FC2ブログ

狭山丘陵寺社めぐり 1 雲性寺 (東大和市奈良橋)

狭山丘陵寺社めぐり 1 雲性寺

 「東大和市民ネット」に加入し、初めてブログを開設するに当たり、ブログ投稿のテーマを「狭山丘陵の寺社めぐり」と決めた。私自身が狭山丘陵の中に住み、そして趣味が寺社めぐりなので、私には格好なテーマであると自画自賛。この寺社めぐりを通じて、寺社やその地域の自然や歴史、風俗に触れ、更に宗教についても学んでみたいと考えた。
 狭山丘陵周辺の30社近い寺社は既に3年前に参拝済であり、その中でも著名な寺社は「東大和の中世歴史サークル」のマイクロバスで回り、安島先生のご説明を拝聴している。従って今回は三度目の狭山丘陵の寺社めぐりとなるわけであるが、今回はひとつひとつの寺社を丹念に観察してみたいと思っている。
 我が家を起点として、時計回りに狭山丘陵の寺社めぐりをすることにした。チベット仏教では「ポタラ宮の内部やラサの街中の巡礼路歩きは時計回りが鉄則」と決められているし、経典の詰まったマニ車を回すのも時計回りなので、チベット仏教にあやかってこの寺社めぐりも時計回りと決めた。右手を突き出して「円を描く」場合、時計回りの方が円を描きやすいことからしても「時計回り」には、人間の営みになんらかの意味を持つに違いないと思った。

 我が家から10分も歩くと「狭山丘陵寺社めぐり」の第1番となる「雲性寺」に着く。丘陵の中腹に建つ、とても見栄えのよい寺院(写真)であり、寺社の展望という点では東大和市随一であると思う。とても広い駐車場を持つ、スケールの大きな寺院。

     雲性寺全景


 石段の上に建つ風格のある山門(写真)は、箱根本陣の一の門を移築したと伝えられる。後で確認すると、箱根本陣の門は武蔵村山市の齋籐家に移築され、その後雲性寺に再移築されるという数奇な運命を辿ったようである。

     山門


 本堂(写真)は堅牢なコンクリート造り。本堂脇の「本堂荘厳浄財寄進の碑」は昭和56年の製作なので、約30年前に建立されたと推定。 雲性寺の創建は1439年といわれ、その後何度か建て直しを繰り返し、江戸時代元禄年間にはこのあたりでも大寺となった。しかし1862年に起こった火災で、古い記録は全部焼失されたという。

     本堂


 「天王山雲性寺」が正式な名称である。何故天王山と称するのかは、火災による記録の焼失で不明とのこと。 宗派は「真言宗豊山派」であり「宗祖は弘法大師(空海)、中興の祖は興教大師(覚鐇)、派祖は専誉僧正」との説明版が立っている。信者数1005万人(浄土真宗1290万人に次ぎ第2位の数)と称する真言宗は、空海亡き後13派に分かれてしまった。空海本流の古義真言宗に対し、覚鐇を祖とする新義真言宗が独立したが、その新義真言宗も豊山派(専誉)と智山派(玄侑)に分れてしまった。従って豊山派の総本山は、空海の高野山・金剛峰寺ではなく、奈良県桜井市の長谷寺である。長谷寺の山号が豊山であったため、豊山派と呼ばれるようになった。 寺のご本尊は阿弥陀如来像。阿弥陀は極楽浄土に住み、すべての人間を救おうという誓いを立てている仏。私は真言宗の寺のご本尊は、空海の信仰した大日如来であると信じていたが、これが大外れ。「真言宗の本尊は、本来は大日如来。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、そのほかに観音、文殊、地蔵などの菩薩も祀られる」というのが正解らしい。なお如来は修行により悟りをひらいた仏で、菩薩は修行中の仏。薬師寺の薬師如来が、左右に日光菩薩と月光菩薩を従えた「薬師三尊」が、それらの関係をよく説明している。

