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狭山丘陵寺社めぐり 15 真福寺 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 15 真福寺

 今回は武蔵村山市の寺社のハイライト「真福寺」を紹介する。谷津と呼ばれる谷間の南側の丘陵の上に建つのが真福寺。 入口のしだれ桜が五分咲き(写真)で美しい。

真福寺入口

 参道を進むと、江戸時代の建立とされている荘厳な山門(写真)がある。説明版には「山門楼上にかけられている梵鐘は、寛永十五年(1638)に檀家の協力により鋳造された。梵鐘に、この寺が正応三年(1290)に瀧性法師によって再興されたことなどの由緒が刻まれており、年代のうえからも貴重なものとして、第二次世界大戦の時に供出を免除された。宝暦年間当寺が火災にあった際、亀裂が入り撞けなくなった」と書かれている。 第二次世界大戦の末期にあっても、日本政府は由緒ある鐘の供出を強要しなかったことを知り、安堵感を覚えたのだった。

真福寺山門

 山門をくぐると広い境内に、とても大きな本堂(写真)が建っている。説明版には「龍華山清浄光院真福寺と号し、奈良時代和銅三年(710)行基によって創建され、その後承久二年(1220)に雷によって焼失したと伝えられる故利です。正応三年(1290)に龍性(瀧性ともいう)法師によって中興開山されました。現在の本堂は安永七年(1778)の建立で、本尊は薬師如来」と書かれている。 真福寺は真言宗豊山派のこの地方での本寺。狭山丘陵周辺の真言宗豊山派の22寺が真福寺の末寺であり、既に紹介した東大和市の雲性寺、蓮華寺、慶性院が末寺に含まれる。

真福寺本堂

 奈良時代の超有名僧、行基の創建は如何なものか。既報の安楽寺も行基の創建を伝え、5報はやし堂の如意輪観音像、9報慶性院の薬師如来像も行基の作と伝えられている。行基の活動は西国が主体であるので、関東地方における行基の寺院の創建や仏像の作成には疑問が多い。昔の寺院が信者や檀家を増やすために、行基というブランドネームが必要だったと推定した。
 ご本尊は雲性寺が阿弥陀如来、蓮華寺と慶性院が不動明王であったのに対し、真福寺は薬師如来。真言宗豊山派は本尊にこだわりがない様子。 薬師如来は薬師(医薬の先生)の名前通り、病気を治す功徳があるとされる仏様。阿弥陀如来の住まいが西方極楽浄土(苦しみのない安楽の世界)であるのに対し、薬師如来の住まいは東方浄瑠璃世界(地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りの世界)であり、日光と月光という二菩薩をともなっている。 チベットに旅行した時、現地ガイドが「田舎に住むチベット人は、病気になっても医者に行かない。ただ薬師如来にお祈りするだけ」と言っていたのが思い出された。これは迷信や医療費用不足の問題と片づけるよりは、「薬師如来にお祈りすれば病気が治るし、万一死んだとしても浄瑠璃世界に行ける」との信仰心によるものと思える。
 本堂前に天井図の写真(写真)があり「本堂の格天井に描かれている花鳥画は、天保十年(1839)檀家及び末寺の協力により完成した。一般には、百花百鳥といわれ、百枚に花、九十九枚に鳥、一枚に竜が描かれている。作者は、石川文松で現青梅市に生まれ、多摩や入間地方を中心に活躍した画人であり、当寺には花鳥画のほかに同人作の『板戸の十六羅漢画』が残されている」と書かれている。 近くにいた僧侶に「天井画を見たい」と問うたが「公開していない」と断られたのが残念。

真福寺天井絵

 境内には鐘楼(写真)や五輪塔が配置され、風格のある大寺。 徳川家康より御朱印地(将軍の朱印状によって領有を認められた寺社の領地)として20石が与えられたという。

真福寺鐘楼

 本堂の左手丘陵に、江戸時代建立と伝えられる「観音堂」(写真)が建っている。詳細が不明なのは、享保(1742頃)と宝暦(1757頃)の二度の火災で文書類が焼失したため。「境内では観音堂が一番古い建物」と、先程の僧侶に教えてもらった。 「狭山観音二十番札所」の石碑がある。雲性寺が十八番、はやし堂が十九番札所だった。 観音堂にはご本尊として阿弥陀如来が祀られている。阿弥陀如来の左右には、江戸時代の中頃から奉納され始めた百体観音が安置されている。1月第4日曜日に護摩供養があり、その時に観音堂内部が公開される。 観音堂前の桜が満開。陽当たりのよい丘陵の上なので、桜の開花も早かったようだ。

真福寺観音堂

 この丘陵の上は城跡だという説がある。武蔵野を見下ろす展望の地であるから、城や砦があってもおかしくない。奈良橋川や空堀川の源流地帯なので、城の命である水源にも恵まれていたことだろう。

 真福寺に別れを告げ、丘陵の上を東に下って行くと、掘割のようになっている青梅街道を横切る。道路の両側が崖のようになっているので、丘陵を削って青梅街道を造ったように思われる。 青梅街道の東側の石段を上ると、丘陵の斜面一帯が墓地。広場には「十王堂」(写真)というお堂が建っている。 
真福寺十王堂

十王堂の近くに背の高い石仏(写真)があり、その前に「堂山墓地の如意輪観音像」の説明版が立ち「この如意輪観音像は慶安五年(1652)の年号から江戸時代も前期の石仏として、市内でも古い部類に属するもの。如意輪観音像は、木像では一面六臂(六腕)のものが多いが、石仏では一面二臂に簡略化され、しかも小型のものが多い。しかし、この像は石仏では非常に珍しい大型の一面六臂であり、総高は百五十四センチメートルを計る」と書かれている。はやし堂のご本尊が行基作と伝えられる如意輪観音だった。 この墓地を訪れて、よい石仏を見つけ勉強になった。それも武蔵村山市の親切な説明版があったためで、市の史跡への配慮に感謝したい。

真福寺如意輪

 この堂山墓地が真福寺の墓地であることを知り、観音堂裏にも墓地がある真福寺のスケールの大きさに感服した。真福寺周辺の中藤地区には、神社は7社を数えるが、寺院は真福寺のみ。従って真福寺は多くの檀家を持ち、22の末寺を有する大寺で、かつ裕福なお寺であることが推定される。 
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狭山丘陵寺社めぐり 14 仙元神社 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 14 仙元神社

 今回は武蔵村山市中藤地区の北端に位置する「仙元神社」を紹介する。 我が家から自転車で多摩湖を周回する多摩湖自転車道を、西に向かって走る。7報で紹介した豊鹿島神社の奥宮を過ぎると、あまり好ましくないホテル街を過ぎた左手に、小高い丘が出現。この丘が仙元神社の「富士塚」である。 富士塚の下に建つ小振りな仙元神社(写真)に参拝する。社殿は文化三年(1806年)に再建された古社。
仙元社殿

