1本は枯れていた。昔日の面影はなくなってきている様子。

光桜1

 光厳寺に参拝。これまで3度は訪れたことのある本堂(写真)は、いつもながらに風格がある。

光本堂

 光厳寺は足利尊氏が建武元年(1334)に、正宗広智禅師を開山として創建した禅寺であると伝えられる。足利尊氏の導きで、北朝第四代後光厳院が若い頃にこの寺に滞在され、後光厳院より「光厳寺」の勅額を賜ったとも伝えられる。天正十九年(1591)から代々の徳川将軍より二十石の御朱印が寄せられていた。 「鷲峰山光厳寺」と号す臨済宗建長寺派の寺院。鷲峰山とは、寺の背後にそびえる城山(戸倉城跡)に関わる名称ではなかろうか。
 境内の鐘楼近くに咲くカイドウの花(写真)と寺の周辺に咲く花(写真)がとても美しかった。

光鐘楼

光周辺花

狭山丘陵寺社めぐり 19 稲荷大明神  (武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 19 稲荷大明神

 前報の萩ノ尾薬師堂の参拝を終え、地図{東京・多摩}にある「稲荷大明神」を目指して北に向かう。狭山丘陵の谷間を上って行くが、稲荷社が見つからない。地元の人に問い合わせるが、誰も「知らない」との返事。3年前に訪ねた時も、神社探しに苦労したことを思い出した。丘陵から突き出した尾根の上に墓地が見える。墓地の近くに行けば手がかりがあるかと墓地に上ると、なんと墓地の近くの木立の中に神社発見。赤い鳥居の小社「稲荷大明神」(写真)だった。

稲荷鳥居

 木立の中に隠れるように建つ社殿(写真)では、地元に昔から住んでいた人たち以外には、神社の存在が分らないだろう。 社殿の中には、狐の人形を沢山乗せた祠(写真)が鎮座していた。

稲荷社殿

稲荷祠

 狭山丘陵寺社めぐり18社目にして、初めての稲荷社。境内社では稲荷社に10社くらいにお目にかかっているので、初めての参拝とは思えない。稲荷社は全国に三万二千社を数え、神社数では第一位を誇る。稲荷社の総本社は京都市の伏見稲荷大社。その他に愛知県の豊川稲荷、茨城県の笠間稲荷、佐賀県の祐徳稲荷が有名。いずれも参拝したことがないけれど、せめて伏見稲荷大社には訪ねてみたい。
 この稲荷大明神の祭神は分らないが、通常稲荷社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、稲の精霊を神格化した神であり、食物神である。「古事記」ではスサノオ尊とオオイチヒメ命の子どもとされ「日本書紀」ではイザナギ命とイザナミ命の子どもとされ、有名神であるのに出生がはっきりしないとは面白い。 稲荷信仰は奈良時代に発生したもので、伏見稲荷大社の社伝には、和銅四年(711)に稲荷山三ヵ峰、今の伏見稲荷大社の境内に、稲荷神が鎮座したとある。 この稲荷信仰のルーツは、当時山城国一帯に住んでいた渡来系の豪族・秦氏が、自分の氏神として祀り、秦氏の勢力拡大にともなって稲荷神の信仰が拡大した。 のちに稲荷神は仏教や民間信仰を巻き込みながら信仰を広げ、稲荷神の性格も、本来の農耕神から商工業の神へと拡大していった。 稲荷神のご神徳は、五穀豊穣、産業興隆、商売繁盛、家内安全、芸能上達など。

 小さな社殿と鳥居以外はなにもなく、帰りの道を探すけど、参道らしき道が見当たらない。3年前に上ってきた道には大木が倒れて通れない状況。木立の中を移動すると、ようやく道らしきものを見つけて、住宅地の中に下りることができて一安心。 ところが下りた場所に、地図にない観音堂(写真、後方の山道が参道)を発見するハプニングがあった。この観音堂は次報で紹介する。

稲荷参道

スリランカ旅行 1 初日  コロンボ~ボロンナルワ

 一昨年1月、スリランカに旅行したので、スリランカという国を紹介します。スリランカはインドの南にあるマンゴーの形をした島国で、昔はセイロン島と呼ばれていた。「セイロン島6大世界遺産探訪」に魅力を感じ、ツアーに参加。旅行後書いた「仏教の聖地 スリランカ紀行」から抜粋して紹介します。

