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ロシア旅行 4日目 セルギエフ・ポサード

 4日目はサンクト・ペテルスブルグ空港を発ち、モスクワ空港に着く。空港からバスで北上しセルギエフ・ポサートという田舎町に着く。

1 トロイツェ・セルギエフ大修道院  セルギエフ・ポサート

本日唯一となる「トロイツェ・セルギエフ大修道院」(写真)観光がスタート。16世紀に築かれたという高い城壁に囲まれている。 

      セルギエフ全景

ガイドの説明「モスクワの北東には環状に連なる古都群があり、それを『黄金の環』と呼び、モスクワ以上に長い歴史をもつ町が連なっている。このセルギエフ・ポサードの町も『黄金の環』のひとつ。この大修道院は、聖セルギウスによって13世紀半ば(日本は鎌倉時代)に創建された。彼は民衆から宗教的尊敬を集めるとともに、当時この地を支配していたモンゴル軍に対抗するため、ロシア諸侯のまとめ役ともなった。彼の祝福を受けたロシア軍が初めてモンゴル軍に勝利を収め、その後も彼にまつわる奇蹟が続き、遂には聖人に列せられた。修道院内には数々の教会があり、修道士が300人住んでいて、現在世界遺産に登録されている」 目の前の城壁がモンゴル軍との戦いに関連しているとは興味深い。遥か東方に住んでいたモンゴル軍が、この地にまで攻め寄せて支配したとは信じられないような事件。明確な国境のない地続きの国の恐怖そのものである。日本も鎌倉時代にモンゴル軍(元)に2度攻め込まれたが、神風(台風)のおかげでモンゴル軍が全滅したため、モンゴル軍に支配されることはなかった。日本の国境が海である島国の有難さを再認識させられた。
 修道院内に沢山ある教会の中で、先ず「トロイツキー聖堂」に入場。リディアさんの説明「1423年に完成した聖堂。聖セルギウスの墓所の上に建てられ、彼の棺が教会内に安置されている。天才イコン画家アンドレ・ルブリョフの描いたイコン(写真)が有名」 確かに壁や柱に多くのイコンが描かれている。歴史的にはこのイコンは価値が高いようであるが、「血の上の教会」で観たモザイクのイコンの方が美しさでは上。

      セルギエフイコン

 次いで入場したのが「ウスペンスキー大聖堂」(写真) ガイドの説明「イワン雷帝の命により1585年に建てられた大聖堂。タマネギ型をした4つの青いドームの中央に、金色の大きなドームを持ち、モスクワのウスペンスキー大聖堂を模した建物。内部は17世紀のフレスコ画で覆われている。タマネギ型のドームは、ローソクの炎の形を表している」 ドームの形は「血の上の教会」でガイドが言った「ローソクの炎」が正解で、旅行前に読んだ「タマネギ説」は崩れてしまった。その大聖堂の「ローソクの炎」のドームが輝くように美しい。青とか金色とかの鮮やかな原色が、ロシアの建物に見事に調和しているのが驚き。日本の侘び寂びの世界とは全く異なる世界。世界的にはイスラムの世界やペルーのインカの世界とも通じる民族色が、ロシアの建物にも共通していると気が付いた。

        セルギエフウスペン

 修道院内には数多くの美しい建物(写真)が建ち並び、世界遺産に相応しい風景。

      セルギエフ建物

 修道院の出口の前でガイドの説明「ロシア正教は東ローマ帝国の国教だったギリシャ正教の一派。988年(日本は平安時代)、ウラジーミル聖公がギリシャ正教を国教と定めた。東ローマ帝国滅亡を機会に、1448年ロシア正教として独立した。カトリックに比べ、ロシア正教の特徴は1立ったままミサを行う。2ミサでは楽器を使わない。3聖像やステンドグラスがなく、代わりがイコン・フレスコ画。4十字の切り方が逆」 「正教」というからには、キリスト教の中では最も正しい教えだと解釈したが、仏教における大乗仏教や小乗仏教の違いと似たようなものだろう。 私が気付いたもう一つのロシア正教の特徴は、教会の屋根に立つ十字架が、単なる十字ではなく、上に短い横棒と下に斜めの横棒が加えられ、計3つの横棒が並ぶ複雑な十字架であること。但しこの十字架はあまり見栄えがよいとは言えない。


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狭山丘陵寺社めぐり 7 豊鹿島神社 (東大和市芋窪)

狭山丘陵寺社めぐり 7 豊鹿島神社 

 いよいよ東大和市に寺社のハイライト「豊鹿島神社」を取り上げる。 青梅街道沿いに「郷社豊鹿島神社」と書かれた大きな石碑が立っている。郷社とは「厳島神社(村社)」の項で記載したように「村の行政機能を持つ社」であって、村社より格が高い。昔からこの地方では最高の格式を有する神社だったことが分る。
 長い参道を進み、一の鳥居(写真)に着く。笠木が直線的なので、新明系の鳥居である。鳥居を潜って進むと、石段の左手前に「鹿島の大欅(けやき)」と呼ばれた、枯れた大木の株(写真)がある。樹齢千余年といわれ、昭和の初めまでは枝が茂っていたご神木である。

            豊鹿島鳥居

            豊鹿島大欅

 石段を上ると、拝殿(写真)と有名な本殿(写真)が建っている。本殿前に置いてある「豊鹿島神社パンフレット」を頂戴する。狭山丘陵の寺社で、パンフレットが用意されているのは、恐らく鹿島神社だけではなかろうか。そのパンフレット主体に、以下記述してみる。

            豊鹿島拝殿

            豊鹿島本殿

 豊鹿島神社のご祭神は「武御加豆智命(タケミカヅチノミコト)」で、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(鹿島神社の総本社)のご祭神と同じ。日本神話では、イザナギ命が火の神カグツチの首を斬り落としたときに流れ出した血から生まれた剣の神で、日本最強の武神とされる。 1466年の棟札に「鹿嶋大明神」と書かれていたので、昔は「鹿島神社」と呼ばれていたが、明治以降に「豊鹿島神社」と呼ばれるようになった。何故「豊」を冠したのかは、よく分からないようだ。
 「武蔵名勝絵図」記載の社伝によれば、神社の創建は707年(文武天皇の時代)とされる。 現在の本殿は「新編武蔵野風土記稿」等に記載のあるとおり、文正元年(1466年)十月三日の棟礼が、平成五年の大改修で発見された。この改修で五枚の棟礼が見つかり、改修前の拝殿は安政五年(1858年)の完成であることが確認された。 本殿が1466年の建立であれば、都内に現存する最古にして唯一の室町時代建立になる神社本殿遺構であり、現在の東京都指定文化財どころか、国宝に指定されてもおかしくない。都内唯一の寺社国宝である東村山市の「正福寺地蔵堂」の建立が、室町時代の1407年。豊鹿島神社の建立は、正福寺より59年遅いとはいえ、同じ室町時代の建築なので、国宝級といえる。
 ところが青梅街道脇の神社入口の掲示板には「本殿の棟礼は天文十九年(1550年)を記しているところから、現本殿は1550年に再建されたものであろう」とも記されている。1550年建立となれば戦国時代となり、それでは国宝には及ばないということになろうか。この1466年と1550年の建立時期の差についてはいろいろな事情があるらしいので、素人の私の入り込む領域ではない。
 後日、ブロ友様から「豊鹿島神社に残された棟札は、文正元年(1466年)天文19年(1550年)天正4年(1576年)慶長6年(1601年)正保3年(1646年)の5枚が現存します。なお本殿改築の際その下に、更に古い時代の跡が発見されていますから、現在地への創建年代はそれ以前と想定されます」と教わった。
 これまで訪ねた八幡神社の社殿再興が1575年であり、厳島神社の創建が1588年であったので、1550年から1588年の間に、蔵敷・芋窪地区では寺社建築に関する大きな動きがあったのが興味深い。
 余談となるが、30年以上前に「鹿島神宮」に参拝したことがある。そして近くの「香取神宮」にも参拝した。面白いのは両神宮ともに武神を祭っており、更に剣豪の誉れ高い塚原卜伝を輩出している。 この武蔵大和の地にも鹿島神社があるということは、中世武士団武蔵七党の一つ、村山党とも関連するのでは、とは考えたくなるのである。