 本堂の左に建つのが「観音堂」(写真)で、堂内に高さ36 ㎝ の十一面観世音菩薩坐像が安置されている。総本山長谷寺のご本尊は高さ10 m の十一面観世音菩薩であるから、ご本尊のミニチア像が祀られているのだろうか。十一面観世音菩薩は、その頭上に11面の小さな顔を持つのが特徴の大光普照観音のことで、観音菩薩の変化身の一つ。ご本尊阿弥陀如来の脇に十一面観世音菩薩を置くのではなく、観音堂を造って十一面観世音菩薩を祀ったのが雲性寺の作法。菩薩も喜んでおられることだろう。

     観音堂


 この観音堂は「狭山三十三観音霊場」の十八番札所であることが掲示板で分かった。掲示板には「霊場は狭山丘陵周辺に点在するが、一説には天明八年(1788年)に創設されたと言われている。観音巡りは、一人の人間としての安らぎを求めるためのもので、明治の中期ごろまで盛んであった」と書かれている。 これから狭山丘陵の寺社をめぐり歩くと、数多くの観音堂に参拝することになりそうで、この出会いを新たな楽しみとしよう。

 境内には大きな観世音菩薩立像や六地蔵(写真)、空海立像(写真)や五輪塔などが所狭しと立ち並び、とても賑やかな様相を呈している。

     六地蔵

     空海像


 山門からの武蔵野の眺望はとてもよく、昔の信者たちがこのお寺参りを楽しみにしていたように思われた。寺の背後の墓地からの富士山の展望が素晴らしいのは、以前からよく知っていた。これもお墓参りの楽しみの一つであったように思われるのである。

 最後に、石段の左に「庚申塔」(写真)が立っている。これは青梅街道のバス停「庚申塚」の近くに立っていた庚申塔を、移築したものである。庚申塔とは中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔。庚申塔は街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けたものが多い。村の境目に建立されたものもある。 説明版には「この庚申塔は阿字庚申という珍しいもので、塔の下部には三猿が描かれている。庚申塔の右は馬頭観音」と書かれていた。

     庚申塔


 雲性寺から1 km 離れた東大和九小近くに「蔵敷庚申塚」(写真)があり、雲性寺の庚申塔と共に、東大和市の貴重な史跡であることを付記して、狭山丘陵寺社めぐりの第1番を終わる。

     庚申塚
スポンサーサイト



寺社めぐり 1 青梅市沢井・二俣尾地区

寺社めぐり 1 青梅市沢井・二俣尾地区 

 昨年12月8日、JR青梅線御嶽駅で下車。ハイキングコース「ふれあいの道」を歩く。惣岳から流れる谷川に沿い、急斜面の道路を登る。岩を屋根にした路傍の地蔵堂(写真)が面白い。

     地蔵堂

更に坂道を登って着いたのが「青渭神社」(写真)。青梅街道から数100mの高さに建つのは拝殿。本殿は更に山上の惣岳山(標高756m)の山頂に建っているので、今回は拝殿のみの参拝とした。

     青渭神社

木立に囲まれたとても雰囲気のよい神社。祭神は大国主命。本殿前に真名井(青渭ノ井とも)と称す霊泉があり、その泉が社名の起りと伝えられる。神社の創立は第10代崇神天皇の御代とされ、901~23年に編纂された延喜式神名帳に載せられた「式内社」である。931~37年源経基が社殿を造営したと伝えられ「建武4年(1337年)」の年号が記された板碑がある。 その後、青梅地方を統括した三田氏、小田原の北条氏、徳川幕府に崇敬されてきた、沢井地区の総鎮守。本殿は1845年造営され、拝殿は1934年改築された。
同名の青渭神社は稲城市と調布市にも存在し、いずれも式内社である。但しこの二社の祭神は青渭神であり、青渭神は水神と考えられているので、沢井青渭神社を含めて、水に関係深い神社であることが分る。 