1 ダンブッラ石窟寺院  ダンプッラ  
 
最初の世界遺産「ダンブッラ石窟寺院」の観光がスタート。バスを降りると、岩山を背景にした大きな仏塔(ダーガバ)と更に大きな大仏が鎮座する寺院(写真)が見えてくる。寺院に入ると、金色の大仏の大きさに圧倒されるが、そのお顔がとても厳しい表情をしており、鎌倉の大仏のような柔和な美男とは言えない。出発前のドロ縄調査の結果、スリランカの小乗仏教は、僧侶の厳しい修行を前提としているので、御仏の表情にも厳しさがあるのだと理解。寺院も大仏同様にきらびやかであるが、これは戒律の厳しさとは、相反するように思った。

ダンブ寺院
 
寺院の裏山の石段を上った台地上に建つのが、世界遺産の「石窟寺院」(写真)  張り出した岩山の下に、真っ白いしっくいの壁が並び、門から入ると岩山がくり抜かれた石窟となっている

ダンブ石窟2

先ず入った第1窟には、長さ14 mの巨大な涅槃仏(写真)が横たわっているのは壮観。全身が金色に塗られ、足の裏だけ赤いのが特徴で、紀元前1世紀頃に造られたというのが、この石窟寺院の歴史的価値を高めている。

ダンブ涅槃像

 次いで第2窟に入る。ここは幅52 m、奥行き25 mのダンプッラ最大の石窟で、ノミとハンマーだけで掘った2000年前の人々の努力に敬服。数十体の仏像(写真)が安置され、天井の壁画(写真)が美しい。 第3窟、第4窟は18世紀以降に造られた石窟で、ここにも涅槃仏や仏像が多数安置されている。 最も新しい第5窟は、1915年に造られたというから、スリランカの人々が、2000年以上に渡ってこの石窟群を大切にしてきたことが分る。

ダンブ仏像

ダンブ壁画

 境内に大きな菩提樹があり、赤や白の小旗で飾られている(写真)。これをチベットではタルチョと呼んでいたが、この地では「エマ」と呼ぶとのこと。仏教の伝来には3ルートがあり、インドからシルクロードを経由して中国、韓国、日本に渡来したのが大乗仏教。スリランカを経由してミャンマー、タイ、カンボジアに渡来したのが小乗仏教。インドで仏教が迫害された時に、インドの僧侶が逃げ込んだのが、チベット仏教。中国・日本にはこの小旗がないのに、スリランカやチベットに存在することは、インド仏教の本来の継承国は、中国や日本ではなく、スリランカやチベットなのだろうか? 僧侶の厳しい戒律やチベットの過酷な五体投地を目の当りにすると、その考えは間違ってはいないように思える。明治時代の僧侶、河口慧海が日本の仏教の経典に疑問を感じ、真の仏教の経典を求めて、チベットに密入国したのも、その裏付けとなるだろう。 
 
ダンブエマ

2 スリー・マハー菩提樹  アヌラーダプラ

 現地ガイドの説明「インド・ブッダガヤには、その木の下で仏陀が悟りを開いたとされる菩提樹がある。紀元前3世紀に、インドのアショーカ王の王女サンガミッタが、ブッダガヤの菩提樹の分け木をここに植樹した。樹齢2000年を超えた尊い木(写真)がお宝」 大きな菩提樹を囲むように、白い寺院が建っている。何かの儀式があるようで、白い服装の人々が楽隊を先頭に横切って行く。お供え物を持つ人や国旗を持つ人も見える。小乗仏教では、僧侶は厳しい修行により解脱して輪廻から逃れるのであるが、一般の世俗の者は僧侶に功徳を積むことで、僧侶と 同様に解脱して輪廻から逃れるとされる。この儀式や寺院での信者の敬けんな参拝の姿を見ていると、日本よりも数段、スリランカの人々の信仰心が厚いように思われる。 

ダンブ菩提樹2 - コピー

3 ルワンウェリ・サーヤ大塔

 遠くからでも目立つ、大きな白い仏塔(ダーガバ、写真)が眼前に現れた。 ガイドの説明「この塔は紀元前2世紀に建てられ、当時は高さ110 mあったとされるが、現在の高さは55 m。毎年6月に、竹で足場を組み立てて、石膏で大塔を塗り直す」 これも日本の弥生時代に造られたというのが驚異。スリランカ仏教のハイライトの一つである。 大塔は一段高い石畳の台上に造られ、台座の周囲は無数の象の彫刻で囲まれている。大塔の隣の仏塔には、涅槃仏を始め多くの仏像が安置されている。 
大塔

大塔を一周すると、一人の老僧が直立不動で立っている(写真)のが目に留まる。現地人が近寄っては、老僧を拝んでいるので、相当お偉い僧侶かと思われる。ガイドが「あれは有名な高僧で、一日中あの不動の姿勢で立ち瞑想に耽っている。お供え物は受け付けない」と言うのでビックリ。スリランカの僧侶の戒律が厳しいと知っていたが、この修行を見ただけで納得。チベットの五体投地でもその過酷さに驚いたが、小乗仏教、チベット仏教共に奥が深い。それに比べると、日本の僧侶は信者を極楽に導くというよりは、葬式や法事の稼ぎにのみ執着しているように思えて寂しくなってくる。「国貧しくして宗教興り、国豊にして宗教萎む」ということなのだろうか!
 
大塔僧

狭山丘陵寺社めぐり 18 萩ノ尾薬師堂 (武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 18 萩ノ尾薬師堂

 今回紹介する「萩ノ尾薬師堂」(写真)は、青梅街道の萩の尾薬師堂バス停の前に建っている。境内は狭くなにか窮屈そうで、寺院のようでない建物。

萩尾薬師堂

 説明版には「建立年代は不詳ですが、天正十八年(1590)に滝山城が落城の折、北条氏の家臣石川土佐守の娘の持仏である薬師如来を祀ったといわれています」と書かれている。滝山城落城は、八王子城落城の間違いではなかろうか? 滝山城主だった北条氏照は、滝山城では守りが難しいと判断し、天文十五年に八王子城を造り、移り住んでいる。そして天正十八年に豊臣秀吉軍の上杉・前田勢に攻められて、八王子城は落城している。落城の際、氏照夫人や家族の婦女子が、悲惨な自殺を遂げた。なお氏照自身は北条氏本家の小田原城に居て、秀吉に和議を申し入れて自刃した。 滝山城落城の話は聞かないなあ。
 薬師如来は14報真福寺で説明したように、病気を治す功徳があるとされる仏様。武蔵村山市資料には「薬師堂の本尊であるが、これは北条氏照の息女すめの方の守り本尊であるという。萩ノ尾と赤堀の人々の祖先は、武田氏や北条氏方の武将で、戦いに敗れてこの地に定住したという言い伝えをもっていることから、この人たちとの関わりがきわめて強い堂宇であることがいえよう」と書かれている。 薬師如来像を所持していたのが、家臣の娘か氏照の息女かは分らないけれど、説明版にある家臣の娘説を信じたい。 織田信長に敗れた武田家の家臣や豊臣秀吉に敗れた北条家の家臣たちが、この地に移り住んだというのは興味深い。この地での学問の神、菅原道真信仰や神明社が沢山存在する原因のひとつに、武士の存在があったとすると納得しやすい。
 この薬師堂の宗派についての説明がないけれど、薬師如来を祀っているだけで十分と思われる。因みに薬師如来で有名な奈良県の薬師寺の宗派は法相宗で、薬師寺は興福寺と並ぶ法相宗の大本山である。 そしてこの地の名称が萩ノ尾村と分った。狭山丘陵から少し離れた、空堀川南側の平地で、萩の花が咲く土地だったのだろうか。

 境内に「萩ノ尾薬師堂の宝簥印塔」の説明版があり「この宝簥印塔(写真)は、延文元年(1356)の紀年銘がはっきり読み取れる中世の石塔である。宝簥印塔は五輪塔と並んで広く普及した塔形で、基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から成っているのであるが、この塔は現在、笠および基礎部分が残るだけである。さらに銘文には歿故了意禅尼という被葬者名と中世南北朝時代の北朝年号である延文の年号を用いた死去年月日が刻まれている」と書かれており、とても貴重な歴史資料である。  宝簥印塔とは、墓塔、供養塔などに使われる仏塔で、五輪塔と同じく密教の塔。

萩尾薬師宝塔034

 背の高いお地蔵様を安置したお堂(写真)があるが、説明版がないので紹介できない。青梅市に行くバスの中からいつも眺めていた「萩ノ尾薬師堂」であったが、立ち寄って調査するととても学ぶことが多い。 この寺社めぐりシリーズは、宗教、歴史、土地柄を学ぶとてもよい機会であると思っている。
萩尾薬師地蔵

 境内の小さな石像は馬頭観音(写真)のように見えるが、未だ決めつけるまでの自信がない。説明版や資料がないと記事が書けない未熟な自分が腹立たしい。

萩尾薬師馬頭

 原山神明社から萩ノ尾薬師堂に来る途中に「指田医院」の看板を見つけた。医院の横にとても貫禄を備えた屋敷門(写真)があった。

萩尾薬師指田

ここが有名な「指田日記」を書かれた指田家ではないかと気付いた。武蔵村山市資料には「指田日記は、武蔵国多摩郡中藤村の陰陽師(民間で私的に祈祷や占術を行う者)で神職でもあった指田摂津藤詮が天保5年(1834)から明治4年(1871)までの38年間書きつづった日記です。日記は16冊に分れており、現在の武蔵村山市内及び周辺地域の世情や産業、風俗、慣習などを知ることができる貴重な資料です。中でも黒船来航や安政の大地震の情報が極めて正確です」と書かれている。 指田家との出会いも一期一会「よし指田日記を読んでみよう」と心に決めた。 今回武蔵村山市の市政、歴史、産業などを高く評価したけれど、指田氏のような人物もおられたのは更なる驚き。発見の多い武蔵村山市の寺社めぐりであった。

狭山丘陵寺社めぐり 17 神明社 (武蔵村山市中央、原山)

狭山丘陵寺社めぐり 17 神明社

 入り天満宮から青梅街道に出て、南に向かう。南に向かう青梅街道は、大曲交差点で直角に西に曲がる。大曲交差点の手前50 mの信号から、右折して住宅街に入る。この辺りには渡辺酒造所があり「吟雪」という銘柄の清酒を造っていたのだが、10年くらい前に酒造所が閉鎖され、今は住宅街となっている。「村山大島紬」の凋落と共に、武蔵村山市の伝統産業が衰退している。 住宅街を歩いていると、路傍に祠が現れ「原山の地蔵尊」の説明版があり「『享保四歳念仏供、原山村』と刻まれています。土地のお祭りのとき、人があやめられその供養として村人が造立したと伝えられており、今なお子育地蔵として信仰されています」と書かれている。祠の中に、赤い帽子と赤い前掛けの大きなお地蔵様の立像(写真)がある。 ここは武蔵村山市中央地区であるが、昔は原山村であったことが分る。そして昔は人が死ぬことには慣れていたとしても、人が殺されるのはとても異常な出来事であったらしい。四歳とは四年のことだと思うけれど・・・・・

原山地蔵

 しばらく歩くと「新明社」に着く。 白い大きな鳥居(写真)が立っているが、神明社の直線的な神明系鳥居にしては、笠木の両端が若干上に反っているように見えるのに、やや疑問を感じる。鳥居の近くにある筈の説明版が見当たらない。武蔵村山市の史跡の丁寧な説明が、この社に及んでいないのが不思議。
原山鳥居

 石段を上って拝殿(写真)に着く。建物の手入れがあまり行き届いていない様子。

原山拝殿

 こじんまりした本殿(写真)は、拝殿の後ろに離れて建っている。拝殿と本殿が離れている神社は、このシリーズでは初めて。結構大きな拝殿(社殿)が先に造られ、そこに同居していた神様を、後で造った小さな本殿に移したように思うのだが・・・・・・

原山本殿

 この神明社が原山村の鎮守か氏神様と思われるが、武蔵村山市資料にも全く記載がないのが不思議。 これで武蔵村山市内の神明社は3社目。1km 程度の間隔で、同じ神社が3社もあるのは驚き。この地域は空堀川、奈良橋川の水源地帯である。東大和市では干上がってしまう空堀川も、この辺りでは常時水が流れている。従って灌漑用水に富んだこの地域では稲作が容易で、村人も裕福なため神明社を三つも造ったというのが私の推理。真福寺という大寺の存在も、昔の武蔵村山市の豊かさを物語っているように思える。
 この神明社の祭神は、各地の神明社同様、天照大神であるに違いない。神明社の総本社である伊勢神宮の格式は、日本最高の神社である。

 境内には、二つの境内社がある。 本殿の左には、赤い鳥居の稲荷神社(写真)がある。これまでの寺社めぐりで、境内社として圧倒的に多いのが稲荷神社。稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神で、稲の精霊を神格化した神で、いわば食物神である。それを神社の境内に安置するのは何のためか、これから学ばなくてはいけない。
 本殿の右にあるのが「武蔵国 大口真神 御嶽山」の札が貼りつけられている祠(写真)。神明地区の神明社の境内社で、大口真神には既にお目にかかっている。御嶽神社の境内社である大口真神社の札が、何故二つの神明社にあるのかは不明。二つの神明社が比較的近くにあるので、管理する人が同じなのかも知れない。 石段上の灯篭に御嶽神社、阿天利神社、秋葉神社、榛名神社の名が彫られている。これらが神明社に合祀された神社だとすると、右奥の御嶽神社はここに合祀されたのかも知れない。
原山稲荷 

原山御嶽
 
 境内の右奥の丘に「六ツ指地蔵尊」の祠(写真)があり、説明版に「江戸時代のはじめ、屋敷山に前島十左衛門という地頭の屋敷があり、この地を支配していました。その娘にどうしたことか指が六本あり、年頃になると世をはかなんで自殺したので、村人が彼女を哀れんでその菩提のために六ツ指地蔵尊を建てたと伝えられています。今は子育て地蔵として信仰されています」と書かれている。 豊臣秀吉も指が六本あったといわれているので、六ツ指であっても男は出世できるが、女は哀しい運命を辿らなくてはいけないとは無常なこと。 

原山六指

 殺されたり自殺した人を供養した地蔵尊が、何故子育てのご利益と結びつくのか分からないけれど、最後は六ツ指の娘にホロリとさせられて、原山神明社を後にした。

狭山丘陵寺社めぐり 16 入り天満宮 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 16 入り天満宮

 真福寺を後にして、丘陵上を東に向かって歩くと、「入り天満宮」に着く。神社の横から境内に入ったけれど、参道の入口は青梅街道に近い丘陵の下にある。 入口から石段を上ると「一の鳥居」(写真)が立つ。これは直線的な神明作りの鳥居。

天満宮一鳥居
 
 参道を進むと広い境内に出る。そこに赤い笠木の両端が上に反った明神系の「二の鳥居」が立っている。この赤い鳥居こそ天満宮の鳥居に相応しいように思われる。神社内で二つの鳥居が違うのは、この入り天満宮が初めてであるが、合祀した神社がある場合、合祀された神社の鳥居も必要なのではなかろうか?

天満宮二鳥居

 天満宮としては少し小振りな社殿(写真)が建っている。

天満宮社殿

 私が入ってきた境内横の入口に説明版があり「元は真福寺持ちでしたが、明治時代以後神仏分離により、入りの氏神として氏子が管理するようになりました。祭神は菅原道真公で、ほかに真福寺持ちであった八坂社・稲荷社・水天宮が合祀されています」と書かれている。 「江戸時代には真福寺の境内社として、入り天満宮が真福寺境内や墓地を守っていたが、明治時代に真福寺から分離独立し、入り地区の氏神様となった」と解釈したが如何なものか?
 13報、熊野神社で番太池の説明版に「番太池は入りの田んぼと中藤の田んぼの灌漑用貯水池」と書かれていた。広い谷津の北側が中藤地区で、南側が入り地区と分れているのだろうか。中藤地区の鎮守が熊野神社で、入り地区の氏神が入り天満宮となる。
 菅原道真を祭神とする天満宮・北野神社・菅原神社・天神社は、全国に一万四百四十一社もあり、日本の神社では稲荷社、八幡社、神明社に次いで第四位である。菅原道真はふだん「天神さま」と呼ばれ、学問、文筆の神としての天神信仰が、一般庶民の間に広く浸透したのは、江戸時代に寺子屋が隆盛してからのことである。所沢市には有名な北野天神があるが、狭山丘陵南麓には入り天満宮以外に天神さまが見当たらない。昔の武蔵村山市周辺は、寺子屋や学問が盛んな土地であったのだろう。
 全国の天神さまの総本社は、京都市の北野天満宮である。次いで有名なのが、道真が詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という一首で、彼の愛した梅が一夜にして京都から飛んできたという、福岡県の大宰府天満宮。東京では湯島天神や亀戸天神が有名である。 私は北野天満宮には参拝していないが、大宰府天満宮(990社目、写真)湯島天神(664社目)亀戸天神(1811社目)には参拝している。

大宰府天満宮033

 社殿の左に赤い鳥居をもつ境内社(写真)がある。小さな社の内部に、おもちゃのような社殿が並んでいたのが、合祀された神社なのだろう。 合祀された八坂社、稲荷社はこれまでにも取り上げたが、水天宮は初めて。水天宮は水と子供を守護する神様。奈良橋川の水源や番太池・赤坂池の守護を祈願する社と思われる。

天満宮境内社

 入り天満宮を後にして、青梅街道のバス停に向っていると、路傍に馬頭観音(写真)が祀られている。 馬頭観音は観音菩薩の変化身の一つであり、観音としては珍しく忿怒の姿をとる。江戸時代以降、荷運びの馬が急死した路傍や馬捨場などに馬頭観音が祀られ、動物供養塔としての意味がつよくなっていったとされる。青梅街道が大きく南に曲がるこの地で、馬や動物にかかわる出来事があったのだろうか?

天満宮馬頭

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