 神社の右手に「谷津仙元神社富士講」という説明版が立ち「谷津仙元神社富士講は、富士講を信仰行事として続けている都内でも数少ない団体です。 谷津地区に富士講を伝えたのは、富士講中興の祖食行身禄から5代目の先達星行であるといわれています。この時、星行から直接教えを受けたのが、谷津の山行星命(俗名藤七)と呼ばれる農民でした。 谷津講社に残る富士講文書の中には星行の署名が残されているものがあります。これらの古文書から谷津富士講が興ったのは寛政から文化期であったことがわかりました。 社の裏の小高い山は富士塚で、登山できない人たちがここに登り、富士山を遥拝しました」と書かれている。 仙元神社の社名の上に「身禄山」と書かれているのは、中興の祖の名前を号しているようだ。しかし神社を〇〇山と号するのは珍しい。
 この説明から、仙元神社は富士山信仰の神社であるから、静岡県富士市にある「富士山本宮浅間(せんげん)神社」の「せんげん」を、「浅間」から「仙元」に書き替えたことが推定される。社殿の左後ろに立つ大きな石碑に「富士山登山・浅間神社参拝記念」と書かれているので、私の推定に間違いはなさそう。 仙元神社の祭神は分らないが、浅間神社の祭神は美人の誉れも高い木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)であり、木花咲耶姫命を祭神とする浅間系の神社は、全国に千三百社を数えるという。 私は30年くらい前に富士浅間神社を参拝しているが、富士山頂にある浅間神社の奥宮には参拝していない。浅間神社の神徳は農業、漁業・航海、安産・子授け、火難消除、繊維業守護とあるが、この地は江戸時代に木綿縞を織ったと学んだので、繊維業守護の意味があったのではなかろうか。
 木花咲耶姫命は、日本の山の神の総元締・大山祇神の娘で、天照大神の孫にあたるニニギ尊と結婚して、天照大神の子孫を生む神母とされる。 ところが山男の友人が「大昔、富士山と八ヶ岳の高さは同じだった。それを不服とした富士山の女神が、八ヶ岳の頂上を殴りつけた。殴り飛ばされた八ヶ岳は富士山よりも低くなり、山の頂上がギザギザの八つの峰となってしまった」と教えてくれたことがある。 女性の神様はとんでもない乱暴者であるが、それに比べ人間の女性はとてもやさしいのが嬉しい!

   社殿の裏に建屋があり、中に二つの仏像と祠(写真)が並んでいる。真ん中の仏像の下に「星行佛」と書かれているように見える。その左右に市ヶ谷柳と江戸麹町と書かれ、都内または江戸から奉納されたことが推定される。この谷津や中藤地区以外からも参拝者があった様子。 祠は浅間神社であろうか。
仙元家屋

 富士塚に登る。高さ20m はあるようだ。塚というからには、人が造ったものであろう。頂上は平坦な広場(写真)で、ここから富士山を遥拝したのだろう。

仙元広場

生憎広場から富士山が見えない。後日富士山がよく見える日に富士塚に来てみると、南方の木々の間から富士山が見えた(写真)。狭山丘陵から富士山を見るのは容易であるが、わざわざここに小型の富士山を造って、その上から富士山を遥拝するとは、まさに信仰の力である。この富士塚を造った原動力は、人々の信仰の強さか、この地の支配者の力か、いずれなのだろうか?

仙元神社富士山030
 
 広場の奥に小さな祠(写真)があり「浅間神社」と刻まれていた。これで仙元神社と浅間神社が完全に結びついた。 帰途、仙元神社の傍に、中藤から上ってくる舗装道路を発見。中藤村と多摩湖に沈んだ石川の谷を結んだ、昔の幹線道路の峠に仙元神社を建立したように理解した。

仙元祠


ブログ発信後に気付いたけど、仙元神社の社殿が、近くの熊野神社の社殿とよく似ている。ある宮大工さんが両神社の社殿を造ったか、どちらかの社殿を真似して造ったように思われる。同じ村内の神社なので、当たり前の話かもしれない。

狭山丘陵寺社めぐり 13 熊野神社 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 13 熊野神社

 武蔵村山市の「八坂神社」の参拝を終え、青梅街道を西に向かう。青梅街道が大きく南に曲がる個所に建つのが「熊野神社」 参道の入口には、白い神明系の鳥居(写真)が立っている。鳥居の傍に説明版があり「江戸時代は真福寺持ちでしたが、明治時代になって愛宕神社と合祀し、谷ツの鎮守となりました。社殿内には『指田日記』の筆者指田摂津正藤詮の筆による熊野権現の額が掛けられています。 祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)天照大神」と書かれている。 「指田日記」については、後日取り上げることにする。
熊野神社鳥居

 丘陵に架かる石段の上に、こじんまりした社殿(写真)が建っている。八坂神社のような木立もなく、陽光をいっぱい浴びた明るい感じの神社。

熊野神社社殿

 熊野神社については第3報の、東大和市蔵敷の熊野神社で説明済である。蔵敷の熊野神社の祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊であったが、当熊野神社の祭神は伊弉冉尊の代わりに天照大神となっている。熊野神社であるのに、いずれも熊野三神を祀っていないのが不思議。
 丘陵の尾根の狭い境内には、社殿の左に二つの境内社(写真)がある。社殿のすぐ左には稲荷神社。その左には愛宕神社の祠が建っている。合祀したと書いてある、京都市の愛宕神社を総本社とする愛宕の神様は、防火の神として有名。

熊野神社境内社

 社殿の右には「日露記念碑」が立ち、その後ろに境内社と熊野神社神輿舎が建つ(写真)。武蔵村山市資料には、境内に御嶽神社を建てたと記載されているので、その可能性はある。 神輿を繰り出す熊野神社のお祭りは有名なようで、インターネット・ヤフーで「武蔵村山市谷津熊野神社例大祭『川崎囃子保存会』―You Tuboで検索すると、ビデオで撮った祭の様子を楽しむことができる。

 
熊野神社日露碑

 境内には石碑があり「奉納―畑参段歩 昭和十三年十一月 内野誠治七歳記念」と刻まれている。「内野家の坊やが7歳に成長したので、畑を3反歩奉納した」という意味か。私の誕生が昭和十三年十月。私の生まれた翌月に、この石碑が造立されたとは興味深い。内野誠治氏が生きておられたら、現在81歳を迎えられたことになる。

 これで熊野神社の参拝を終えた。この地は中藤の「谷津地区」で、熊野神社は谷津の鎮守である。この地は東大和市を流れる奈良橋川の源流にあたる。狭山丘陵の中に奈良橋川が食い込んで、丘陵を浸食したので、まさに谷(谷ツ)の形をなしている。我が家のある廻田谷ツよりは、谷の幅がとても広く、稲作にはとても適した土地だと思われる。 昔、小学生の息子と一緒に奈良橋川源流を目指し、この地に来たのを思い出して、奈良橋川に沿って谷の奥に向った。 熊野神社から1km程度川上に「番太池」(写真)という池があった。この池に流れ込む小川が、奈良橋川の水源と推定。説明版には「番太池は上と下の二つの池からなり、江戸時代は御嶽の溜井といわれていました。赤坂池とともに、入りの田んぼと中藤田んぼの灌漑用の貯水池として使われ、以前は堰堤の下に木管が埋設され栓が施され排水や止水の調節をしていました」と書かれている。廻田谷ツの貯水池「二つ池」よりもはるかに大きな番太池があるということは、谷津地区は稲作の適地であったことが、容易に推定される。 更に中藤地区の他に「入り地区」の存在が分り、近くの「入り天満宮」の意味も知ることができた。
熊野神社番太池

 番太池のそばに「赤坂トンネル」(写真)があった。これは多摩湖(ダム)建設の時に、多摩川から砂利運搬用に敷設された「羽村村山・山口軽便鉄道」の軌道跡。今はサイクリング道路となっており、赤坂トンネル内を東に向かって歩いた。

熊野神社トンネル

 トンネルの向こうで舗装がなくなり、山道を下って行くと「赤坂池」(写真)に出た。これは浅くて広い池。説明版には、番太池とほぼ同じことが書かれていた。

熊野神社赤坂池

 神社の説明版もさることながら、貯水池にまで十分な説明のある、武蔵村山市の史跡説明の配慮には感心した。東大和市の史跡説明よりは上手。昔、日産自動車工場があったのが、市の財政を豊かにしていたのであろうと推定。各地の寺社めぐりをすると、寺社の説明の行き届いている市は少ないことを痛感しているだけに、武蔵村山市に配慮には感謝したいものである。

寺社めぐり 3 安楽寺の桃の花 (青梅市成木地区)

寺社めぐり 3 安楽寺の桃の花

 青梅市成木の安楽寺の桃の花(写真)を紹介します。

安楽寺桃の花

 本日(3月26日)安楽寺(℡0428-74-6085)に問い合わせると「桃の花が満開」と告げられ、都バスで東青梅駅に行き、小曽木循環バスに乗り換え、成木一丁目自治会館前で下車。 そこに立つ「成木山安楽寺御参道」と「軍茶利明王御参道」の石柱(写真)が、安楽寺の山門らしい。

安楽寺山門

 御参道をまっすぐに歩くと「軍茶利明王」の山門(写真)がある。山門内の二体の金剛力士像の憤怒の形相が迫力十分である。

軍茶利山門

 本堂(写真)には軍茶利明王が祀られていると思われる。軍茶利明王は密教において宝生如来の教輪転身とされ、様々な障碍を除く仏様。その恐ろしい姿(写真)を紹介するが、これは安楽寺の軍茶利明王ではない。

軍茶利本堂

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軍茶利明王028

 軍茶利明王の坂上に安楽寺が建っている。その坂道の左右が桃林で、冒頭に紹介した写真のように桃の花が満開でとても美しい。
安楽寺の境内に咲くしだれ桜も満開(写真)。石造りの大きな常夜灯が貫禄十分な威厳を示している。

安楽寺しだれ桜

 非常に横幅のある大きな本堂(写真)は、元禄六年(1693年)に建立されたもので、都内に現存する書院風本堂のなかでは最も古いもの。

安楽寺本堂

 安楽寺は成木山愛染院と号し、和銅年間(708~714年)に行基が軍茶利明王を彫刻して一堂を安置したのが始まりとされる。源頼朝や足利尊氏や小田原北条氏らの尊信を集め、徳川氏よりも寺領七石を賜っていた。 東大和市でも二つの仏像を作った行基が、青梅市にも登場するのは如何かと思うが、安楽寺が昔からの大寺であったことには納得。 安楽寺はもともとは軍茶利明王を祀る堂の別当寺として建てられたという説もある。
 安楽寺は真言宗の単立寺院。本尊は愛染明王、不動明王、軍茶利明王で「成木の軍茶利様」として親しまれている。
 
 安楽寺の境内に立つ大杉が目立つ。幹周り6.5m 。樹高37m の杉の大木(写真)は、東京都指定天然記念物。埼玉県との県境に近いこの辺り一帯は、杉の生育に最適の環境を備えているそうだ。

安楽寺大杉

 安楽寺前の道路は「安楽寺通り」と名付けられ、街路樹の桃の並木(写真)がとても美しい。

安楽寺通り

 山の中腹にある安楽寺通りを歩くと「大多摩霊園」に至り、そこから坂道を下りて成木川沿いに引き返し「光照院(成木不動尊)」に参拝して、再び成木一丁目バス停に戻った。 バス停付近からの桃の花の遠景(写真)も美しかった。 桃以外にも桜、モクレン、レンギョウ、芝桜などの沢山の花を見ることができ、とても楽しい寺社めぐりであった。

桃遠景

狭山丘陵j寺社めぐり 12  八坂神社 (武蔵村山市中藤)

狭山丘陵寺社めぐり 12 八坂神社

今回の狭山丘陵寺社めぐりは「八坂神社」を取り上げる。 
 青梅街道の大橋バス停の近くに「大橋の地蔵尊」の祠(写真)があり「この地蔵尊は享保十三年(1728年)に中藤村の人々によって造立したものです。地蔵は現世と来世を結びつける仏として庶民にしたしまれてきましたが、この地蔵尊も土地の人々の信仰が篤く、無病息災や交通安全を祈ってお参りする人が大勢います」の説明版がある。 バスで通過する度に気にかかっていた地蔵尊であったので、今回参拝できてうれしい。

八坂大橋地蔵

地蔵尊から青梅方面に向かって歩くと、右手の参道に八坂神社の一の鳥居(写真)が見える。その近くに説明板があり「祭神 素盞鳴命(スサノオノミコト) 建立年代は不明ですが、境内に弘化二年(1845年)建立の常夜灯があります。また立皮(たてかわ)の桜と呼ばれる幹回り二メートルに及ぶ桜の名木があります」と書かれている。

八坂一鳥居

赤っぽい笠を持つ、歴史の重みのありそうな二の鳥居(写真)をくぐる。いずれも笠木の両端が上に反って曲線的なので明神系の鳥居。明神系の鳥居の代表的な神社が八坂神社と稲荷社といわれている。
八坂二鳥居

 次いで石段を上ると広い境内があり、その向うに建つのが八坂神社の拝殿(写真) 社殿は大きくないが、静寂な木立の中に建ちとても雰囲気のよい神社。4つの常夜灯があったが、弘化二年の常夜灯の確認を怠ったのが残念。

八坂拝殿

本殿(写真)は拝殿よりも小振りに出来ていた。

八坂本殿

八坂神社の総本社は京都市の八坂神社。八坂神社は祇園にあるので「祇園さま」、素盞鳴命は牛頭天王とも呼ばれるので「天王さま」と親しまれている。この神社は江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたようだ。 京都の八坂神社には既に参拝したように思うが、昔のことで神社の記憶は定かではない。 まだ現役だった頃、会社の新年の安全祈願を、東村山市の八坂神社で行っていた。西武線八坂駅の近くの神社だったので、八坂地区の氏神様かと思っていたけど、八坂神社に因んでこの地域を「八坂」と名付けたのだと、今にして思い当った。我が浅学を恥じるのみ。 
素盞鳴命を祭神とする八坂神社の仲間には、関東に多い氷川神社や中部地方に多い津島神社があり、これらを含めると八坂系神社の総数は2651社もあり、全国で6番目に多い神社である。 神徳は水難・火難・病難除去、五穀豊穣とされる。
素盞鳴命は天照大神の弟で、乱暴な神様として有名。それでも八岐大蛇退治で稲田姫を救い妻としている。私の趣味の寺社めぐり713社目が、島根県松江市の八重垣神社(写真)で、祭神の素盞鳴命と稲田姫を祀り「縁結びの神社」として有名。若い女性の参拝者が多かったのが思い出される。 私の出身の島根県の「石見神楽」では、素盞鳴命と八岐大蛇の豪快な大立ち回り(写真)が人気である。
八重垣神社024

石見神楽027

境内には二つの境内社(写真)があり、いずれにも狐の置物があるので稲荷神社と推定。境内社に稲荷神社が多いのは、五穀豊穣を祈る人々が多いためだろう。「古事記」では稲荷神社の祭神、倉稲魂命は素盞鳴命とオオイチヒメ命の間に生まれた子どもとされている。素盞鳴命には稲田姫という夫人がいながら、別の姫との付き合いがあるとは、神様の世界も人間社会とあまり変わらないようである。
八坂境内社

境内の「立皮の桜」(写真)が五分咲きで美しい。但し幹回り二メートルと書かれたような大木ではない。木の前には「立皮の桜」の看板があるから、桜の大木は昔の話で、今の桜はその子孫なのかも知れない。
「立皮とはどんな意味なのか?」と疑問を抱えたまま、桜花の美しい八坂神社を後にした。

八坂桜 

ロシア旅行 7日目  サンクト・ペテルスブルグ

 ロシア旅行も最終日。再びサンクト・ペテルスブルグに戻り、最後の観光となる。

1 ピヨートル大帝の夏の宮殿  サンクト・ペテルスブルグ

 午前の観光は「ピョートル大帝の夏の宮殿」 ガイドの説明「サンクト・ペテルスブルグから30km離れた場所に、ピョートル大帝が1723年(日本では徳川吉宗の時代)に、夏を過ごす宮殿を建設した。200以上の噴水と庭園が有名な世界遺産の宮殿」 宮殿の中心に建つ「大宮殿」の前のテラスから、斜面に多くの噴水と池が見渡せる。ガイドの説明「このテラスを利用した噴水群は『大滝』と呼ばれ、斜面には37体の銅像と64の噴水がある。これから一斉に噴水が吹き上げるので、階段を下りながら見物しよう」 音楽と共に噴水が吹き上がり、見事な風景(写真)。斜面を利用しているので、とても見物しやすい。ローマの「トレビの泉」よりもはるかに大規模で、これまで私の見た噴水群では世界一の規模。

夏の宮殿1

噴水を見ながら階段を下りる。宮殿、噴水、池が立体的に配置され、見ごたえのある景色(写真)。

夏の宮殿2


2 エカテリーナ宮殿  サンクト・ペテルスブルグ

午後の観光は「エカテリーナ宮殿」 宮殿前の広場に立つと、金色と青と白が見事に調和したカラフルな宮殿がとても美しい(写真)。 

エカ宮殿1

ガイドの説明「この宮殿はピョートル大帝の妃、エカテリーナ1世のために1724年に建設され、次いで有名なエカテリーナ2世が改築した」 宮殿内部に入ると金色の彫刻と鏡が美しい大広間(写真)に出る。ガイドの説明「船が難破してロシア人に救助された大国屋光太夫が、1791年この部屋でエカテリーナ2世に拝謁し、日本への帰国の許可を得た。井上靖著『おろしあ国酔夢譚』にその情景が書かれている」

エカ宮殿広間

 宮殿内を見学すると壁一面が絵画で覆われた「絵画の間」古代ローマ風の浮き彫りと絵画の見事な「緑の食堂」プリントされた絹の布地で壁が覆われた「青の客間」など、贅を尽くした部屋が続く。そして最後が有名な「琥珀の間」(写真) 壁一面が琥珀のパネルで覆われた世界唯一の部屋。琥珀の産地がバルト海沿岸に多いとはいえ、これほど大量の琥珀が飾られているのは感動的。この部屋はロシアの宝である。第二次世界大戦時にナチス・ドイツ軍により、琥珀が全部持ち去られたが、新生ロシア政府が2003年に琥珀の間を再現させ、その9年後に我々が「琥珀の間」を見学できたことを感謝しなければならない。

ロシア琥珀間023
 
 宮殿の裏側を歩き、広い庭園の一部を見学。しかしこの宮殿のハイライトは、庭園よりも青色が映えるロシア・バロック様式の美しい建物(写真)である。

エカ宮殿2


3 ロシアの「光と陰」

 これでロシア観光を全て終えた。古都サンクト・ペテルスブルグの美しい建物は見ごたえがあった。これがロシアの「光」の部分。
 ロシアの「陰」の部分は治安問題。 観光初日に、私の目の前でツアー仲間が、若者4人に取り囲まれて、ポーチを強奪された。しばらくして奪われたポーチがバスに返却されたのが奇妙。ポーチ内の現金はなくなっていたが、カード類を含めて現金以外は無事だった。 共産主義時代には贅沢はできないけど、国民はなんとか生きて行けた。それが自由主義に変換した結果、能力の高い人は豊かになったが、能力の低い人は貧しくなり、国民に貧富の差が拡大した。能力の低い若者たちが犯罪に走ったため、大都市の治安は極端に 悪化。モスクワ、サンクト・ペテルスブルグは、世界で最も治安のよくない都市となってしまった。
 ある泥棒の証言「私は昼に盗みに入る。夜は盗んだ金を持って歩くのが怖いから」という社会になってしまった。 このジョークを紹介して、ロシア旅行の紹介を終える。
 

狭山丘陵寺社めぐり 11 神明社(武蔵村山市中央)

狭山丘陵寺社めぐり 11 神明社

武蔵村山市にある二つ目の「神明社」を訪ねる。
青梅街道の「大曲り」交差点から、新青梅街道に向って歩き、突き当たった新青梅街道を青梅方面に300m歩くと「神明社」(写真)に着く。「お伊勢の森」と呼ばれた木立と鳥居が、新青梅街道を車で走るととてもよく目立つ神社。

鳥居

 鳥居を潜り、木立の中の参道を進んで、風格のある拝殿(写真)の前に出る。本殿(写真)の上には、前報の神明社で見た千木(ちぎ)という剣のような柱が天に向かっている。更に屋根の上には堅魚木(かつおぎ)という丸太のような柱が並んでいる。この屋根が神明造りの神社の特徴であり、伊勢神宮の本殿と同じ造りなのである。今開催中の大相撲のテレビ中継を見ていたら、この屋根の形が両国国技館の土俵の上の櫓(やぐら)と同じであることに気付く。土俵を伊勢神宮並みに神聖な場所としたことが推定される。 現在の神明社の社殿は1823年に再建され、更に1980年に改築したもの。

拝殿

本殿

 拝殿前には「主祭神名 天照皇大神 由緒:当神明社は宝暦十二年(1762年、江戸時代中期)桃園天皇の御代、此の地を御聖地と定められ御創建なされた。御祭神の天照皇大神は八百萬の神々の大祖の尊き神様であられ、伊勢の神宮に御鎮座なされており、当神社は畏くも伊勢神宮の御分霊を御祭神として奉斎しております。因にこの地は神社を中心として広い範囲にわたり其の地名を中藤村字御伊勢地と称されて来た。また三千坪の境内には樹齢数百年を経たと伝えられる杉の巨木が昼なお暗くうっそうと御神域を包んで神々しく、氏子崇敬者より『お伊勢様』或は『お伊勢の森』の尊称をもって今日に伝えられ、格式貴き神社として近郷近在はもとより遠くからの参拝者も多く厚い信仰を集めている」と書かれた掲示板がある。 別の掲示板には「横田・中藤村の総鎮守」と書かれている。
 上記掲示板から、昔の武蔵村山市には横田村と中藤村があったことが推定される。現在の武蔵村山市には中藤地区はあるが、横田地区はない。市の資料には「中藤の鎮守は神明社(お伊勢の森)、横田の鎮守は七所神社」と記載されているので、七所神社のある現在の武蔵村山市本町地区が、昔の横田村であることが分った。 
 次に不思議に思ったのは、神社が狭山丘陵から500mも離れ、しかも空堀川の南、即ち昔は民家のなかったような辺鄙な場所に建っていたこと。更に神社の入口、即ち鳥居が、民家のある狭山丘陵の反対側を向いていることも不思議である。今でこそ新青梅街道に面しているため当然のように思えるけれど、狭山丘陵沿いに住んでいた信者たちは、神社を半周して鳥居から入場するのは不便である筈。 不思議に思って神社に問い合わせると「この地に神社を建てた理由は、資料が火事で焼失したので不明。神社の鳥居は太陽を向くように、東か南に向かって建てるのが普通。ましてや神明社は太陽神である天照皇大神を祀っているので、鳥居が南向きであるのは当然。また鳥居は昔から引又街道に面して立っているのであって、後に造成された新青梅街道が偶然にも、神社前で引又街道を斜めに横切ったため」と教えられた。 そういえば、これまで訪れた狭山丘陵の神社の鳥居は、全て南か東向きであったので納得。

 本殿の左手の大木(写真)にしめ縄がむすんであるので「ご神木であろうか」と問い合わせると「境内の木は全てご神木であり、境内で最も高くて樹齢が古い樫の木に、しめ縄を施しているだけ」とのこと。これも勉強になった。

ご神木

 ご神木の裏側には常夜燈のような石造物があり、彫られた右の龍、左の虎がユーモラス。これは石灯篭であり、神社創建の時以来250年の歴史があるとのこと。

石灯篭

 再び拝殿に戻ると、賽銭箱の上に「神拝詞(となえことば)」と書かれた紙面には「祓え給い清め給え 神ながら 守り給い幸い給え」と書かれていた。子供の頃、近所の神社に同じ神拝詞が書かれていたので、声を出して拝んでいたことを懐かしく思い出した。
 

狭山丘陵寺社めぐり 10 神明社 (武蔵村山市神明)

狭山丘陵寺社めぐり 10 神明社

 多摩丘陵沿いに我が家から西に向かい、東大和市の寺社探訪を前報で終え、本報から武蔵村山市に入った。そして先ず訪ねたのが二つの神明社。今日は武蔵村山市神明地区に建つ「神明社」を紹介する。 前報の慶性院から北上し、狭山丘陵沿いの神明通にぶつかって、神明通を西に向かうと「神明社」に着く。 神明地区や神明通があることから、この神明社は昔からこの地では有名な神社だったに違いない。
 神明通を右折して、丘陵の上に建つ神明社への参道を進むと、白い鳥居(写真)が立っている。鳥居の縦柱、横木共に直線的な神明系の代表的な鳥居。 神明は「天地神明に誓う」などと使われるように、もともと八百万(やおよろず)の神総体に対する尊称だった。後にもっぱら伊勢神宮を指すようになった。

神明社鳥居

 鳥居を潜り石段を上ると、丘陵の上に建つ「神明社」の拝殿(写真)がある。神明地区や神明通から、相当な大社を想像していたが、こじんまりした村の鎮守という感じ。 参道の説明版には「建立年代は不詳ですが、以前遥拝所であったものを、神明ヶ谷の鎮守としたものといわれます」と書かれていた。 遥拝所とは「遠くへだたった所から拝む場所」であるので、この丘の上から伊勢神宮を遥拝していたようである。伊勢神宮は富士山の方向にあるので、富士山に向って拝むことになる。イスラム教のモスク(教会)には、聖都メッカの方向を示すミフラーブという聖所があり、イスラム教徒はミフラーブに向って敬謙な祈りをする。神明社の遥拝所と同じ遥拝スタイルが、海外にも存在しているのが面白い。

神明社拝殿

 本殿(写真)の屋根の上には、伊勢神宮や各地の神明社で見られる鋭い柱が、天に向かって伸びている。この屋根の姿にはいつも神々しい威厳を感じている。

神明社本殿

 神明社とは、伊勢神宮の神霊を分祀して祀る神社のことで、全国に1万八千社もあり、稲荷神社、八幡神社に次ぐ数である。 祭神は天照大神であり、日本の八百万の神々の中でもトップランクに位置する神様。「天照」とは「天に照り輝く太陽」を意味する太陽神の女神であり、同時に日本の皇室の祖神としても祀られている。 我が家の本家にあった家系図に、10代くらい前までの祖先名が記入してあったが、それ以前の祖先は不明として・・・・・となっていた。その点線の最上部に「天照大神」と書かれており、私の祖先も「天照大神」であったことを思い出して苦笑い。
 伊勢神宮の神霊を祀る神社は神明社であるが、伊勢神社と名乗る神社は見当たらない。伊勢神宮即ち「お伊勢さま」は高貴なブランド名であって、一般の神社に伊勢というネーミングは、畏れ多いということで禁止され、代わりに神明が使われているに違いない。
 天照大神は太陽だから、稲作と深く関係するが、天照大神の霊力は万能であり、いわば何事にも打ち勝つ勇気や精神力を高め、人々に生きる力を与えてくれるものなのである。日本の歴代首相が、新年に必ず伊勢神宮を参拝し、日本国民の幸せを祈願する所以である。伊勢神宮には9年前に参拝したことがある。しかし社殿内に入ることが出来ず、建物の一部(写真)を見ただけ。伊勢神宮は皇居同様に皇室の領地なので、一般人の立ち入りは禁止されているのであろう。

伊勢神宮019

 本殿の後ろに、三つの境内社が並んでいる。 小さな鳥居を持つのが稲荷神社。 その横には板碑(写真)が祀られている。どのような板碑かは分らないが、きっと貴重な板碑なのだろう。 更にその横にある祠の中に「大口真神御符」が貼られている。大口真神とは、狼を神格化したもので、猪や鹿から作物を守ることや善人を守護し悪人を罰する信仰とされる。 武蔵村山市資料では、神明社の境内社は御嶽神社となっている。御嶽神社の境内社に狼を祭神とした大口真神社があるので、祠には大口真神社の御符が貼りつけられているのだろう。

神明社板碑

 本殿の裏から丘陵の稜線に出ると、茶畑の中に神明社が建っている(写真)。富士山を見渡せる景勝の地に社殿が建ち、まさに神明地区の鎮守として相応しい神明社であった。

神明社全景

ロシア旅行 6日目 モスクワ

 本日はロシアの首都、モスクワの観光。たった一日だけの観光なのが物足りないけど、サンクト・ペテルスブルグ観光に三日も当ててあるのでやむを得ない。

1 赤の広場  モスクワ

 モスクワの最初の観光は「赤の広場」 二つの尖塔を持つ美しい「ヴァスクレセンスキー門」(写真)より入場。

モスクワ門

 そしてついに「赤の広場」(写真)に到着。ガイドの説明「『赤の広場』の赤は、共産主義の赤ではなく、ロシア語の赤、即ちクラースナヤは古代スラブ語では『美しい』の意味。『赤の広場』は『美しい広場』を意味する。15世紀末に出来たこの広場は、現在でもモスクワの象徴。広場の北には皆さんの入った『ヴァスクエセンスキー門』があり、その左の赤い大きな建物はロシア最大の『国立歴史博物館』 広場の西の城壁は『クレムリン』を囲む城壁。広場の南には美しい『ワシリー寺院(正式名はポクロフスキー聖堂)』が建っているが、今は逆光で見え難い。最後に広場の東の建物は『グム(国立)百貨店』」 
レンガを敷いた広場は、中国・北京の「天安門広場」ほどは広くないが、これまで旅した欧米の広場の中では最大。それを取り囲む「国立歴史博物館」と「クレムリン」の尖塔、そしてワシリー寺院が美しい。 

モスクワ赤広場

ガイドに連れて行かれたのが、クレムリンの城壁前に建つ「レーニン廟」(写真) ガイドの説明「この建物の中に、1924年に亡くなったレーニンの遺体が永久保存され、公開されている。一時スターリンの遺体も並んで安置されていたが、1961年にスターリンの遺体は除かれた」 

モスクワレニン 

 「グム百貨店」に入り待ち合わせ場所を決めた後、1時間の自由行動となる。家内は買物のため百貨店に残ることになり、私は赤の広場観光に出掛ける。 先ず目指したのが「ワシリー寺院」(写真) 赤の広場からは逆光で見難かったので、寺院の後ろに回り、カラフルで美しいワシリー寺院の写真を撮る。テレビでモスクワが紹介される時に必ず登場する、ロシアで最も有名な寺院。この地を支配していたモンゴル軍との戦勝を記念して、イワン雷帝によって1560年に建てられた。イワン雷帝に使えていたワシリー修道士にちなみ「ワシリー寺院」と呼ばれている。中央の高さ46mの塔を中心に9つのネギ坊主の塔が組み合わさっている。そのあまりの美しさに驚いたイワン雷帝が、二度とこのような美しい建物ができないように、設計者の眼をくり抜いたという話が伝わっている。スターリン同様、独裁者は何をしても罪に問われないのである。なお雷帝と呼ばれたのは、その声が雷のように大きかったためとか。 

モスクワワシリ
   
 「グム百貨店」(写真)は内部の通路が入り込んでいて、店の中に入り込みにくい(写真)。そして買い物客はあまり多くない。家内が「店員の態度がよそよそしい」と言っていた。グム(国営)なので倒産の心配がなく、働いても働かなくても給料は変わらない、共産主義時代の悪弊が残っていることが想像される。30年前の中国の店が同様だった。しかし鄧小平の近代化以降の中国では、店員の態度が一変し、お客サマサマとなってきた。「グム百貨店」も民営化すると、様変わりするのではなかろうか。まだ改革進行中のロシアである。

モスクワグム


2 クレムリン  モスクワ

  午後の観光は「クレムリン」 即ちスズダリで学習した「要塞」である。要塞に架かる橋を渡って、高さ80mの「トロイツカヤ塔」(写真)より内部に入る。ガイドの説明「クレムリンは長さ2235mの城壁に囲まれた要塞で、20の望楼があるが、このトロイツカヤ塔が最も高い。1812年、ナポレオン軍がクレムリンを占拠したが、ロシア軍の放火で大火事となり、この門から追い出された。その時、宮殿内のシャンデリア等が略奪され持ち去られた」 この堅固な要塞であっても、ナポレオン軍に攻略されたのを知る。

モスクワ入口塔2

 クレムリン内の道路沿いに大きな大砲と鐘がある。 ガイドの説明「この大きな大砲は『大砲の皇帝』(写真)と呼ばれ、1586年(日本は豊臣秀吉時代)に鋳造されたブロンズ製の大砲。口径890mm、重量40トンで、当時としては世界最大を誇っていた。大砲の前に置いてある弾丸は1トンもあるが、一度も発砲されたことがない。 大きな鐘は『鐘の皇帝』(写真)と呼ばれ1735年(日本は徳川吉宗時代)に造られた、高さ6.14m、重さ200トンの世界最大の鐘」 「大きな物好み」の共産党時代のソ連人の笑い話を紹介「ソ連のものはなんでも世界一だ。なんたって時計だって世界一速く進むし、マイクロチップだって世界一大きい!」 「大きな物好み」は共産主義時代のソ連人だけではなく、昔からのロシア人好みと分る。しかし日本には高さ15m、重さ250トンの「奈良の大仏」(鋳造された大仏では世界一)があるのだから、この程度の大砲や鐘に驚いてはいられない。 

モスクワ大砲 

モスクワ鐘

 クレムリン観光の最後は「ウスペンスキー大聖堂」(写真) 金色の尖塔を沢山持ち、フレスコ画の描かれたカスケードと白亜の壁が美しい。内部に入りガイドの説明「昔のロシア帝国の国教大聖堂として、ロシア皇帝が戴冠式を行った大聖堂。1479年(日本は室町時代)古都ウラジーミルで昨日見学したウスペンスキー大聖堂を模範として建てられた。教会内部はイコンとフレスコ画で飾られているが、年代順ではウラジーミルが最も古く、モスクワが続き、サンクト・ペテルスブルグのイコンは新しい」 結局「ウスペンスキー大聖堂」はセルギエフ・ポサートでも見学したので、ここが3回目となる。

モスクワ大聖堂
 
大聖堂の外には高さ81mの「イワン大帝の鐘楼」(写真)が建っている。ナポレオン軍がモスクワから敗退する時に爆破されたが、辛うじて破壊を免れて修復された鐘楼である。 

モスクワ鐘楼

 

狭山丘陵寺社めぐり 9 慶性院 (東大和市芋窪)

狭山丘陵寺社めぐり 9 慶性院

 多摩湖の湖底に沈んだ寺社(写真)の最も西側に位置した「慶性院」を訪ねた。 住吉神社の西南300mくらいの、武蔵村山市との境に建っている。

多摩丘陵寺社

 お寺の入口を示す山門は2本の石柱(写真)であり、家屋門ではない。家屋スタイルの慶性院の山門は、西武球場に近い多摩湖を見下ろす丘陵に「慶性門」(写真)として建っている。大正11年、慶性院が石川の谷からこの地に移転した時、この山門が石川の谷に取り残されていた。東京都からの補償金が少なく、当時の檀家は50軒程度で支援も十分に出来ず、山門移転の費用が捻出されなかったとのこと。 昭和29年、貯水池愛護会の有志が、荒れ果てたこの門を、現在の場所に移設したという。 1861年建立のこの門は長屋門と呼ばれ、門の両側の部屋に人が住む造りになっている。

慶性院山門 

慶性院慶性門

 大正11年にこの地に移転した本堂(写真)はとても大きい。それが400年前の慶長年間(関ヶ原の戦の頃)に建立されたと知り驚く。 慶性院は白部山医王寺と号す、真言宗豊山派の寺。狭山丘陵寺社めぐりでは、雲性寺、蓮華寺に続く、3寺目の真言宗豊山派の寺院。これまでの寺社めぐりの経験からすると、ある地域に同宗派の寺院が集中するケースが多い。これはその地域の支配者の信仰する宗派によるものではないだろうか? 慶性院のご本尊は不動明王。蓮華寺や成田山新勝寺と同じご本尊。どうやら不動明王は、真言宗には意味のある御仏であるらしい。 慶性院の開山は慶長六年(1601年)に入寂した承秀上人と伝えられる。寺名の慶性は慶長と同義語の転訛で、慶長年間の創建とする説がある。

慶性院本堂

 境内に赤い柱の小屋があり、内部に二つの石像が鎮座している。左が真言宗祖弘法太子像で、右が阿弥陀如来像。 その後ろには昭和44年に改修され鐘楼(写真)があり、昭和45年に鋳造された重さ525Kgの梵鐘が吊られている。石川の谷から持ってきた梵鐘は、昭和19年に軍用に供出されたとは哀れ。蓮華寺の学童疎開と同様に、慶性院にも太平洋戦争の陰が残っていた。

慶性院鐘楼

 境内の奥に建つのが「薬師堂」(写真) 「新編武蔵風土記稿」に「本尊薬師木の立像長一尺六寸、行基の作を置り」と記載されている。「はやし堂」と同様に、再び行基の作品が出現したのは驚き。あの世で行基も驚いているのでは・・・・ 慶性院はもとはこの薬師如来を本尊としていたが、1765年、真言宗に代わった時に現本尊、不動明王に代わったという。 石川の谷にあった当時は、この薬師堂が慶性院の奥ノ院であった。大正11年にこの地に移設された時に、本来は離れて建つ奥ノ院を、慶性寺の境内に建てざるを得なかったようである。

慶性院薬師

 墓地の入口辺りに、石川の谷から持ってこられたと思われる石造物が沢山並んでいる。三つの石像(写真)の真ん中の像に「石川谷」の彫刻が読み取れる。左は庚申供養塔である。 

慶性院石造

 山門の右手の小屋にも三体の石像(写真)がある。右の石像が「水天像」で、江戸時代末期の作品。「水天」は世界を守護する十二天の一つで、水難除けや雨乞いの祈願の対象となるため、池や川のほとりに建てられることが多く、石川の谷の傍に立っていたのだろう。水天像は日本では数少なく、都内に存在する水天像三基の一つで、とても貴重なものであると説明されている。 

慶性院水天

 山門の右手奥には「白山大権現」の小社(写真)がある。白山大権現とは石川県の白山比咩神社を総本宮とする白山信仰の神社。昔から慶性院の境内に建ち、お寺や墓地を守る神様。慶性院の寺号、白部山は白山を意味することが分った。

慶性院白山

 境内の庭(写真)は手入れが行き届き、とても美しい。寺院の規模も大きく本堂・薬師堂の歴史もあり、東大和市内では最高クラスの名刹と思った。残念なのは慶性門がないこと。慶性門がいつかこの地に再移設されないものか、と思いを馳せながら慶性院を去った。

慶性院庭園

ロシア旅行 5日目 スズダリ ウラジーミル

ロシア旅行5日目は、宿泊した古都スズダリの観光。次いで古都ウラジーミルを観光した後、首都モスクワに宿泊。

1 クレムリン観光 スズダリ
 
バスの中でガイドの説明「スズダリは12世紀にスズダリ公国の首都となり、15世紀から宗教の中心地として多くの教会が造られ、中世の雰囲気を残したロシアの田舎町として有名となり、世界遺産に登録された。町そのものが歴史博物館」 起伏のあるスズダリの町のあちこちに美しい教会が散在。これまでのロシアにはない牧歌的な風景。
スズダリ観光で最初に訪れたのが「クレムリン」(写真) ガイドの説明「クレムリンは要塞を意味する。ここは11世紀に造られた要塞跡で、今は聖堂、鐘楼、宮殿が建っている。

スズダリクレムリン

中心部に建つのが『ラジヂェストヴェンスキー聖堂』(写真)で、13世紀に建てられたスズダリで最も古い建築」 クレムリンというと、共産国時代のソ連でスターリンが君臨した厳つい建物の記憶が強いが、要塞の意味と知って成程と納得。昔のクレムリンは城壁で囲まれていたのだ。 長ったらしい名前の聖堂は、青い屋根が美しくロシアらしい建物。

スズダリラジ聖堂

古い城壁から出ると、川に木橋の架かかり、教会が散在するロシアの田舎風景(写真)。

スズダリ風景2

川向うの木造教会が絵になる景色。橋の上からの眺望は世界遺産に相応しい風景だった。 「木造教会」(写真)を見学。ノルウェーの木造スターブ教会のような豪壮さはないが、落ち着いた雰囲気のある教会で、今は「木造建築博物館」となっている。

スズダリ木造教会

2 ウスペンスキー大聖堂 ウラジーミル

 美しいロシアの田舎町スズダリ観光を終え、幹線道路をウラジーミルに向かって走る。30分も走ると古都ウラジーミルに到着。 ガイドの説明「ウラジーミルは1108年、ウラジーミル・モノマフ公が要塞を築いたのが始まり。1169年(日本は平清盛の時代)ウラジミール・スズダリ公国の首都となり、今に残る白石(石灰岩)の建築群が建設された。しかし1238年、モンゴル軍により町は破壊され、それ以降は新興のモスクワに政治の支配権が移った。町の人口は35万人」
バスを降りた近くの道路上に建つのが「黄金の門」(写真) ガイドの説明「これは古都キエフの黄金の門を模して、12世紀半ばに造られた城門。今もメインストリートを見下ろすように建ち、ウラジーミルの町の象徴的存在。かって町を取り囲んでいた城壁には7つの門があったが、現在残っているのはこの黄金の門だけ。門の上部には教会が造られていたが、現在は戦争の歴史に関する展示室。1238年にモンゴル軍の攻撃を受けるウラジーミルを再現したジオラマが、展示室にある」 ベルリンのメインストリートに建つブランデンブルグ門と似た位置づけのような門。私にはそんなに存在感があるとは思えない。しかしモンゴル軍に対するロシア人の恨みは、中国人や韓国人の日本軍に対する恨みに通じているように思えた。ロシア人のナポレオン軍やナチス軍に対する恨みよりも、モンゴル軍に何百年も支配された恨みの方が大きいように思った。

スズダリ黄金門

 バスで少し走り下車したのが「ウスペンスキー大聖堂」(写真) 芝生の丘の上に5つの黄金の丸屋根を輝かせた、威風堂々とした教会。 ガイドの説明「1158年に建設が始められ、14世紀まではロシアの大聖堂の最高位にあった歴史的な教会。建材は白石(石灰石)が使われ、この教会の姿がその後のロシアの教会の原型となった」 大聖堂の内部には有名なフレスコ画やイコンがあるらしいが、入場はなし。
スズダリウスペン

 次に見えたのが白亜の「ドミトリエフスキー聖堂」(写真) ガイドの説明「この聖堂で有名なのは、外壁一面に施された浮き彫り。加工しやすい白石(石灰岩)の外壁には、聖人、英雄、動植物が描かれ『石の詩』と呼ばれている」 

スズダリドミトリ

 これでモスクワ周辺の古都観光を終え、バスでモスクワに向う。

狭山丘陵寺社めぐり 8 蓮華寺 (東大和市芋窪)

狭山丘陵寺社めぐり 8 蓮華寺

 これから東大和市、最後の三社を訪ねる。この三社に共通するのは、いずれも多摩湖の湖底に沈んだ寺社であること。多摩湖のダム建設中に、湖底となる芋窪村石川の谷にあった三社(写真、青色は湖底に沈んだ平地。赤で囲ったのが蓮華寺、住吉神社、慶性院。下の青い線は奈良橋川)が、同じ芋窪のこの地に移転してきたのである。従ってこれまで訪ねた七社が奈良橋川の北側の、狭山丘陵内に建っているのに対し、これからの三社は奈良橋川の南側の平地に建っているのが特徴。石川の谷の人々が、奈良橋川南岸のこの地帯に、集団移転したことが想像される。
多摩丘陵寺社

 最初に訪ねる「蓮華寺」は、旧芋窪街道に面して建つ大きな寺院。 山門(写真)には「石澤山愛染院」「新義真言宗豊山派」と書かれている。
蓮華寺山門

 昭和42年に建てられた本堂(写真)はすごく大きく、東大和市の寺院では最大級の建造物と思われる。 大正12年移転してきた時建てられた木造の本堂は老朽化したのであろう。
蓮花寺本堂

 当寺の開山・開基は不明であるが、1631年入寂した承雲を中興開祖とする。1743年、中藤村真福寺より印可を受け、新義真言宗豊山派真福寺の末寺となる。この辺りの真言宗豊山派の20数社のまとめ役が武蔵村山市の真福寺(写真、山門)で本寺と呼ばれ、蓮華寺を含めその他20数社は末寺の関係にある。 蓮華寺、石澤山、愛染院の名称は、古い記録が焼失したので分らないようである。なお蓮華寺は蓮花寺とも呼ぶ。
真福寺山門

 蓮華寺のご本尊は不動明王坐像。因みに本寺・真福寺のご本尊は薬師如来。不動明王は如来や菩薩のガードマンであり、仏の位としては低いようである。私の持つ本の「真言宗の本尊」には「本来は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、そのほかに観音、文殊、地蔵などの菩薩なども祀られることもあります」と書かれ、明王や天などのガードマン仏にはふれられていない。しかし明王や天も立派な仏様であり、ご本尊にしてもおかしくはない。因みに同じ新義真言宗豊山派の成田山新勝寺のご本尊も、不動明王である。
 不動明王は、大日如来の化身の一つ。どんな悪人でも追いかけ衆生を救うため、憤怒相で現れたもの。日本へは真言宗の祖、空海が密教とともに伝えたとされる。

 境内にはいろいろな石造物が並んでいるが、大きな弘法大師(空海)修行尊像とその右に連なる水子地蔵菩薩を真ん中にした六地蔵(写真)を紹介しておく。
蓮華寺石造

 最後に当寺の美談を紹介する。昭和19年、第二次世界大戦の最中、都内赤坂小学校の児童の集団疎開を受入れ、翌年には戦災孤児となった13名の子供の世話をしている。寺は宗教活動ばかりでなく、こうしたいわば福祉活動やあるいは寺子屋といわれるように教育活動をおこなうものも多くあり、地域の発展に大きく貢献していることも忘れてはならない。
 
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