 境内には神輿を納めた建屋がある。神社の例祭(9月15日前後)に、神輿が繰り出されるようだ
 境内の案内板に「神社の獅子頭三点は江戸時代後期の作。市内の高木神社(一人一頭)と豊鹿島神社(二人一組)があったが、明治時代に途絶えた」と書いてある。
 境内社は10社を数え、その内住吉神社、八雲神社は摂社。その他の紅葉稲荷神社、白山神社、愛宕神社、稲荷神社、産泰社、日吉神社、御嶽神社、滝澤明神社は境内社と、パンフレットに記載されている。 摂社とは「本社の主祭神の荒魂・縁故のある神、あるいは古くからの地主神を祀る社のことで、本社に準じる資格をもつ」とされる。豊鹿島神社と同じ芋窪地区にある住吉神社とその境内社である八雲神社が、豊鹿島神社の摂社と分る。豊鹿島神社と住吉神社の、地元での結びつきが推定される。なお境内には二つの摂社の祠はなかった。 
 大きな神社の有力な神を勧請して境内に祀っている小社は「末社」と呼ばれる。摂社と末社は「境内社」とも呼ばれ当神社内の境内社では「紅葉稲荷神社」(写真)が最も大きくて美しい。更に「稲荷神社」と共に小さな鳥居を有していたので、境内社では稲荷神社二社が格上のように感じた。 紅葉稲荷神社は下関市にある社であるが、ここに勧請された理由は不明。 境内社の内、私の知らなかった「産泰社」は前橋市の安産・子育ての神社で、「滝澤明神社」は仙台市の火防の神を祀る神社と分る。

            豊鹿島稲荷

 最後に本殿の裏から坂を上り、100mほど歩くと、多摩湖一周サイクリング道路の休憩所に着く。この丘の上に豊鹿島神社の「奥宮」があり「豊鹿島宮、奥宮跡」のコンクリート柱(写真)が立っている。「奥宮」とは、山麓と山頂の二社に同一の祭神を祀る場合、山頂の神社を奥宮という。 狭山丘陵の寺社で、奥宮や奥ノ院を持つ寺社が、豊鹿島神社以外に存在するか、探すのが楽しみになった。

            豊鹿島奥宮

 奥宮から去りながら豊鹿島神社の森(写真)を眺めると、昔から豊鹿島神社がこの地区の信仰の中心地であった神々しさを感じ取った。今一歩で国宝となりかけた東大和市の歴史的建造物に、心から敬意を表したい。

            豊鹿島森

 最後にパンフレットに「芋窪」の地名が、「井能窪村」から「芋久保村」となり、江戸時代初めに「芋窪村」となったと説明されている。最初から「芋」があったのではなく、「井能窪」から推定するに、井戸や窪地のある水に縁のある土地だったのではないだろうか。 「芋」という字は現在ではあまり好まれないが、江戸時代以前には、水不足で稲作に適しないこの地方では、芋は重要な食物であったに違いない。 豊鹿島神社からいろいろなことを学んだり考えた一日だった。

ロシア旅行 3日目 サンクト・ペテルスブルグ

 ロシア旅行3日目は、終日「エルミタージュ美術館」観光。豪華な宮殿内と数々の名画を紹介する。

1 エルミタージュ美術館

 バスで20分も走ると、本日の観光のハイライト「エルミタージュ美術館」に到着。早速
広大な広場で、美術館を背景に記念撮影(写真)。今日もロシア晴れのいい天気。昨日よりも暑くなりそうなので、今日の服装はポロシャツ。 ガイドの説明「ピョートル大帝が冬を過ごす宮殿をここに造り『冬宮』と名付け、その後エカテリーナ2世が建築し直した建物が、今のエルミタージュ美術館。従ってこの広場を『宮殿広場』という。エルミタージュはフランス語で『隠れ家』を意味し、エカテリーナ2世はこの隠れ家で自分の時間を楽しんだ。エカテリーナ二世(女帝)のお相手をした愛人は、100人もいたと言われている」 緑と白を組み合わせた美術館の色彩が「これぞロシアの建物」と言いたくなるほどに美しい。昨日の「血の上の教会」が派手な色彩であったのに対し、エルミタージュ美術館は上品な貴婦人を思わせるたたずまい。エカテリーナ2世の趣味の良さを彷彿させる。但し愛人の趣味は如何なものか。

ロシアエルミタ

 いよいよエルミタージュ美術館の館内に入場。ガイドの説明「1764年にエカテリーナ2世が、225点の美術品をベルリンの商人から購入したのが、エルミタージュ美術館の始まり。エカテリーナ2世はそれ以後も美術品の収集を続け、美術品を保管・陳列するために冬宮の周辺に建物を増築した。エカテリーナ2世亡き後も美術収集は続けられ、ロシア革命後は冬宮を含めて全ての建物がエルミタージュ美術館となった。収蔵美術品は300万点という世界屈指の大美術館。フランスのルーブル美術館とアメリカのメトロポリタン美術館を入れて、世界三大美術館と称す」 先ず1階の「古代エジプト室」に入る。3000年前のミイラやミイラの心臓を入れたカノポス壺を見る。これらは既にカイロの「考古学博物館」で見学済み。 次いで「古代ギリシャ室」ここにある巨大な黒い壺には驚いた。
 2階に上り、着いたのが「イタリア美術室」 「ダ・ヴィンチの間」にあったのが「リッタの聖母」(写真)と「ベヌアの聖母」 世界中に10点しかないダ・ヴィンチの作の内、ここで二つも観賞できるのに感激。アメリカにある唯一のダ・ヴィンチの作品は、盗難や破壊防止のため防弾ガラスで守られているというが、ここでは無防備に近い形で展示されている。 「リッタの聖母」は1865年にイタリアのリッタ公から購入したとされるダ・ヴィンチの名作。絵の構図はラファエロの聖母子に似ているが、ダ・ヴィンチらしい力強い描き方である。 この絵が最も有名であるのか、小さな絵を囲む人々で混雑。押し寄せる人々を整理しようとしないので、カメラで写すのに苦労した。館内は撮影代600円を支払えば、フラッシュなしでのカメラ撮影OK。名画をカメラで撮れるなんて、日本では考えられないような仕組みにビックリ。ダ・ヴィンチの絵の痛みよりも、撮影代の稼ぎが魅力的であるらしい。

                        ロシアリッタ

 次いでラファエロの「コネスタビレの聖母」(写真)と「聖家族」を観賞。昔、我が家の屏風にラファエロの絵が貼り付けてあったのを、懐かしく思い出す。ラファエロの絵には人々の関心が少ないようで、心行くまで観賞できた。

                        ロシア聖母

 次いでミケランジェロの彫刻「うずくまる少年」が、無防備に通路に置かれていた。白っぽい彫刻で、これはあまりよい作品とはいえない。 それよりもテッツィアーノの「ダナエ」(写真)と「懺悔するマグダラのマリア」(写真)が素晴らしい。ダナエはギリシャ神話に登場する王女で、全能の神ゼウスに愛され英雄ペルセウスを生んだ。テッツィアーノはダナエを好んで沢山描いたが、その他レンブラントを始め多くの画家もダナエを描いている。近年ではクリムトの金箔を貼り付けたダナエの絵が有名。そのテッツィアーノのダナエよりも、キリストに愛されたとも言われる娼婦、マグダラのマリアの絵の方が迫力があって美しいと思った。 

                        ロシアダナエテ

                        ロシアマグダラ

イタリア美術の最後はカラヴァジオの「リュートを弾く若者」(写真)ここでロシア紳士のガイドが「描かれている女性っぽい若い男は、ホモだ」と言うのに驚いた。そういう目で見れば、品を作った姿はなんだかホモっぽい。ガイドの指摘があったので、この絵が強く印象に残った。

                        ロシアリュート

 部屋を出て「ラファエロの廊下」(写真)を歩く。天井、柱、壁に絵や装飾が施されて、とても美しい廊下。この美しさはダ・ヴィンチやミケランジェロではなく、矢張りラファエルの廊下と呼ぶに相応しい。

            ロシアrファ回廊

 入ったのが「スペイン美術室」 ベラスケスの作品「朝食」と「自画像」 ゴヤの作品「アントニア・サラテの肖像」 エル・グレコの作品「使徒ペトロとパウロ」(写真) ムリリョの作品「犬と少年」を観賞。グレコの作品が最も気に入ったけれど、スペインの画家の絵は、マドリードの「プラド美術館」所蔵の作品にはとても及ばない。

                        ロシアペトロ

 次は「オランダ美術室」 レンブラントの作品が沢山並ぶが「ダナエ」「女神フローラに変身した妻サスキアの肖像」「放蕩息子の帰還」(写真)に注目。「ダナエ」は先に観たテッツィアーノの絵よりは、このレンブラントの絵が気に入った。しかし圧巻は「放蕩息子の帰還」であり、エルミタージュ美術館ではNo1の作品ではなかろうか。ひざまずいて父に抱かれる息子の姿が、不遇な晩年を送るレンブラント自身のようである。 レンブラントの絵では「アムステルダム国立美術館」所蔵の「夜警」がNo1であると信じている。 

                        ロシア放蕩息子

最後にルーベンスの作品「大地と水の結合」を観賞。 さすがに良い作品が所蔵されていると感心したが、レンブラントに至っては20作品以上も所蔵されているとは驚いた。

ここでランチタイムとなり「大使の階段」(写真)を1階に下りる。ガイドの説明「宮殿に外国大使を迎えるための正面階段で、ロシア・バロック芸術の極致」 昼食はフリーということになり、カフェに入りサンドイッチと紅茶の昼食。

                  ロシア大使階段


午後は先ず冬宮の見学。最初は「ピョートル大帝の間」(写真)ピョートル大帝の栄誉を称えるために造られた部屋。 次いで「肖像の間」歴代皇帝の肖像が並ぶ。 最後は「聖ゲオルギーの間」別名「大玉座の間」とも云い、ここで外国の大使や使節が皇帝に拝謁した。いずれも金色に輝く豪華な部屋で、ロマノフ王朝崩壊、ロシア革命という激動に耐えてきたのが不思議。ウィーンの「シェーンブルン宮殿」や、未だ見ていないパリの「ベルサイユ宮殿」に匹敵する華麗な遺産である。

            ロシア大帝の間

3階に歩いて上り「19~20世紀のヨーロッパの美術室」に入る。セザンヌ、モネ、ルノアール、ドガ、ゴッホ、ゴーギャン、マチス、ピカソの作品を観賞。なんでも所蔵されている作品の数がモネ8点、セザンヌ11点、ゴーギャン15点、マチス37点、ピカソ37点もあるという。当時のロマノフ王朝の財政を傾けるほど美術品を買いまくったと伝えられているのは本当だった。これらの作品の中ではゴッホの「ライラックの木」が有名であり、私の好みはマチスの「ダンス」(写真)だった。手を繋いだ5人の踊り子に躍動感を感じた。

                        ロシアダンス

4時間に渡る見学では、ガイドが終始説明してくれ、彼が歴史のみならず美術の面でも深い知識を持っているのには感心した。近代絵画の説明の時は、画家または作品と日本の関係を丁寧に説明してくれたのだけど、4時間の立ちっ放しには疲れてしまった。数少ない椅子を求めて歩くようでは、昼食をはさんだ長時間の美術館めぐりは、私にはもう限界なのかな?

 最後に、エカテリーナ2世がドイツ人の女性であることに言及したい。ドイツからロシア皇帝に嫁いできて、夫である皇帝を追放して自ら皇帝の座につき、ロシアに君臨したのがエカテリーナ2世である。例えば中国人女性が日本の徳川家に嫁ぎ、夫の将軍を追放して自ら徳川将軍になるなんて、日本では信じられないこと。ロシア人のこの気質をどう解釈してよいのか? 私には全く理解できないロシアでありロシア人を、エルミタージュ美術館を創建したエカテリーナ2世に垣間見たように思う。

ロシア旅行 2日目 サンクト・ペテルスブルグ

 昨年7月、ロシアをツアー旅行で楽しんだ。帰国後作成した紀行文「光と陰のロシア紀行」より抜粋して、初めてのロシア旅行の様子を紹介する。先ずはロシアの「光」に相当する、美しい世界遺産の数々を、旅行2日目から順次取り上げる。

1 血の上の教会  サンクト・ペテルスブルグ

 11時、バスで着いたのが「血の上の教会」 バスの車窓から美しい教会が見えた時「オーッ!」と歓声が上がる。これぞ期待していたロシアの「ネギ坊主教会」で、カラフルな色彩は見事! 教会に着いて現地ガイド(以後ガイドと略す)の説明「これが1907年に建てられた『血の上の救世主教会』 1881年、皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所の上に建っているので、血の上の教会と名付けられた。ロマノフ王朝の末期、アレクサンドル2世は、革命を目標とする急進的テロ組織に暗殺された。『ネギ坊主』の屋根を持つ教会としては、モスクワの『ワシリー寺院』と双璧」 ガイドの勧める撮影ポイントで記念撮影(写真)。自分の撮った写真の色彩が実物の教会よりも美しくないので、絵葉書(写真)も併せて掲載する。

            血の上

            ロシア血上教会 (2)

10個近くのネギ坊主屋根の形が異なり、いろいろな色が塗られているので、ディズニーランドの白雪姫城を彷彿させる。ロシア正教という厳格な宗教には相応しくないように思えるが、教会に人々を寄せ付けるためには必要な仕掛けと思える。欧州の荘厳な教会を沢山見てきたが、ロシアに全く違ったスタイルの教会があるのを知り、思わず頬が緩んできた。この「血の上の教会」の評価は文句なしに「A」 ロシア旅行に来た甲斐があったと思わせる美しい教会であつた。 帰りながらガイドに質問「ネギ坊主屋根は、本当にネギの姿を真似たのか?」に対し「ネギとは関係ない。ローソクの炎の姿を真似した」とのガイドの返事。旅行前に読んだ本の内容とは違うけれど、日本の東大と交流があるという博識なガイドの説を立てた方が無難なようだ。 きれいなネギ坊主屋根を写真(写真)に撮りながら「血の上の教会」を後にした。

            血の上 (2)


 この直後、ツアー仲間がウエストバッグを強奪される事件が発生。その奇妙な収束については、「陰」の部分については「ロシアの治安」で紹介の予定。

 16時、バスでお土産店に連れて行かれる。着く前に添乗員から嬉しい提案「ショッピングに十分時間を取りますから、その間『血の上の教会』の内部に入りたい人はご案内します」 勿論我々は教会見物派。バスを降りると、12人が店の前に集まり、添乗員の案内で教会に向かって歩き出す。 歩きながら添乗員が「教会の前までは案内するが、教会からお土産店には一人で戻ること。教会の中のスリ、路上でのカッパライには十分気を付けること」の注意。気を付けるのは分っているが、午前中のカッパライ事件を目撃しているだけに、一人歩きは大いに不安。通行人が全員スリかカッパライに見える始末。しかし「血の上の教会」観光を諦める訳にはいかないと覚悟を決める。
 10分歩いて教会に着く。添乗員に「教会の入口を入った暗がりで、スリに気を付けて!」と最後の警告を受けながら、1人750円を支払って教会内部に入る。バッグを手で押さえながら入口の暗がりを抜けると、広い教会内部に出る。その天井や壁を覆うように描かれているのが、聖人たちの宗教画、即ちイコンである。西欧の教会にある聖像は、ロシア正教では禁止されているので、祭壇を除くと全てが平面な宗教画。 教会内部の天井(写真)、壁、柱(写真)を覆い尽くすイコンの美しさに見とれていると、家内が「全ての絵画がモザイクで出来ている」と教えてくれた。遠方の絵が浮き上がるように見えるのは、画面にやや凹凸のあるモザイクで作られているためと初めて理解。後でガイドブックを読むと「『血の上の教会』内部の美しさは世界一」と書かれていた。 中央の床にもモザイクの宗教画が描かれ、西欧の教会とは異なるロシア正教の教会の姿を認識。スケジュールにないこの教会に連れてきてくれた添乗員に、心から感謝の意を表した。 しかし午前中にこの教会に来た時に内部に入ればよかったのに・・・・と思ったが、費用削減か治安への危惧か、このツアーを企画した旅行会社の方針なのだろうから仕方がない。ここは案内してくれた添乗員への感謝で留めておこう。

            血の上 (3)

            血の上 (4)


2 2日目のその他の観光

 「イサク大聖堂」(写真)や「リバークルーズ」(写真)観光があったが、写真の掲示に留める。

            血の上 (5)

            血の上 (6)

 

狭山丘陵寺社めぐり 6 はやし堂 (東大和市芋窪)

狭山丘陵寺社めぐり 6 はやし堂

 「狭山丘陵寺社めぐり」の第6番目は、東大和市の西端に位置する芋窪地区の「はやし堂」 モノレールから延長された芋窪街道を挟んで、蔵敷公民館の反対側の住宅地の中に建つ小社(写真)。芋窪観音堂とも呼ばれている。観音堂の屋根は赤い瓦を敷いた、寄せ棟宝形造り。

            はやし堂全景

 はやし堂のご本尊は九寸(27cm)の如意輪観音で、奈良時代の僧、行基の作という言い伝えがある。 格子の隙間から観音堂の内部を覗くと、如意輪観音像の代わりに、二人の僧侶像(写真)が見えた。大切なご本尊の如意輪観音は、他の安全な場所に安置されているのだろう。 後日、はやし堂を管理している蓮華寺に問い合わせたところ、本尊の如意輪観音はこのはやし堂の中に安置されていることが分かった。写真の黒い扉の中に入っておられるのだろうか?

            はやし堂内部

 如意輪観音菩薩の「如意」は、人々の願いを意のままに叶える如意宝珠を指し、「輪」は、車輪が転がるように仏の教えを広める法輪を指している。また右手を頬にあて、物思いにふけるようなポーズは、菩薩が人々を救う方法を考えていることを表しているという。大阪府の四天王寺金堂本尊像が如意輪観音菩薩であるが、昨年訪れた時は特に意識していなかったので、この目で見たかどうかあいまいである。初めて如意輪観音菩薩を意識して見たのが、青梅市の「雲慶院」境内の心和む像(写真)で、私のブログ第1号「寺社めぐり1青梅市沢井・二俣尾地区」に掲載した。

            はやし堂如意

 次いで「行基」は、奈良の大仏建立の功績により、東大寺の「四聖」の一人に数えられた大僧正。後年日本全国を歩き回り、全国に行基が開基したとされる寺院が多く存在する超有名人。その行基が作った観音像であれば、とんでもない価値を持つお宝であるが、行基の活躍は西国が中心であり、この地に来たとは想像し難い。
 「東大和市旧跡 十九番札所 はやし堂」と書かれた説明版により、狭山三十三観音霊場であることが分る。既に参拝した雲性寺が十八番札所であったので、巡礼者は私と同様に、狭山丘陵沿いを時計回りに巡礼したに違いない。 説明版には「はやし堂詠歌」
 こずへ吹く 風も大悲の妙智力 あめつちもれぬ ちかひなりけり
が書かれている。「大悲」とは「衆生の苦しみを救う、仏の慈悲心」のこと。浅学の私には内容が理解できないけれど、自然現象をもありがたいと思う気持ちの表れなのだろうか?

 観音堂の左には、大きな石造地蔵菩薩を祀るお堂がある。地蔵菩薩の前に、三体ずつ向かい合った六地蔵(写真)が置かれているのが興味深い。通常六地蔵は六つ並んでいる姿が多いのに、お堂の中で向かい合って並ぶ姿は初めて見た。後日、ブロ友様から「珍しい配置の六地蔵は安政2年(1855年)造立。中央の地蔵尊は享保7年(1722年)造立。『造立施主百四十余人』と掘られているます。この時期の芋久保村の人数が、とても興味を惹きます。この墓も両墓制をとっていました」と教わった。 地蔵菩薩は地獄という恐ろしい世界で苦しむ人々を救う仏で、菩薩としては珍しく髪を剃った僧侶の姿である。そして左手に「宝珠」という玉を持ち、右手に人々を救いにあちこちを遊行するために、錫杖という、音のする杖を持っている。

            はやし堂地蔵

 観音堂の右手には「芋窪東自治会集会所」が立ち、更にその右にある広場には「三界萬霊位」(写真)と書かれた石碑が立っている。「三界萬霊位」をインターネットで検索すると「三界すなわち一切衆生が生死輪廻する三つの世界『欲界』『色界』『無色界』にいるよろずの霊魂と、三界にいる祈願依頼者の先祖の供養を合わせておこなうことにより、被願者、依頼者の守護霊力を高め、積善・積霊を勧める修法」となり理解が難しい。死者を祀る供養塔のようなものかも知れない。

            はやし堂供養塔

 最後に「はやし堂」の名称が気になった。なんと私の姓が寺名となっているので、私のルーツに関連するかと意気込んだけれど、「建立当時、この辺りが雑木林に囲まれていたので、はやし堂と名付けた」と知り、少しがっかり気分でブログを終える。


狭山丘陵寺社めぐり 5 御嶽神社 (東大和市蔵敷)

狭山丘陵寺社めぐり 5 御嶽神社

 狭山丘陵寺社めぐりの第5番は、4番目の厳島神社より少し引き返すことにした。ブロ友様から「2番八幡神社と3番熊野神社の間に、御嶽神社があるよ」と指摘を頂いたため。 「郷土博物館」の西側の谷を少し上ると、左手に狭山丘陵にかかる石段と鳥居(写真)が出現。神社名がどこにも書かれていないが、これが「御嶽神社」だと判断した。鳥居の左手には、ご神木と呼ぶに相応しい大木が立っている。
     鳥居

 最近普請されたような目新しい石段を上る。神社を竹林が取り囲んでいるのが興趣あり。小さな社殿(写真)が、竹林の中にひっそりと建っている。社殿からは市内が展望(写真)できるが、目に付くのは新興住宅ばかり。昔は奈良橋川に沿う民家や田畑の田園風景が広がっていたのだろうと思われる。
     社殿
      景色

 この御嶽神社の本社を、青梅市の御岳山の山上に鎮座する「武蔵御嶽神社」と仮定した場合、主祭神は櫛真智命で知恵や占いの神様である。その他の祭神は、大巳貴命、少彦名命、安閑天皇、日本武尊。 武蔵御嶽神社は736年、行基が蔵王権現を勧請し、中世以降は山岳信仰の霊場として発展。 私もケーブルカーで何度も上った神社であり、初夏に咲く可憐なレンゲショウマの群生地としても有名。尾根伝いに下山して「つるつる温泉」に入浴した思い出もある。 

 社殿前の灯篭には「納主 小嶋音次郎 マサ 昭和五十五年建立」と刻まれている。鳥居には「奉納 蔵敷 昭和六十二年 小嶋蔵之助」と刻まれている。蔵敷の素封家、小嶋家の神社であったのではなかろうか。 一方蔵敷の内野家は、熊野神社、厳島神社に関連が深いようであり、蔵敷には小嶋家、内野家という素封家が住まわれていたことが分る。 狭山丘陵の寺社が村人の手によるものではなく、村の有力者の力で造られたようにも思えるのである。
 最後に社殿横の質素な境内社(写真)に別れを告げて、御嶽神社を後にした。
     祠

 

寺社めぐり 2 総持寺・川崎大師

寺社めぐり 2 総持寺

 趣味の寺社めぐりが4年目にして、ついに2000社目を迎えることになった。1000社目は福岡県の香椎宮だったので、2000社目もそれに相応しい寺社を関東地区で物色した結果「総持寺」に決めた。東京や鎌倉の有名寺社はほぼ参拝済だったので、初参拝となる寺社を探した結果、曹洞宗の大本山である総持寺とした。
 バスで立川駅に行き、JR南武線で川崎駅に出て、JR京浜東北線の鶴見駅に着いた。初めて下車した鶴見駅から、JR線に沿って横浜駅方面に10分歩くと、総持寺の入口に到着。 入口から100 m参道を歩くと山門(写真)があり、ここから総持寺の境内となる。

     総持寺山門

 山門から緩やかな坂道を更に100 m 歩くと、1969年建立の豪壮な「三門」(写真)がある。禅宗(臨済宗、曹洞宗)では、山門の他に「三解脱門」(欲望、怒り、愚かさの三つの煩悩が抜け出す門)といい、略して「三門」と称す。 三門近くの大きな建物は「三松閣」(写真)という、1990年竣工の研修道場。

     総持寺三門

     総持寺三松閣

 三門を潜ると、寺域は右手に大きく広がり、その奥に建つのが「大祖堂」(写真) 1965年竣工の高さ36m 、内部は千畳敷きの大建築。本山開祖・大祖宝山禅師と高祖道元禅師を祀る霊場である。 1321年曹洞宗4世の瑩山紹瑾が、能登国櫛比庄(石川県輪島市)の「諸嶽観音堂」を「諸嶽山総持寺」と改名したのが総持寺の始まり。翌年後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称する。1615年、徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで総持寺も曹洞宗の大本山となる。そして1911年、石川県から現在地に寺院が移転した。即ち102年前にこの地に建てられた、比較的に新しい寺院である。
 太祖堂ではお線香を焚いて、家族の平穏息災を祈る。静かで広い内部は荘厳な雰囲気に包まれていた。

     総持寺大祖堂

 大祖堂の左手には1915年竣工の、黒々とした「仏殿」(写真)が建ち、内部にご本尊、釈迦如来像が安置されている。大本山永平寺のご本尊が、釈迦如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来であるから、曹洞宗のご本尊は釈迦如来が主体と考えてよい。 曹洞宗の教えは「即心是仏」ひたすら坐禅に生き、自分のなかの仏性を見いだし、この姿こそが仏であると信じること、と説いている。 曹洞宗の寺院数、15.000。信者数158万人といわれ、同じ禅宗である臨済宗の寺社数5700。信者数100万人よりは多い。 私は20年前に福井県の永平寺を訪ねたが、境内が厳しい禅の空気が張りつめていたように感じた。

     総持寺仏殿

 仏殿から引き返す時に、境内を横切る長い渡り廊下を越える。その渡り廊下の内部(写真)に、永平寺の回廊の姿が重なり、20年前の永平寺の一部を思い出させてくれた。

     総持寺回廊

 最後に隣接する墓地を訪ねる。「裕ちゃんの墓」の掲示に従って歩くと「石原裕次郎」の墓に着いた。若くして惜しまれて亡くなった裕次郎は、私の青春時代の大スターであった。お墓はきれいな生花で埋まっている(写真) この花束は裕ちゃんのファンや渡哲也などの「石原軍団」の連中によるものと推定したが、美しいものをこよなく愛した裕次郎の生前からの希望だったに違いない。現在の兄、慎太郎氏の行動を見ていると、墓の中の裕次郎氏の苦渋が見えるようである。

     総持寺裕次郎墓


 2000社目の総持寺の次の、2001社目は「川崎大師」に決めた。 川崎駅からバスで30分、バス停大師で下車すると「表参道、大師、厄除門」(写真)が建っている。表参道には沢山の商店が並び参拝客も非常に多い(写真)。今日は祝日(建国の日)なので人が多いのだろう。長い参道は「コの字型」となり、長方形の三辺を歩いて、ようやくお大師様の前に来る迷路のようである。参拝客目当ての商店街の逞しい商魂を垣間見た。

     大師厄除門

     大師参道

 「大山門」(写真)を潜って境内に入る。この大山門は開創850年記念事業として、1977年に落慶した。門を守る金剛力士像は、京都東寺の四天王像を模刻したもので、4人の力士像が立ち並んでいるのは珍しい。

     大師大山門

 大山門の正面には「大本堂」(写真)が建ち、内部にご本尊厄除弘法大師が祭られている。1964年に落慶された建物で、勅願寺(皇室が祈願される寺)として大本堂大棟には菊花の紋章が許されている。 本堂でお祈りをした時に、本堂内部に大勢の人々が入り込、僧侶たちの勤行を取り囲んでいるのを見つけた。寺院の人に尋ねると「1.5時間毎に希望する参拝者を内部に入れる。次は1時間後の14時30分に入場可能」と分る。1時間は待てないので、僧侶の勤行の様子を撮って(写真)大本堂を出る。 

     大師大本堂

     大師勤行

 この川崎大師は通称であって、正式な寺院名は「金剛山 金乗院 平間寺」真言宗智山派の大本山で、高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに関東大本山のひとつ。880年前この地に住みついた平間兼乗という武士が、夢まくらに立った高僧のお告げにしたがい、海中から一体の木像を引き揚げた。それが尊い弘法大師の像だったので、1128年この地に平間寺を建立したのが、今日の川崎大師のおこり。 真言宗の大本山は高野山金剛峰寺であるが、主流である古義真言宗から袂を別ったのが新義真言宗。その新義真言宗が豊山派と智山派に別れ、智山派の大本山は京都府智積院。その地積院の下に属する大本山の一つが川崎大師となる大本山の三重構造は、複雑で分り難い。 我が東大和市には雲性寺など真言宗豊山派の寺院が多いのだけど、川崎市には智山派が好まれるらしい。 40年くらい前に、川崎市の会社に出張した折に、川崎大師を訪れた記憶がある。但し覚えているのは沢山の店の並ぶ参道だけで、肝心の寺院については残念ながら全く記憶していないので、今回は初めての参拝といってよい。
 
境内を歩くと、先ず目に付くのが「中興塔」(写真)と呼ばれる八角の五重塔。1984年建立と新しく、上部には上れない。しかも工事中のため全体が網で包まれているのが物足りない。川崎大師の建物が、全て1964年以降の建立であたらしいのは、太平洋戦争で全ての建物が焼失してしまったため。 4つある境内社の内「不動堂」には、成田山新勝寺の本尊、不動明王が勧請されている。

     大師中興塔

 川崎大師を後にして、再び参道を引き返す。毎年正月には300万人に近い初詣客で賑わうといわれる参道はとても狭く、初詣時は殺人的な混雑が想像される。それでも多くの初詣客が押し寄せるのは、ご利益が「厄除け」なので、特に厄年の人々には大事な初詣なのだろう。

 かくして2000社記念の総持寺と、2001社目の川崎大師の参拝を終えた。総持寺は大寺ではあったが、よい寺というには今一歩。川崎大師は信仰の寺というよりは、商売上手な寺のように思えた。 さてこれから3000社を新たな目標に寺社めぐりを再開することになるが、近郊の寺社は参拝しつくしたので、数を重ねるのは難しくなりそう。従ってこれからは1社1社を丁寧にめぐるように心がけたい。そして心に染み入るようなよい寺社に巡り合いたいものである。


 

狭山丘陵寺社めぐり 4 厳島神社 (東大和市蔵敷)

狭山丘陵寺社めぐり 4 厳島神社

 「狭山丘陵寺社めぐり」の第3番「熊野神社」から青梅街道に出て、青梅方面に向って100 m 歩くと「厳島神社」の案内板が立っている。その左手の空き地に、かなり大きな「光明真言一千二百萬遍供養塔」(写真)が立っている。光明真言とは仏教の念仏のことで、これを何度も唱えることでご利益が得られると考えられている。この供養塔は、講中(念仏を唱える人々の集まり)全員の念仏の回数が1200万回になったことを記念して、明治32年に建立された。昔の蔵敷地区にはこのような信仰があったことが偲ばれる。

     厳島供養塔

 青梅街道から小路に入って行くと、真っ白な鳥居(写真)が立っている。その左には存在感のある枯れた古木も立っている。この古木は八幡神社と同様なご神木であったのだろうか? 鳥居は「ここからが神社の神域ですよ」と示す門のこと。鳥居の基本形は、二本の縦柱と横木(下部の横木は貫(ぬき)上部の横木は笠木)から成っている。形式的には、縦柱・横木とも直線的な神明系(伊勢神宮)、笠木の両端が上に反って曲線的な明神系(京都の八坂神社や稲荷社)の二種に大別される。 この厳島神社の鳥居は、直線的なので神明系と分る。これまでに参拝した八幡神社と熊野神社は、笠木の両端が反り上がっているので、明神系ということになろうか。

     厳島鳥居

 鳥居の後ろは丘陵に向って石段があり、石段の上に厳島神社の拝殿が見える(写真)。小さな拝殿の後ろに本殿(写真)が独立して建っている。神社の創建は天正6年(1588年)と伝えられるから、八幡神社創建と同じ戦国時代からの歴史がある。社殿造営は宝永5年(1708年、徳川綱吉の時代)、現在の本殿は天保6年(1835年、ペリー来航の少し前)に造られたといわれ、かなり歴史ある建物。

     厳島石段

     厳島本殿

 当初は熊野神社と同様に、蔵敷一の素封家である内野家の守護神として創建され、弁財天と称されていたが、明治時代になってから厳島神社と社号を改め、村社となった。昔の広い内野家の屋敷内に、熊野神社と厳島神社の両方があったのかも知れない。 弁財天はインドのヒンズー教の河の神ブラフマン(梵天)の妃で、日本に入ってからは水の神、農業神として崇められるようになった。厳島神社のご祭神は、海の神「宗像三女神」と呼ばれる美人の誉れ高い三姉妹で、なかでもとりわけ美人とされる市杵島姫命は、神仏習合によって仏教の弁財天と同神として「弁天様」として広く信仰されている。 従って昔の弁財天が厳島神社に替わっても問題はないわけだ。いずれも水に関わる信仰は、蔵敷地区の農業に欠かせない「ハケ」と呼ばれる狭山丘陵の湧水を大切にした表れと思われる。
 なお「村社」とは「郷社の下、無資格社の上に位する」と書かれている。それでは「郷社」とは「その村で特定の行政機能を持ち、出生や住所の移動の際には、守札の発行が義務付けられた」と書かれている。 従って、村社は郷社に次ぐ村を代表する社であったと推定した。すると今は熊野神社より小さい厳島神社であるが、ある時期には熊野神社より社格が高かったことも推定される。
 厳島神社は「宗像・厳島社系」にあり、ご祭神は多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命で、総本社は厳島神社(広島県)と宗像大社(福岡県)で、関東では江島神社(神奈川県)が有名。宗像・厳島系の神社は全国八千五百社を数え、神社ランキングでは第五位である。 私が参拝したのは厳島神社と江島神社で、宗像大社には未だ参拝していない。広島市で学生時代を過ごしたこともあり、厳島神社には10回近くも参拝した。海に浮かぶ朱塗りの神社と大鳥居はとても美しく、我が青春時代の思い出の地であった。昨年の大河ドラマ「平清盛」の舞台となったのと、世界遺産に登録されたのが喜ばしい。

 厳島神社は「狭山丘陵寺社めぐり」に取り上げるのにはやや不足気味の小社(写真)であったが、地元東大和市の神社ということで取り上げた。 冬の雑木林であるため境内から武蔵野が展望でき、富士山も木々の間から望まれる落ち着いた神社。 この蔵敷を「くらしき」ではなく「ぞうしき」と読むのは重箱読みなのだろうか? 「敷」は訓読みでは「しき」だけど、音読みでも「しき」なのだろうか? 我が浅学を悔やみながらも疑問を抱きながら、長い石段を下りて帰途についた。

     厳島全景

追記
 神社創建の歴史と光明真言千二百萬遍供養塔については、インターネットに投稿されていた「蔵敷厳島神社」の記事を借用した。神社は無人のため、連絡先も分らなくて困っていたので、インターネットの記事をそのまま採用させてもらった。簡潔な表現で写真もきれいなこの記事はとても参考になった。記事を作成された方が、もしこのブログを見られたら、連絡をお願いします。

狭山丘陵寺社めぐり 3 熊野神社 (東大和市蔵敷)

狭山丘陵寺社めぐり 3 熊野神社

 青梅街道の蔵敷バス停の傍に「蔵敷高札場」(写真)がある。高札場は江戸時代に幕府や領主が決めた法度、掟書、犯罪人の罪状などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げた場所。都内では府中高札場とここ蔵敷高札場の二つのみ現存し、都の旧跡に指定されている貴重な史跡である。高札場の存在は、この場所が狭山丘陵南麓の中心地の一つであったことが分る。 

     熊野高札場

この高札場横の脇道に「熊野神社」の案内板が立ち、その脇道を進むと鳥居(写真)が見えてくる。鳥居を潜ると左手に石碑があり「村社熊野宮鳥居石階石橋 明治十五年氏子中」と書かれている。この熊野神社が蔵敷村の鎮守であり、明治15年即ち今から100年くらい前に神社の氏子たちが、鳥居や石段を普請したことのであろう。

     熊野鳥居

丘陵に付けられた石段を上ると、広い境内に出る。正面に熊野神社の拝殿(写真)が建ち、木立に囲まれた厳かな雰囲気。本殿(写真)は全体像がやや見えにくい。第1番の八幡神社よりは少し小振りな神社であるが、村の鎮守としては十分な規模と見た。

     熊野拝殿

     熊野本殿

当熊野神社のご祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、天照大神、大山祇神など多くの神様を産んだ有名な神様。 熊野神社の総本社は、和歌山県の熊野にある熊野三社(熊野大宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社)であり、祭神は熊野神。従って当熊野神社のご祭神とは違うけれど、熊野神の父母または先祖にあたる二人の神様を祀っているのだから問題はない。 熊野信仰は、熊野の山や樹木を神霊としているので、狭山丘陵の樹木や森林を祀るために建てられた神社であると思われる。
熊野三社の内、熊野那智大社には50年前に新婚旅行で参拝した思い出がある。熊野那智大社は名滝「那智の滝」をご神体とし、主祭神は熊野夫須美神。他の二社には参拝していないので、いつの日か「熊野詣で」をしたいものである。 熊野信仰の対称には、山、樹木の他に滝もあり、熊野山中の自然が信仰の対称となっている。平安時代に熊野の山岳信仰は修験道として興隆し、熊野山伏の拠点となった。更に朝廷の厚い崇敬を受け、多くの天皇が熊野に行幸された。鎌倉・室町時代には、武家や庶民の間にも熊野信仰が広まり、多くの人々が「熊野詣で」をし、その参道が現在人気の「熊野古道」。 熊野神を祀る神社は全国に三千社を超える。 蛇足となるが、神武天皇が東征の折に熊野に上陸した時、道案内したのが八咫烏。八咫烏は熊野神と関係が深く、最近はサッカーの日本代表のエンブレムであり、守り神にもなっている三本足のカラス。

当熊野神社の創建時期は不明。一説には、蔵敷一の素封家である内野家の祖である秀勝が、同家の鬼門除けに勧進したことに始まるとされている。確かに神社の下には内野家が建っているので、有力な説かと思われる。

境内には3個の「力石」(写真)が展示されている。掲示板には「ここにある石は、むかしの人たちが力くらべをした力石です。むかしの人は楽しみが少なかったので、村の力自慢が力試しをすることが盛んでした。力石を持ち上げるには中腰になり、一度膝の上まで石を持ち上げ、かけ声とともに力をふり絞って、一気に肩にかつぎ上げたものです。この石は熊野神社境内で力くらべをした時に使われたものです。 大 121 キログラム 中 96 キログラム 小 75 キログラム」と書かれている。 狭山丘陵の人々の昔の暮らしを知る貴重な遺物である。石を一旦膝まで持ち上げ、次いで肩まで持ち上げるのは、オリンピックの重量挙げのルールとよく似ているのが興味深い。

     熊野力石

境内に二つの祠(写真)が並んでいるが、神社名が分らない。八幡神社と同様に、地元の人が持ち寄ったものかも知れない。 神社の周辺には竹林が茂り、静寂な境内を神秘的な雰囲気にさせていた。

     熊野祠

狭山丘陵寺社めぐり 2 八幡神社 (東大和市蔵敷)

狭山丘陵寺社めぐり 2 八幡神社

 第1番の雲性寺の近くに「郷土博物館」が建ち、近郊では唯一のプラネタリウムのドームが異彩を放っている。その郷土博物館の裏山に、「狭山丘陵寺社めぐり」の第2番目に取り上げた「八幡神社」が建っている。
 多摩湖畔サイクリング道路に向かう坂道の途中に、八幡神社に向かう石段(写真)があり、これが神社の入口。この坂道は地元で「鎌倉街道」の伝承がある参道。参道をそのまま直進して貯水池に入り、更に下ると内堀の集落があり、鎌倉権五郎に関する「御霊神社」が祀られていた。御霊神社の送検は1000年代の伝承を持つ。 石段を上り終えた左右に「御嶽神社」(祭神、天児屋根命)と「大六天社」の小さな祠が佇んでいる。八幡神社に合祀された神社かと思ったが、地元の人々が信仰したミニチア神社を持ち込んだとのこと。

     神社入口

 石段上の一の鳥居からは右に平坦な広場となり、左に建つカラフルな建物は「大和八幡幼稚園」(写真)。 グラウンドでは緑のユニフォームの園児たちが体操中。神社の神秘的な雰囲気にはやや不似合のように思われる。「寺子屋」という言葉から、幼稚園はお寺の付属施設とのイメージが強かったので、神社の境内にある幼稚園は珍しい。八幡神社の宮司さんが元教師であったことから、幼稚園を経営されたそうだ。

     幼稚園

 二の鳥居(写真)をくぐると、神社の前に出る。 鳥居の右側にも「武内神社」(祭神、武内宿祢)と「神明社」の小さな祠が並んでいる。 木立の緑に囲まれた拝殿(写真)は神々しい雰囲気を醸し出している。拝殿に連なる本殿(写真)も清々しい姿で美しい。

     二の鳥居

     拝殿

     本殿

 この神社の主祭神は「誉田別命」と、拝殿横の掲示板に記載されている。誉田別命(ホンダワケ命)は八幡神で、一般には応神天皇の名で知られている。応神天皇は、歴史的に実在した最初の天皇ではないかと考えられており、「応神」は死後の贈り名であり、生前の名がホンダワケ命だった。ホンダワケ命は、母の神功皇后の摂政のもとで皇太子となり、皇后の死後に第15代の天皇に即位。41年間の治世には、百済や中国から積極的に文化や人材を受け入れたとして評価されている。死後「応神」の贈り名となった天皇は、のちに八幡信仰の祭神とされ、文武両道の神としてその神威が全国に広まった。
 祭神は「誉田別命」の他に「大山祇命」「大山咋命」「素盞鳴命」「建御名方命」「市杵島姫命」「天照坐皇大御神」の六神が祀られている。「誉田別命」は天皇であるが、他の六神は伊邪那美命と伊邪那岐命から産まれた神々であって、いわゆる八幡神ではない。掲示板に「主祭神は誉田別命」と記載されているのだと理解。
 中世以降、八幡信仰は発祥地の宇佐八幡宮(大分県)、いわば中継拠点の石清水八幡宮(京都府)、そして源頼朝が創祀した拡大発展拠点の鶴岡八幡宮の三社を核として全国に広がった。特に武家の棟梁・源氏の守護神となったことが大きく、全国の八幡神社数は3万とも4万ともいわれ、4万とも5万ともいわれる稲荷神社についで、全国で第二位となっている。私は宇佐八幡宮と鶴岡八幡宮には参拝したが、未だ石清水八幡宮には参拝していない。ぜひ近いうちに石清水詣でをしたいと思っている。その代わりに趣味の寺社めぐりの、記念すべき第1000社目が香椎宮(福岡県)であった。香椎宮の祭神は仲哀天皇・神功皇后を主神、配祀が応神天皇(誉田別命)であったので、いわば八幡神社のお仲間であったことを追記しておく。

 八幡神社境内の案内板には「当社は創立年歴不詳、太古より鎮守と公称しきて、何神と言うことはわからない。宮がこわれようとする頃、いつの戦いか、武士がにげて来て、この森に露営しようと、四方を見ると、くらい中より宮のあるのがわかり、宮の中にねむると、その人に告げるに神の夢に『吾は八幡の神なり』当社によく宿ってくれた、宮が破損しようとしているので村人に建替ることを知らせて欲しいと言った。夢さめて翌朝地領に行き、其の理由を告げる。天正三年(1575年)十一月、領主石川太郎右衛門氏の寄付により、社殿が再興され、其の後百十四年を経て、元禄二年(1689年)九月旧領主石川太郎右衛門、並岸隼人の尽力に依り拝殿が建てられ、其の後昭和七年に本殿幣殿拝殿が改築された」と記載されている。 このような織田信長活躍中の戦国時代の社殿改築秘話が伝承されているのが興味深い。当時この地は小田原北条氏の勢力下にあったが、越後の上杉謙信の侵攻による戦いが繰り広げられていたのかも知れない。

 拝殿の右上に「日露戦争『凱旋』」の掲示板(写真)があり、8人の氏名が並んでいる。凱旋とは、戦争で戦死した兵士の魂の凱旋を意味しているのではなかろうか。8人の内、石川姓が4人もあるのは、この神社の近くに社殿を再興した石川氏の縁者が多かったことが予想される。 更に戦士した戦いは旅順、203高地だったのでは? 蛇足であるが趣味の寺社めぐりで、先日参拝したのが1944社目となる乃木神社(写真)。旅順の戦いで日本軍の指揮をとり、多くの兵士を死に向かわせたのが乃木将軍。乃木神社内の宝物殿に乃木将軍の写真があった。白い髭を蓄えたお顔は威厳に満ち、この将軍の命令であれば、兵士たちは喜んで突撃していったことだろうと納得したものである。優れたリーダーには、それに相応しい表情があるものだと感心した次第。

     凱旋

     乃木神社

 本殿の後ろに造られて間もない「浅間神社」(祭神、木花咲耶姫命、写真)の祠があった。これは近くの人々が持ち込んだにしては立派な小社。浅間神社の総本宮は富士宮市にあり、木花咲耶姫命は富士山の神様。昔はこの八幡神社から美しい富士山が展望できたため、持ち込まれた小社であると推定した。 

     浅間神社

ご神木であったのか、大きな杉の木の根(写真)が大切に保存されていた。神木とは、神社の境内にある巨木や老樹など、特徴のある樹木に神霊が降臨するという考え方にもとづく。

     神木

 神社は二つの谷(谷ツ)に挟まれた尾根に建っている。ウィークディにも拘らず、参拝する人が意外に多い。お寺にくらべ神社の方が、散策コースとして適していることに初めて気が付いた。 故郷の実家近くに八幡神社の建つ小高い小山があり、子供の頃は椎の実を拾った懐かしい思い出があった。それが30年前に帰郷すると、小山が削られて平地となり、公民館と駐車場に変わっていたのには驚いた。神様の住まわれる山を削るとは不謹慎だとの怒りを思い出しながら、第2番の八幡神社に別れを告げた。
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