「ふれあいの道」を青梅駅方面に向かって歩くと、沢井駅裏に建つ「雲慶院」(写真)に着く。境内に心和む如意輪観音像(写真)があった。

     雲慶院

     如意輪観音


深い渓谷をなす多摩川の河岸段丘に建ち、背後の斜面に広大な墓地をもつ寺院。「大平山雲慶院」と号する曹洞宗の寺院。青梅市内で随一の名刹「天寧寺」(写真)の六世九山整重の開山、野村豊後守髙貞の開基と伝わる。高貞は北条氏康に仕え、当地に草庵を構え隠栖したと伝わる。寺院の本尊は釈迦如来。奥多摩新八十八ヶ所霊場の七十一札所。

     天寧寺山門

     天寧寺法堂


 青梅市から更に分け入った山中に、御嶽神社、青渭神社などが建っているのは、この地が昔から畑作に不適であるため、畑作・林業を生業とするかなりの人々が生活していたことが偲ばれる。そのような土地を歩き、その土地に住む人々の過去に思いをはせるのが、私の寺社めぐりである。

沢井地区を通り抜けて二俣尾地区に入り、二俣尾駅近くの名刹「海禅寺」(写真)に着く。

     海禅寺

海禅寺は「瑞龍山海禅寺」と号す曹洞宗の寺院。1460~65年、この地に草庵が建てられたことに始まり、中世青梅市一帯を支配していた三田氏の菩提寺として、1532~54年に
三田綱秀により再興された。その後、海禅寺の裏山の辛垣城に拠っていた三田氏が、八王子(滝山城)の北条氏照により滅ぼされた際に全山焼失。しかし徳川の世になると寺領15石を拝領し海禅寺は栄えた。
1612年建立の総門(写真)は威厳に満ちており、石段の上に建つ1793年建立の山門と石垣(写真)は、戦国時代の山城を彷彿させる。本堂(上に掲載した写真)は30年前に焼失し、20年前に元禄時代からの前本堂を復元し再建されたもの。

     総門

     山門・石垣


境内には滅亡した三田氏の供養塔(写真)がひっそりと建ち、青梅の栄枯盛衰を物語っている。

     三田氏供養塔

青梅市には天寧寺を始めとする曹洞宗の寺院がとても多い。鎌倉時代に起こった禅宗の中で臨済宗は中央政権に入り込み、曹洞宗は地方政権や豪族に普及して行ったとされる。従って地方豪族の三田氏が曹洞宗に帰依したことから、青梅市に曹洞宗の寺院が普及して行ったことがうかがわれる。
歩く途中「軍畑駅」を通過した。軍畑(いくさばた)とは興味深い地名であり、この地で三田氏と北条氏の合戦が行われたことを意味するのではなかろうか。三田氏の本拠は青梅駅近くの「勝沼城」であるが、北条軍に攻められて勝沼城を退き、辛垣城のあるこの地で踏みとどまり、北条軍と最後の決戦をしたものと思われる。
「むざんやな かぶとのしたの きりぎりす」 が思い出される。

青梅市には寺社が多く、私がめぐった寺社だけでも108社を数える。これは東大和市の18社。東村山市の24社。武蔵村山市の28社。立川市の19社、小平市の20社に比べると青梅市の寺社の多さがよく分かる。 青梅市は弥生時代から稲作が盛んで、農耕型の集落が形成された。更に平安時代には武蔵国府造営のための用材供給地として集落が拡大し、天寧寺、塩船観音寺、住吉神社、武蔵御嶽神社などの創建・再興に力を注いだのが原因と思われる。 徳川時代は幕府の直割地として、石灰・木材・織物の産業が活況を極め
「江戸市場に最も近い産地」として発展したとされる。

私の青梅市寺社めぐりも10回を超え、あと2,3回で「青梅寺社めぐりを完結」しそうである。手持ちの昭文社刊「東京多摩マップ」に記載されている寺社マークの寺社を、ひとつひとつ参拝するのが私の趣味。5年前にスタートして、今回で訪ねた寺社が1896社となった。目標の2000社詣でまでもう少し。来年には目標達成としたいものである。

                                        以上
プロフィール

リンおじい

Author:リンおじい
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR